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2006年2月24日 (金)

神経質礼賛 20.葛根湯医者vsSSRI医者

 江戸時代、どんな患者さんが来ても、葛根湯を与える医者がいたそうである。葛根湯とは、代表的な漢方薬で、カゼの初期症状の発熱・頭痛・鼻水・鼻閉・肩こりにはよく効く薬である。私もカゼ気味の時に飲むことはあるし、子供がカゼで発熱した時にはよく与えていた。現代のカゼ薬に比べれば作用・副作用ともマイルドであるが、成分の中にはエフェドリンが含まれているため交感神経を刺激し、不眠・動悸・下痢などの副作用がある。ただでさえお腹が弱い私の場合、下痢になりやすい。もし、胃腸の悪い人が葛根湯を飲んだら、逆効果になってしまうだろう。葛根湯医者はヤブ医者の典型として落語にも登場する。

 前回述べたように、今、精神科の世界で爆発的に処方が増えているのが、SSRIである。当初のうつ病治療にとどまらず、国内でもパニック障害、強迫性障害、社会不安障害の適応が認められ、従来診断の不安神経症・強迫神経症(対人恐怖を含む)といった神経症の大部分がSSRIの適応となった。そして、従来の抗うつ薬では使いにくかった、統合失調症の患者さんのうつ状態や陰性症状にも使用される例も増えている。製薬メーカーでは、医師向けのパンフレットで、強迫スペクトルを有する境界性人格障害や嗜癖(アルコール依存・ギャンブル依存など)にも有効であると宣伝している。抑うつ・不安・不眠と言えばSSRI、ということで、葛根湯医者ならぬSSRI医者が大量発生しそうである。

 日本より先にSSRIが発売されていたアメリカではプロザック(日本では未発売)が広く使われ、一般には性格改善剤というイメージまででき上がっている。自己主張のぶつかり合いのアメリカ社会では、引っ込み思案でいたら負け犬になってしまうので、この薬の需要が特に大きいのであろう。

 しかし、SSRIはいいことずくめの万能薬ではない。アメリカではプロザック服用中の人が、突然、不可解な自殺を遂げたり、衝動的な凶悪犯罪を起こしたりするケースが問題となり、製薬会社が訴えられることもあるようだ。日本でも全日空機ハイジャック・機長刺殺事件の裁判判決で、「犯行当時服用していた抗うつ剤は、攻撃性や興奮状態を出現させる副作用を伴う可能性があった」と薬の影響による犯行の可能性が示唆されている(東京地方裁判所:平成17323日判決)。そこまでいかなくても、普段の臨床経験の中で、強迫性障害のためSSRI服用中の人が、突然、易怒的となって、医療スタッフや他の患者さんとトラブルを起こすケースは時々経験している。服用する前には、とてもおとなしかった人がいきなり大爆発して驚くこともある。

 うつ病や重症の強迫性障害治療のためにSSRIを使うのならばともかく、軽度から中等度の神経症レベルの人に投与することには、私は慎重である。本人の努力なしに症状は楽になるのであるが、神経質な性格の良さも殺してしまうからである。いわんや「性格改善」目的のSSRI使用には反対である。

*SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitor):選択的セロトニン再取り込み阻害剤*

 従来の抗うつ薬は、口渇・めまい・ふらつき・眠気・便秘などの副作用が出やすく、過量服薬による心毒性の問題があったが、SSRIでは副作用が軽く、心毒性の問題も少なく、うつ病以外にも、強迫性障害・パニック障害・社会不安障害の治療薬としても広く用いられるようになってきている。

 現在、日本国内で販売されているSSRIはとマレイン酸フルボキサミン(商品名デプロメール・ルボックス)と塩酸パロキセチン(商品名パキシル)の2剤である。

神経質礼賛 19.病名変更ブームと神経症

 かつて「らい病」という病名が「ハンセン病」という名称に変更され、患者さんや関係者にとっては偏見・差別の改善に大いに役立った。精神科の世界でも、「精神分裂病」という病名が、誤解と偏見を招くとして、「統合失調症」に呼称変更となった。これについては、患者家族会と精神神経学会が時間をかけて議論してようやく決まったという経緯がある。実際、私の所へも、精神神経学会から、無作為抽出で選ばれたので、と呼称変更についてのアンケートが送られてきた。この呼称変更は好評であり、患者さんはもとより、医師の側でも患者さんや家族に対する説明もしやすくなったという利点があり、大変良かったと思う。

 しかし、「認知症」はいただけない。わかりにくいという意見をよく聞く。これは、厚生労働省が急に決めたのだが、その経緯はこうである。厚生労働省は平成166月、「痴呆に替わる用語に関する検討会」を設置。9月に新たな呼称として「認知障害」「認知症」「記憶障害」「記憶症」「もの忘れ症」「アルツハイマー」の6案を提示。ホームページで意見を募ったところ、「認知障害」の支持が最も多かったが、すでに別の概念で使われているため、2番目に多かった「認知症」に決定した、ということである。そもそも6案自体おかしい。すでに「認知障害」が別の概念で使われているならば、最初からはずすべきだし、「アルツハイマー」も痴呆の中の一つの種類でそれ以外に血管性痴呆、レビー小体病、ピック病などがあるので、候補にはなりえない。2番目に多くの支持があったから、という決め方もおかしい。今後長く使われる病名にもかかわらず、十分な議論もなく、わずか半年での決定。せめて「認知不全症」とか「認知失調症」あたりにしておけば、まだわかりやすかったのではないか。

 「神経症」が「パニック障害」「広場恐怖」「社会恐怖(社会不安障害)」「強迫性障害」「全般製不安障害」などのDSMAPA(アメリカ精神医学会)の診断基準)やICDWHO(世界保健機関)の診断基準)の診断名に変わってきたのは、「神経症」の名前が差別的であるとか偏見を招くからというわけではない。世界共通の国際分類の方が、研究の際に便利であり、役所の方でも統計上便利であるためである。最近では、役所に提出する書類はICDの病名コードを記入することが要求されるようになってきた。これは患者さんから見たらどう映るだろうか。「神経症」というとワガママ病とか自分で病気を作っているというイメージがあったが、「パニック障害」などは「病気」であり、病院で「治療」してもらうものであるから、「神経症」に比べたら気が楽かもしれない。

 森田正馬(もりたまさたけ)先生は、当時「神経衰弱」と呼ばれた「神経症」を、あえて「神経質」と呼び、病気として扱わなかったことは、以前に述べた通りである(「神経質は病氣でなくて、こんな仕合せな事はありません」)。症状を相手にせず神経質な性格を生かす努力をしていけば、いつの間にか症状は消えていくものであり、症状を消そうとモグラ叩きをすれば、良くならないばかりか、別の症状が出てくることもある。

 精神医療も「エビデンス」が求められる現在、容易に結果が出せるSSRI(新型抗うつ剤)などの薬物療法が神経症治療の主流になってきたのは無理もないことである。新聞広告でご存知のように、製薬会社も、SSRIの新たな需要を期待して、売り込みにしのぎを削っている。しかし、それは、あくまでも対症療法に過ぎない。これに対して「患者」自身の努力が求められ、手間ひまかかる森田療法は根本療法なのである。

神経質礼賛 18.電車の中の神経質

 電車の中は、神経質人間にとっては概して苦手な空間である。特に神経症の症状に苦しんでいる方々の場合はなおさらである。パニック障害(不安神経症)では、「発作が起きたらどうしようか」と予期不安に苦しんでいるうちに、何となく息苦しくなり手からは冷汗が出てくる。対人恐怖では、向かいの席に座っている人の視線が気になり、自分の視線をどこにやったらよいか悩むことになる。過失恐怖では、混んだ電車の中で痴漢と間違えられないよう、少しでも女性から離れるよう、気をつける必要がある。そこまではいかなくても、けたたましく鳴るケータイの着メロ(着うた)・ヘッドホンステレオから漏れるシャカシャカ音・床の上を転がる捨てられた空き缶・衆人環視の中、平気で化粧する女性等、誰にとっても不快空間である。鉄道会社はマナー向上キャンペーンを行なっているが、なかなか効果があがらない。

 私も最近はメモリーオーディオを持ち歩くようになったが、イアホンはしっかり耳孔に押し込み、音量は中以下に設定し、音漏れしないよう、気をつけている。当然、ケータイも電源を切っている。しかし、誰が捨てたか判らない空き缶を拾ってホームのゴミ箱に捨てに行くことは、なかなかできない。また、人に注意するのも少々苦手である。ホームでの喫煙は注意することが多いが、一度、「この野郎!、いちいちうるせーんだよ!!」とからまれて困ったことがある。ささいな事で、殺人が起こる昨今、ヒヤリものである。

 世の中、迷惑垂れ流しの無神経人間が多すぎて困る。もう少し神経質人間が増えてほしいものである。

2006年2月22日 (水)

神経質礼賛 17.神経質の身近な効用

 少々重い話題が続いたので、今回は軽い話を一つ。

 私は神経質人間で心配性なので、普段、いろいろな物を持ち歩いている。身分証明書代わりに持ち歩く運転免許証にはバンドエイドとお札一枚が入っている。紙のフチで思いがけず指を切った時や靴ズレの時にとても助かるし、周囲の人がそうなった時に役に立つ。万一、財布を落としたり盗まれたりした時の用心にお札は入れてあるが、幸いそういう事態には今のところ遭遇していない。一度だけ、財布を忘れて外出してしまった時に、とても助かったことがある。財布の中は、というと、紙幣・コインとも高額順に並べてあるので、すぐにピタリの金額を支払うことができる。また、千円札を必ず十枚以上持つようにしているので、一万円札や五千円札しか持っておらずバスの中で両替に困っている人の役に立てる。カバンの中は、風邪薬、胃薬などの常備薬を入れているが、一番活躍しているのはオイラックスH軟膏という虫刺され用の薬である。かゆみ止めと弱いステロイドの合剤で、蚊やダニに刺されてすぐに塗ると効果バツグンであるが、時間が経ってしまってからでは効果が薄い。いつも持ち歩いていれば安心である。最近は小型軽量のメモリー型オーデイオプレーヤーがあって、常備品の仲間入りをした。主に電車の中で利用しているがFMラジオ・ボイスレコーダー機能もあってとても便利である。昨年の夏、出張の帰りに、新幹線が集中豪雨のために途中で立往生してしまった。いわゆる缶詰状態で運転再開のメドもわからず弱ったが、車内FM放送で音楽を聴いて退屈しのぎになったし、車内FMでは中波のNHK第一放送も流してくれているので、集中豪雨の状況や交通機関の運行状況もよくわかり、とても助かった。もちろん予備電池を持っていた神経質が幸いした。なお、降りた駅の改札で切符にスタンプを押してもらい、後日、特急料金の払い戻しをしてもらったことは言うまでもない。

 森田正馬先生のエコライフぶりは、以前に述べたが、こんなエピソードもある。先生は、自動車の中で、手袋は左だけ着け、右手は懐に入れ、不時の用事に間に合うようにし、足は一方は伸ばし、一方は少し曲げて、衝突事故などに応じられるようにしていたとのことである。先生は人力車から三回落ちたことがあるが、一度もけがをされなかったとのことである(白揚社:森田正馬全集第4p.352)。ここまで徹底することはないにしても、神経質を日常生活に生かせば、安全・便利・得をするわけである。神経質の皆さん、もっと神経質ライフを楽しみましょう。

神経質礼賛 16.神経質と教育

 「ここの神経質の入院療法は、一つの精神修養法であって、学校教育のやり直しで、再教育というようなものです。今の学校教育の知識記憶の詰め込み主義とは、全く反対の着眼点から出発するものです。それで学校教育が多くて、それにこだわりの多いものほど、悟りが悪いのであります」(白揚社:森田正馬第5巻p.614)と森田正馬先生が形外会で語られたのは、昭和10年のことである。人の人格形成に教育(家庭教育・学校教育)の及ぼす影響は極めて大きい。 周囲の物事をよく観察し、「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くし、物の性を尽くす」の言葉のように最大限の価値が発揮されるよう行動していくのが森田流である。その結果、神経症としての症状は消失し、神経質の良さが発揮されていくのであるが、これは、神経質人間ばかりでなく、誰にとっても有用な教育法であろう。

今の教育はどうだろうか。以前の詰め込み教育に対する珍妙な反省から「ゆとり」教育となったが、「学力低下」問題を生み出している。自分の子供の教科書を見ると、唖然とするほど文章がない。カラー写真と漫画で埋め尽くされている。どの教科もそうである。子供たちの頭の中身もこんな風にカラッポになっているのではないかと心配になる。「ゆとり」で生じた時間は地域で面倒見ろ、ということだったらしいが、どこの子供会も少子化のため、少ない父兄で悲鳴をあげながら行事をやりくりしていて、それどころではない。結局、親の不安から小学校のうちから夜遅くまで予備校・塾に通う子供と、親の放任でTVゲーム漬け・ケータイのメール漬けのような子供と2極化しているのが現状である。

学力の問題だけではない。TVのニュースや新聞を見れば、子供による殺人、傷害、強盗、売春(最近は買春と称して「買った」大人の責任だけが追及され本人は「被害者」扱いだがそれで良いのか?)といった犯罪も目立つ。学力・知識以前の問題である。道徳教育の必要性を振りかざす気はないが、家庭や学校での「しつけ」がまず必要だと思う。その前に、未熟な親も教師も自分たちが模範となるよう、自分自身を律し、成長していく必要がある。「外相整いて内相自(おのずか)ら熟す」である。

神経質礼賛 15.ヒステリーの時代

 精神科外来には、時として、休養を要する旨の診断書が欲しくて受診する人がいる。私の外来に、30代の男性が「うつ病で仕事に行くのが嫌になった」と来院した。「診断書を書いて欲しい」とも言う。問診でも、心理検査でも病的な所見は認められず、「特に異常はないし、一旦休んでしまうとまた行くのが大変になるので休まないほうがよい」と話して診断書は書かなかった。すると、その人は数日後、私の公休日にもう一度受診して、他の医師に具合が悪いところをアピールして「うつ病のため、3ヶ月の休養を要す」という診断書を書いてもらった。その後は「毎日が日曜日」状態で、喜んでいたようだが、休養期限が切れると、また同じことになってしまった。もとより上司も仮病ではないかと疑っていたので、ついに退職するかどうかという問題に発展した。「休養と怠惰は似て非なるものなり」である。

森田正馬先生は、神経症を(森田)神経質とヒステリーに大別しており、ヒステリーは子供あるいは子供っぽい人格の人に起こるとしている。ヒステリーには失立、失声などの転換症状と、記憶喪失などの解離症状があるが、その心理機制として、「疾病利得」「疾病逃避」がある。つまり、病気だと、周囲が優しくいたわってくれるし、嫌なことをやらなくて済むのである。ちゃっかり生活保護を受けているヒステリーもいる。働かなくてよい、となると、ますます治るはずがない。小さい子供では嫌なことがあると「頭が痛いよー」「おなかが痛いよー」と言って泣くことがあるのは御存知のことと思う。「アルプスの少女ハイジ」に登場する歩けない女の子クララもヒステリーの一例である。

臨床の場で、最近は純粋な神経質が減っているとよく言われる。それに替わって人格未熟なヒステリー傾向の人が増えているのだろう。また前回の話ではないが「自称うつ病」も多いように思う。DSM(アメリカ精神医学会の診断基準)で、境界性・演技性・自己愛性といったB群パーソナリティ障害の診断基準を部分的に満たす人も少なくない。

渡辺利夫著(TBSブリタニカ)「神経症の時代」という森田療法関連の書籍があるが、平成時代は「ヒステリーの時代」であろう。世の中は、ゴネ得・目立ったもの勝ちの傾向が強く、ワガママ人間が大手を振って跋扈している。ついには国の代表を決める選挙までが、情報操作力と演技力だけで決まる時代となってしまった。今や神経質は貴重品・国の宝である。神経質の皆さん、宝の持ち腐れにならないよう、大いに神経質を生かしていきましょう。

2006年2月20日 (月)

神経質礼賛 14.神経質と「精神疾患」

 この頃、「こころの病」に対する関心が非常に高くなっている。国内の自殺者が年間3万人を超え、うつ病への関心はとりわけ高い。有名人がテレビ番組で、自身のうつ病体験やパニック障害体験を語る効果も大きいのだろう。また、前回述べたADHD(注意欠陥/多動性障害)やLD(学習障害)もよく知られるようになってきた。地方都市でも精神科クリニック(と言っても表向きは「神経内科」や「心療内科」だが)の開業が増え、気軽に受診できるようになりつつある。これはとても喜ばしい反面、神経質な人々がドクター・ショッピングに陥るのではないかという懸念もある。

 神経質人間は病気探しが得意である。ちょっとした身体の異変も病気ではないかと考え、「家庭の医学」の類の本を見ては、あれこれ自分で診断して大騒ぎする。まして、精神疾患ともなると、例えば、嫌なことがあれば誰しも気分が落ち込むのが普通であって、抑うつ気分は多かれ少なかれ誰にでもあるのだが、「うつ病になった」と元気に受診する神経質人間も少なくない。客観的に見ると、全くうつ病レベルではないのだが、本人は自分でうつ病の診断を下しているのである。私は、そういう人には、簡単な心理検査を行なってその場で結果を見せ、うつ病ではないし薬も必要ない旨、説明している。しかし、神経症がアメリカ流に「不安障害」と呼ばれるようになり、SSRIと呼ばれる新型抗うつ剤が不安障害にも多用されるようになってきた現状では、その程度でも「病気」として薬を処方して通院を勧める医師も多いのではないかと思われる。

 かつて、森田正馬先生は、「(自分のような神経衰弱の)病患者ほど悲惨なものはありません」と手紙で訴えてきた人に対して「神経質は病氣でなくて、こんな仕合せな事はありません」とコメントされている(白揚社:森田正馬全集第4p.386)。また、「自然良能を無視するの危険」という題で、「不眠を訴へる患者に対して、多くの立派な医者が、之に徒(いたずら)に、催眠剤を種々撰定して与へる事がある。而かも患者の不眠は、少しも良くはならない。この医者は単に不眠の治療といふ事のみに捉はれて、其人間全体を見る事を忘れたがためである。其患者の毎日の生活状態を聞きたゞして見ると、豈に計らんや患者は、毎日・熟眠が出来ないといひながら、十二時間以上も臥褥し、五時間・七時間位も睡眠して居るのである」と警告されている(森田正馬全集第7p.401)。

 私も微力ながら、「病気探しの迷宮」からの脱出にお手伝いができればと、思っている。

神経質礼賛 13.「のび太・ジャイアン症候群」に対する反論

 ADHD(注意欠陥/多動性障害)という病名がマスコミでよく取り上げられている。近年、小学校の「学級崩壊」の問題で、授業中に教室の中を走り回っていたり、すぐにキレて暴力を振るうような子供たちがADHDではないかと言われたりしたが、最近では精神科医・司馬理英子氏が「ドラえもん」の登場人物に例えて「のび太・ジャイアン症候群」と呼んで話題を集めている。司馬氏によれば、のび太はADHDの「注意欠陥優勢型」、ジャイアンは「多動性優勢型」なのだそうである。

 なかなか面白い名前を付けたものだ、と感心させられるが、「ちょっと待てよ」と反論したくなる。まず、ジャイアンをADHDとするのにはかなり無理がある。女性の司馬氏からみたら、どうしようもない乱暴者なのかもしれないが、私やもう少し前の世代では、よくいた典型的なガキ大将であり、作者の藤子不二雄さんも「健全な」ガキ大将をイメージして作ったのではないかと思う。実際、学校では先生にはよく従い、授業を妨害することもなく、そこそこ普通の成績を取っている。家では「かあちゃん」に言われていやいやながらも店番や自転車での配達をこなしている。妹の「ジャイ子」をとてもかわいがっていて、時々過度な世話を焼いたりする。直情型で、暴力を振るう反面、涙もろく人情家でもある。これはどう考えてもADHDではない。

 一方、のび太は、ADHD「注意欠陥型」の診断基準に該当する点が多く、そのように診断しても悪くはないが、果たしてのび太君に司馬クリニックで治療してもらいなさい、というレベルかどうかは疑問である。この診断基準を拡大解釈すると、不注意で計画性に乏しく意志が弱い人間は、みなADHDになってしまう。下手をしたら日本人の過半数がADHDになりかねない。

 私は「のび太」については別の見方をする。小心、取越苦労、やや内向的でありながら負けず嫌い、という性格傾向をもっており、これは神経質と考えることができる。なお、普段のTVシリーズと映画とでは明らかに異なる面がある。神経質な点は共通だが、普段のシリーズではドラえもんによく言われる通りで、ズボラで飽きっぽく、意志薄弱。一方、映画では勇気と根気がある子として描かれている。これは、同じ神経質であっても、どのように行動するかでまるで違った人物になるという、わかりやすい例である。「どうせ自分はダメなやつだ」とヒネクレて投げやりになったらTVのダメ「のび太」。つらくてもガマンして行動していけば神経質の良さが生きて、映画のスーパー「のび太」になるのである。

森田正馬先生の言葉の中でも「神経質はズボラに見へるけれども、本質は努力家である。仕事の選択や・価値批判のために、努力が費やされて、仕事其ものになりきらないから、ズボラに見へるのである」(森田正馬全集第4巻 p.157)とある。自分はズボラでダメだ、と決めつけないで、とりあえず目の前の仕事に手を出してみれば、状況は変わっていくものである。

神経質礼賛 12.TVアニメの神経質キャラ

 私が小さい頃は、「鉄腕アトム」「鉄人28号」「オバケのQ太郎」「パーマン」「おそ松くん」などのTVアニメをよく見ていた。女の子たちは「サリーちゃん」「ひみつのアッコちゃん」などを見ていたようである。学校でも級友たちが、登場人物のマネをして遊んだりして、夢中になったものである。これらのアニメの登場人物では元気で活発な男の子あるいは女の子が多く、神経質な性格を持った登場人物は思い当たらない。おおらかな社会情勢を反映していることもあったかもしれない。小学校6年の時に放映され、夢中になった「巨人の星」では主人公はどちらかというと内向的で負けず嫌いで完璧主義であり、神経質傾向を持っているように思う。親友の伴、ライバルの花形との性格対比が際立っていた。世の中は高度成長時代で、辛抱してがんばれの「スポーツ根性モノ」がはやっていた。

 さすがに中学以降はアニメを見ることも少なくなったが、数年前は自分の子供たちといっしょに「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」を見ていた。「ドラえもん」に関しては、次回述べる予定なので、ここでは「ちびまる子ちゃん」について述べる。

「ちびまる子ちゃん」のクラスメートは、どの子も、自分のクラスにもこういう子がいたなあ、と思うようなキャラクターばかりで面白い。作者さくらももこさんの実在のクラスメートをモデルにしているらしい。私のクラスでもスポーツマンでさっぱりした性格の「大野君」「杉山君」のような子もいたし、ガリ勉の学級委員「丸尾君」に近い子もいたし、「はまじ」みたいにひょうきんでふざけてばかりいる子もいた。意地の悪いいじめっ子みたいなのもいたし、いばるくせに、ちょっとしたことで大泣きする女の子もいた。さすがに「花輪君」みたいな大金持ちの息子はいなかったが。その中で、「山根君」は神経質の特徴をよくあらわしていると思う。彼は、父親の影響もあって、強い男の子(名前もツヨシ)になろうとするが、いざ本番になると胃腸が痛み出してしまうのである。症状が出ると、情けないと落ち込み、それを克服しようと努力を重ねるのだがまた胃腸が痛み出すのである。女の子ではまる子の親友「タマちゃん」が神経質のように思う。周囲への気配り上手だが、「こんなことを言っていいんだろうか」と悩む場面がよく見られる。神経質は「みにくいアヒルの子」のようなもので、いつか自分の良さに目覚めた時に大変身をとげる。神経質な「山根君」も「タマちゃん」も今では磨きがかかってすばらしい大人になっているだろうと私は思う。

2006年2月19日 (日)

神経質礼賛 11.歴史上の神経質人間

 毎年新しいNHKの大河ドラマが放映されているが、何度も繰り返し取り上げられ、安定した人気があるのは、やはり戦国時代物で、その中でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を主人公としたものであろう。武田信玄、上杉謙信、伊達政宗などもあったが、ストーリーの中で信長・秀吉・家康の存在は、単なる脇役では済まされない存在感がある。ほぼ同時代に、同じ地方出身で、武士の頂点に立っていながら、これだけ性格が異なっている、というのも面白い。この3人はよく「ホトトギス」の歌で比較されているが、家康は「鳴くまで待とう」というほどノンキな性格ではなかった。本当は「じれったいけれども仕方ないから待とう」だったのではないかと思う。

私の見るところでは、家康は神経質人間である。小心者で、戦(いくさ)の時には貧乏ゆすりや歯ぎしりをしていたそうである。ただ、小心者ゆえ、独断専行ということはなく、家臣団の意見をよく聞いて方針を決定していたのが幸いしたと思われる。戦にしても、信長や秀吉に比べると華やかなところは少ない。むしろ、せっせと敵の武将に寝返りを勧める手紙を送るなど裏工作が得意技であり、「タヌキじじい」の悪名も無理はない。負け戦も少なくない。ただし致命的なダメージを受けないよう、うまく逃げている。武田勢と合戦を繰り返した現在の浜松市には面白い地名が残っている。「小豆餅」と「銭取」である。武田勢に追われて敗走中の家康が腹をすかして茶店で小豆餅を食べていたら、追っ手が迫ってきたので逃げ出した。すると茶店の老婆が代金を払え、と追いかけてきてしっかり銭を取った、という言い伝えからできた地名である。小豆餅は町名だが、さすがに銭取は町名ではなく、バス停の名前で残っている。また、私生活でも秀吉のような華々しさはなく、晩年の側室は、身分の高くない家柄の、未亡人や10代の少女が多い。これも自分を裏切る心配が少ない女性を選んでいたのではないかなどと想像してしまう。信長・秀吉に比べると面白味に欠けるきらいはあるが、困難な状況を何度も耐え忍んで乗り越え、ついに徳川幕府を開いたという歴史上の業績は2人をはるかに上回っている。家康は、最後まであきらめずに努力を積み重ねて大輪の花を咲かせた神経質人間の一人なのだと思う。

神経質礼賛 10.楽器と性格

 オーケストラには様々な楽器がある。面白いことには、楽器と演奏家の性格には強い相関関係があるらしい。一般向けの書籍としては、NHK交響楽団のオーボエ奏者である茂木大輔さんの著書「オーケストラ楽器別人間学」(草思社)に楽器ごとの性格が述べられている。また、オルガン奏者で心理学者のアンソニー・ケンプ著「音楽器質」(星和書店)では、演奏家の心理テストを行ない分析した数多くの論文を比較検討して、性格特徴が示されている。おおまかに弦楽器(ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス)と金管楽器(トランペット・トロンボーン・ホルン・チューバなど)では全く楽器自体の性格も異なっているわけだが、実際にスコットランドのオーケストラ団員からの面接調査では、弦楽器奏者から見た金管楽器奏者のイメージは「優雅さに欠ける、大酒飲み、知性が低い、大きな音を鳴らす、行動が荒々しい」などで、金管楽器奏者から見た弦楽器奏者のイメージは「気取っている、神経過敏で扱いにくい、繊細、深刻、高潔」などだそうである。また、木管楽器奏者のイメージは弦楽器奏者と金管楽器奏者の中間的だそうである。プロの弦楽器奏者について性格テストを行った研究では、強い不安感、低自我強度がみられ、神経症傾向を示すとのことである。オーケストラでは弦楽器奏者の人数が管楽器奏者の人数をかなり上回るので、通常の社会よりも、ずっと神経質の「濃い」集団と言えそうである。緻密な音楽を作っていくためには、神経質は重要なファクターなのだと思う。そして、こういう弦楽器奏者の中でこそ、陽気・明朗・大胆な金管楽器の演奏がひときわ美しく輝くというものである。

神経質礼賛 9.DVDレコーダー・神経質が足りない!

 我が家で使っているビデオの調子が悪くなった。録画がうまくできないことがある。そこで、思い切ってDVDレコーダーを買うことにした。録りだめしたビデオテープをDVD-Rに変換したいという目的もある。家電量販店で品定めしたが、今まで通りBSアナログが録画できて、ビデオテープも使える機種は極めて限定されてしまい、ほとんど選択の余地はなかった。さて、買って、家に持ち帰り、配線をして、分厚いマニュアルを見ながら、HDDに録画してみる・・・が、なぜか最初の数秒しか録画できていない。2時間番組を録画したのに、最初の場面の静止画が出てオシマイというのもあった。予約録画も同じである。そうこうしているうちにフリーズして操作不能となる。DVD-RWへの録画もダメである。ビデオテープだけには録画できる。1週間というもの、毎日、仕事から帰ってから深夜までいろいろやってみたがどうにもならない。メーカーの電話サポートは何度かけても話中でつながらない。そこでインターネットの掲示板でこの機種のユーザーレポートを見ると、さんざんである。初期不良で新品交換してもらったら、それも初期不良だった、とか、修理に出しても対応が悪く、しかも直らない、といった具合である。ついに業を煮やして、店に行って、返品・返金してもらった。

 昔は電化製品を買うと、検査責任者の印鑑が押してあったりもしたように思う。出荷前には動作に問題ないか厳重に検査していたはずである。トランジスタラジオをはじめとする日本製の電化製品の信頼度は世界一だった。それは一体どこに行ってしまったのだろうか。確かに今時のデジタル家電はあまりにも機能が多すぎて、検査しようにも容易ではないであろう。外国の安い下請けに作らせているという事情もある。マイコン内臓のため、出荷後に制御ソフトの予期せぬ不具合が出てしまうこともあるだろう。しかし、基本的な録画ができないとか、通常の操作中にフリーズして操作不能になるなどは、マニア向けの機器と違い誰もが使う電化製品なのだから許されていいはずはない。また、制御ソフトのバグ(欠陥)が判明した場合、メーカーは製品をリコールして、無償修理するべきではないか。不良の発生率が低ければ、人手のかかる検査はせずにさっさと販売してしまい、クレームがついたら交換した方がメーカーとしてはコストが安上がりなのだろうが、メーカーとして・技術者としてのプライドはないのだろうか。長い目で見れば、信頼を失い、客離れにつながるとは考えないのだろうか。全く神経質が足りない。加害恐怖や不完全恐怖に悩む人々の爪の垢でも煎じて飲ませたいところである。メーカーはもっともっと神経質になって欲しい。

神経質礼賛 8.確認癖について

 家を出てしばらくしてから、ドアの鍵を掛け忘れたのではないか、ガスの元栓を締め忘れたのではないか、などと心配になったり、聞き違えたら困ると思って念のため聞きなおして確認したりというような経験は、多かれ少なかれ誰にでもあろう。しかし確認癖が行き過ぎて、何度も確認して先に進めなくなってしまうと日常生活に支障をきたし、強迫神経症・強迫性障害(OCD)となってしまう。

 神経質な人は、失敗を恐れるため、えてして確認癖に陥りやすい。しかし、確認も実生活でトラブルを未然に防ぐ意味で有用ではある。バスやタクシーの運転手さんが「右よし、左よし」と指差し確認するのも、事故防止に効果があるし、飲食店でお客さんのオーダーを復唱するのも、注文ミス防止に役立つ。

 交通関係もそうだが、医療関係でもちょっとしたミスが人の命にダメージを与えかねないので、多少の確認癖はあった方が安全である。特に薬は量を間違えたり適応を間違えたら毒物になってしまうので、それに関わる人間は、大いに神経質であった方がよい。

 私も神経質なので、処方薬の用量や相互作用は同僚以上に気になる。しかし、私が以前勤めた病院では、さらに神経質な薬剤師さんがいた。処方薬を添付文書で入念にチェックして、相互作用がある薬については「大丈夫でしょうか」と確認してくるし、通常の風邪薬も「高齢者なので半分にしたらどうでしょうか」とご意見いただいたものである。

 医療事故が毎日のように新聞をにぎわせているが、このようなスタッフがいると大変心強い。

神経質礼賛 7.「もったいない」の勘違い

 前項で、「もったいない」について述べたが、「もったいない」も勘違いすると、とんでもないことになる。片づけができない人のゴミとガラクタだらけの部屋を整理する、などというTV番組があったが、私もその予備軍かもしれない。本や雑誌はなかなか捨てられず2つの大学で勉強した時の教科書はそのまま残っている。医学書はまだしも、もはや応用数学だの電子工学やら通信工学の本など開くことはないのだが。書類なども何となく残しておく習癖から、会社員時代・医師になってから、と過去の給与明細はきれいに揃っている。どうでもよい領収書・レシートは処分するが、金額が大きいものや旅行の記念の意味があるものだと捨てずに残してしまう。それこそ歴史に名の残るような大人物の物であれば、「何でも鑑定団」で高値が付くであろうが、私のような凡人未満ではゴミ以外の何物でもない。外来の患者さんで、間違って重要なものを捨ててしまいはしないか心配で「手紙や書類の整理ができなくてたまって困る」という人がいるが、まったく人事ではない。さらにもっと困るのは私の母である。「もったいない」を錦の御旗にして、古い衣類や空き箱・菓子の空き缶などを捨てずにとっておくのである。かつて私や弟が住んでいた子供部屋は古着の山や空き箱・空き缶で占領されている。「まだ着られるからもったいない」「小さく切って老人ホームに持っていけば喜んで使ってくれる」「地震や災害の時に役に立つ」「終戦後はこういうものも貴重品だった」などとのたまうが、住居スペースがこうしたゴミに占領されて利用できず、空間がもったいない、という発想はできないのである。確信犯だけに始末が悪い。一度、私が見かねてゴミ袋に詰めたところ、元に戻されてしまった。読者の方々はくれぐれも勘違いのないようお気をつけ願いたい。

 それにしても、ケタ違いに「もったいない」のが、いわゆる「箱モノ」施設である。国体やら何かの折に建設した競技場やホールなどが、後はあまり利用されず、膨大な維持費ばかりかかっている、という問題である。私が住んでいる県内でも、ワールドカップに合わせて建設した立派なサッカー競技場が、その後はたまにJリーグの試合に使用される位で、ほとんど遊んでいる。子供達からは、よくこの競技場へ連れて行ってくれとせがまれる。日曜日に行っても、ほとんど何も使われていないので、周辺の芝生の上で思い切りボール遊びができるからである。その程度では懲りずに、必要もない赤字ローカル空港まで建設中である。「箱モノ」ばら撒きで選挙の票集め・政治献金集めらしいのだが、自動的に税金を給与天引きされている身としては、腹立たしいこと限りなしである。新聞の全面広告でK総理の写真が大きく出て「もったいない」運動推進みたいなことを言っていた(税金を用いての選挙運動?)が、これこそ本当の「もったいない」であって、国民に呼びかける前に、国や自治体や何とか公団が率先してムダな「箱モノ」をやめるのが先決だと思う。

神経質礼賛 6.もったいない

 ノーベル平和賞受賞者でケニア環境副大臣のワンガリ・マータイさんが「もったいない」という日本語を賞賛し、話題になっている。

わが国は食料自給率が低く、エネルギーや資源も外国に依存しきっているが、一時の「省エネ」という言葉もいつの間にか下火になってしまっている。家電製品はリモコン化され、常に待機電力を消費する。道を走る乗用車もどんどん大型化し、3ナンバー車ばかりである。アフリカならともかく、どう考えても日本では必要のない大型RV車が狭い道をいばって走っている。しかし、今後、日本が生き残っていくためには、「もったいない」を実践していくことがどうしても必要なのは誰の目にも明らかであろう。そして日本ばかりでなく、世界全体で資源を有効利用していくことが、地球温暖化や環境汚染を防ぎ、人類が生き残っていくために必要なことである。

 森田正馬(もりたまさたけ)先生は、「物の性(しょう)を尽くす」ということを言われた。その物の持っている価値を最大限に高めなさい、ということである。実生活でも、顔を洗った水は捨てずに貯めておき、拭き掃除に使い、さらに庭に撒くのに使う。紙は大切に使い、チラシや手紙のウラに下書きをし、原稿はほとんど書き直さない。風呂の燃料も捨てられた木材を拾ってきて使う。飼っている鶏の餌は、青物市場で捨てられた野菜をもらってくる。といった具合で、捨てられてしまう物を最大限に活用し、今風に言えば、「エコライフ」を実践しておられた。先生自ら行動を通じて神経質の患者さんたちを教育しておられたのである。一見ドケチのようだが決してそうではなく、森田先生は、しばしば気前よく、郷里の小学校などに大金を寄付したり、医大に奨学基金を贈ったりしている。

 われわれも神経質を大いに生かして、限られた資源やエネルギーを最大限生かしていこうではないか。神経質が日本を救う、神経質が世界を救う、である。

神経質礼賛 5.緊張ということ(その2)

 一見、緊張とは無縁とも思える、俳優さんや音楽家でも、緊張する人は少なくない。ある有名な俳優さんがインタビューで、舞台に出る時にはとても緊張する、ということを言っていた。面白いことに、緊張した方が、うまくでき、緊張しない時は、失敗が多いそうである。

 NHK交響楽団でコンサートマスターを務めておられたヴァイオリニストの徳永二男さんも、FM番組のゲストで出られた時、演奏会の舞台に上がると緊張して手に汗をかく、という話をされていた。

 相撲で人気の高見盛という力士がいる。気合を入れる派手なパフォーマンスをしているかのように思われているが、実は、ものすごく緊張する性格とのことだ。記者から明日の対戦相手のことなど聞かれようものなら、その晩は「あれこれ考えて眠れなくなってしまう」そうである。「おどおど強いぞ高見盛」という毎日新聞(平成15716日夕刊)の記事には、土俵上で対戦前の動きも、強い自分に変身するための儀式、と書かれていた。

 現代では、緊張しないで力を出せるようにと、スポーツ選手の間でイメージトレーニングがはやっているが、大事なことは、緊張するかしないかではなく、良い結果が出せるか出せないかである。必ずしも緊張がいけないことというわけではない。緊張することはある程度自然なことであり、緊張感が不足してもいけない。要は、緊張しながら実力を発揮すればよいのである。

神経質礼賛 4.緊張ということ(その1)

 神経質な方には、「人前で緊張して困る」と言われる方が多い。実は私も筋金入りの緊張人間である。思い返せば、すでに幼稚園の頃から、集団での「お遊戯」はコチコチのロボット状態であったし、小学校の頃など、授業中いつ先生から指されるかとドキドキし、いざ指名されると、頭の中が真っ白になって、わかっていることまで答えられなくなってしまったものである。自分でも、これではいけない、何とかしなくては、と勇気を奮い起こして人前で発表していた。幸か不幸か、小さい頃からヴァイオリンを弾いていた関係で、中学校時代、何かの行事のたびに全校生徒の前で弾かされていて、同級生からは「よく大勢の前で堂々と弾けるものだ」と思われていたようである。もちろん、本人は極度の緊張状態だが、「もはやどうにもならない」と開き直っていただけのことである。同級生で伴奏してくれた女の子が緊張のあまり、途中でストップしてしまった時も、私は心臓が止まりそうな思いをしながらも、そ知らぬふりをして最後まで弾き通した思い出がある。

その後も、大学入試などここ一番という時には、前の晩は一睡もできず、当日は緊張で腹痛が起こりトイレに駆け込むというような事を何度も経験した。精神科医として人と話をするのが商売となった今でも緊張する。頼まれて講演する時や、学会発表の時などは、言うまでもない。しかし、最初は激しく緊張して、自分の心臓の鼓動が大きく感じ、手に汗を感じるものの、一生懸命やっているうちに、必ずフッとラクになる時が来る。ジェットコースターで大山を越えた後のようなものである。これは一種の快感でもある。緊張は苦しいばかりではない。

神経質礼賛 3.花は紅(くれない)、柳は緑

 森田正馬(もりたまさたけ)先生は、患者さんの指導の際によく禅の言葉を応用して使われていた。これは能の中でも用いられる言葉で、本来は「柳は緑、花は紅」なのであるが、花を先に出した方が印象的であり、言葉の勢いもよいためか、しばしばこの語順になっている(白揚社:森田正馬全集 第4巻p.164、第5巻p.101p.643p.684、第7巻p.532)。私の恩師、大原健士郎先生も、退院間近の患者さんから求められて、色紙によく「花は紅、柳は緑」と書かれていた。しかし、原典で柳の方が先であることを意識されて、ある時から「柳は緑、花は紅」に改められた。

夏は暑く、冬は寒いのと同様、花は紅、柳は緑で、どうにもならない事実であり、あるがまま、ということである。私は、もう一歩進めて、この言葉で、「花」は外向的で積極的な人の象徴、「柳」は神経質な人の象徴と考えてもいいのではないかと思う。桜に代表される「花」は鮮やかで咲いている時は注目されるがその期間は長くはない。「柳」は地味ではあるが一年中その風情を愉しませてくれる。台風が来ても、強風に枝をなびかせながら、枝葉を残す。渋い名脇役のような存在でもある。私も含めて神経質人間は、「自分は気が小さくて情けない」「何とか大胆になれないものだろうか」と考えがちだが、「柳」が「花」になれないのと同様、どうにも仕方ない。しかし、神経質にはその美点があるのだから、神経質の持ち味を生かしていけばよいのである。

神経質礼賛 2.新庄選手タイプと松井(秀)選手タイプ

 ほぼ同じ時期に、日本のプロ野球のスターである新庄選手、そして松井(秀)選手がアメリカに渡り、大リーグで活躍した。二人の性格はまるで違っている。新庄選手は極めて明るく、芸能人ばりのトークを披露し、ノーヒットが続いても落ち込まず、突然ホームランを打って、スタンドを沸かせたりする。一方の松井選手は地味で、マイクを向けられても「エー」が多く、リップサービスはあまりなく、ノーヒットが続こうものなら、考え込んでしまう方である。新聞のインタビューで「おれは神経質なんだ」と語った事もある。しかしながら、毎年コンスタントに実績をあげ、大リーガーとして定着できたのは松井選手の方だった。

 神経質な性格の人は失敗を恐れるがために、大変な努力家でもある。ちょっと失敗をしようものなら大失敗をやらかしたかのように反省し、またまた努力する。結果的にはいつも安定して人並以上の成果を出す。外向的で大胆な性格の人は、うまくいっている時はいいが、慢心しやすく、大失敗もしやすい。周囲からは「口ばかりで実績はイマイチ」という評価を受けることもある。ひところ、性格を「ネアカ」と「ネクラ」に大別して、内向的な「ネクラ」人間はダメ人間、とレッテルが貼られた時期があったが、大間違いである。「ウサギとカメ」ではないが、最後に笑うのは、コツコツ努力を積み重ねた神経質人間かも知れない。いや、そうあって欲しい。

神経質礼賛 1.プロローグ

 「神経質」というとネガティブな面ばかりに目が向けられ、悪い性格と思われているむきがある。しかし、神経質は決して悪い性格でもなければ、劣ったものでもない。むしろ、使いようによっては、極めて優れた性格にもなりうるのである。

 実際、神経質の人は、他人が自分をどう思っているか心配するため、発言に慎重になり、失言が少ないので対人トラブルが起こりにくい。失敗を恐れて準備を念入りにするので、学生であれば試験で比較的良い成績を取るし、社会人であれば仕事ぶりはまじめ・几帳面で周囲からは高く評価される。それでいて本人は慢心するどころか、「自分は全然ダメだ、これではいけない」とますます努力しているのである。

 かつて、わが国独自の神経症の治療法である森田療法を行った慈恵医大精神科教授・森田正馬(もりたまさたけ・1874-1938)先生のもとには、毎月1回、患者さんや雑誌「神経質」の読者が集まって、座談会が行われていた。会の名称は森田先生の雅号「形外」をとって、「形外会」であったが、森田先生御自身は、「神経質礼賛会」という名称にしたかったという(白揚社:森田正馬全集第5巻p.25および第7p.300)。神経質を礼賛(らいさん)する、というところに「天動説」に対する「地動説」のような森田先生の考え方の特徴がよくあらわれていると思う。形外会の参加者の中には、劇作家の倉田百三の姿があった。「出家とその弟子」で有名であったが、重度の強迫症状に悩み、毎週日曜日に通院して森田先生の日記指導を受けていた。また、森田正馬全集第5巻に収録されている形外会の記録を見ると、対人恐怖、書痙、不安発作などの神経症に悩み、森田先生の治療を受けて全治した人たちが、神経質を生かして、実業家、軍人、公務員、会社員、医師、教師などとして社会で活躍している様子がよくわかる。

 僭越ながら、「神経質礼賛」の名称をいただいた当ブログが、「神経質」な性格に悩む方々、神経症の症状に悩む方々の一助になれば幸いである。

 なお、あらかじめお断わりしておくが、通常の医学書や森田療法関連本とは異なり、私個人の視点からの意見(異見?)や社会批評を書くこともあるかと思う。その点は、森田先生の「神経質者のための人生教訓」や形外会での御発言と同様である。お気に召さない部分は読み飛ばしていただきたい。

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