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2007年4月30日 (月)

神経質礼賛 180.努力即幸福

 私の恩師・大原健士郎先生が現役の教授だった頃、毎週月曜日の回診の時に、色紙とサインペンを用意して待っている患者さんがいた。その週に退院していく患者さんである。私はいつも教授がどんな言葉を書かれるか心の中で予想していて、5割位は当たっていただろうか。定型的な森田療法の患者さんには「日々是好日」、「日新又日新」、「外相整いて内相自(おのずか)ら熟す」、「柳は緑 花は紅」といった森田の言葉を書かれた。ヒステリー傾向の女性には「君が笑えばみんなが笑う」というイギリスの女流詩人ヴァージニア・ウルフの言葉を書かれ、「これには続きがあってね、君が泣けば君一人で泣くのだ、というのだよ」と語りかけておられた。ヒステリー性格の良いところを生かしなさい、という御指導だと私は解釈していた。一方、統合失調症や躁うつ病の患者さんに求められると、「努力即幸福」という森田の言葉を書かれることが多かった。これは神経質に限らず万人向けの言葉だろうと思う。

 努力即幸福は文字通り、努力すれば幸福になれる、という意味である。「即ち」という語は、前の事柄をうけて、その結果として後の事柄が起こることを示すからである。しかし、「即ち」にはもう一つ意味があって、前の事柄を後の事柄で言い換えすることを示す語でもある。そういう目で見れば、努力することそのものが幸福である、という解釈も成り立つだろう。この方が奥が深そうである。

 一生懸命に努力しても結果に恵まれないこともある。一生懸命勉強したのに試験で不合格になった、一生懸命仕事したのに失敗した、あるいは周囲から認められなかった、というような経験は誰にでもあるだろう。私自身もそういう体験は数多くある。しかし、その努力は必ずしもムダではなく別の面で役立つことも少なからずあるし、一生懸命だった時のことを後から振り返ると、「つらかったけど充実していたなあ」という思いもする。失敗がいい思い出だったりする。

森田先生は次のように言っておられる。

 神経質に生れても、赤面恐怖に生れても、なんともしかたのない事です。これを生かして行くよりほかにしかたがない。劣等感を起すのは、人に勝れたいがためである。そのあるがままであれば、ただその欲望にしたがって向上一路よりほかにしかたがない。そこから「努力即幸福」という事もわかってくる。神経質はそのまま神経質であって、これをいたずらに否定するような事をしなければ、そこにはただ希望に充ちた努力ということが現れるだけである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.712-713

 神経質人間はどうかすると「どうせダメだ」とレッテルを貼って努力を放棄してしまうことがある。しかし、神経質人間はひとたび動き出したら粘り強いので予想外の力を発揮することもあるのだ。努力なしで「棚からボタモチ」の幸運などそうはない。やってみなければわからない。「生の欲望」に沿って努力していく中に幸福があるのである。

2007年4月27日 (金)

神経質礼賛 179.黄砂の害

 花粉症持ちの私にとって、春はスギ花粉とヒノキ花粉のために憂鬱な季節であるが、どうやら犯人は花粉ばかりではなく黄砂も一枚からんでいるらしい。西風が強い日には目が痛くなったり眼脂が増えたりする。黄砂は御存知のように、3月から5月を中心に、偏西風にのって、中国大陸の砂漠の砂が飛来する現象である。この現象は以前からあったわけだが、最近問題になっているのは、砂漠化の進行でその量が増加していること、中国の急速な工業化・経済発展により種々の汚染物質が黄砂に吸着されて飛来している可能性が指摘されていることである。西日本や日本海側では洗濯物の汚染や農作物への影響が出ている。これから年々、黄砂の害がクローズアップされてくるだろう。韓国では黄砂から硫酸塩などの大気汚染物質や病原菌が検出されているという新聞報道があるほどである。黄砂のために喘息、花粉症などのアレルギー疾患が増悪する他、正常な人でも咳や痰、鼻汁などの症状が出るという。

 天才バカボンの主題歌のように「西から昇ったお日様が、東へ沈む」というように、もし地球の自転が逆向きであったなら、偏東風ということになって、黄砂の被害は受けないし、秋に日本列島に沿って進む台風もさっさと中国や「将軍様の国」へ立ち去ってくれて実に好都合で「これでーいいのだー」となるところだが。

日本に飛来する黄砂の粒はスギ花粉よりもはるかに小さく、通常の花粉用マスクでは防御効果は薄いらしい。全く厄介である。花粉症持ちの神経質としては、春の風が強い日は余分な外出を避けるのが賢明なようだ。

2007年4月23日 (月)

神経質礼賛 178.トラックバックスパム

 毎日、電子メールボックスを開くと、宣伝メールに閉口する。それに加えて、当ブログのトラックバック通知が毎日送られてくるようになった。トラックバックで実際にブログ記事の内容と関係があるものはめったにない。多くは商品の宣伝や、アダルトサイトに誘導するための、いわゆるトラックバックスパムである。これらのトラックバックスパムは自動的に送りつけてくるらしく、新しい原稿を投稿後1時間以内に送られてくることがよくある。つまり業者がソフトでブログの新規投稿をチェックして自動的に送りつける仕組みになっているようだ。この種の迷惑トラックバックをブログ上から消去する手間が生じる。悪意がないものまで消去しては失礼にあたるので、最初のうちは相手のページを開いて内容を確認し、明らかに当方の記事内容と全く関係ないと思われる場合にトラックバックを消去するようにしていたが、これではウイルスやスパイウエアを拾ってしまったりワンクリック詐欺のネタに悪用されたりする恐れがある。そもそもスパムを送りつけるような悪質な業者が相手なので、このあたりは神経質に対応しなくてはいけない。そこで最近は、通知メールだけで判断して消去するようにしている。これ以上スパムが増えるようならば、トラックバックの受付を中止せざるを得ないだろう。

 大量のトラックバックスパムのため、システム障害をきたすことがあり、ブログ事業者側でも対策は立てているものの、いたちごっこだという。対策を立てると、それをすり抜けるスパムが開発されるという。トラックバックスパムはブログの敵である。

2007年4月20日 (金)

神経質礼賛 177.「鈍感力」過多症

 相変わらず「鈍感力」の本はよく売れているようである。

外来にやってきた30代男性。診察机の上にペットボトルと「鈍感力」の本を置き、ガムをクチャクチャ噛みながら話し始める。これまで通院していた精神科クリニックでは、「看護師さんが自分を見下した態度を取るから」転医希望とのこと。「自分は気が小さくていけないから、この本を買って読んでいる」と言う。気が小さいどころか鈍感力過多症である。これでは以前のクリニックで見下した態度を取られたのも無理はない。これ以上「鈍感力」が付いたら大変である。87話で述べたように、外相を整えることも重要である。さっそくガムを噛みながら話すことを注意すると、「あ、すみません」と口からガムを取り出し、姿勢を正した。

「鈍感力」が過ぎると人に迷惑が及ぶばかりでなく、自分も不利益を受けることになる。鈍感ゆえ、それに気がつかないのだから始末が悪い。著者の渡辺さんには「鈍感力」の効能ばかりでなく副作用についても言及して欲しかったと思う。

神経質であって悪いことはない。神経質を仕事や生活に生かせばこんなに役に立つ性格はないだろう。神経質をどうでもよいことにムダ使いするのが神経症である。わざわざ鈍感になる必要はない。神経質のベクトルの向きを内側から外側に変えて行動していけばよいのである。

2007年4月16日 (月)

神経質礼賛 176.目覚し時計

 私はどちらかというと朝型人間で、早起きはそれほど苦にならない。目覚し時計は5時50分にセットしてあるが、大抵はその前に目が覚めている。そして目覚し時計が鳴ったら、すぐに起き上がってから止める。ここがミソである。寝たまま止めて「もう少し横になっていよう」としたらまた眠りに落ちることがある。枕元にはベルトが切れて使えなくなった腕時計を置き、万一の場合を考えてアラームを6時にセットしてある。この時計は妻に言わせるとゴキブリに見えてビックリすると不評である。しかし、夜中に時刻を知りたい時に手探りでボタンを押してバックライトをつけて見ることができるので重宝している。休日、目覚しをかけなくても6時から7時の間に起き出して着替え、新聞を取りに行く習性がついている。

 ところが妻や子供たちはめっぽう朝が弱い。休日は放っておけば9時になっても起きてこない。子供たちは平日もダメである。春眠暁を覚えずどころか年中暁を覚えずである。目覚しが壊れた、時刻が合わない、鳴らないなどと言うので、文句を言わせないように電波時計(最近は1000円以内で買える)を買って枕元に置かせた。しかし、結果は同じであった。実はちゃんと鳴っているのであるが寝たまま止めてしまうのである。目覚し時計に罪はない。

 余裕を見て目覚しを少し早い時刻にセットするのは失敗の元である。「まだあと10分ある」と思っているとまた眠りに落ちる危険性が高い。絶対に起きなくてはならない時刻にセットし、「待ったなし」で起き上がるのがよいだろう。

2007年4月13日 (金)

神経質礼賛 175.悪徳商法

 仕事帰り、勤務先の病院から駅に向かう裏通りの道で人が大勢集まっている事務所があった。タダで物を配っていき、最後には高価なフトンなどの購入を契約させる悪徳商法の事務所らしい。これは催眠商法と呼ばれている。しばらく荒稼ぎすると事務所をたたんで姿をくらまし、解約できないようになっている。こういった悪徳商法の餌食になるのは高齢者が多い。と思っていたら、ある土曜日の外来に父親や連れられて20代の女性がやってきた。本人はうつむいたままで何も話さない。父親によると、会社の寮に来たセールスマンに勧められて、1個120万円の浄水器やら高価なフトンやらを次々と購入契約してしまい、未払金額が600万円にのぼっているそうである。消費者相談窓口に行っても、成人だし、違法なセールスともいいきれないので、と相手にされず、司法書士に相談したら、裁判を考えて病院で診断書を書いてもらうように言われた、とのことである。少々知的に低そうな印象はあるが、一応仕事はできるレベルである。悪徳セールスマンが言葉巧みに騙して契約させたのだろう。

 私の医大時代の友人で、私と同様、工学部を一度卒業して会社員経験のある人がいる。今では公立病院の内科部長である。温厚な人柄で、患者さんやスタッフからは深く信頼されている。そんな彼だが学生時代に東京でデート商法にひっかかり100万円近い英会話教材を買わされたことがある。英会話ではなく経済学の高い教材になってしまったようだ。大きな駅周辺にはキャッチセールスが獲物を求めてウロウロしている。キャッチセールスのプロともなると、立ち止まって話を聞いてもらえれば、半分は契約できるらしい。その種のうまい話にひっかからないのが神経質の取りえである。

2007年4月 9日 (月)

神経質礼賛 174.抱き合わせ商法

 子供たちが「ニンテンドーDSが欲しい」と言い出した。平成教育学院というTV番組のCMで漢字検定ソフトの存在を知り、これ幸い「勉強にも役立つから」と言い出したようだ。長いことゲーム機なし、パソコンのゲームだけでガマンさせてきたので、自分の貯金で買うのならいいよ、とOKした。品薄のため、家電量販店の店頭にはなく、大型玩具店でも予約待ちである。たまに客寄せに数台出るが、整理券をゲットするために早朝から並ぶのだという。結局、以前通っていた小学校近くの玩具店で予約を入れた。ただし、その店でソフトを2本買うのが条件である。一人目が約2週間後、二人目が約4週間後に入荷した。

 ゲームソフトの場合はどっちみち買うことになるからまあいいのだろうが、どうもこの種の抱き合わせ商法は好きになれない。抱き合わせの例はいろいろある。違法ではないが、建築条件付の土地販売も実態は抱き合わせ商法に近い。土地の価格を安く表示して、家の建築費の方で儲けようということなのである。量販店のチラシに大きく書いてあるパソコンの価格も指定プロバイダと新規契約した場合の割引価格である。プロバイダからの販売促進費で本来の価格より3万円安い表示になっている。携帯電話の「0円」CMも問題になった。いろいろな条件を満たさないとゼロ円ではないのに条件が見えないくらいの小さな字で書かれていた。消費者のサイフのヒモが固いためか、こういった違法スレスレのチラシが多い。

 その点、神経質人間は、注意深く確認してから意思決定するので、この種のものに惑わされることは少ないであろう。

2007年4月 6日 (金)

神経質礼賛 173.法隆寺宝物館

 前話で、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を見終え、せっかく来たのだからと、東京国立博物館の同じ敷地内にある法隆寺宝物館に立ち寄った。敷地の西側奥へと進むと、池の噴水越しに広いガラス面の白い現代的な建築物が見えてくる。この景観だけでも実に見事である。近くを歩いている人は誰もいない。ここが東京の都心だとはとても思えない静寂な空気が漂っている。館内に入りほの暗い中、7世紀頃製作された小さな観音像・菩薩像などが林立する展示室には圧倒された。タイムスリップして異次元空間に入り込んだような感じである。一体ずつガラスケースに収められ、いろいろな角度から見ることができる。百済観音をそのまま小さくしたような観音像もある。私のように無信仰の人間であっても、こうした仏像を前にすると素直に心が洗われるような気持ちになるものだ。自然と内観療法のように、過去に人から受けた恩や人に迷惑をかけたことなどの反省が思い浮かんでくる。1300年以上前の飛鳥時代の人々もこれらの仏像の前で心を開いていたのだろう。また今度は一人でゆっくり会いに来よう、と思いながら宝物館を後にした。

内観療法:

 森田療法と同じくわが国独自の精神療法として内観療法がある。これは、浄土真宗の修行法から発展改良したもので、森田療法と同様、神経症や遷延性のうつ病に有効なだけでなく、職場や学校での精神衛生、矯正施設での教育にも応用されている。

2007年4月 5日 (木)

神経質礼賛 172.レオナルド・ダ・ヴィンチ展

 医師数の少ない病院に勤務していると、外来担当日・病棟診察日の都合上、まとまった休みは取りにくい。私の勤務先では夏休みはなく、年末年始休暇は大晦日と正月三が日だけであり、未使用の有給休暇はたまるばかりである。先日、久しぶりに有休を取って、日帰りで東京に出かけた。目指すは「受胎告知」が展示されている上野・国立博物館のレオナルド・ダ・ヴィンチ展である。多分、混むだろうと思って開館前に行ってみると、もう長い行列ができている。手荷物検査はX線で行っているとのことで、開館後もなかなか前に進まない。連れてきた子供からはブーイングである。やっと中に入ると、人の波である。ゆっくり立ち止まって見ることはできなかったが、人物の毛髪などは細かく描き込まれていて実に見事だった。この絵は20年ほど前、新婚旅行で立ち寄ったウフィツィ美術館で見たはずである。しかし数多くの歴史的名画を展示しているウフィツィ美術館の中ではボッテチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」の方が強く印象に残ってしまっていた。改めて「受胎告知」だけを見てみると、そのすばらしさがよくわかる。その後は別の棟で、ダ・ヴィンチ設計の品々の模型や手稿などを見た。展示を見終わって入口の方を見れば、もう行列はなかった。

 「受胎告知」はダ・ヴィンチが20歳頃、つまり初期の作品である。すでに彼特有の空気遠近法や一点消失遠近法といった技法が用いられているという。私のような素人が見て、目に付くのは天使の翼である。宗教画によくある白く優美な翼ではなく、まるで鷹の羽のような翼である。自然科学に強い関心を持っていた彼ならではのリアリティ追求から出た発想だろうか。

 画家としてのダ・ヴィンチは「モナリザ」や「最後の晩餐」であまりにも有名だが、残っている作品数は少ない。仕事のペースが遅かったと言われている。科学者・発明家・軍事技術者としての顔もある。彼は私生児として生まれ母親と離され教育と言えるようなものは受けていないが、自然をつぶさに観察しほとんど独学での研究ぶりや斬新な発想には驚く。もし、彼が今の時代に生まれて教育を受けていたらどんな仕事をするだろうか。

 ダ・ヴィンチは歴史的な大天才ではあるが、努力なしで傑作を残せたのではない。あくなき探究心と粘り強い努力あってのことである。森田正馬先生の色紙にこんな言葉がある。「常に何かを食ひたいと思ふ人は健康な人であり 常に何かを知りたがり疑ひ考へ工夫する人は精神優秀なる人なり」 神経質の凡人としては生の欲望に沿って、地道に行動していく他ない。

2007年4月 2日 (月)

神経質礼賛 171.実はまじめ人間

 3月27日、コメディアンの植木等さんが亡くなった。若い方にはなじみがないかもしれないが、私が子供の頃はTVの人気者であった。「何である、アイデアル」という傘のCMを覚えておられる方もいるだろう。「無責任男」シリーズや「スーダラ節」も大ヒットした。しかし、本人の性格は無責任男とは正反対で、責任感の強い極めてまじめ人間だったそうである。オペラ歌手について正式に発声の勉強をしたというし、「スーダラ節」の楽譜をもらった時には、「自分の人生が変わってしまうのではないか」と真剣に悩んだという。浄土真宗の寺の住職で社会運動家でもあった父から、「わかっちゃいるけどやめられない、というのは親鸞聖人の生き様にも通ずるのだから、やってみろ」と言われて歌う決心がついたそうである。芸名の「等」は平等ということから父がつけた名前である。実生活でも全く酒は飲まず麻雀もせず、仕事が終わるとまっすぐ家に帰るという人だったらしい。植木さんも隠れ神経質人間だったのかもしれない。我々がTVで見ていた植木さんは、青島幸男さんの台本上のキャラクターを忠実に演じていただけだったのだろう。その青島さんの後を追うように逝ってしまった。

 サラリーマンが「気楽な稼業」であるはずはない。植木さんの歌はタテマエにがんじがらめになっているサラリーマンのホンネを代弁してくれて共感を得ていた面もあるだろう。特に神経質人間はタテマエや「かくあるべし」に縛られやすい。完璧にやろうとすれば疲れてしまう。いい意味でのいいかげんさも必要である。時には植木さんの歌を思い浮かべて、ちょっといい加減な位がちょうど「よい加減」なのである。

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