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2006年10月30日 (月)

神経質礼賛 120.電算化に伴う除籍者省略

 平成181013日付の朝日新聞に、戸籍の電算化に伴い除籍者の名前が消えてしまう問題が取り上げられていた。子供さんを亡くした女性が、死亡時のカルテを病院から取り寄せるために戸籍謄本を請求したところ、「お子さんの名前はありません」と言われてしまったという。戸籍が電算化される際、データから死亡による除籍者は省略してよいことになったためである。この女性と同様、「死別したばかりの妻の名前が戸籍から消えた」というような問い合わせは役所にあるそうである。この女性は「家族の痕跡が消えてしまうショックは大きい」とシステム変更を求める活動をしている。

このようなシステムになっていることを私は全く知らなかった。今年の夏、私の従兄弟に待望の第一子が生まれた。前々から夫婦で考えていた名前をつけて出生届を出した。しかし、心雑音があるため大学病院で検査を受けたところ心奇形があることがわかり、循環器専門病院に転院し長時間にわたる手術を受けたものの手術中に亡くなった。彼らのショックはあまりにも大きいが、戸籍からも名前が消えてしまったことを知った時の彼らの心情を思うと暗澹とした気持ちになる。そう思うのは私のような神経質人間だけだろうか。

 電算化の目的は簡便性を高めるためであるから削除するのは当然、というのがお役所の言い分である。しかし、除籍者のデータ量は1件あたりせいぜい数十から数百B(バイト)に過ぎないではないか。仮に1件あたり平均200B(漢字100字分)としても百万件でも200MBに過ぎない。削除しなくてもデータ量は知れている。私が会社員だった25年位前は事務処理コンピュータの処理能力は極めて低かったし、データ量という面でも大型コンピュータ用の巨大な磁気ディスクでさえ1個100MB程度しかなかった。データファイルは磁気テープからディスクに落として処理し、最後にまた磁気テープに吸い上げていて、処理に膨大な時間を要した。その時代であれば、少しでもデータ量を減らさなければ処理しきれないしコストも高くなる。データファイルの設計で少しでもデータ量を減らし、処理速度を上げるのがシステムエンジニアの腕の見せ所だった。しかし、現在は家庭用パソコンでさえ、数十GBのハードディスクを持っていて、大都市の戸籍ファイルを全部飲み込んでしまうことだってできる。除籍者を含む戸籍謄本を希望するかどうかは申込用紙に欄を一つ追加するだけのことである。お役所の言い分は時代遅れもはなはだしい。システムを変更して除籍者のデータを入力するコストは確かにかかるが、ハコ物行政や怪しげな補助金やヤミ手当てなどお役所が使う無駄金に比べたら微々たるものにすぎないはずである。

2006年10月29日 (日)

神経質礼賛 119.救急あれこれ

 大学病院に勤務していた時は月一回位の割合で救急当直の担当が回ってきた。3次救急なので、2次救急で手に負えない重症例が転送されてくることを想定してのシステムだが、実際には普段通院している人や近隣住民がカゼや腹痛などで来院することが多かった。中には夜来れば待たずにすぐ診てもらえるから、というちゃっかりした人もいた。「本日の内科系担当は精神科です」などという看板でも出していれば、恐れをなしてUターンしていくところであろうが、知らぬが仏である。やはり専門ではないので誤診は怖い。そこは神経質。重篤な疾患が懸念される場合には恥も顧みずに専門の先生をお呼びして診察をお願いしていた。

 ある時、けいれん発作を起こして救急車で担ぎこまれた人がいた。それまでてんかん発作の既往はないのであるが、普段服用している薬を調べたところ、大量の抗不安薬が処方されていた。デパスという短時間型の抗不安薬だけでも10mgを超え、通常量の3倍以上であった。後で聞いてみると、忙しくて2回ほど続けて飲み忘れたのだという。退薬症候群だとわかった。抗不安薬を中断すると、いわゆるリバウンドが起こり一過性に焦燥感・不眠などをきたすことがあるが、特に短時間型の薬では中断によってこのようにけいれんを起こすこともあるので、注意が必要である。

 精神科の患者さんで一般の救急外来を受診するのは、うつ病・うつ状態で大量服薬や自傷行為などによる自殺企図の患者さんの他、神経症圏ではパニック障害や身体表現性障害などの患者さんである。神経症圏の方の場合は、御本人が「身体の異常」としてとらえているため、どこかに病気があるはずだとドクターショッピングに走ってしまうことが往々にしてある。救急受診の段階で、身体の病気ではなく精神科や心療内科の治療でよくなることを理解していただくと、あちこちの病院を無駄に受診することがなくなり、大きなメリットがある。たまには精神科医も役に立つ。

2006年10月27日 (金)

神経質礼賛 118.母の再チャレンジ

 私の母方は神経質な人が多い。最近知ったことだが、母方祖父はかつて鈴木知準先生(森田正馬先生の治療を受け、のちに神経科を開業し、森田療法の大家となる)の診療所に通院していたらしい。なぜ長年発覚しなかったかというと、通院の際、家族には「坊と出かけてくる」といつも末っ子(私の叔父)を連れて行き、天ぷらそばで口止めしていたからである。祖父の三十三回忌の際に叔父が告白して初めてわかったことである。ペラペラしゃべらない叔父も神経質だし、母も同じ血筋で神経質である。

 母は農家の次女として生まれた。男の子は大学まで出したが「女に学問はいらない」という祖父だったため、嫌々近所の商業学校に行かせられ、電力会社に就職した。本当は学校へ行きたくて、隠れて定時制高校に通ったが、親にバレてやめさせられたという。結婚してからは専業主婦であったが、父がガンにかかり5年間の闘病生活をつきっきりで支えた。父が亡くなってからというもの、呆然自失の状態だったが、医大に再入学した私に触発されてか通信制高校に通い始めた。4年で卒業した後、さらに栄養士になりたい、と短大の栄養科に入学した。化学や生物の試験はだいぶ苦労したようであるが、どうにか卒業することができた。さすがに再就職先はないが、栄養関係のボランティアや精神障害者関係のボランティアをいくつもやって忙しく過ごしている。近くの学校で中学生相手に料理講習をするのを楽しみにしている。自分の役割を見つけ、自己の存在意義を発見したようである。そんな母であるが、第7話で書いたように、家の中の片付けだけはまるでダメである。まあその位はいいとしよう。

2006年10月23日 (月)

神経質礼賛 117.伊能忠敬のこと

 小学生の時、伝記を読んで感動したのは、二宮尊徳でも野口英世でもなく、伊能忠敬(1745-1818)である。人生二毛作。真の「再チャレンジ」とは彼のことではないだろうか。失敗しても再チャレンジはそれでいいが、成功してさらに別の方面に再チャレンジはなおよいではないか。彼は酒造家の養子として家業を繁栄させ、飢饉の時には困った人々を助けて村のためにも尽くした。家督を息子に譲り、江戸に出て、暦学者の高橋至時に弟子入りして勉強を始めたのは50歳の時である。平均寿命から考えれば当時の50歳は今の60歳から65歳位に相当するはずである。そして1800年から17年かけて全国を測量して歩き、日本地図を完成させた。全測量距離は4万kmというから、ちょうど地球一周分にあたる。この地図はそれから100年にわたって使用された。1800年当時の技術からすれば驚くべき精度である。この情熱と行動力にはただただ驚嘆するばかりである。

 近々、いわゆる団塊の世代の人々が定年退職を迎える。そうした人たちをターゲットにした投資信託のCMが盛んに流れている。退職金をうまく運用して悠々自適の生活というのも結構だが、エネルギッシュな世代の人々であるから、人生二毛作いや三毛作という人たちが出てくれることを期待している。

 なお、神経質な人は暇になるとよろしくない。ここが具合悪い・あそこが具合悪い、と悪いところ探しを始めてしまう。エネルギーの空回りである。ミニミニチャレンジでよいから前向きに行動していくことが大切だと思う。

2006年10月20日 (金)

神経質礼賛 116.再チャレンジ

 K首相が退任し、A首相が誕生した。公約の一つが「再チャレンジ可能な社会」なのだそうだ。「格差社会」の批判を打ち消すためのスローガンらしいが、パパとおじいちゃんたちの七光りで首相になったお坊ちゃま君が言っても空々しく響くだけである。

 それにしても、政治や行政が再チャレンジ可能な社会づくりしようとしてできるものなのだろうかと疑問に思う。そもそも、今の日本は再チャレンジ不可能な社会なのだろうか。別の視点から見ると、再チャレンジ可能すぎて、がんばらなくても他の道があるさ、親が食べさせてくれるさ、という甘え・甘やかしがフリーターやニートを作り出している一面もあるのではないだろうか。

 再チャレンジで不可能を可能にした例としては、最近では将棋の瀬川昌司氏あげられる。瀬川氏は将棋プロ棋士をめざしたものの養成期間である奨励会を年齢制限で退会し、プロへの道は完全に閉ざされた。しかし将棋への情熱は捨て切れず、会社員として働きながらアマ強豪として活躍し1999年にはアマ名人となる。その後もアマプロ戦でプロ棋士をたびたび破る輝かしい成績を上げた。日本将棋連盟に嘆願書を出したところ、特例でプロ編入試験を実施してもらえることになり、そのチャンスをものにして見事プロ入りを果たした。そして、今後、極めて優秀なアマ強豪がプロ入りできる可能性を作ってくれた。将棋ファンとして、今後の活躍を期待している。

 実は特例のプロ編入試験の話は瀬川氏が初めてではない。「東海の鬼」という異名で呼ばれた花村元司九段(故人)は元々自分で道場を持つ真剣(賭け将棋)師だった。1944年、特例でプロ五段に編入。A級で活躍した。1980年・1981年に連続アマ名人になった小池重明氏(故人)も「プロ殺し」で有名であり、プロ編入の話があった。小池氏も真剣師として食べている人であったが、お金と女性にだらしなく、過去の詐欺騒動が明るみに出て、プロ編入の話は消えてしまった。「新宿の殺し屋」小池氏のすさまじい人生は、テレビ番組で取り上げられ、団鬼六著「真剣師小池重明」に詳しく書かれている。将棋の才能以外ではまるで子供のようなパーソナリティだったようである。もし、小池氏が多少でも神経質な性格で努力家であったら、プロとなって活躍し、早死することもなかったろうに、と惜しまれる。

2006年10月16日 (月)

神経質礼賛 115.踏み倒し

 最近の新聞報道を見ていると、小中学校の給食費を払わずに踏み倒すという輩がいるようである。外車を乗り回しているのに子供の給食費を払わず、請求されると「頼んだ覚えはない」と支払い拒否するとか、生活保護世帯で、子供の給食費分は上乗せ支給されているのに、使い込んでしまって給食費を払わないといった事例もあるようだ。これでは無銭飲食と同じことではないか。教師やPTA役員が立て替えて泣きを見ることもあるという。最初から不払い分を見込んで、給食の質を落としている自治体や学校もあるというが、とんでもない話である。

 医療機関も同じような目にあっている。特に公立病院では入院費を払わずに踏み倒すケースが増え、ただでさえ経営が赤字なのに追い討ちをかけているという。

 昨年、外来に現れた初診患者もそうであった。保険証の住所はかなり遠方になっているが「以前このあたりに住んでいたから来た」と言い、統合失調症で他の精神科でもらっていた薬を処方して欲しい、と睡眠薬と抗不安薬を希望する。その病気本来の治療薬ではないため、「紹介状はお持ちですか」と問うと、「そんなもの持って来いとどこにも書いてないだろ!」と荒れ始める。ケースワーカーが対応すると、大声で怒鳴ってケースワーカーの胸倉をつかみ、危険な状況である。やむなく「今回はご希望の処方をしますが、適切な診療を行うため、次回は紹介状をお持ち下さい」ということで落着した。しかし、会計の際、「金はないから今度払う」と言う。女性事務員は恐れをなして処方箋を手渡したが、その男性は二度と現れなかった。

 身近な所でも、ちょっとしたお金を立て替えてもらってそのままにするような人、本などを貸してあげるとそれっきりになってしまう人が時々いる。神経質人間にはそういう図々しいことはとてもできない。普段、気が小さくて情けない・もう少し大胆になれないものか、とつい思いがちだが、お金や借り物に関してはあまり図々しくなれなくてよい。

2006年10月13日 (金)

神経質礼賛 114.支払い癖

 毎日届く郵便物には支払い関係のものがよくある。私は神経質なため、払うものはさっさと払ってサッパリしたいという傾向が強く、税金でも保険の掛金でも期日の最初に払ってしまう。現在の勤務先が不便な場所で近くに金融機関や郵便局がなく、ちょっと昼休みに外出して払い込むということができないので、平日の公休日に銀行や郵便局に行くしかない。固定資産税のように年4回だと忘れる心配があるので、カレンダーに赤字で支払い期間を書き込み、払込用紙の封筒には早目に現金を入れておくようにしている。こんな性分であるから自営業は向いていないであろう。期限すれすれまで払わないで少しでも利息を稼ぐとか、少ない借入金でやりくりするなどという芸当はできそうもないからだ。クレジットカードもJRの窓口で切符を買う時以外はほとんど使わない。忘れた頃に銀行から引き落とされるのはどうも嫌で、「いつもニコニコ現金払い」主義である。ましてやローンの類は極度に嫌っており、家を建てる時に住宅ローンを組んだら、何となく体調がおかしくなった、という小心ぶりである。

 高校や大学の同窓会、クラブのOB会関係の年会費や寄付もよく払っている。年会費の類は、払う月を決めていて、落ちのないようにしている。最初に出た大学と医大の同窓会費は終身会費を払っているからいいが、それ以外に高校の同窓会費、クラブのOB会費と寄付、電子電気系学科卒業者の「電気工学会」の年会費、オーケストラのOB会費と寄付、などとあれこれあり、律儀に払っているが、払っている人は全体の2割程度らしい。こうした会は、黙って会費を払うだけの神経質人間たちで支えられているのかもしれない。

2006年10月 9日 (月)

神経質礼賛 113.野良猫vs神経質 第2ラウンド

 91話の続編を書かなければならなくなった。しばらく忙しくて野良猫対策の木酢(もくさく)液を撒くことをさぼっていたら、ウンチ攻撃がひどくなった。悪臭に耐えながら始末すると、次の日の朝には新しいウンチがある。ガックリである。野良猫様は快食快便のようである。

 毎日これではたまったものではない。園芸用の木製ラティスを買ってきて、家の両脇の通路を塞ぐことにした。しかし、ダメである。ブロック塀からも侵入してくるようだ。そこでインターネットで検索したら、防犯と猫害・鳥害対策用の「トゲせんぼ」なる商品を見つけてさっそく注文した。長さ50cmで幅5cmほどのプラスチック板でそれほど鋭くはないトゲトゲがついている。ケガをすることはないにしても、この上を歩くのは嫌がるだろう。1セット6枚購入し、ブロック塀の上で猫を何度か見かけた箇所に防水型の両面テープで取り付けた。やれやれ、これでウンチ処理から開放される、と安堵して翌朝起きてみると、愕然である。またやられている。「トゲせんぼ」も要所だけに配備しているので、ウラをかかれたか、それともプラスチックのトゲトゲ位ではビクともしないスーパーキャットなのか。

 第2ラウンドも野良猫の勝ちである。しかし、これくらいでへこたれる神経質ではない。次なる対策を考案中である。

2006年10月 6日 (金)

神経質礼賛 112.「仕方ない」は嫌い

 今回は前回の話とは逆である。

私の外来に10年以上通院している強迫性障害の大物女性がいる。感情過多でいわゆるヒステリー性格でもある。極めて強力な確認強迫・不完全恐怖があり、家族を巻き込んでの確認を繰り返す。大事なものを捨ててしまうのではないかと不安で、郵便物や市の広報などが捨てられず、何年分も溜まってしまっている。児童手当などの必要な手続き関係は確認行為のため滞りがちである。当然、SSRIによる薬物療法を某病院で受けているのだが、それだけでは物足りないらしく、2、3ヶ月に一回、はるばる遠方から通院して来る。それもご主人とお子さん連れ、一家総出の一日仕事である。1回の診察時間は1時間では済まない。診察室にはまず本人が子供さんを連れて入り、本人は次々と症状を訴え、さらに夫のズボラさを攻撃する。退屈した子どもたちが「もう帰ろうよう」を繰り返すのだが、本人は意に介さず、不満を連射する。夫が暴力を振るった、ドメスティックバイオレンスだ、と状況を一人で再現して見せる(実際は夫が強迫行為を止めようとした場合が多いと思われるが)。そして「離婚するしかないでしょ」「先生もそう思うでしょ」を連発する。最後のクライマックスは夫が入室し、そこで夫との激しい口論となる。夫は防戦一方である。私が仲裁して(判決を下して?)やっと舞台の幕が降りる。「演技性人格障害」とはよく言ったもので、彼女は主演女優さながらである。

彼女の語録に「私は『仕方がない』とか『あきらめる』いう言葉は大嫌いなの。絶対に許せないの」というのがある。これはまさに「ないものねだり」である。どうにもならないことはいくらでもあるのだ。前回の森田先生の言葉を思い返して彼女の言葉を見れば、これでは治りようがない。彼女が夫のズボラさを少し学び、夫が彼女の完全主義を少し学べばとてもうまくいくはずなのだが。

2006年10月 2日 (月)

神経質礼賛 111.まあこんなもの

 108話で、自分の講演前に、緊張でお腹の具合が悪かったりドキドキした際、「まあ、いつものこと」と受け流したことを述べたが、神経症の人の「症状」への対処法も同じである。

 以前、私の外来に対人緊張が強い女性が通っていた。結婚前は金融機関でバリバリ働いていた優秀な女性だが、第一子出産を契機に専業主婦となり、そのあたりから「症状」を強く意識するようになった。近くの心療内科クリニックで薬を処方され、症状は改善したが、第二子の妊娠を希望し、薬をやめたいということで森田療法を希望され、遠方から通院されていた。日記の中では、幼稚園のお母さん同士の集まりがよくあり、その際、他のお母さん方の思惑が気になり、とても緊張するのだが、次第に、「まあ、こんなものだと思う」という記述が増えてきた。そして、待望の妊娠が判明。5ヶ月通院したところで、「何とかやっていけそうです」ということで治療終結となった。その後、お会いする機会はないので、今どうされているかはわからないが、おそらく二人のお子さんの育児に追われていることと思う。そして、時期が来ればまた仕事に就かれることと想像する。薬物療法は薬をやめたら効果は終わりである。それに対して、森田療法の効果は持続する。「症状」を何とかしようとジタバタしないで「まあこんなもの」と受け流す術を会得すれば、「症状」はあってなきがごとき状態となるのである。強い風に枝葉をなびかせて受け流す柳と同じである。

森田先生はこう言っておられる。

神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、十年でも二十年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、しかたがないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境である。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.389

「まあこんなもの」は神経症の症状へのとらわれから脱却する魔法の言葉かもしれない。

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