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2006年3月12日 (日)

神経質礼賛 32.迷ったときはGO それとも STOP?(その1)

 以前、「神経質 石橋叩いて 渡らない」と述べたが、やろうか・やるまいか迷った時、皆さんはどうしているでしょうか。森田先生は迷った時はやりなさい、と述べている。

「戦ふが利か・戦はざるが利か・不明の時は、断乎として敵軍と正面衝突する・とネルソンが格言を残してある。勉強しようか・遊ばうかと迷ふ時は、ノロノロでも勉強した方がよい。仕事なり・講演なりを人から頼まれて、どうしてよいか判断に迷ふ時は、断乎として、之を請合はねばならぬ。奉職口があッて、損か徳か不明の時は、断然之を引受けたがよい。之が特に神経質の心掛くべき・よき態度である。」(森田正馬全集第7巻 p.517)

その森田先生も一度だけ、迷いに迷った末、「奉職口」を断ったことがある。恩師の呉秀三先生から千葉医専(現在の千葉大医学部)精神科の教授になるよう薦められた時のことである。明治40年、森田先生33歳の時のことである。当時、官立学校の教授になるということは非常に魅力的な話であった。ただ、今のように交通機関が便利ではないから、東京から通勤というわけにはいかなかったであろう。その頃、森田先生は慈恵医専の教授として講義をしながら、根岸病院の顧問をつとめ、巣鴨病院(現在の都立松沢病院で、事実上、東京大学精神科の医局もあった)にも出入りしていた。千葉医専に赴任してしまえば、そういう生活も成り立たなくなる。「巣鴨病院ニハ余ノ整理シタル図書ノ自由ニ使用サルベキモノアリ。千葉醫専ニハわいがんと精神病学只一冊アリタルノミ」(森田正馬全集第7巻p.781)というところも引っかかっていたのであろう。結局、迷いに迷った末、後輩にその地位を譲ってしまったのである。「余ノ後来ノ発展に対スル失策ナリシナリ」と後悔されている。

しかし、もし、この時、森田先生がこの話を引き受けて千葉医専の教授になっていたら、家庭的な森田療法は成立しなかったであろう。森田先生が自宅に患者を入院させるようになったのは、大正8年、森田先生46歳の時のことである。「奉職口」を断ったことは、出世という点では森田先生にとって惜しいことだったが、森田療法にとっては良かったのではないかと思う。

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