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2006年12月15日 (金)

神経質礼賛 135.禅と森田療法

 わが国独自の神経症の治療法である森田療法は、禅の思想に基づいていると思われていることが多い。京都・東福寺の近くで森田療法を行っている三聖病院の開設者・(故)宇佐玄雄先生(森田先生の高弟)は禅僧であったし、息子さんで現院長の宇佐晋一先生は同病院での治療を「禅的森田療法」と表現されている。森田先生が患者さんを指導する際に用いた言葉は禅の言葉が多いし、実際森田先生の治療を受けた患者さんにも、森田療法は禅から出たものだと思われていた。しかし、森田先生御自身はそれを否定しておられた。

 私の著書に、禅語の引用されているのは、みな強迫観念の治療に成功して後に、初めて禅の意味がわかるようになったものである。すなわち、禅と一致するからといっても、禅から出たのではない。私が神経質の研究から得た多くの心理的原理から、禅の語を便利に説明する事ができるようになったのである。 (白楊社:森田正馬全集第5巻 p.388

私は禅の事は知らない。ただ聞きかじりだけである。昔、三十年ほど前に、釈宗禅師の提唱を聴き、また参禅すること四回でありましたが、その時の公案「父母未生以前、自己本来の面目如何」という事を、一度も通過する事ができないでやめてしまいました。それで禅の体験は全く知らないものですが、神経質の病的心理の研究から、禅に対して相当の批評ができるようになったという事は、自分も大分偉いのではないかと密かに思ったのであります。(笑)          (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.643

 しかしながら、森田療法のバックボーンに東洋思想とりわけ禅があることは誰の目から見ても明らかであろう。それでは森田療法と禅との相違点はどんなところだろうか。

 我々は、人生の丸木橋を渡るのに、足元を恐れないような無鉄砲の人間になるのが目的でなく、彼岸に至りさえすればよい。座禅や腹式呼吸で、心の動かない、すましこんだ人間になるのが目的ではなく、臨機応変、事に当たって、適応して行く人間になる事が大切である。(白楊社:森田正馬全集第5巻 p.519

 神経質は、とかく練習をしたがる。平常心になるために座禅をするようなことを森田先生は嫌っておられた。よく、北条時宗の逸話を引き合いに出して「事上の禅」の話をされていた。単に作為的な無念無想では隠し芸のようなもので、実際に役に立つものでなければならない、ということである。

 私も禅は門外漢である。母が臨済宗の藤原東演禅師の講演会を聞いて、その著書を買い込んだ。いい本だから読め、と渡されたので通勤の電車の中で読んでみた。成美文庫の「人生はゆっくり変えればいい!」と「心がラクになる生き方」という本である。とても良いことが書いてあるな、と思う反面、森田療法と立場の違いを感じた。禅師は「心が雑念でいっぱいなら、仕事に打ち込めるわけがない」ということで雑念を放り出すことを勧めているが、森田のやり方では、雑念はそのままにして(心はいじらず)仕事をしていくように、ということになる。あれもやらなくては・これもやらなくてはとハラハラしながら仕事をしているうちにいつしか雑念にとらわれていない状態となってくるものだ。禅僧のように修行を積んだ人であれば雑念を放り出すことは容易にできようが、普通の人間にはなかなかできることではない。一方、森田のやり方は誰でも実行可能だと思われる。また、題名の「人生はゆっくり変えればいい」は、うつ病の方にはピッタリであるが、神経質人間の場合、「嫌なことは先送り」癖を推奨しかねない。森田流では、できることはすぐに実行しなさい、である。もちろん禅は大変すばらしいものであるが、修行は必ずしも容易ではない。誰でも・いつでも・日常生活の中で実行できるところが森田のすぐれた面だと思う。

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