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2006年6月30日 (金)

神経質礼賛 80.自己愛性人格(パーソナリティ)障害

 前回の社会的ひきこもりで自己愛の病理について触れたが、最近はそうした傾向を持った人が増えているようである。「他人を見下す若者たち」というような本がベストセラーになっているが、「自分以外はみんなバカ」と根拠のない有能感に浸る若者たち・・・自己愛性人格の若者たちについて書かれているようである。

 昔から社会的に成功している自己愛性人格の人間はいた。その傾向を持った「お山の大将」型大学教授はありがちである。ことに医学部教授ともなると、「白い巨塔」ではないが教室傘下の病院に派遣する医師の人事権を握っているので、王様状態である。誰も逆らうわけにはいかない。関連病院や製薬会社から種々の名目でウラ金が流れ込んでくる。カネも名誉も独占できる立場にあっては、まさに唯我独尊であり、自己愛が満たされる状態である。かつてクラシック音楽界に君臨した指揮者のカラヤンも自己愛性人格障害だったと言われている。貴族の称号を示す「フォン」を入れた「ヘルベルト・フォン・カラヤン」と自称し、ジェット機を操縦し、スキー・オートバイ・ヨットの腕前を誇示し、いつもスポットライトの中心にいなければ気がすまなかった人である。クラシック音楽の普及という意味では非常に大きな功績を上げたが、尊大で傲慢な態度のため関係者からは嫌われていたようである。

 しかし、普通は、医学部教授やカラヤンのように、ずっと勝者でいられるはずはない。入学試験、就職、恋愛、人生のいろいろな場面で、必ずどこかで挫折をするものである。そこで自己愛を守ろうとすれば自己が傷つかないように「引きこもる」ことにもなる。一方、挫折体験を自分の力で乗り越えると、人間的に成長して、人格の問題も改善してくるのだ。

 神経質人間の場合はこれとは逆で、「自分ばかりダメだ」と思いがちで、間違っても尊大で傲慢な態度のために周囲に迷惑をかけるような心配はない。

2006年6月28日 (水)

神経質礼賛 79.社会的ひきこもり

 保健所から「社会的ひきこもり」についての講義を依頼された。例年、講義をしている偉い先生が御多忙でできない、ということでなぜか私にお鉢が回ってきてしまったのだ。もとより専門外の内容であるのだが仕方ない。

 「社会的ひきこもり」の定義は「20代後半までに問題化し、6か月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続し、他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」(斎藤環:PHP新書「社会的ひきこもり」)とされている。逆に言えば、社会的ひきこもりは精神疾患ではないということにもなり、医療の対象とはなりにくい面がある。家庭内暴力などの問題行動に手を焼いた家族が相談する場も少ない。つい最近、社会的ひきこもりを専門とするNPO法人の施設で死亡事故が起こったが、そこでは、拉致・監禁・身体拘束が行なわれていたことが明るみに出た。

社会的引きこもりが大きな社会問題になっているのは、世界的に見れば日本ばかりのようである。ニート(教育・訓練を受けず就労していない若者)という言葉が発祥の地であるイギリスでは対象年齢が16-18歳であるのに対し、日本では29歳までと範囲が広い。イギリスではニートの若者の家に相談員がやってきてアドバイスするような強力なシステムができあがっている。日本ではようやく都道府県の精神保健福祉センターに「ひきこもり専門外来」や「ひきこもりデイケア」を設置した段階であり、医療の延長線上という捉え方をしているようである。

社会的ひきこもりの若者は自己愛的な傾向が強いと言われている。自立の大きなステップである思春期を過ぎてもまだ精神的葛藤を処理する力が幼児レベルの人が多いようである。自己愛については次回詳しく述べる。

2006年6月26日 (月)

神経質礼賛 78.エレベーター事故

 東京のマンションで高校生がエレベーターに挟まれて亡くなるといういたましい事故が起きた。アメリカでも同じメーカー製のエレベーターで死亡事故が起こっている。日本では官公庁、公団住宅を中心に、入札時の落札価格が他社よりも安いことから同社のエレベーターが広く使われているらしい。まだ事故原因は調査中なので、製品としての欠陥が原因なのか、整備不良が原因なのか、わかっていない。エレベーターのようにトラブルが人命に直結するような機器では、フェイルセーフといってトラブルがあっても安全な方向に向かわせる仕組みが、二重にも三重にも用意されているはずなのだが、今回は最悪の事態となってしまっている。事故のあったエレベーターでは以前から小さなトラブルが続いていたが、きちんと対応されることなく放置されてしまった。

 利益追求・効率重視のあまり安全性がおろそかになっていたということはないのだろうか。メーカーが安く納入するため、個々の部品の信頼度を落としたり、制御ソフトのチェックが甘かったりしたようなことはないだろうか。点検整備コストを安く上げるためにメンテナンスの手抜きが行われるようなことはなかっただろうか。その後の新聞報道では、同じメーカーのエレベーターで制御プログラムの不具合があったとか、点検整備する会社もメーカーからの設計図や整備マニュアルなどの提供が受けられないため形ばかりの点検をしていた実態が明らかにされている。

 今回のエレベーター事故に限らず、鉄道事故や医療事故などでも同じであるが、ひとつの事故の影には多数の小さなトラブルが事前にあることが多い。いわゆる「ヒヤリ、ハット」事例である。小さな段階で「まあちょっとくらい、いいや」ではなく、神経質に対応することで大きな事故が防げるのである。

2006年6月23日 (金)

神経質礼賛 77.イソップ物語と神経質(4)

 イソップをちょっと離れて、アンデルセン童話の中で、「みにくいアヒルの子」を御存知の方は多いだろう。自分ばかり他のアヒルの子と変わっていていじめられ情けない思いをしていたものが成長して立派な白鳥になる話である。神経質人間もアヒルの中の白鳥みたいなもので、内向的でおとなしいためにいじめられたり情けない思いをしたりすることはあっても、いつか神経質の美点を生かすようになれば、すぐれた人間として周りからも認められるようになるのである。

 イソップ物語にも白鳥は登場する。岩波文庫「イソップ寓話集」の「399鵞鳥(ガチョウ)の身代わりになりかけた白鳥」がそれである。食用の鵞鳥と観賞用の白鳥が飼われていた。ある夜、料理人が鵞鳥と間違えて白鳥を捕まえてきてしまった。そこで白鳥は「歌を歌って正体を明かし、音楽の力で死を逃れた」というのである。もし、歌を歌わなければ鵞鳥と間違えられて殺されてしまうところである。実社会でも自己主張の苦手な神経質は損をすることがある。やはり、ここ一番という時にはドキドキハラハラしながら必死の思いで自己主張することも大切である。

2006年6月19日 (月)

神経質礼賛 76.イソップ物語と神経質(3)金の斧

 この話も有名である。貧しい木こりの若者が誤って斧を湖に落としてしまい困っている。すると、女神が現れ、「あなたが落としたのはこの斧ですか」と金の斧を見せる。正直者の若者は「違います」と答えると、次に女神は銀の斧を持って現れる。これまた「違います」と答えると、次に本人の斧を持って現れる。女神は若者が正直であることを褒めて、本人の斧だけでなく金と銀の斧も与えてくれる。その話を聞いた仲間の一人がわざと斧を投げ入れ、女神が金の斧を持って現れると、「それです」と言うが、嘘の罰で、自分の斧も返してもらえない、という話である。ちなみに岩波文庫イソップ寓話集では「173木樵(きこり)とヘルメス」となっており、場面は湖でなく川であり、現れるのは女神ではなくヘルメスという男の神様(ギリシア神話で商業の守護神で、ローマ神話ではマーキュリーと呼ばれる)である。

 神経質人間は嘘やハッタリは苦手である。小心者ゆえ、たまに慣れない「嘘も方便」をやると、すぐにバレる。馬鹿正直すぎて損をすることもある。最近の日本は、残念なことに「正直者が馬鹿をみる」「親切が仇となる」社会になってしまっているので、煮え湯を飲まされる思いをした正直者も少なくないであろう。しかし、嘘やハッタリを繰り返していると、破綻をきたすものである。一度甘い汁を吸ったらやめられなくなるので、いつかは問題が露呈することになる。取引上の偽装や、お役人様の不正が、次々と明るみに出ているのは周知の通りである。神経質人間は正直にコツコツ努力していく他はない。金の斧をもらえることはないだろうが、自分の力で立派な新しい斧を買えるようになるはずである。

2006年6月16日 (金)

神経質礼賛 75.イソップ物語と神経質(2)アリとキリギリス

 前回のウサギとカメの話に少々似た話がアリとキリギリスである。原典に近いと思われる岩波文庫の「イソップ寓話集」では「373 蝉(セミ)と蟻」あるいは「112 蟻とセンチコガネ」になっている。夏の暑い間、せっせと働いて食料を貯めこんでいるアリをキリギリス(セミ)はバカにして毎日楽しく歌って遊び暮らしていた。しかし、秋から冬になり、食べ物がなくなると、キリギリスは困ってアリに助けを求める。童話ではこの話の結末は一つではなく、そこで話が終わっているものと、かわいそうにとアリが食べ物をあげた、というものがある。大人向けではアリがキリギリスを襲って食べてしまった、というものもあるようである。アリがキリギリスを食べてしまったというのはいかにも実社会をリアルに反映しているのではあるまいか。キリギリスはサラ金に借金して遊び歩く人を連想させることだろう。

先の心配をせず楽観しすぎたキリギリスは前回のウサギと共通であり、力は乏しくてもコツコツ努力したアリは前回のカメと共通点がある。しかし、この話の結末は生きるか死ぬかでありウサギとカメの競争よりもはるかにシリアスである。

 小心者の神経質人間にとってキリギリス役は不向きである。先々の心配をしてせっせと準備するアリ役が適任である。しかし、神経質はキリギリスを食べてしまうほど冷酷で貪欲にはなれないものである。また、散々遊んでいたキリギリスに食べ物を与えるほどお人よしにもなれないものである。

 神経質人間の私は、地震などの災害時に備えて、ミネラルウォーターを用意している。毎年1箱2リットル6本入りを2-3箱買い足し、古いものから順に冷凍庫の製氷用に・あるいは水割り用として使用していくので、無駄にはならない。子供用のスポーツドリンクも箱で買っているので、いざという時には役に立つだろう。また、トイレットペーパーやティッシュペーパーも多目に蓄えている。災害時は食器を洗えないため、食器をラップで覆って使う方法が便利であるから、ラップも大量に買ってある。こうした備えが無駄になるよう、地震や災害が起こらないのが一番なのだが。

2006年6月12日 (月)

神経質礼賛 74.イソップ物語と神経質(1)ウサギとカメ

 子供の頃、童話でイソップ物語を読んだり聞いたりした人は多いであろう。イソップ(アイソポス)は古代ギリシアの作家で奴隷の身分だったと言われている。しかし、イソップ物語のすべてが本人の作というわけではなく、それ以前から伝承されてきた民話が入っていたり、イソップ以降に創作されたものが彼の作とされていたりするのではないかと考えられている。

 イソップ物語は寓話であり、約2600年の時を越えた現代人にも通じる普遍性を持っている。神経質人間にとっても大いに力づけられる話があるように思う。そこで、ちょっと童心に帰って、イソップ物語のいくつかを思い出してみよう。

 要領はよくないがコツコツ努力を積み重ねる神経質の良さを示している作品としてまず、思い浮かぶのは、ウサギとカメである。「♪もしもしカメよカメさんよ」の童謡でもおなじみである。足自慢のウサギと足がのろいカメが競争する。ウサギは楽勝だとタカをくくって途中で昼寝してしまう。その結果、着実に歩いたカメが逆転勝ちしてしまう、というものである。

 神経質人間の場合、さらにスロースターターというオマケも付くだろう。ああでもない、こうでもない、と理屈で考えたり余分な準備をしたりする分、スタートも遅くなるのである。社会でも大胆で要領のいい人間にはスピードの点では到底太刀打ちできない。しかし、出世頭でも思わぬ落とし穴にはまって挫折したり、慢心して周囲の反感を買って失脚したりすることがある。「勝ち組」の成功者として六本木ヒルズに居を構えたとしても、一文無しに転落する可能性だってある。その点、粘り強いのが神経質人間のとりえである。スピードは遅くても、一歩一歩進んでいけば、大成功まではいかなくても人並以上の成果をあげることができるのである。落とし穴にハマる危険性も少ない。そして状況に恵まれれば第11話で述べた徳川家康のようにトップとして輝くこともできるはずである。スピードが遅いからとあきらめて棄権せず、焦りを感じながらも遅いなりにも着実に歩き続けることが肝心である。

2006年6月 9日 (金)

神経質礼賛 73.好きこそものの上手なれ

 「好きこそものの上手なれ」ということわざがある。しかし、実際には、「上手のものこそ好き」であって上手になると好きになるという一面もある。著明な演奏家や指揮者の中には、最初から天才少年・天才少女で、好きで練習しているうちに一流のプロになってしまった人もいるが、逆に練習が嫌でたまらず、レッスンをサボって遊んでいるのが親にバレて大目玉を食らったという経験を述べる人も少なくない。前者は「好きこそものの上手なれ」だが後者は仕方なしにやっているうちに「上達して好きになった」である。

 神経質な人の中には、「自信がないからやらない」という人をよく見かける。しかし最初から自信が持てることはそうそうない。自己評価が低くなりがちな神経質人間の場合、自信がつくまでは時間がかかるものである。とりあえず自信がないままにやっているうちに何とかできる。そうなるとちょっと自信が生れる。さらにやっているとだんだん上達してより大きな自信がついてくる、というものなのである。好きとか嫌いとかはさておいて、まずは手を出していくことが上達の第一歩である。

2006年6月 5日 (月)

神経質礼賛 72.「立ち上げる」の乱用

 神経質であるためか、どうも気になる言葉がある。本来はコンピュータの電源を入れ、ソフトを起動して、実際に使用できる状態にすることを「立ち上げる」というのだが、「組織を立ち上げる」「会社を立ち上げる」といったように何でもかんでも始めることを「立ち上げる」という言い方がはびこっている。平たく「始める」とか「作る」が嫌ならば「創設する」「開業する」「設立する」「開始する」などの言葉があるのに、と思う。政府広報やら議会の答弁でも「事業を立ち上げる」だの「構想を立ち上げる」といった言い方が乱発されている。字面からしても、こういった使い方をするのはおかしいし、毎日何度も聞いていると不快になってくる。せめて「立」が「建」とか「発」という字であれば、まだ幾分納得するのだが。「立ち上げる」が蔓延してきた(「立ち上がってきた」?)のは、奇しくもワンフレーズの美辞麗句で実態を隠し、愚民を騙す劇場マジック政治が始まった(これも「立ち上がった」というべきか?)時期と重なる。社会の要求にマッチした言葉なのだろう。コンピュータ用語を使えば、何か高級な事をやっているかのように錯覚するというわけだ。言葉は生き物であり、流行・廃れがある。爆発的に広がったこの流行語が消退して死語になることをひそかに期待している。

2006年6月 2日 (金)

神経質礼賛 71.血液型と神経質

 従来から血液型と性格との関連がいろいろと言われていて、例えば血液型がA型の人は神経質な性格が多いなどとされているが、今のところ医学的には血液型と性格の関連はないことになっている。血液型と性格との関連についての議論は日本だけであり、大正時代からすでに研究発表があった。東京女子高等師範学校の古川竹二教授による研究が昭和初期に発表されて注目されるようになった。森田先生の著書にも出てくるくらいである。昭和1111月、人文書院発行の「健康と変質と精神異常」に森田先生が書かれた部分を引用すると、

 古川文学士の「血液型と氣質」の研究は、今は大分、長い年月を経て、最近は之に対して、多くの価値を認めず、両者の間に、一定の関係を認めない・という学者も出るようになッた。根が抽象的分類であるから、一歩誤れば、無意味の研究になり易い・といふ事を忘れてはならない(古閑「氣質と性格の研究」『応用心理』第二巻・第三号参照)。

 更に此の血液型と・スポーツ・軍人・大学生・優等生・耳鼻科疾病・禿頭と白髪等との関係を研究するに至りては、之を瓢箪や・印籠を集める人に相当する処の・学問的道楽と思へばよからうと思ふ。もし一歩脱線して、縁談・運命・失職等の関係を研究するやうになれば、初めて誰でも、之を迷信と氣がつくであらう。      (白揚社:森田正馬全集第3p.382

 ここで、古閑とあるのは、森田先生の助手をしていた弟子の古閑義之先生(心身医学が専門で後に聖マリアンナ医大学長となる)のことである。森田先生は、これ以外にも骨相学・淘宮術・九星判断と性格との関連は迷信レベルとして扱っている。

 占いは当たった時は印象に残ってよく覚えているが、はずれても気にはならないものである。血液型の性格論も同様であり、当たれば「型だから」となるが、はずれても「彼はあまり型らしくない」と印象に残らないだけのことである。酒席での話題にはよいかもしれないが、それ以上のものではない。

 ちなみに森田先生の血液型はA型である。神経質な私は血液型好きの人から必ず「A型でしょ」と言われているが、A型ではない。逆に無神経なA型は私のまわりに結構見かける。

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