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2007年6月 4日 (月)

神経質礼賛 192.森田的「生と死」

 生と死について考える時、まず思い浮かぶのはデーケン先生の講義である。アルフォンス・デーケン先生(1932年ドイツ生まれ)は上智大学教授として長年「死の哲学」などを教えておられた方で、カトリックの神父さんでもある。終末期医療の改善やホスピス運動の発展に尽くしてこられた。私も一度、医大で講義を聞かせていただいたことがある。死の準備教育についての講義だった。「死」についての教育は「生きる」ことについての教育でもある。普段から死について考え、準備することでよりよく生きていくことができる。よく死ぬことイコールよく生きることである。つらい時にもユーモアを絶やさず、「にもかかわらず笑うこと」の大切さを説いておられたように思う。

 一方、森田正馬先生は、肺結核と脊椎カリエスに苦しみながらも俳句の世界で大きな足跡を残した正岡子規(1867-1902)を引き合いに出して、生と死について次のように話されている。

 正岡子規が、七年間、寝たきりで動く事ができず、痛い時は泣きわめきながら、しかも俳句や随筆ができたというのは、これが「日々是好日」ではなかったろうかと思うのであります。

                     (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.559

 仏教に涅槃という事がある。一般には死を意味するのであるが、その反面は、「生き尽くす」事であり、「生をまっとうする」事である。子規も命の限りを尽くして、涅槃すなわち大往生を遂げたのである。僕も著書が今度十二冊目になったが、僕が死んでも単に灰になるのではない。著書となって残るのである。

 神経質は、机上論の屁理屈を押し進めているうちに、病の悩み死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きもとれなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮という事に気がついたのを心機一転といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。             (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.705

 デーケン先生はカトリックに基づいた哲学であり、森田先生は仏教思想をバックボーンに持つ精神療法であるが、死生観については、不思議と共通する部分があるように思う。森田療法に根ざしたガンの治療法である伊丹仁朗先生の「生きがい療法」ともなれば、さらに近くなる。「生きがい療法」ではガンの進行・再発を恐れながらもその日一日できることを積み重ねていく、ということに加えてユーモア・笑いを重要視している。末期がんの患者さんたちもつらい治療ネタからユーモアたっぷりの小話を作ったりしている。その結果、免疫力が活性化し、予後が改善するばかりでなく、生活の質も向上するという。

 神経質人間は、人一倍死を恐れる。生物学的な死ばかりでなく、社会的に人から相手にされなくなる社会的死を極端に恐れるのが強迫観念の心理でもある。死は怖いままに、生の欲望に沿って行動して自己の存在意義を示していくのが森田的生き方である。

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