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2006年3月31日 (金)

神経質礼賛 50.日々是好日(にちにちこれこうじつ)

 これは、唐の禅僧、雲門禅師(864-949)の言葉である。通常は「ひびこれこうじつ」と読まれているが、仏教関係者は「にちにちこれこうにち」と読む場合が多いようである。私の恩師・大原健士郎先生は「にちにちこれこうじつ」と読むよう指導しておられる。来る日も来る日も好い日である、という意味である。

 森田正馬(まさたけ)先生は日々是好日について次のように述べておられる。

私の解釈では、『日々是好日』とは、座禅をして陶然とすることではない。日々の小さい精神の緊張を指して言ふのである。日常、朝も晩も・生も死も・楽しくても苦しくても・皆それぞれが、好日なのである。 (中略) あらん限りの力で・生き抜かうとする希望・その希望の閃きこそ、『日々是好日』なのである。 (中略) 我々の日常生活に於いては、如何なる時も、死ぬ迄、憧れと・欲望とに引づられて、前へ前へと追ひ立てられてゐるが、それが即ち私の『日々是好日』である。生きて居る事実は、誰にも皆同じ様に、『日々是好日』であって、嘆くにも及ばない。安心するにも及ばない。それは事実である。屁理屈をつけてこそ、好日でもなくなるが、屁理屈が無ければ好日である。   (白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.475-479)

 1年の中で、その日1日を振り返って「今日はいい日だったなー」と思える日はなかなかないものである。自分の体調が悪い日もあれば、周囲の厄介ごとに巻き込まれる日もある。「もうサイテーだ!」と心の中で叫ぶこともある。特に、悪い所探しの達人である神経質人間は「日々是悪日」と思いがちである。しかし、気分がいいから、楽しかったから、好日なのではない。つらいことがあろうと、気分がすぐれなかろうと、体調が悪かろうと、その時その時にやるべき行動を積み重ねていればそれが好日だということなのである。

 この言葉を目にするたび、ついグチをこぼしてしまいがちな・屁理屈をつけがちな自分を反省するのである。

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