2017年3月20日 (月)

神経質礼賛 1367.大吊橋

 この連休はずっと日直当直が続き病院内にカンヅメである。その前に三島大吊橋(三島スカイウォーク)へ行ってみた。デイケアの利用者さんたちや外来患者さんたちは行ったことのある人が多いので、話のタネに一度は行ってみないと、というわけだ。一昨年の暮れに開業した観光施設であり、歩行者専用吊橋としては国内最長の400m。場所は三島市街地から国道1号線を箱根に向かって山を上がっていく途中にある。三島駅から箱根行きのバスは1時間に1-2本。往復だと三島市内1日乗り放題の「みしまるきっぷ」900円を買った方が安いので、駅前の東海バス窓口で購入する。みしまるきっぷを手にした中高年者たちでバスはほぼ満席である。中国人観光客も目につく。

 敷地内に入っても橋の全容は見えない。料金を払って入った人だけが見える仕掛けになっているのは、よく考えたものだと感心する。駿河湾から富士山まで見渡せる絶景がウリなのだが、あいにくこの日は富士山に雲がかかっていて見えなかった。通路の幅は1.6m。係員が「左側を歩いて下さい」と案内しているので、対向者とぶつかることもない。通路の中央部分は下が見えるようになっていて、絶対に落ちることはないとわかっていても下を見ているとかなりの高度差があるからそれなりに怖さが出てくる。橋全体が風や通行人の動きによってユラユラと揺れる。立ち止まって景色を見ていると揺れは気になる。あまり気持ちがいいものではない。やはり前方の遠くを見ながら淡々と歩いて行くのが一番良い。

 吊橋が怖くて渡れない、飛行機が怖くて乗れない、という高所恐怖症の人は時々いるけれども、それを主訴に精神科を受診する人にはお目にかかったことがない。ビル工事や高層ビルの窓拭きといった誰が見ても危険な場面でなければ、仕事で必要となればどうにかクリアできるものだし、そのうち慣れてくるからだ。恐怖症全体に言えることは、怖がっていて何もしなければ怖いままである。怖いまま仕方なしにそうした場面を経験していけば、いつしかさほど怖くなくなっているのである。

 森田先生の言葉を紹介しておこう。


 我々は、人生の丸木橋を渡るのに、足元を恐れないような無鉄砲の人間になるのが目的でなく、彼岸に至りさえすればよい。座禅や腹式呼吸で、心の動かない、すましこんだ人間になるのが目的ではなく、臨機応変、事に当たって、適応して行く人間になる事が大切である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.519

| | コメント (0)

2017年3月17日 (金)

神経質礼賛 1366.木の芽(このめ)時

 この時期、外来患者さんで「何となく調子が悪いんです」と言う方がチラホラおられる。少しずつ日が長くなり、暖かい日も増え、新芽が出始め、花々が咲き始める木の芽時とも呼ばれるこの時期。これから春本番だというのに何となく気分が今一つサッパリしない、というのは季節性うつ病の人ばかりではない。

 要因はいろいろ考えられる。だんだん暖かくなるとはいえ、三寒四温と言われるように気温の変化や天候の変化が大きく、体の方がついていけないということがあるだろう。人間も動物の一種だから、冬モードからより活動的な春モードへと体内では種々のホルモンバランスの調整が必要な時期なのかもしれない。そして3月から4月にかけては卒業・進入学・就職シーズン、出会いと別れの季節でもある。桜の開花時期には春祭りも多い。自分には直接関係はなくても、ニュースや新聞記事、そして折り込みチラシもそれに関連したものが多くなり、何となく世の中全体がワサワサしてせわしない感じになる。そうなると、自分だけが取り残されているような気分に陥りやすい。

 こうした状態になってしまったらどうしたらいいのだろうか。とにかく焦らずにまずは足元を固めることである。あれもやらなくては、これもやらなくては、と欲張らずに、60点から70点狙いで最低限の行動にプラスαくらいでいいのだ、というつもりで行動していくのがよいだろう。本格的なうつでない限り休みっぱなしはよろしくない。上り坂ではゆっくりでよいから自転車をこぎ続けていれば少しずつ進んでいき、いつしか平坦な道や下り坂にさしかかる。こぐのをやめたら倒れてしまう。それと同じである。もやもや気分のままにボチボチやっていればよい。そのうち気分が晴れる時はやってくる。

| | コメント (3)

2017年3月13日 (月)

神経質礼賛 1365.加害恐怖

 加害恐怖を主訴とする新患の人がみえた。多少の不潔恐怖や不完全恐怖もあるが、一番困っているのは加害恐怖であり、車を運転していて事故を起こしてしまったのではないか、歩いていて人に自分の体やバッグや傘が当たってしまったのではないか、と心配になって、交通事故のニュースを調べたり、いつまでも人にぶつかったのではないかと気になったりする、という症状である。きっかけは、かれこれ15年位前に狭い山道ですれ違った対向車が大きな音を立てたことだった。その車はそのまま行ってしまったのだが、本当は自分の車が当たっていて、当て逃げになってしまうのではないか、とひどく心配になって、以来、その種のことで人に危害を加えていないだろうか、とひどく気にするようになった。そもそも人に危害を加えたのではないかと心配し過ぎる人が他人に危害を加えることはないのであるのだが。スピリチュアルな方面にも相談したが効果がなく、初めて医療機関にかかってみた、とのことだった。

 こういう人は時々いる。以前にもたまたま運転中に衝撃を感じ、人を轢いてしまったのではないかと心配になって、何度もその場に戻ってみたり交通事故のニュースを調べたりしているうちに、ついには仕事にも行けなくなって、入院森田療法で良くなったという人がいた。

 今回の方の場合はそれほど重症ではなく、日常生活はできているし、薬の治療は希望しないとのことだったので、症状のしくみについて説明し、確認したいと思っても気にはなりながらも前へ進んでいくこと、家族に確認してもらい安心しようとする「巻き込み」をするとますます重症化するので自分一人でこらえること、といった話をした。この方も、自分が心配する分野だけは非常にこだわりが強いが、そうでない分野は意外とズボラとのことであり、神経質をまんべんなく発揮していくようにと話しておいた。森田正馬先生は次のように言っておられる。


 
「捉はれ」とは、物事の或る一方面のみに注意するため、其全般を観ることが出来ず、之に対する適切なる処置を採ることの出来ない事をいふのである。下を見て歩けといはれて、クヾリで額を打ち、上を見なければいけないと思って、物に躓くやうなものである。(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.400


 
 加害恐怖や不潔恐怖のような強迫症状の場合、単に症状をよくすることだけを考えて、行動療法のようなことをやって仮にそれがなくなったとしても、今度は別の症状が出てくる、というモグラ叩きになりかねない。それよりも神経質を日常生活のあらゆる方面に生かして行動していくことが、結果的には「気が付いたら良くなっている」おまけに「仕事や家事や勉強がはかどり、人との関係も良くなる」という形になるものである。

| | コメント (2)

2017年3月10日 (金)

神経質礼賛 1364.ポケットティッシュ

 天気予報でスギ花粉の飛散が「非常に多い」という日が増えてきた。内服薬・点眼薬・点鼻薬・マスクで防御していても、クシャミ連発が起きて、ティッシュペーパーを大量に消費してしまうこともある。ポケットだけでなくバッグの中には予備のポケットティッシュを用意して不測の事態に備えている。

 近頃ではポケットティッシュをくれる銀行や郵便局は少なくなった。マイナス金利の御時勢だから預金の金利も限りなくゼロに近いし景品もゼロである。一方、相変わらず駅前ではポケットティッシュが配られている。朝は公共的なものが多く、夕方は英会話教室やスポーツジムの宣伝のものが多い。こうした無料のティッシュを受け取るのは品格のない人間だという偉い先生もいるけれど、私はタイミングが合えば受け取る方である。ただし、歩きが早いので、タイミングが合わず、実際に受け取れることはそう多くはない。無料とは言っても宣伝なり啓発メッセージなりを読むという手間と引き換えなのだから、何ら恥じることはないのではないか。それに、それを配るアルバイトの人やボランティアの人としては、受け取ってもらえば助かるはずだ。もっとも、わざわざもらいに行くとか、たくさんもらおうとするのは品格を疑われるだろうけれども。

 外出時には活躍するポケットティッシュだが、家の中では箱ティッシュの方が使い勝手がいいので、出番がない。ついポケットに入れっぱなしにして洗濯してしまうと全部の洗濯物に細かい紙のカスが付着するという大惨事が発生する。ティッシュを使うことが多いこの時期、洗濯の前に一度はポケットの中にティッシュがはいっていないかどうかを確認するに越したことはない。ただし、強迫行為にならぬよう、2回以上の確認はしないことである。

| | コメント (0)

2017年3月 6日 (月)

神経質礼賛 1363.厄除団子

 年に2、3回くらいだろうか。仕事帰りに駅前デパートの地下食品売場を通って歩いていると、厄除団子の出張販売に遭遇することがある。それを見ると、いつも買ってしまうのである。団子と言ってもちょっと変わった形。長方形の餅に餡子が乗っていて、串が5本付いている。餅には切り込みが入っているので切り離して少しずつ食べることができる。5つに分けられるのは、頭、首、胴、手、脚を意味するのだそうである。五体の厄を払うということなのだろう。ともあれ小さな子供にも食べやすくてよい。豪快にまとめて一口で食べる人もいるかもしれないが、私は神経質らしくチマチマ1本ずつ分けて食べていくのが常である。参拝せずにデパ地下で買ったのでは厄除効果は怪しいが、これを食べるとちょっぴりシアワセ気分になれる。

 本来、この厄除団子を売っているのは袋井市にある法多山尊永寺の参道である。尊永寺は厄除観音が有名であり、正月には初詣客で賑わう。浜松に住んでいた頃は私も何度か行ったことがある。参道にはいくつもの団子屋さんがあり、参拝帰りに立ち寄ってお茶を飲みながら食べる人が多く、お土産としても販売されている。6カサ600円(税込)とお値段も手頃だ。百五十年余の歴史があるこの団子、月1回のお寺の功徳日には限定の袋井茶を練りこんだ茶だんご、桜の季節にはさくらだんごもあるのだそうだ。また、11月には全国だんご祭りというイベントも行っていて、こういうおいしく楽しい工夫は大いに結構である。

| | コメント (2)

2017年3月 3日 (金)

神経質礼賛 1362.先送り

 以前から放置していて気になっていたことがある。とはいっても大したことではないし期限もないからそのまま放置していたのである。もう何年も前、子供が高校の修学旅行に行く際に学校側から海外で使えるデビットカードを作るように言われて、その際にインターネットバンクの口座を作った。その後、全く使わないまま私と子供のデビットカードはとうに期限切れになり、口座はそのままになっている。安全のため何度かパスワードを変更した挙句、最後のパスワードが何だったか、記憶が定かでない。銀行側からはセキュリティ対策の通知とかインターネット支店の店番号が変更になった通知とかが時々郵送されてくる。それらの通知も廃棄するわけにいかず溜まってしまっている。大金が入っているならすぐに処理するところ、残高は三千円位であるから、ますます億劫でヤル気がせず、恥ずかしながら何年も先送りし続けてしまったのだ。

 さすがに、これではいけないと思い、口座を解約しようと銀行に電話する。オペレータが出るまで3分ほど待たされる。すると、ネット口座窓口にかけ直すように言われ電話番号を告げられたので、その番号にかけ直す。自動音声対応で要件に応じた番号と#を押し、またまたオペレータが出るまで待つ。休眠口座になっているので解約したい旨を告げると、本人確認の後、解約書類を郵送する、とのことだった。これで、後は送られた書類に記載して送るだけである。やれやれ。さっさとやっておけばよかったと反省する。

 歳を重ねるごとに、こうした先送り事項は溜まりがちである。「いつでもできるのだから、そのうちやればいいさ」と思っているとますます億劫になってくるものである。特に神経質人間は頭の中で手間を計算してしまい嫌だなあ、ということで先送りするキライがある。気が付いたら行動。神経質を生かすには、とにかく手を出していくことだ。時間がある時に一つでも先送りにしていた問題を解決するとスッキリして気持ちが良い。

| | コメント (0)

2017年3月 1日 (水)

神経質礼賛 1361.睡眠薬ベルソムラは糖尿病治療・予防薬?

 先週の2月22日水曜日、例によって健康番組好きの妻がNHKの「ガッテン」を見ていた。「最新報告!血糖値を下げるデルタパワーの謎」というテーマだった。夕食を食べながらで、私はそれほど熱心に見ていたわけではないが、「糖尿病の予防や治療に効果のある身近な薬○○」という触れ込みがあって、そこで画面を見たら出てきた薬は睡眠薬のベルソムラだった。薬剤シートの商品名がハッキリ見えた。睡眠薬についての解説があってこの薬は従来の睡眠薬と異なり「副作用の心配がない」旨のコメントがあり、「睡眠薬で糖尿病が治療できる」というテロップまで流れたのには驚いた。

 番組の主旨は、脳波でデルタ波(1-4Hzの徐波)が出るような深い睡眠が増えると血糖値を下げるインスリンの分泌が増えるので熟睡することは糖尿病の治療や予防に良い、ということのようだが、番組をそのまま鵜呑みにすると、じゃあ、糖尿病の予防にはベルソムラを飲めばいいのか、糖尿病の人は全員ベルソムラを飲めば良くなるのか、ということになってしまう。特に神経質な人だと、熟睡できないと糖尿病になるのではないかと考えて不安になる人も出るかもしれない。「ガッテン」できない内容である。これを見た視聴者からさっそくクレームがあったようで、NHKではホームページ上にお詫びを表明し、本日夜放送予定の「ガッテン」でも謝罪するとのことである。

 ベルソムラは当ブログ1075話で紹介した通り、新しい作用機序の睡眠薬であるが、全く副作用がないわけではないし、他の薬との相互作用がいろいろあって、例えば抗生剤のクラリシッド(クラリス)は併用禁忌になっている。それに、熟睡さえすれば糖尿病が治療できるとか予防ができるという単純なものでもない。やはり食事に気をつけ、生活習慣を改善していくことが治療や予防の第一歩なのである。それでも血糖値が高ければ専門医の指導を受け、必要ならば薬物療法を受ければよい。この番組を見て、熟睡しないと糖尿病になると心配することはない。

| | コメント (4)

2017年2月27日 (月)

神経質礼賛 1360.カラー

 中学・高校と学生服を着ていて襟のプラスチック製の白いカラーは首に当たって慣れるまでは痛かったし窮屈感があった。それに、たまに割れてしまうことがあった。高校生の時、冬場は学生服を着た窮屈なままでヴァイオリンを顎と肩で挟んでいられたのだから慣れというものは大きい。カラーは襟の形を整え、飾りになるばかりでなく、汚れを防ぐ役割もある。今では割れにくい素材に変わったと聞く。そもそも公立の中学や高校でも学生服ではなくブレザーの学校が多くなっているから、詰襟服体験をしたことのない男性も増えているだろう。

 明治時代は高い襟がオシャレとされ、そこからハイカラという言葉が生まれた。森田正馬先生は学生服と同様の詰襟服を愛用され、講義や診察の際に着ていることが多かった。外来の患者さんに詰襟のカラーをネタに指導された記録が残っている。患者さんは二十八歳の元数学教員。二十歳頃から性的煩悶があり、三年前から対人恐怖となり、退職したままである。苦痛は苦痛として受入れたらいいんですか、と問う患者さんに対して森田先生は次のように言っておられる。

 

又さう・いっては、いけません。受入れやうが・受入れなからうが、ふりかゝつた苦痛は、どうしても苦痛です。貴方の・その高いカラーは、窮屈を窮屈として、受入れようとせずに、受入れて居る。貴方は、カラーをはめる時、苦痛をいひましたか。(いゝえ)さういふのを受入れたといひます。僕は昔、カラーに苦情をいひました。今でもいひます。西洋人といふものは、余計な窮屈な事をするものだ。なぜ日本人は、こんないやな事をまねしなければ・ならないのかと、不平をこぼしました。しかし普通の人は、そんな事をいはずに、素直に忍受して・受入れてゐる。そして少しも苦痛を苦痛と感じない。貴方は其様なカラーを、窮屈として居るのですか。(解りました。窮屈だらうといへば、さう思ひますが、常には何とも思はないですね。)

カラーの事でも・暑さでも、対人恐怖でも、皆受入れるとか・任せるとか・あるがまゝとか・いつたら、其一言で苦しくなる。理屈をいへば・いふほど、其事に氣がつき・心が執着するやうになる。

 今あちらの大工の音が、相当にやかましい。しかし、それを貴方は、僕にいはれるまで、氣がつかなかつたでせう。それは当然の事として、うるさいのを受入れるとか・何とか批判をしないで、其まゝになるとか・何とかいはずに、其まゝになつて居たからであります。

 それで、其苦痛の方は、其まゝにして、自分の欲望に従ひ、四角四面に働くやうになつたら、一方の性的の方も、自然に調節されて、治るやうになるから、不思議です。只之を治さう治さうと工夫して居る間は、決して治らないのであります。

 今貴方の採るべき道は、外にはない。何でも職業に就いて、少しでも出世するやうに努力するか、それが出来なければ、入院して精神修養するか、其二道であります。 (白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.50-51)


 苦痛を受入れようとしても簡単に受入れられるものではない。仕方なしにそのまま行動しているうちに自然と苦痛は忘れているのだ。あるがままになろうとしてもなれるものではない。仕事を一生懸命にしている時に、あるがままになっているのである。理屈をこねているだけではダメである。いつまでもグチをこぼしていないで行動するかどうかが大事なのである。

| | コメント (6)

2017年2月24日 (金)

神経質礼賛 1359.「餌をあげる」

 毎日新聞の日曜版の最後のページに「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムがあって、いつも読んでいて、そうだその通りと思うことが多い。2月19日の記事では「(鹿に)餌をあげる」という言葉をしきりに使う女性アナウンサーを「優しい人を演じている」と批判し、最近料理番組でよく耳にする食材に対してまで「○○してあげる」という表現にも言及している。TV番組であまりによく聞く言葉なので、ちょっと違和感が薄れてきているが、確かに本来はおかしい。(動物に)餌を「あげる」、(草木に)水を「あげる」ではなく「やる」が正しいはずだし、食材に対して「○○してあげる」はもってのほかである。

 実は森田正馬先生もこういった表現を批判しておられた。「神経質者のための人生教訓」の中で「社会の風潮」と題して次のように述べておられる。


 世が進むと共に、華美・虚栄・軽佻・浮薄となつて、徒らに不釣合の敬語や・優雅の言葉を用ひたがるやうになる。「魚屋がいらつしゃつた」「坊やは、どう遊ばしたの?」といふ言葉を濫用する結果は、目上の人に対して、却て言葉に窮するから、仕方なしに。「先生が来た」「叔父さん、どうしたんです」とかいふ事になる。追々と世の中が傾倒の気運になつて来るのである。又「兎が咬じる」「小鳥がつゝく(ついばむ)」「金魚が食ふ」とかいふのは、素朴であり・野卑である・とか考へるでもあらふか。「獅子が子をたべ殺した」「金魚にフをあげる」とかいふ風になる。

抑も「たべる」とは、「給はる」事で、「こらへてたべ半七さん」といふやうなものである。即ち「たべる」とは「頂く」「頂戴する」と同義であるから、「蛇が蛙を頂いて居る」といふと同様である。世が一般の風習になると、不合理な言葉も、いつしか耳障りにならなくなる。しかし注意すべき事は、之が不知不識(しらずしらず)の間に、社会感情の虚栄・浮薄の深い基礎を培養し・醗酵を起して居るのである。(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.484


 言葉は時代とともに変化していくものではあるけれども、虚栄・浮薄の風潮には流されないよう気をつけたいものだ。

| | コメント (2)

2017年2月20日 (月)

神経質礼賛 1358.吉祥寺

 高校時代所属していた弦楽合奏部の私より5年下で東京在住の人たちがよく集まって練習している。ヴァイオリン2人・ヴィオラ1人・チェロ1人でちょうど弦楽四重奏ができるメンバーなので、この集まりは長続きしているらしい。時々私にも「よかったら参加しませんか」とお誘いがかかる。一昨日は定例のメンバー以外に私や他のOBも加わって8人で合奏を楽しんだ。会場は吉祥寺にあるY楽器の練習用貸スタジオである。

 土曜の半日の仕事を終えてそのまま楽器を肩にして東京へ向かう。あいにく見たい展覧会がないので、そのまま吉祥寺へ直行する。吉祥寺駅で降りるのは初めてである。集合時刻まで1時間半。事前に見どころを調べていなかったので、駅の案内地図を見て南口から井の頭公園へと向かう。路上禁煙となっていて、平気で喫煙している不届き者はほとんどいないのはとてもよい。寒いけれどもそれなりに人はいて、池には家族連れやカップルのボートが行き来している。桜の季節ならば池の周りが花満開になって賑わうだろうと思う。また駅に戻り、今度は北口へ出る。有名なハーモニカ横丁がある。まだ4時前だというのに立飲み屋には結構客が入っている。ちょっと新宿駅西口の思い出横丁を思わせるけれども、飲食店だけでなく古くからの和菓子屋があったり花屋があったり衣料品・雑貨店もあったりしてとても面白い。つい徘徊してしまう。横丁を出ると長い行列ができていて、メンチかつの評判店らしい。昔風の大きな乾物屋も健在だ。明るいサンロードという商店街もあるけれども、やはりこのハーモニカ横丁の存在感は大きい。周囲に懐かしい昭和の風情を発散している。

 事前に中心メンバーである写真家のK君が会場までのルートを詳しく書いたメールを送ってくれていたので、迷わずにビルの5階の中にあるスタジオに入ることができた。こういう神経質は実に助かる。定刻にメンバー全員が集合し、モーツァルトを中心にハイドンやバルトークなどの弦楽合奏曲を次々に弾いた。ヴィヴァルディ「四季」もなんと全曲弾いてしまった。2時間半があっという間に過ぎ、二次会へ向かう東京勢と別れて帰宅の途についた。

 そういえば吉祥寺に吉祥寺というお寺はないよなあ、と気になる。神経質ゆえ調べてみると、本郷にあった吉祥寺が江戸時代の明暦の大火で焼失し、焼け出された門前町の住人達がこの地を開墾して吉祥寺に愛着を示して吉祥寺村と称したのが始まりなのだそうだ。古いものを残しながら新しいものを開拓する精神が脈々と現代につながっている。住みたい街としてよく挙げられるのも納得できる。

| | コメント (2)

«神経質礼賛 1357.確定申告