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2007年7月30日 (月)

神経質礼賛 210.精神科専門医

 内科や外科など大部分の診療科では古くから専門医制度があり、臨床医として腕を磨いていく際の大きな目標である。それに対して精神科だけは専門医制度がなかった。厚生労働省の精神保健指定医という制度があって、措置入院や医療保護入院(いわゆる強制入院)の判断を行ったり、隔離・拘束等の行動制限の指示を行なったりする際に必要な資格で、精神保健福祉法を遵守し、患者さんの人権を守る配慮が求められる。指定医があるのだから専門医はいらないという空気も強かった。しかし、指定医というだけでは臨床能力を示すことにならないということで、一昨年から日本精神神経学会の専門医制度がスタートした。当面は過度的措置ということで、レポート審査と口頭試問で判定を受ける。

 私にも順番が回ってきて、一昨日、口頭試問を受けに行ってきた。午前中の外来を終わらせてから、新幹線で名古屋へ向かった。ある医大の助教授が口頭試問を受ける時に緊張してしどろもどろになり不合格だったという情報も入っていたので、少々緊張気味である。3人の試験官(大学教授・助教授クラスの医師らしい)から、レポート症例の診断根拠や薬剤の選択理由や心理検査の解釈など次々と質問された。緊張したものの何とか答えられたと思う。15分間はあっという間に感じられた。

 

 試験会場のホテルを出る。夕方になってもコンクリートジャングルの暑さは強烈である。とりあえずネクタイをはずす。祭りがあるらしく、浴衣姿のカップルが多い。地下鉄伏見駅で下車し、ヤマハに立ち寄る。ちょっと期待をしていたのだが、弦楽器の楽譜は少なく、かつてのヤマハ銀座店(現在建て替え中)の3分の1程度しかない。それでも目当てのバルトークのルーマニア民族舞曲の楽譜は入手できた。また混んだ地下鉄に乗る気もしないので、名古屋駅まで歩く。新幹線ホーム下の待合室入口の狭いところに土産品が並べられているので買う。釣銭を手渡され、いつもならばその場で確認するのに、ホームに上がってから見ると、やられた!500円分足りない。神経質力が弱っているとこんなことになる。夕日の照りつけるホームで「ひかり」を待つ元気はなく、名古屋始発の「こだま」に乗り、帰宅の途についた。

2007年7月27日 (金)

神経質礼賛 209.しかみ像

 徳川家康については11話で歴史上の偉大な神経質人間としてすでに取り上げているが、少々説明不足のところもあるので、今回補足しておこうと思う。

 家康の人間像については異なった見方が存在する。優れた名君だとする説もあれば、凡君説もある。かつてのNHK大河ドラマ「徳川家康」(1983年滝田栄主演)では「厭離穢土 欣求浄土」の旗印そのもので器が大きな理想的人物として描かれているが、いくらなんでもこれは美化しすぎていると思う。

医師で作家の篠田達明氏の書かれた「徳川将軍家十五代のカルテ(新潮新書)」によれば、家康は日常生活において極めて用心深かったという。刺客が侵入しにくいように工夫したり、生ものは食べなかったり、遊女も近づけなかったという。薬に精通し、自分で調合もしていた。「小心、律儀、慎重、実直が終生変わらぬ家康のキャラクターであった」と篠田氏はまとめておられる。これはまさに神経質そのものである。

そして家康神経質説の決定打は「しかみ像」である。家康は武田信玄の挑発に乗ってしまい、三方原の合戦で大敗を喫し、命からがら浜松城に逃げ戻った。その際には恐怖のあまり馬上で脱糞したとも言われる。その時の、憔悴しきった情けない顔を肖像画として描かせたものが「しかみ像」と言われるもので、現在は徳川美術館に収められている。家康は、常にこの像を座右に置き、慢心の戒めとしたと伝えられている。この心理は神経質人間の私からみると、実によく理解できる。こんなことは神経質でなければやらないことである。神経質人間は過去の失敗に非常にこだわる。一見マイナス思考のように思われるかもしれないが、私に言わせればこれは悪いことでもない。例えば、大勢の人命が失われる大きな列車事故は何度も起きているが、過去の失敗に対する反省が不十分だから繰り返されるのである。神経質が足りないがために悲惨な事故が繰り返されているのだ。家康の場合、失敗を教訓として、その後、大きな失策をせず、負ける時にも被害を最小限に食い止めた。その結果、ライバルたちが自滅していく中で、自然と天下が転がり込んできたという見方もできよう。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」で始まる有名な家康公遺訓の一節に「勝つことばかり知りて負けることを知らざれば、害その身に至る」とある。これもマイナス思考に見えて、実はマイナスのマイナスはプラスとなるのである。美空ひばりさんの歌にあった「勝つと思うな思えば負けよ」という柔道の極意にも通じるものがある。真の強者は失敗を恐れ、よく負けることを知っているものである。

2007年7月23日 (月)

神経質礼賛 208.不安心即安心

 今週はたまたま当直が重なり、週4当直とハードである。その第1夜、さっそく電話で起こされる。時計を見ると2:25である。電話の主は外来通院患者さんの夫で、「妻が不安だ不安だと言って落ち着かないので近くの鈴木医院に連れて行って点滴を打ってもらったんですがよくならないんですよ」という。鈴木先生は地元では「赤ひげ先生」のような存在で、もう80歳間近であるが、365日24時間、時間外診察や往診をこなされ、警察の依頼で検死もこなしておられる。もともと外科医だが、内科専門医の資格も持っておられる。まさに開業医の鑑のような方である。この女性患者さんは面白くないことがあると「お腹が痛い」、「気持ち悪い」、「頭が痛い」などと訴えて夫を巻き込み、夜中に鈴木先生のお手をわずらわせる常習犯である。普段から当ブログをお読みの方はすでにおわかりだと思うが、ヒステリーの疾病逃避・疾病利得の心理機制が働いているのである。不安を人に依存して解消しようとするのがヒステリーの常套手段でいわば、「依存心即安心」なのだが、依存される方にも限界がある。

 不安だ不安だと大騒ぎすれば、ますます不安感は強まる。よくある例え話で、夜の墓場で「怖いよー」と叫んで走り出せば周囲に音が響いてさらに恐ろしいことになるようなものである。不安感を持ちながら、仕方なしにその時を過ごしていくうちに、いつしか注意が外に向かうことで、自然と不安は軽くなっていくものである。これが森田先生の言われた「不安心即安心」である。

不安をなくそうと思ってもなくなるものではない。不安は失敗を防ぐための安全装置・警報装置の役割を果たしているのだから、不安は生活に必要不可欠な面も持っているのだ。抗不安薬を飲めば確かに不安は軽くはなるが、神経質の良さも失われてしまう。つまらないミスが増えたり、不用意な発言で周囲とトラブルを起こしたりすることもある。ドキドキ・ハラハラで不安を抱えながらも行動していくことが大切である。

なお、当直中に起こされたことも、ブログのネタにしてしまうところは、転んでもただでは起きない、私の神経質根性のなせるわざである。

2007年7月20日 (金)

神経質礼賛 207.ヒトカラ

 「ヒトカラ」という言葉があるとは知らなかった。平成19年7月10日付け毎日新聞に「増える一人カラオケ」という記事があった。自分が好きな歌を思い切り歌えるということで、平日の昼間は「ヒトカラ」族が増えているのだそうである。一人カラオケをする人のことを「ヒトカラー」と言うらしい。業者側も、利用者数がここ10年ほどは漸減傾向なので、ヒトカラも歓迎らしい。かつてはカラオケと言えば、飲み会の二次会のスナックで、というのが定番だったのが、カラオケボックスができてからは仲間同士で長時間過ごすようになってきた。この人はこんな歌が好きなんだ、というあたりから人柄がわかるとか、歌が話題づくりのネタになったりしていた。つまり歌を楽しむだけでなく、歌はコミュニケーションの小道具だったのだ。それがいつしか自分だけの世界に浸りきって歌い、他の人が歌っている間は聞かずにしきりと次の「持ち歌」を調べまくる、というようなスタイルに変わってきた。こうなると自分が歌えればよいのだから、一人でカラオケに行った方が合理的であろう。何でも「個」の時代であるが、ついにカラオケまでもが「個」の世界になるとは驚きである。

 プラスに考えれば、日常生活を忘れて、手軽にストレス発散できるという面がある。自宅にひきこもっている若者にとって外出の動機になってくれるといいかと思う。特に人前が苦手な人がヒトカラで練習して、大勢の前で歌えるようになってくれたら、カラオケ療法にもなるだろう。

2007年7月18日 (水)

神経質礼賛 206.ハードディスクのクラッシュ

 子供たちが家で使っているパソコンは私の「お古」である。そのうちの一台が1ヶ月くらい前から調子が悪くなり始めた。XPマシンだが、フリーズ頻度が高くなり、フリーズ後に再起動しにくくなった。そのうちに使用中に電源が落ちるようなことも出始めた。これはいけない、と外付けハードディスクにデータを移す作業をしていたら途中で電源が落ちて、以後は全く起動できなくなった。ハードディスクのクラッシュらしい。購入時に販売店で料金を払って3年保障を付けていたが、あいにく保障期間が切れた後のことである。修理依頼をしたらかなりの金額になることが予想されるため、やむなくVista搭載の一番安い機種を購入した。予定外の出費で痛い。子供にとっても、お古のパソコンが新品になったのはよいが、曲データや画像の大部分がバックアップできずに消滅してしまったので痛い。貴重なデータは必ずバックアップを取っておくようにという教訓である。ハードディスクはいつクラッシュしてもおかしくないのだから、神経質に対策を取った方がよい。

 自分が使っているノートパソコンでハードディスクのクラッシュは今まで2回あった。いずれも購入後4年ほどで突然に起こっている。やはりハードディスクの寿命は4,5年といったところなのだろう。2回とも、苦労して打ち込んだ論文など貴重なデータが失われてしまった。これに懲りて、今では外付けハードディスクにバックアップを取っている。最近では気に入ったTV番組もハードディスクに保存するため、データ量は増大の一途をたどっている。私は神経質人間なので、その外付けハードディスクの寿命も気になり、近々、さらに大容量のハードディスクを購入するつもりである。

2007年7月16日 (月)

神経質礼賛 205.ZOOPYさん

 「神経質礼賛」をキーワードにGoogleYahooなどで検索すると当ブログの記事以外に、当ブログをリンクして下さっているブログが見つかる。神経質人間ゆえ、コメントを寄せてくださった方のブログとともに、そうしたブログはなるべく毎日チェックするようにしている。その中にZOOPYという題名のブログがある。ハンドルネームmononoawareさんという女性が書かれているものである。私は頭の中で勝手にZOOPY(ズーピー)さんと呼んでいる。私と同年輩位(ほんの少しお姉様かな?)の方で、教育問題とりわけ不登校に関心がおありで、種々の講座で勉強されたり、女性だけのバンドで演奏されたり、と実に活動的である。毎日のように新しい記事を投稿されている。ご主人や子供さんの話題もよく書かれていて、楽しく読ませていただいている。

 先日出席した同窓会でも痛感したことだが、女性は実にたくましい。生き生きとしている。男性に比べて楽しい話題が豊富である。50代になると、男性はそろそろ定年後のことが気になり出す。名刺の肩書きがなくなってしまってからどう生きればいいか、悩むところである。仕事がなくなったら家の中で粗大ゴミ化するのではないかと早くも心配している人がいる。女性の場合、中には親の介護で大変な方もいるが、子育てを終えれば第二の青春時代を謳歌できる可能性もある。明治から大正時代の思想家の平塚らいてうの言葉「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」に続くのは「そして現代、女性は再び燦々(さんさん)と輝く太陽である」であろう。

2007年7月13日 (金)

神経質礼賛 204.容姿コンプレックス

 自分の容姿が劣っていると思い込んで悩む容姿コンプレックスは、ミスコンに出場するような人は別として、大部分の人が多かれ少なかれ持っているのではないだろうか。新聞の折込広告にはダイエットでこれだけスタイルが良くなりました、という実例写真の入ったものがよくある。ローカル番組のTVコマーシャルでは美容整形クリニックの宣伝もよく目に付く。容姿コンプレックスを衝いた商法である。新聞のTV欄を見ると、「山おんな壁おんな」という新番組の紹介があった。胸が小さいことに悩む女性を主人公にしたコメディタッチのドラマらしい。壁おんなというネーミングには恐れ入る。

 特に思春期には自分の容姿に対する劣等感が強く出やすい。神経質人間ではなおさらである。私の場合、顔が丸顔であり、東洋水産(「赤いきつね」と「緑のたぬき」で有名)のマーク「マルちゃん」に似ていたため、小学校6年の時には「マルちゃん」と呼ばれていた。中学・高校時代は劣等感がピークに達し、丸顔だけでなく大きな鼻もたまらなく嫌に感じた。こんな顔では一生女性に相手にされないのではないかとまで思った。しかし、20歳を過ぎれば、もはや諦めがつくものである。まあ、こんなもので、どうしようもないと。

 中学の同窓会で向かいに座った女性・・・今は教職に就いてカウンセラーもしている人・・・が、「私、中学の時はデブ・コンプレックスだったの」と言っていた。彼女はバスケット部の選手でちょっと大柄ではあったが、私から見て太っているようには思えなかった。いつも自信にあふれ溌剌とした人に見えた。私の横に座っていたA君ががその女性に向かって「オレ、お前にイジメられてたよなー」と言う。そういえば、私も合唱コンクールの指揮者をしていて練習の時、皆ヤル気がないので、適当に流していたら、その女性に「しっかりしなさいよ!あなたがまとめなきゃ!」とお叱りをいただいたことを思い出した。その人が、そんなコンプレックスに悩んでいたとは・・・わからないものである。

 時として、病的なまでの容姿コンプレックスに悩む人たちが精神科外来を受診することがある。醜貌恐怖(身体醜形障害)と呼ばれ、重症の対人恐怖となることがある。例えば髪が縮れていることに異常にこだわったりする。しかし、本人は、なかなかの男前で人気者だったり、チャーミングな女性だったりする。客観的事実と本人の認知とには大きな乖離があるのである。容姿に悩むヒマがあったらもっと悩み甲斐のあることを悩んだ方がよい。注意が外に向かうようになれば自然と症状も良くなってくるものだ。

2007年7月 9日 (月)

神経質礼賛 203.美人あれこれ

 今年のミス・ユニバースには日本人女性の森理世さんが選ばれた。しかし、TVのニュース映像や新聞の写真を見た感想は正直なところ「ん?」である。濃いメイクのせいもあるが、日本人というよりどちらかというと中南米女性のイメージに近いためだろうか。

 おかしいのは神経質人間の私だけかと思っていたら、平成19年6月18日付毎日新聞に面白い記事があった。<現在>を読むというコラムに井上章一・国際日本文化研究センター教授が書いた「美人をとりまく社会の変化」というものである。「美人論」という著書のある井上教授も「ややなじめない気分もうかんでくる。それほど美人なんだろうか、と思ってしまったのである」「世界一の美人なのかと言われれば、どうしても首をかしげてしまう」と述べている。結論の一つは、ミス・ユニバースは美人コンテストではなく、一種の競技種目であること、もう一つは脚光を浴びる美人が芸能界以外でも美人女医や美人弁護士のように多くなり、単なるミスコンで美人が出現してもありがたみがない、ということらしい。

 美の基準は文化によって大きく異なり、時代によっても変遷する。日本の美人も次第にグローバル・スタンダード化していくのだろうか。外面はともかく、細かい気配りが行き届き・芯は強いがちょっと恥じらいのあるような大和撫子は絶滅危惧種に指定しなくてはならない。

 私の外来に通院する20代後半の女性は対人緊張が強く、人と目が合わせられないことを悩んでいた。彼氏ともうまくいかず別れてしまった。それこそミスコンに出てもおかしくないような美貌であり、長身でスタイルもよく、モデルさんのように見える。そのような悩みがあることは言わなければ誰にもわからない。この人には森田正馬全集の一節を読んでもらい、無理に視線を合わせようとしなくてよい、と話した。

「自然の人は、普通、何思はず、必ず眼を他にそらせるものに候。之が普通の場合である。特に恋人や年長の人に対しては、それはそれは微妙に眼が他にそれるものに候。(中略)人を見つめる人は、気位高く、自我の強い傍若無人の変人のみに候。(中略)小生は人を平気で見つめるやうな人は嫌いに候。女などは特に人を見つめぬやうなつつましやかさがなければ、誠にいやなものに候」(白揚社:森田正馬全集第2巻p.195-196

 これの効果があったかどうかはわからないが、その後、彼女は仕事がうまくいって、新しい店を任され、業績も順調に伸ばしている。新しい彼氏もでき、結婚する予定だとのことである。相変わらず人と目を合わすのは苦手です、とはにかみ笑いしながら言う。神経質がうまく生かせるようになってきたのだろう。通院終了は近そうである。

2007年7月 6日 (金)

神経質礼賛 202.勝負曲

 平成19年6月17日の教育テレビ・N響アワーは、ゲストが将棋の佐藤康光永世棋聖であった。佐藤棋聖は幼少時よりヴァイオリンを習っていて、将棋関係のイベントでは演奏することもあり、クラシック通としても有名である。この番組の中で、将棋の対局前に聴く音楽は、と聞かれて、ヨハン・シュトラウス2世作曲「美しく青きドナウ」と答えておられた。そして、ここぞという大きな一番の前にはエルガー作曲「威風堂々」と聴いて、気合を入れるのだそうである。「美しく青きドナウ」はウイーンフィルのニューイヤーコンサートではアンコール曲の定番であり、日本でも人気が高い曲である。山紫水明の美しい風景が目に浮かぶ曲であるが、N響オーボエ奏者・茂木大輔さんのエッセイ「オケマン大都市交響詩」(中公文庫)によれば、実際は美しくも青くもないドナウなのだそうである。音楽療法ではリラクゼーションに適した曲とされており、佐藤棋聖も対局前の緊張をほぐして集中力を高めておられるのだろう。「威風堂々」は通称「イギリスの第二国家」である。中間部のメロディーはあまりにも有名で、数多くTVコマーシャルのBGMに使われ、アニメ「あたしンち」のエンディングでも使われていた。気分を高揚させるのに適した一曲と言えよう。つい最近、選挙向けにA総理が出ているJ党のTVコマーシャルのBGMもこの曲だが、威風堂々とはほど遠い羊頭狗肉・口先だけの美辞麗句では、曲が泣く。

 神経質な私が、朝の通勤中にいつも電車の中で聴いている曲は、チェンバロ(ハープシコード)の曲でまず、バッハ作曲「イタリア協奏曲」で次がヘンデル作曲「調子の良い鍛冶屋」である。ピアノ曲やオーケストラ曲ではダイナミックレンジが広すぎて(音の大小の差が大きすぎて)電車の中で聴くには適さないからである。イタリア協奏曲の第1楽章は一頃セブンイレブンのおでんのコマーシャルで使われていてガックリきたものであるが、爽やかで心地よい。第2楽章は雨降りの午後を連想するような短調のアリアであり、ゆったりと浸っていられる。第3楽章は一転してエネルギッシュであり、さあ、やるぞ、という気分になってくる。そして極めつけは「調子の良い鍛冶屋」で、頭の中は完全に「お仕事モード」に切り替わる、というわけである。ただし、体調が悪い日や、気分が落ち込んでいる日には、クライスラー作曲「ウイーン奇想曲」などのヴァイオリン曲をクライスラー自身の演奏(SP復刻版)でまったりと聴いてじっくり気力の回復を待つのである。

 今では超小型のオーデイオプレーヤーが安価で手に入り、どこでも音楽が聴けるようになっています。皆さんも御自分にあった「勝負曲」を選んでみてはいかがでしょうか。中島みゆきの「地上の星」もいいかもしれません。ただし、気分が落ち込んでいる時にはゆったりとしたテンポの曲・短調の曲が向いています(64話参照)。

2007年7月 2日 (月)

神経質礼賛 201.塞翁が馬

 前話の「善悪不離 苦楽共存」と同様に認知療法的な作用を持つ言葉として森田先生の言葉以外では「塞翁が馬」という言葉がある。この故事は高校の漢文の教科書にもあったので御存知の方も多いと思う。塞翁とは古代中国の北方の砦に住んでいた占いを得意とする老人である。塞翁が飼っていた馬が逃げてしまったので周りの人たちが慰めると、塞翁はこのことが福となることを予言した。逃げた馬は駿馬を連れて戻ってきたので、周りの人たちはお祝いすると、塞翁はこのことが禍となることを予言した。塞翁の息子が駿馬に乗っていて落馬して足を折ってびっこになってしまった。しかし塞翁はこのことが福となると予言した。その後、戦争が起こり、若者たちは兵隊に取られて戦死したが、塞翁の息子は足が悪かったために兵役を免れ、生きのびることができた。福と思われたことが禍となることがあり、またその逆もありうることをいう。従って一喜一憂することはない、ということである。

 神経質人間はつい自分ばかりに悪いことが起こっていると考えがちであるが、実際にはそれほど悪いことばかりが起こっているわけではない。ちょっと見方を変えて、良いことにも目を向けて、減点法でなく加点法で考えていけば、気分も楽になってくるものである。イヤなことがあってもガッカリすることはない。この故事のようにそれが福の元であるかも知れないのだ。それに確率的に考えても、コイン投げでウラ面ばかりが続くはずはなく、長い目で見れば表もウラも同程度に出るはずだ。悪いことが続いたら、いつかいいことが続くと思えばよい。なお、神経質人間は悪い方も考えて準備するので、大損害は避けられるという長所もあるのだ。

逆に無神経な人、「鈍感力」過剰の人は楽観しすぎて禍の芽を見落としてひどいめにあう可能性がある。こちらの方は救いようがない。

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