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2006年8月28日 (月)

神経質礼賛 100.人のすることに出来る出来ぬの別あることなし

 この言葉は森田正馬先生の色紙にあるもので、私も患者さんの日記にコメントとして書くことがある。この後には「出来ぬといふは したくなきが為なり」という手厳しい言葉が続く。症状にとらわれている人は、「この症状さえなければ人並み以上に仕事ができるのに」と症状のせいにしがちであるが、本当は症状はあっても人並み以上に仕事はできるのである。

対人恐怖の人は人前で話すことを極度に恐れ、それを避けようとする。症状があるから「できない」というわけだ。しかし、これは上手に話したい、うまくやりたい、という気持ちが強いからであって、せっぱつまってやらざるを得なくなればできるものである。最初は緊張して多少ぎこちなくても・時々言葉に詰まってもやっているうちに何とかなってくるものであり、一生懸命になって話そうとする真剣な態度で周囲からはかえって好感を持たれる場合も少なくない。結局「できない」のではなく「やりたくない」から避けてしまうだけのことである。

手洗いや確認の場合、強迫行為はガマンして次の仕事に手を出していけばよいものを、手洗いして気分をよくしよう・確認して安心したいという気分を優先してしまい、本来やるべきことを「やらない」イコール「やりたくない」ということなのだ。

 不安神経症の場合、パニックになったらどうしよう、と予期不安し、電車に乗ったり、会合に出たり、床屋に行ったり、歯医者に行ったりすることを避ける。そうこうしているとますます敷居が高くなって、そうした行動ができなくなり、不安も一層強くなる、という悪循環となる。だが、パニック発作になったところで死ぬことはない。「できない」と避けないで思い切って飛び込んでいけば何とかなる。そして大丈夫だという体験を積み重ねていけば頭の中のソフトウエアも書き換えられてくるというわけだ。

 神経症ではなくても神経質人間は「重い車」のたとえのようなところがある。「めんどうだなあ」「やりたくないなあ」という考えが浮かび、仕事の批判をし始めると、こんなのは「できない」になりかねない。70話「神経質を生かす仕事法」で述べたように、いやでも面倒くさくてもとにかく早めに手を出していくことが大切である。

神経質礼賛 99.ガス湯沸器事故

 大手ガス器具製造メーカーP社製の湯沸器で多数の死亡事故が起こっていたことが明るみに出て問題となっている。当初は修理の際に安全回路をカットするような不正改造が行われていたのが原因とされていたが、その後は主に北海道など寒冷地でハンダ割れによる機器そのものの不具合による事故もあることが明らかになってきた。しかも、長年にわたり、事故を隠蔽していたことも発覚した。

 ガスは便利であり燃料として使う場合コストも電気より安い反面、ガス器具の不完全燃焼で一家全滅の一酸化炭素中毒になったり、ガス漏れから爆発を起こして近隣を巻き込む大惨事となったりする危険性もある。どこのガス会社でも社員に徹底した安全教育が行われているが、今回のP社や一般の販売店ではどうだったのであろうか。新聞報道によれば、P社は同族経営の会社で、都合の悪い情報は上層部に届きにくく届いたとしても握り潰されていたという。とはいえ、人命にかかわることなのだから、現場レベルでできることはなかったのだろうか。修理の際、不正改造が行われていたことを知っていながら放置していた責任も重大である。多くの偽装問題と異なり、すぐに人の死に直結することである。メーカー側も、いくら新製品を宣伝して売上をあげても、ひとたびこのようなことになって信用を失墜させてしまえば取り返しのつかないことになる。事故の発生を恐れ、ユーザーの生命を心配する、神経質人間がいてほしかったとつくづく思う。

2006年8月25日 (金)

神経質礼賛 98.古いカメラ

 デジカメ全盛時代である。高性能機ではCCDの画素数が1000万を超えて、フィルムの精度を上回るようになったこともあり、高級機の一眼レフまでもがデジカメ主流となっている。また、携帯電話に内蔵されたデジカメの愛用者も多い。フィルムの生産量は減少の一途をたどっている。

 そんな中、私は15年くらい前に買ったコンパクトカメラをまだ使っている。別に画質のこだわりとか何かではない。単に使いやすいという理由である。デジカメも持ってはいるが、家族を撮ったり、何かの集まりで記念に撮るのはいつもの古いカメラである。ズームはなく、標準-広角の2焦点切り替えで、とっさに撮るにはデジカメより有利である。電池切れで悔しい思いをする心配も少ない。

 デジカメはちょっと記録しておきたいとかこれを人に見せたいとかいう時に利用する。バスや電車の時刻表を撮ると便利である。失敗してもすぐに撮りなおしができるのもいい。自分が担当している患者さんが他の病院でCTやMRIの検査を受けて画像を借りてきた時は、デジカメで撮ってプリントアウトし、カルテに添付している(勤務先の病院はまだ電子カルテが導入されていない)。

 フィルムがいらないデジカメはいいことずくめのように思われているが、欠点として、①バッテリー切れになったらアウト ②電源を入れてから撮影できるまでの待ち時間がやや長い ③事実上の耐用年数が短い といったことがある。③はパソコンと同じである。最初の頃は30万画素程度だったのが100万、200万、400万、600万、1000万超、と急速に画素数が増えているので新型機も1,2年すればおもちゃカメラになってしまう。付属ソフトもパソコンの進化が早く、古いソフトは新しいパソコンでは使えないこともある。専用バッテリーもクセ物である。メーカー側もどうせ2年位で買い替えるだろうという考えで設計しているのではないか。神経質人間から見ると、ちょっともったいない気がする。

 フィルムを現像に出して、どんな写真がとれているかなあ、と1、2日楽しみに待つことも悪くはない。

2006年8月21日 (月)

神経質礼賛 97.アナログ停波

 現在のテレビ放送のうち従来からあるVHF・UHFのアナログ放送は5年後の平成23年(西暦2011年)に終了となるが、まだ知らない人が多いということで、あわてて周知徹底のためのCMが流されている。地上デジタル放送の開始に伴うことであるが、はたして地上デジタル放送のメリットはどれだけあるのだろうか。確かに画質や音質が優れているということはあるだろうが、それは大画面TVでなければ生きてこない。インターネットとリンクした双方向通信機能も、TVショッピングやクイズ応募するヒマ人がどれだけいるだろうか。それよりデメリットが大きい。まず、お年寄りがボタンだらけのリモコンを見たら、どうしてよいかわからず困惑するであろう。そもそも、地上デジタル対応のテレビに買い換えるか、チューナー(ビデオ)を買い足さなくてはならないから相当な出費となる。

 何と言ってもデジタル放送の厄介なところは録画の際の「コピーワンス」である。デジタルデータは何度コピーしても劣化しないため、放送で流した映画や音楽番組をコピーして販売されてしまう恐れがあり、著作権保護の目的で「コピーワンス」という仕組みになっている。ハードディスクからDVDにダビングした段階でハードディスク上の録画データは自動的に消滅する。当然、DVDからはもはやコピーできないようにコピープロテクトがかかっている。しかし、ダビング中に停電したり、DVD自体の不具合でコピーがうまくいかなかったりした場合、DVDに書き込まれずハードディスク上のデータも消えてしまうという困った現象が起こりうる。また、DVD-Rの寿命は長くないので、バックアップを取りたいところだが、コピーワンスゆえ、それもできない。神経質人間でなくても、これは何とかならないものか、と思うだろう。

 コピーワンスについては、ユーザーから不満の声が強いが、改善される見込みは今のところない。長時間モードでの録画はコピーフリーにしたらどうだろうか、と私は思う。画質が落ちるので、販売目的に流用される心配は少ないはずである。地上デジタルの方が録画予約は簡単であるが、DVDに残すことを考えて私はいまだに地上アナログで録画している。

2006年8月19日 (土)

神経質礼賛 96.かかってきた電話に名乗る?

 93話でセールス電話について書いたが、国民生活センターの女性を対象とした調査では週に2回以上セールス電話がかかってくるという回答が約7割だそうである。「オレオレ詐欺」など種々の詐欺事件が増えている昨今、便利なはずの電話は鬼門でもある。

 平成18年7月26日付読売新聞の「生活ふぉーらむ」というコラムで、かかってきた電話に名乗るかどうか、という質問に250通の回答があり、73%の人が「名乗らない」と答え、その理由の半数以上が「防犯上の理由」とのことだそうである。

4分の3の人がかかってきた電話に名乗らないというのには驚きを禁じえないとともに治安の悪化に自己防衛せざるを得ない現状を痛感させられる。もっとも、新聞に投書してくる人々は、問題意識の高い人が多いであろうから、一般の調査ではここまで高くはないかもしれない。

従来かかってきた電話には「はい、○○です」と答えるのが電話のマナーとされてきた。ここでかけた相手が間違えた場合は気付くことができるというメリットもある。しかし、中には片っ端から電話をかけまくるようなセールスもあるので、名乗るとそれを悪用されるリスクも確かにある。

考えてみると私も不快なセールス電話の相手をさせられているうちに名乗らなくなってきたような気がする。いつからかわからないが、以前の「はい、○○です」から「はい、もしもし」に変化していた。神経質ゆえの安全回路が自動的に働いたのだろう。

これからの電話のマナーは、個人宅にかける場合、かける側が「こちら△△と申しますが、○○さんのお宅でしょうか?」と先に名乗るのがスタンダードになっていくのではないだろうか。

2006年8月16日 (水)

神経質礼賛 95.夏バテ

 私は汗かきで、どうも夏は弱い。朝7時前に家を出て、駅まで早足(倍速モード)で歩く。駅の階段を登りきってホームに着くと、汗が全身から吹き出し、すでに消耗している。仕事の帰りは駅からデパ地下を経由して地上に出ると、また灼熱世界が待っている。ビルや車から出るエアコンの排熱と道路からの熱気を浴びながら家にたどり着くともうバテバテである。

 おっと、ここで気を緩めてはいけない、家に帰ってもやるべきことはある。森田先生は次のように言っておられる。

 夏は暑さのために身体は弛緩し、そればかりでも疲労を感ずる。「夏まけ」といって特に神経質のものは、多く暑さのために身体の衰弱するものがある。それは暑さのためにヘコタレて、徒(いたずら)に苦痛を回避し、身体を惰弱にするために起こる事が多い。

                   (白揚社:森田正馬全集第5巻、p.603

 さらに、洞山禅師の禅問答から「寒の時は自分を寒殺し熱の時は自分を熱殺せよ」という言葉を引用され、寒さや暑さはどうにもならない事実であり、そのまま苦痛を忍受していれば、心の葛藤がなくなり、心は周囲の状況に反応して適応するようになり、暑さも疲労も自覚しないようになる、と述べておられる。

 暑いからといって、ゴロゴロ横になったり冷たい飲物ばかり飲んだりしていると、本格的に夏バテになってしまう。私は「暑さも疲労も自覚しない」という境地にはほど遠いが、とりあえず何とか動いてはいる。

 それにしても都市部の暑さはハンパではない。街の電光掲示に表示される気温や家の温度計に表示される気温は気象台発表よりも3-5℃高めである。やはりエアコンの排熱とコンクリートやアスファルトの地面が主な原因であろう。私が子供の頃、夏休みの宿題で毎日の気温を書かされた記憶があるが、せいぜい最高でも31℃くらいだったように思う。最近のように35℃や36℃が当たり前というのはどこかおかしい。打ち水を一斉に行うという試みもあるようだが、時々、「ノーエアコンデー」というのをやってみたらどうだろうか。一斉にエアコンを止めれば、市街地の気温は2-3℃下がりそうな気がする。強力な省エネになり、一石二鳥である。

2006年8月14日 (月)

神経質礼賛 94.「車輪の下」と放火殺人事件

 奈良の有名進学校の高校生が自宅に放火し、継母・弟・妹が焼死するといういたましい事件が起きた。父親、継母とも医師である。父親は子供も医師にするため、徹底的に勉強させており、暴力もふるっていたという。期待通り、中高一貫の有名進学校に入学したが、高校になって成績が下降し、それが父親にバレることを恐れての犯行だったという。父親に対しては尊敬の念と憎しみの両価的な感情があったらしい。私も私の同僚たちも事件の父親に年齢が近く子供も同じ位の年齢なのでショックを受けた。それにしても事件後の逃避行で民家に忍び込み、TVでサッカーW杯の試合を見ていた、というあたりはちぐはぐで理解しがたいものがある。

 この事件の報道を見て、私の頭に浮かんだのが中学生時代に読んだヘッセの「車輪の下」という小説である。もはや詳しいことは覚えていないが、村の期待を一身に背負って町の神学校に入学した主人公があたかも車輪の下で押しつぶされるように勉強の重圧の中で挫折し、最後は川に身を投げて自殺する、という話だったと思う。作者自身をモデルにした小説だという話も聞いたことがある。

 今回の事件の高校生は「すべてがイヤになった」と言うが、何も放火して家族の命を奪わなくても、自分が家出すれば済むだけのことである。見つかれば叱られるだろうが、それ位、今の生活がイヤであるということをアピールしてうまく収まったかもしれない。

 「車輪の下」の主人公と今回の事件の高校生の決定的な違いは、自罰性と他罰性、他者への思いやりの有・無ではないだろうか。父親や継母に対する恨みがあったにせよ、継母だけでなく罪もない弟や妹の命まで奪って平気でサッカーの試合を見ていた、というところからして、勉強はできても人間として基本的な部分が欠落していたのではないか。

 かつて森田正馬先生はこう言っておられる。

「一般の人々は、人を見るに秀才とか何とかいって、外面的の智識といふ事に重きを置くけれども、自殺・殺人とかいふ破壊行為は、既に其基礎に性格の変質といふ事があっての事と見なければならない」(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.219

勉強が原因ではないが、神奈川で小学生をマンション15階から投げ落として死亡させた事件の40代の犯人も同様である。自分の抱えたストレスを理由に人を傷つけたり殺したりしていいはずがない。弱い立場の児童を殺傷するような事件が頻発している。15話「ヒステリーの時代」で述べたように、大人も人格未熟で自己中心的、自責感に乏しい他罰的な人間が増えている。

 その点、神経質は「自分はダメだ」と劣等感を持ちやすく、まだまだ努力が足りないと努力し続けるものであり、他人を傷つけることも自分を傷つけることもできない善良な小心者である。

2006年8月11日 (金)

神経質礼賛 93.セールス電話

 しつこいセールス電話に悩んでおられる方は少なくないであろう。私も以前は夜遅くに自宅にかかってきて困った。電話に出た瞬間、口調でセールスとわかる。節税のためのマンション購入とか低金利時代に儲かる話とかで、学校の同窓会名簿を見て片っ端からかけまくっているようである。5年ほど前から同窓会名簿に自分の電話番号を載せないようにした。今では個人情報保護法が施行され、同窓会でも名簿に載せていいかどうかハガキで回答するようになっているが、私は神経質ゆえリスク回避行動は手早い。さらに電話をナンバーディスプレイ・ナンバーリクエストにしたところ、私宛のセールス電話は激減した。NTTの宣伝をするつもりはないが、セールス電話業者はダイヤル非通知のことが多いため、ナンバーリクエストは効果がある。

 しかし、勤務中だとそうはいかない。病院にもしつこくかかってくる。調べてみると大抵ダイヤル非通知である(病院ではナンバーリクエストというわけにはいかない)。普通、「○○株式会社の△△と申しますが・・・」と電話するのが常識であるが、この連中は「佐藤ですが」とか「山田ですが」と個人名(多分偽名)でかけてくる。事務員も心得ていて怪しげな電話は断ってくれる。先日、当直中の深夜に「XX病院の◇◇ですが」という電話がかかってきた、というのでてっきり通院患者さんの件かと思ってあわてて電話に出たら、真っ赤なウソのセールス電話で、さすがにこの時はブチキレた。

 最近、自宅にかかってくるセールス電話は、ほとんどが、学習塾・予備校・家庭教師派遣業者からである。子供の学校の名簿を見てかけてくるようだ。子供の話では、周りの子は2ヶ所や3ヶ所は当たり前で、多い子は一人で7ヶ所も塾・予備校に行っているという。少子化で塾や予備校の経営が大変という話もあるが、一人でいくつも行く子供がいるから商売が成り立つのである。実際には子供のためというより親の安心のために行かせているような面もあると思う。それぞれの家庭の考え方だろうが、子供を塾・予備校漬にすることには私は賛成できない。

2006年8月 7日 (月)

神経質礼賛 92.白癬(水虫・いんきん・たむし)について

 毎年、夏になると水虫に悩まされる人は少なくない。働く女性が増えて、人知れず水虫に悩んでいる女性も多いらしい。水虫の原因は白癬菌という真菌(カビ)の一種であり、これが陰部や体部にできると「いんきん」「たむし」と呼ばれる。また、爪が白癬菌に侵されると難治であり、外用薬だけでは治りにくく、内服治療が必要になってくる。TVや新聞のCMで暴れん坊将軍が爪白癬の患者さんを馬に乗せて病院に連れて行くシーンを見た方も多いであろう。若い方はご存知なかろうが、ザ・フォーク・クルセダーズのコミック・ソング「水虫の唄」という歌もあった。メンデルスゾーンの「春の歌」の旋律に乗せて「せつなくうずく水虫は君とぼくとの愛のしるし」と歌っていたが、水虫は生活をともにする人にうつってしまうのでやっかいである。また、寝ても起きても強烈な痒さで、かかった人でなければつらさはわからない。

 私は、今のところ水虫にはかかったことはないが、一度だけ「いんきんたむし」経験がある。最初の大学2年の夏、合宿制の体育の集中講義で10日間ほど、館山の大学寮に宿泊した。昼はハイキング、水泳、水球、ボート、ビーチバレーなどで過ごした。寮は海岸近くにあり、夜は窓を開け放して大勢の学生たちが大広間に布団を並べて寝ていた。クーラーはなくてもそれほど暑さは感じなかったがかなりジメジメしていたように思う。ところが、合宿から帰ってしばらくすると、股間周辺に発赤と強烈な痒みが出始めた。82話「男おいどん」の漫画に出てきた「いんきんたむし」であろうとすぐに察した。常備薬のオロナイン軟膏に「いんきん」「たむし」の効能が書いてあったので塗ってみたが、悪化する一方だった。小心者ゆえ、医者にかかろうという勇気もなく、今にして思えば馬鹿げていたがヨードチンキを塗って対応した。傷口にヨードチンキを塗ると痛みが激しいことはご存知であろうが、「いんきんたむし」にやられた股間にヨードチンキを塗ると飛び上がるような刺激であった。それに下着が着色してしまうという難点もあった。秋になると徐々に症状も収まり、幸いなことに以後は再発もなかった。

 白癬の治療はとにかく根気強く専用の薬を塗ることである。今では薬もずいぶん改良されたし、患部の状態に応じて、軟膏・クリーム・液剤を使い分けることもできる。大事なことは症状がよくなっても薬を塗り続けることである。白癬菌は簡単には死なない。痒みが止まって安心して薬をやめてしまうとまた再発の憂き目をみることになる。その点、神経質人間は、また悪くなったら大変だ、とせっせと薬を塗り続けるので、再発することは少ないようである。

2006年8月 4日 (金)

神経質礼賛 91.野良猫vs神経質

 半年ほど前から、野良猫対策に追われる様になった。我が家の裏隣は八百屋さんだったが廃業して廃屋となっていて、そこに野良猫が住みついていた。ところが、その廃屋が取り壊され、コイン式駐車場になったら、野良猫が移動してきたのだ。鳴き声も困るが、糞はもっと困る。家の周囲(と言っても、人間一人がやっと通れるスペースだが)には防犯対策で砕石を敷き詰めてある。人が通ると音がするし、尖った石だと、犬猫が嫌って入ってきにくい、ということだったが、野良猫はへっちゃらである。砕石の上にウンチされると始末が悪い。きれいに除去することは難しい。ウンチ処理には、雨の日に新聞紙をラップしてある透明の袋を利用している。臭いは強烈であり、なかなかの苦行である。野良猫対策として、当初、「犬猫進入禁止」という商品(犬猫の嫌う臭いを染み込ませた軽石の小粒)を撒いてみたが、全く効果なかった。そこで、現在は「木酢液」を撒いている。少々刺激臭ではあるものの、山中のキャンプ場の臭いと思えば我慢できる。肥料にもなる無害な物質なので安心でもある。ただし有効なのは3日からせいぜい1週間という感じで、雨が降ると効果はなくなってしまう。超音波で撃退する装置も市販されているようだが、どれだけ効果があるか疑問なので、そこまでする気はない。今のところ、神経質パワーも野良猫パワーにはかなわないようだ。

 野良猫ではないが、森田先生も庭で野良犬の糞処理をされていたようである。

 「犬糞は、汚くて、そのままに置く訳には行かない。誰かが取らなければならない。小さい女中はかわいそうである。婆やに取ってくれないかと相談すれば「オラア、いやぁだ」という。妻は、鍬や土堀りを取り扱う事は下手で、かえってどんな、汚い事になるかも知れない。結局自分が最も上手であり、一挙手・一投足の労で、最も世話のない事である。つまり自分が取るよりほかに、しかたがない。これは我々の自然の心の働きであり、知恵・判断である。決して修養義務や、愛のためや、そんな抽象的の作為ではない。我々の心のあるがままの事実である」 (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.259

 森田先生と同様で仕方なし。私の野良猫糞処理の仕事はまだまだ続きそうである。

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