2009年7月13日 (月)

神経質礼賛 445.夏みかんパワー

 毎年、6月から7月にかけて、実家の庭には夏みかんが実る。元は私が子供の頃に父親が数本のみかん・夏みかん・八朔の苗を植えたものだ。父が亡くなってから長いこと放置されていて、みかんと八朔の木は枯れてしまったが、夏みかんの木は元気で毎年実をつける。正真正銘の無農薬・無肥料である。例年、取りきれなくて(食べ切れなくて)最後は腐って落ちてしまう。だから、毎週仕事が休みの日に母親の安否確認がてら実家に行くと、夏みかんを大量に持たされることになる。しかし、子供たちは、酸っぱいと言って、食べてくれないので、私と妻で食べることになる。一応は「甘夏」なので、それなりの甘味もある。面倒ではあるけれど神経質らしく、皮とホロをむき、深めの皿に入れてラップをかけて冷蔵庫に入れておく。外出から疲れて帰った時につまんで食べると、酸味とほどよい苦味でしゃきっとしてくる。やはり季節に合った自然な食べ物なのだろう。

 夏みかんにはクエン酸が多量に含まれている。筋肉内の疲労物質「乳酸」の代謝に関与するとともにカルシウムなどのミネラル吸収を促進する効果がある。最近のスポーツドリンクはクエン酸を配合したものが販売されているのでその効果は御存知かと思う。ビタミンCも多く含まれ、栄養分析表を見ると、果肉100g中40mgのビタミンCがある。夏の日焼けに良さそうである。多くはないがビタミンB1・B2も含まれる。それに良質な食物繊維をたっぷり摂ることができる。近頃は発ガン抑制物質も話題になっている。果肉中のβ-クリプトキサンチンや苦味成分のリモノイドに発ガン抑制作用があると言われる。さらにマーマレードとして食べると、皮の香り成分オーラプテンにも発ガン抑制作用があるという。こうしてみると、いいことずくめである。

 小学生の時に学校給食で出た夏みかん(半分に切ったもの)は実家の夏みかんよりもはるかに苦味も酸味も強かった。今は果物でも野菜でも甘くて苦味や酸味の少ないものが好まれるが、昔ながらのものの方が体に良い成分が多く含まれていることもある。夏みかんパワーを見直してはどうだろうか。

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2009年7月10日 (金)

神経質礼賛 444.縁起の悪い語呂合わせ

 数字の4は「死」、9は「苦」を連想させるので、それらの番号は嫌われやすい。かつては、ホテルや病院の部屋番号で末尾が4や9は避ける場合があったが、番号を飛ばすのは何かと不便であるから、最近はそこまではしないようだ。私が勤務している病院も現在は4号室や9号室がある。キリスト教圏の国ではキリストを裏切ったユダが13番目の弟子だったことから13が忌み嫌われる。

 私は小学生の頃、数字が気になって、廊下を歩く歩数を数えて末尾が「4」とか「9」になるのを嫌って、歩数を調節する、という不自然な歩き方をしていた時期があった。中学の時の担任の先生が「皆さんは4を嫌うけれど、私は44が好きです。し合わせ、と読めるから」と言っておられた。なるほど、とは思ったが、やはり何となく気持ちが悪いものである。

 医師になりたての時、最初に買った軽自動車のナンバーは「く 7979」だった。どう考えても「苦、泣く泣く」と読めて縁起が悪い。この車に乗っていた5年間に小さな接触事故を2回経験したが、これは単に運転技術が未熟だったためである。大学に助手で戻る前は勤務先の病院から週1回大学病院の専門外来を担当して夜は研究会に出席してから帰っていて(往復300km)、スピード違反で一度捕まったことがある。これもまあ、ナンバーのせいではないだろう。車を買い換えたらナンバーは「ね 8786」になった。「今度は、ね、やな野郎 だね」とセールス氏に嫌味を言うと、「花ハローと読んで下さいよー」と言っていた。ものは考えようである。

 強迫神経症(強迫性障害)で縁起恐怖というものがある。縁起が悪いことを過度に恐れ、無理にそれを避けるような行動をしてしまうものだ。そうなると、日常生活にも支障をきたしてしまう。不吉に思われる数字も他の数字と何ら違いがあるわけでなく、勝手に意味づけしてしまうだけのことである。気味が悪いという気分はそのままに、それを避けずに必要な行動を続けていくことが大切である。縁起を良くするような儀式をしては強迫行為のワナにはまってしまう。

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2009年7月 6日 (月)

神経質礼賛 443.短歌の周辺

 通勤の電車でJR東海のポスター広告を見かける。TVでも宣伝している「そうだ京都行こう」に比べると地味だけれども、奈良の旅へと誘う万葉集をテーマにしたものもあって、野に遊ぶ鹿たちの写真を背景に「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも   崗本天皇」とある。知りたがりの神経質ゆえ、まず、崗本天皇とは誰のことだろう、と疑問がわく。歴史上、聞いたことがない天皇名である。調べてみると、明日香崗本宮を御所とした天皇を意味し、舒明天皇またはその皇后で夫の死後に女帝となった皇極天皇(さらに再度即位して斉明天皇)のことだそうだ。歴史上有名な中大兄皇子(天智天皇)の両親のどちらかということになる。また、「小倉の山」は平安時代の歌枕として名高い京都の嵯峨が頭に浮かぶが、時代から言ってもちろんそこではなく、場所は不明とのことである。

 一枚のポスターでちょっとした歴史探訪ができる。次はどんなポスターになるかまた楽しみだ。

 われらが森田正馬先生も短歌や俳句を詠んでおられる。古歌をもじった教育的な歌をよく色紙に書かれている一方、日常生活をそのままうたった歌や故人をしのぶ歌もある。

 世の中に 我といふもの 捨てて見よ 天地万物 すべて我がもの (古歌)

 何事も 物其ものに なって見よ 天地万物 すべて我がもの  (森田)

 古歌にあるように、雑念を捨て去って無我になることは極めて難しい。禅の修業を積んだ人ならばともかく、私のような凡人では無我になろうとしてできるものではない。しかし、森田先生の言われる「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くし、物の性を尽くす」というように、そのものを最大限に生かすように行動していくことは雑念を浮かべたままでもできる。そうして行動していくうちに自己中心性が薄れ、いつのまにか雑念にとらわれていない自分にふと気付くということになるものである。

靑市場 キャベツの球の ころころと ころがりてあり 露に光りて (森田)

 森田先生の医院兼自宅の近くには青物市場があって、先生はよく患者さんたちを連れて行った。何をするのかと言うと、飼っている小動物の餌にするために、捨てられたクズ野菜を拾いに行くのである。患者さん、特に対人恐怖の人にとってはとても恥ずかしいことだった。時には市場の人から「いい若い者が何やってるんだ」と言われることもあった。対人恐怖のため学生時代に森田先生のところに入院し、後に香川大学教授となった大西鋭作さんは次のように振り返っている。

入院生活の断片と森田療法(大西鋭作)

 森田先生の号は「形外」です。形外とは、形式を無視し人間の心の事実に生きるという意味と思います。「形外」は、先生の生活の至る所で、私達は感じたものでした。大学教授・医学博士たる先生が、粗末な着物で、近くの青物市場へ、鶏の餌にする野菜拾いに患者を引きつれて行ったこと等は、形式を無視し物を惜しむ神経質が作り出した傑作です。修業というようなケチな堅苦しいものではありません。人の足に踏みにじられ、捨て去られる野菜を惜しいと感ずる純なこころの動きに素直に応じただけのことです。(白揚社:森田正馬全集 月報三 昭和49年8月)

 大西さんにとっても野菜拾いは辛い作業だったろう。当時の大学生、特に帝大生は今と違って超エリートである。市場で働いている人たちの視線はさぞかし痛かっただろう。しかし、作業中心の生活をしているうちに症状をかえりみることも少なくなってしだいに視野が拡がり、退院する頃には森田先生と同様にキャベツの光る露にも目が行くようになったのではないかと想像する。

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2009年7月 3日 (金)

神経質礼賛 442.感情の法則と90秒ルール

 毎日新聞の日曜版に心療内科医(歌手)・海原純子さんの「一日一粒 心のサプリ」というコラムがある。621日の話は90秒ルールに関するものだった。ささいなことで怒りが爆発しやすい「瞬間湯沸かし器」のような人の例を出して、最近の脳科学の研究から、脳から放出された化学物質が起こす反応は90秒以内におさまるので、怒りを感じたら90秒間何とかやりすごすとよい、というような話だった。これを読んだ妻は「90秒なんて、とても待てない!」と言う。妻と性格そっくりの息子とは「混ぜるな危険」の関係で、二人の間でいつも同じシナリオでのケンカが繰り返される。小言を言う前にワンテンポ待ったら、と妻にアドバイスするのだが、どうも学習効果がない。

 脳科学が進んでいなかった今から百年近く前に森田正馬先生はすでに「感情の法則」について書かれているが、現在でも通用する立派なものである。

 常識養成の根本とする処は広くいはゞ即ち心身の訓練にして狭くいはゞ即ち感情の修練なり。されば先づ感情の特性に就て考ふるに

一、感情は常に同一の強さを以て永く持続するものにあらず、之を放任すれば自然に消失す。

二、感情は之が行動に変化すれば消失す。

三、感情は之を表出するに従ひ益々強盛となる。ランゲは吾人は悲しき為に泣くに非ず。泣くが為に悲しきなりといへり。

四、感情は之に慣るゝに従ひて鈍くなる。  (白揚社:森田正馬全集第7巻 p.555

 さらに「憤怒の感情を表出して一言二言争えば、次第に憤怒は激烈になりついには暴行に至る下等社会の夫婦喧嘩におけるが如し」と付け加えておられる。鈍感な人ならば、何を言われてもカチンとくることは少ないだろうが、神経質人間は他人の言動に敏感なのでカチンときやすい。90秒という時間は短いようでも結構長く感じるものである。どうにもならない場合はその場をはずして何か物を取りに行くとかトイレに行って来るとか一工夫して怒りの感情が消失するのを待つのが賢明である。

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2009年7月 1日 (水)

神経質礼賛 441.ネットゲームとひきこもり

 今年も保健所のひきこもり教室の講師を頼まれた。会の前日(624日)の毎日新聞夕刊に「バーチャルに生き、現実世界で生きられない・・・増えるネトゲ廃人」というタイトルの記事があった。ネットゲームにはまり、起きている時間はすべてネットゲームに費やす生活を3年間送った大学生、ネットゲームをやめさせようとする親に暴力をふるう中学生の実例が紹介されていた。「ネトゲ廃人」という本を出版したジャーナリストは「どこかに心の空白があって、ずるずると続けてしまう」「現実で生きがいを見出しにくくなる」と言う。あるネットゲームを運営している会社の社長は「ゲームに依存しやすいのは人生で何かが欠落している人」と分析する。記事ではネットゲーム依存への対策はおろか依存者の統計もなく、ゲーマー低年齢化の問題を指摘していた。

 さて、ひきこもり教室では、まず、私の講義でひきこもりと鑑別を要する精神疾患を概説し、その後のグループワークで参加者(ひきこもりの親)の具体的事例についてディスカッションするという流れになっている。講義の初めに前述の新聞記事の話をしたら、参加者から「まさにウチの息子も同じなんです」という話が出てきた。大学に入って一人暮らしを始めたら、ネットゲーム三昧の生活になってしまい、大学には行っていない。メールを出しても返事が来なくなったので心配してアパートへ行ってみると公共料金の督促状が挟まっていた。とりあえず親が支払ったが、後期の授業料の支払いをどうしようか、という難題を抱えている、ということだった。他の参加者からは「早く家に連れ戻した方がいいのでは」という意見と「親がムリに連れ戻したら、うまくいかなかったのは連れ戻されたからだと言うに決まっている」とそれに反対する意見があった。実際に相談業務をしている保健師さんや社会福祉士さんからは「どういう行動を取るにせよ、夫婦でよく話し合って決める方がよい」「電気代を親が支払ってあげたのでは本人は困らないことになってしまう。電気が止められたところで死ぬことはないのだし、パソコンもできなくなるわけだから、本人に処理させた方がよい」「家庭の経済状況を本人に伝え、行かない学校へ学費を払うゆとりはない、一人暮らしを続けたいのならば援助できるのは○万円までで、後は自分で働いてもらうしかない、と説明した上で本人にどうするか決めさせてはどうか」などとアドバイスがあった。

 対人恐怖などの神経症やいじめなどが原因で不登校となってひきこもっていく人とネトゲ廃人には少々違いがある。パチンコ依存症などの病的賭博に近い嗜癖の問題なのである。ネットゲームでは賭博のように勝てばお金が入ってくるわけではないが、よりレベルが上がるという「報酬」がある。パチンコにお金をつぎ込んでサラ金に借金をしまくって巨額の負債となることはなくても、パチンコと違って24時間できるので、生活リズムが破綻することで廃人生活となっていく問題は大きい。

 ギャンブル依存に関して興味深い研究が最近発表された。ケンブリッジ大学のLuke Clark博士がNeuron誌に発表したものである。被験者にコンピュータ制御のスロットマシンで遊戯させ、機能的MRIで脳の活性領域を調べた。すると、当りが出た時には自然報酬や中毒性の薬物を処理する領域が反応するのだが、「もうちょっとで当り」という「ニアミス」が出た時にも脳の同じ報酬系(線条体と島皮質)が活性化されていた。ニアミス自体は不快だがゲームを続けたいという欲求が高まっていた。ニアミスに対する反応は本来脳に備わっていて、ニアミス体験がギャンブル依存の誘因になる可能性を示唆していると結論している。

 コンピュータゲームでは、簡単に次に進んでいくのでは飽きられてしまうし、難しすぎてはあきらめられてしまう。巧みに「ニアミス」体験をさせてゲーマーを虜にしていくように作っている。誰でもネトゲ廃人になる危険性はあるのだ。現実生活での楽しみがなく、将来の夢もないとなると、ネットゲームのファンタジー世界に逃避することにもなる。まずはネットゲームの危険性を周知させるとともに、業界に対してはゲーム時間の規制をするよう働きかけていく必要があるだろう。長い目で見れば、若者が健全な「生の欲望」を発揮できるような社会、努力が報いられるような社会にしていく必要もある。

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2009年6月29日 (月)

神経質礼賛 440.砕啄同時(啐啄同時)

 「砕啄(さいたく)同時」という語がある。面白い言葉である。砕は卵から雛が生まれる時に、自然に成熟して殻を破って出てくる事である。啄というのは、母親がそれを嘴でツツキ破ってやる事である。これがもし親鶏が慌てて早く殻を壊せば、雛は早熟で成育する事ができない。これに反して成熟した雛が、殻を破る事ができなければ、窒息して死ぬるという事になる。すなわち雛の完全に生育するには、砕と啄とが同時でなくてはならない。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.40

 これは形外会の副会長をしていた山野井氏の体験発表に対して森田正馬先生が言われた言葉である。山野井氏は対人恐怖と書痙(字を書く時に手が震える症状)に長いこと悩んでいた。種々の治療で良くならず、森田先生のところに40日間入院して作業に打ち込んだ。しかし、症状の方は良くなったという自信がない。会社を辞めて田舎に帰り楽に生活しようというつもりだったが、先生から「会社を辞めては絶対に治らない」と強く言われて仕方なしに会社に残ることにして重役に面会をすることになった。面会直前は激しく不安・焦燥が高まったが、会ってみると初めは緊張したものの思ったことをスラスラと話すことができた。そして帰宅して森田先生に手紙を書くとこれまたスラスラと字が書けた。入院生活で卵がしだいに孵化し、重役に会った時に砕啄同時になって心機一転したわけである。機が熟せば治る、ということなのだ。

 神経症の人は症状がゼロになることを「治った」と考えがちであり、そう思っているうちはなかなか治らない。山野井さんの場合も入院したのに症状はあまり改善していないように思われた。40日間の退院期限が迫り、田舎に帰るという逃げの一手を考えた。しかし先生に強く言われて恐怖突入し、自分の力で活路を開くことができたのだ。もはや症状があるとかないとかを問題にしない状態となって、結果的には症状も消失していた。入院生活で神経質を生活に生かす修練を積んだ上での恐怖突入であり、最善のタイミングだったのだろう。

 現代の入院ではどうかすると1年でも2年でも入院を続ける人がいる。卵の殻を破ることを恐れてひきこもる。職場を休職しても傷病手当金が出るような場合は「疾病利得」になってしまう。入院生活の優等生であっても社会生活ができなければ話にならない。機が熟したら背中を押して社会の中に飛び込ませることも治療者には必要である。

実は、この砕啄同時という言葉は森田先生の誤りで、啐啄(そったく)同時が正しい。

なお、この記事の「啄」という漢字は、正しくは右側のつくりの部分に点が付くのだが、フォントがないため「啄」としている。大原健士郎先生が一昨年出された「神経質性格、その正常と異常<森田療法入門>」(星和書店)の中でもこの「啄」が使われている。

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2009年6月26日 (金)

神経質礼賛 439.山月記

 先週、学校から帰ってきた子供が、「明日までに山月記の感想文を書いて来いと言われた」と焦っていた。国語の授業中、生徒たちの態度が悪いということで全員に宿題が出てしまったという。

 山月記は中国の伝奇小説を題材にした中島敦(1909-1942)の作品である。主人公の李徴は博学の秀才で、官吏になったが、詩家としての名声を遺したいということで辞めてしまう。しかし、なかなか名声は上がらず生活苦からまた官吏の職に就く。かつての同輩たちは出世しており、つまらぬ人間だと思っていた連中に仕えなければならず、自尊心を深く傷つけられる。公用の旅の途中で突然発狂して失踪する。李徴は人食い虎と化していたのだが、かつての友人と会い、自分の心情を語り、自作の詩を託し、妻子の生活に便宜を図るように頼む。

高校時代、国語の教科書でこの物語を読んだ時、私をドキッとさせたのは、「なぜ虎になってしまったのかわからないが、思い当たることがないわけでもない」と語る李徴の言葉だった。「人間であった時、人との交わりを避けた。人々は尊大だと言ったが、実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを人々は知らなかった。自尊心がなかったとはいわないが、それは臆病な自尊心というべきものであった」

これはまさに対人恐怖の神経質人間の心理状態を表現したものである。森田正馬先生が「恥かしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥かしがらじとする負けじ魂の意地張り根性」と言われた弱力性と強力性の入り混じった赤面恐怖の心理に他ならない。だから、対人恐怖に悩んでいた私の心の中を見透かされたような思いがしたのに違いない。

李徴は世と離れ、人と遠ざかり、自尊心を飼い太らせる。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」と省みる。虎は肥大した自己愛の象徴とも読める。李徴が作った詩は、格調高く非凡な才能を示していたが、一流の作品となるにはどこか欠けるところがあるのではないかと旧友は感じる。具体的には書かれていないが、おそらく人を思う気持ちが欠落していたのだろう。家族を思いやり、友を思う気持ちがあれば虎になることはなかっただろうし、一度は虎になっても人間に戻れたかも知れない。下級官吏であってもガマンして勤めていれば家族を養っていくことはできるし、空いた時間に詩作することもできる。知識や感性だけでなく深い情感が加われば後世に名を残すような作品となってくるはずだ。山月記は対人恐怖や自己愛の心理を扱った小説だったようにも思えてくる。

 人間として生きていく上では、苦しくても嫌でも仕方なしに人と交わっていかなければならない。苦痛や不安や不全感はどうにもならないのだ。それに、よほどの能力と運に恵まれている人を別にすれば、たいていの人は自尊心がペシャンコになるような挫折を何度か経験する。私の場合も挫折体験を繰り返しているうちに20代後半になってようやく、自分はこんなもので仕方がない、できることを積み重ねていくまでだ、と思うようになった。すると対人緊張や不安はあっても、それほど意識しない存在になっていった。

 森田正馬先生の高弟である高良武久先生が書かれた入門書「森田療法のすすめ」(白揚社)の「あとがき」には高良先生御自身の体験が書かれていて、高良先生も私と同じだったのだなあ、としみじみ思うので、最後に紹介しておこう。

「不眠症、対人恐怖、頭重感、疲労感、それに人生観の問題などにつきまとわれて、高校時代(旧制)は迷いの中の苦しい努力の連続のようでした。それが長い間の数々の試行錯誤をかさねた末に、しだいに落ちついたのは、結局、人生には不安も苦悩もつきものであるということ、持続的な完全なコンディションなどあり得ないこと、そして向上する人間にとっては、不安も苦悩もまた生活の重要な内容であることが、体験的にわかってきたからであります」

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2009年6月22日 (月)

神経質礼賛 438.缶コーヒーの飲み過ぎ

 勤務先の病院の隣市には大手メーカーの生産拠点がいくつかある関係で社内診療所からの紹介で外来受診する人が多い。初診時には生活習慣についていろいろ質問するわけだが、そうした中年男性(特に独身や単身赴任者)によくありがちなのは、酒は普段飲まないが、タバコは11箱で缶コーヒーを2-3本飲む、というパターンである。缶コーヒーを習慣的に飲むことの問題点はカフェインと糖分の過剰摂取である。

糖分の方は最近のメタボ警戒の流れから「微糖」や「低糖(甘さ控えめ)」の商品も増えているようだ。ちなみに標準で100mlあたり砂糖7.5gという業界規定があるので190ml缶では14g(テイースプーン7杯分)の糖分を摂取することになる。これが2本、3本では大量に摂取してしまうことになる。ちなみに低糖は100mlあたり糖類5g以下、微糖は2.5g以下、無糖は0.5g以下という規定があるのだそうで、無糖だから糖類は入っていないとは限らない。

精神科領域で特に問題となるのはカフェインである。カフェインは喘息治療薬のテオフィリンと相互作用があるため、製薬メーカーのホームページには飲み物のカフェイン含有量を表示しているが、それによると缶コーヒーのカフェイン量は100g当り平均68(最低40-最高95)mgということだ。米国精神医学会の診断基準DSM-Ⅳ-TRによるカフェイン中毒の定義では250mg以上の摂取となっているので、190g標準缶を2本飲めばそれを上回ってしまうことになる。疲れた時に缶コーヒーで頭をスッキリさせてまた仕事に臨みたいという気持ちはよくわかるが、カフェイン依存状態になってしまうとカフェイン切れで集中力が低下してイライラすることになるし、夜の不眠にもつながってしまう。やはり缶コーヒーは1日1本にとどめておいた方がよいだろう。不眠やイライラを治すのに精神科を受診して薬を出してもらおう、というのではなく、まず生活習慣を見直してみることが大切である。その辺は神経質人間ならば注意が行き届きやすいだろう。「患者」を作り出して医療費の無駄遣いをするのは避けたいものだ。

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2009年6月19日 (金)

神経質礼賛 437.どうぶつしょうぎ

 6月14日付毎日新聞に「どうぶつしょうぎ」についての記事があった。女の子にも楽しく将棋に親しんでもらおうということで女流棋士の北尾まどかさんが考え出したミニ将棋である。本将棋よりも大幅に簡略化され、盤は縦4×横3マス、駒は4種類で計8枚。正方形の駒にはかわいらしい動物の絵が描いてあり、駒が動ける方向に印が付いている。自陣中央に「ライオン」(将棋の「王将」に相当し、縦横斜め1マス移動可)、その左に「ぞう」(将棋の「角行」に類似し、斜めに1マス移動可)、右に「きりん」(将棋の「飛車」に類似し、前後左右に1マス移動可)、前に「ひよこ」(将棋の「歩兵」に相当し、前に1マス移動可)という布陣になる。「ひよこ」は敵陣(1段目)に入ると「にわとり」(将棋の「と金」に相当し、前後左右・斜め前に1マス移動可)に成る。取った駒は本将棋と同様に打つことができる。自分の歩兵がいるのと同じ縦のラインに歩兵を打つと、将棋では「二歩」の反則負けになるが、どうぶつしょうぎではOKで「二ひよこ」にはならない。「打ち歩詰め」ならぬ「打ちひよこ詰め」も反則にはならない。相手のライオンを取れば勝ちで、相手陣に自分のライオンが入っても勝ち、という「入玉」ルールがある。ひよこ同士が向き合った状態からスタートするので、先手が相手のひよこを取ればいきなり「王手!」、じゃなかった「ライオン手!」になる。

 こんな簡単なものでゲームになるのだろうか。簡単に必勝手順が見つかるのではないか。神経質人間ゆえ、つい心配してしまう。ところがどうして、ホワイトボードに駒を書きながら実際に確かめてみると、なかなかのものである。本将棋の飛車・角行・桂馬・香車と違いすべての駒は1マスだけの移動であり、盤も狭いため、選べる手は限定されるから、子供さんからお年寄りまで覚えやすく手軽に楽しめるゲームになりそうだ。休日には盤と駒を作ってやってみようと思う。考案者の北尾さんに大拍手である。

<おわび>

 5月25日投稿の第429話「脳脊髄液減少症」で不適切な表現がありました。読んでくださった方々の中には御不快に思われた方々がいらっしゃいました。心からおわび申し上げます。

同記事は削除いたします。それに伴い、お寄せいただいたコメントも消えてしまいます点、御容赦下さい。

今後は記事投稿前に、より神経質に内容をチェックいたします。  四分休符

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2009年6月15日 (月)

神経質礼賛 436.精神科の自動診断装置

 日経メディカル2009年6月号に「近赤外光でうつ状態を評価」という近赤外線スペクトロスコピー(NIRS)に関する記事があった。頭部に近赤外線を照射し、その反射光を測定することで大脳皮質の血液量を測定し、その変化パターンにより例えばうつ病・双極性障害(躁うつ病)・統合失調症・健常を判別するというものである。すでに東京大学や群馬大学で試用され、今年の4月からは先進医療に指定されたという。さらに血流の変化パターンを自動判別するソフトウエアの開発も進んでいるそうである。放射線や磁気を使わないので手軽に利用でき、コストダウンされれば将来的にはクリニックにも導入できる可能性がある。

 今まで精神科疾患では病気を判別できる検査法がなかった。心理検査は被験者が十分に協力してくれなければ意味がない。あくまでも診断の補助である。問診、家族からの情報、会話中の表情や態度を観察した上で診断をつけるので、1回の診察だけでは診断が困難な場合がある。CTやMRIや内視鏡検査などで確定診断がつく身体科とは大きく異なる。幻覚妄想症状があっても本人が隠そうとする場合は病気の診断をつけにくい場合がある。うつ病を装う人の場合は病気でないと言い切ることがむずかしい場合がある。近い将来このNIRSが普及すれば診断の精度が上がるであろうし、精神鑑定でも威力を発揮しそうである。

 もし、神経症の人がこの装置で検査を受けたらどうなるだろうか。うつ状態が強い時には「うつ病」、重症の強迫神経症では時には「統合失調症」と診断されるかもしれないが、神経症の多くは「健常」ということになるだろう。「あなたは異常がないので治療の必要はありません」では救いがない。そこで、症状形成のメカニズムを説明でき、症状と格闘することをやめて健康的な生活を取り戻していく、森田療法の考え方の出番となるのではないかと思う。

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