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2007年12月31日 (月)

神経質礼賛 260.夢の中の有無は有無とも無なり

 森田正馬先生は「夢ノ本態」の中で大久保彦左衛門の言として「迷いの中の是非は是非とも非なり 夢の中の有無は有無とも無なり」という言葉を紹介している(白揚社 森田正馬全集第6巻p.48)。「中」が「内」となっていることもあるが同じことである。この言葉は悪夢に悩まされる人にピッタリの言葉である。いい夢を見ようが悪い夢を見ようが関係ないというのが現実重視の森田療法家の立場である。夢判断や夢解釈を行う精神分析とは対極的である。

心配性で小心者の私がよく見る定番の夢は、学生時代にタイムスリップしていて、学校へ行ったら今日が試験の当日だと知ってパニックになるとか、授業の科目を勘違いしていて別の科目の教科書を持って来てしまったところで教師から指名されてパニックになるとか、オケの演奏会でコンサートマスターの席について楽譜を見たら全く初めて見る曲でパニックになるとかいうような情けない夢である。いずれもそこで目が覚めて、「夢でよかった」とほっとするわけである。

恥ずかしい話、幼稚園から小学校低学年の頃に時々見た困った夢は、トイレに駆け込んで「間に合った」と、ほっとしてオシッコする夢で、その直後に寝小便に気付いて大慌てだった。この場合は「夢の中の有無は無」とは言い切れないかもしれない。話は脱線するが、こと寝小便に関しては、森田先生にはかなわない。自著の中で「余は寝小便たれであった」と10歳過ぎてもオネショしていたことを告白されている。森田先生は同郷の偉人・坂本龍馬もそうだったのだから、と開き直っておられた。

 できることなら初夢くらいはいい夢を見たいものであるが、またいつもの悪い夢を見たときには冒頭の言葉で開き直るだけのことである。

 今年も御愛読いただきありがとうございました。当ブログがスタートして間もなく丸2年を迎えます。一度もデザインを変えず、写真なしの文章だけで、いかにも神経質人間らしい無愛想なブログですが、質実・辛口をモットーにこれからも細々と続けていきたいと思います。

 それでは皆様、よいお年をお迎え下さい。

2007年12月28日 (金)

神経質礼賛 259.薬害肝炎問題

 薬害肝炎訴訟問題でようやく国が責任の一端を認め、すべての患者を救済する方向で動き出した。問題の血液製剤は出産時の出血を止める目的で使われていたため、被害者は女性が多い。原告女性以外にも本人が知らずに投与されていて明らかな症状が出ていないために被害に気付いていないケースも考えられるし、その後の出産で子供にもいわゆる垂直感染で感染が広がっていないだろうかと心配になる。C型肝炎ウイルスが発見されたのは私が医学生の頃で、当時の内科の教科書では非A非B肝炎とされていた。C型肝炎ウイルスは血液や体液を通じて感染し、徐々に肝炎→肝硬変→肝癌へと進行していく。血液製剤にC型肝炎ウイルスの混入が明らかになった段階ですみやかに対応を取っていれば、これほど多数の被害者を出さずに済んだはずである。製薬会社が把握していた投与者に長年にわたり何の連絡もとらないまま放置し、現在では連絡不能の人も多い、というのは無神経きわまりない。

近年でも脳の硬膜移植でクロイツフェルトヤコブ病(狂牛病と同類で治療不能な痴呆性疾患)の病原体プリオンに感染した事件があった。プリオンは消毒や加熱によって容易には破壊できない厄介なものである。現在の医学でも未知の病原体はありうる。生体由来の製剤や医療材料では感染の危険性がなくならないことを常に認識し、その使用に関してはもっと神経質であることが必要である。

 薬害肝炎訴訟問題でF首相が原告団に謝罪したのと同じ日に、神奈川県内の公立病院で、心臓カテーテル検査の際にトランスデューサを交換しないで連続して検査したことが原因で、C型肝炎の感染者が発生したことが報じられていた。これは検査技師が、「交換しなくても多分大丈夫だろう」と思い込み、交換しなかったことが原因だった。これなどは神経質が足りない、だけでは済まされないだろう。

2007年12月24日 (月)

神経質礼賛 258.2代目3代目

 新聞の経済面はそれほど丁寧に読まない私だが、たまたま1214日付毎日新聞夕刊の経済観測のコラムが目に留まった。「最悪のシナリオ」と題して、2代目3代目はなぜダメなのか、ということが書いてあった。経済コラムらしからぬ内容である。

2代目3代目は素質としては平均を上回るものを持っているが、判断が甘く、有事への対応が稚拙になりやすく、ことに政界や財界ではそれが目立っている。A前首相をはじめとする2世議員や数々の偽装問題に揺れる老舗の経営者たちがそうである。苦労人で地獄を見たことのある人は、最悪のシナリオをサッと描いて日頃から対応策を考え危ない橋は渡らないのに対して、育ちがよくて苦労知らずで育った人間は最悪のシナリオを描くのが苦手で、それに思い及んだことがないため、最悪の事態を招いてしまう、と筆者は分析している。

 いわゆる2代目3代目には小学校から苦労せずにエスカレーター式に大学まで昇り、良家の子女と結婚し、親の地盤や資産を受け継いで議員や社長になったという人も多い。激しい競争を経験していないから、おっとりして「いい人」という面もあるが、大きな失敗や挫折体験をして、それを乗り越える経験を積んでいないため、精神的に脆弱でもある。また、他人のつらさに対する共感性も乏しい。適切なアドバイスをしてくれる家老役がいれば何とかカバーできるが、ワンマンになってしまうと「裸の王様」や「バカ殿」になりがちである。

「プラス思考」とか「鈍感力」ばかりがもてはやされている時代ではあるが、適度な「マイナス思考」や「敏感力」は必要だというのが私の持論である。話題になるような2代目3代目には必要な「マイナス思考」「敏感力」ともに欠如しているのではないか。経験という裏打ちのない根拠なきプラス思考は砂上の楼閣にすぎない。

その点では神経質人間は最悪のシナリオを描くのは得意であり、石橋たたきはいつものことである。周囲の状況にも敏感に反応する。最悪のケースを読んで覚悟し、不安を抱きながらも恐る恐る地雷を踏まずに前進していけば、普通以上の成果が得られる。結果として最悪のケースに比べればはるかに大きなプラスとなっているのである。神経質で大いに結構である。

2007年12月21日 (金)

神経質礼賛 257.男は女々しい?

 1210日付毎日新聞夕刊「特集ワイド」のコーナーに作家の渡辺淳一氏のインタビュー記事があった。女性議員や有名人女性の過去を男性が週刊誌に暴露するような昨今の風潮を評して、「男は女々しいもの」というお題である。3行にわたる副題を見れば要旨がわかる。「黙って耐える」はもう古い 未練がましくひ弱な生き物 暴露するのも本来の姿、とある。渡辺氏によれば男はもともと女々しいものなのだそうである。女性の方が精神的に強く、痛みや出血にも強くできていて、寿命は男性より長い。母親が子供に「男らしくしなさい」とか「女らしくしなさい」と言うのは、男の子は放っておくと女になり、女の子は放っておくと男になってしまうからだ、という。なかなか面白い見方である。さらに、性的欲望を満たすためだけならば風俗があるし、独身貴族から一気に貧しくなり一人の女性に縛られ子育てに膨大な金がかかる結婚にはメリットがないのだから、結婚しない男が増えているのは当然とも述べている。人間は社会的規約がなければ意外に結婚しない生き物かもしれない、というのが渡辺説である。ぜひ少子化対策担当大臣とやらと対談していただきたいところである。

 渡辺氏の意見にはもっともな部分もある。男は女々しいもの、という点については全く同感である。ましてや神経質な私の場合、かつては強がろうとムダな「はからいごと」をしていたものである。しかし、今では弱い自分を素直に認め、このままでいいのだと開き直っている。

それにしても渡辺氏の後半の発言で、結婚生活や子育てをそこまでネガティブに見なくてもよいのではないかと思う。ベストセラー「失楽園」のような社会的規約にとらわれない恋愛小説を得意とする渡辺氏から見れば、平凡な夫婦関係や苦労の多い子育てには飽き足らないのであろうが、多くの人々は渡辺氏の小説の世界にちょっぴりあこがれ現実の世界にグチをこぼしながらも、可もなく不可もなく家庭生活をそれなりに楽しんでいるのではないだろうか。森田先生の色紙に「求むればどんな楽しみも楽しみではなく、厭(いと)わざればどんな苦しみも苦しみではない」というものがある。快楽ばかり追い求めてもキリがないし、同じレベルでは満足できなくなってしまう。快楽は麻薬と同じである。苦楽共存という森田先生の言葉にあるように一見つまらない苦しい仕事や平凡な日常生活の中に時々キラっと光る喜びもあるのではないだろうか。

2007年12月17日 (月)

神経質礼賛 256.PHSとトイレ

 飲食しながら読んでいる方がいたら済みません。あらかじめお詫びしておきます。

勤務先の病院内では医師呼出し用のPHSを持たされている。当直で寝る時も枕元に置いて、すぐに出られるようにしている。病棟からちょっとした用件でもPHSで呼出される。確かにスタッフからすれば便利である反面、こちらとしては外来診察中でも遠慮なくかかってくる、間違い電話も多い、といった問題がある。神経質な看護師さんだと、まず外来処置室の看護師さんに電話して私が外来患者さんと話している時でないことを確認してからPHSを鳴らしてくれるのだが、神経質が足りない看護師さんだとこちらの状況おかまいなしに一方的に長電話してきたりして困ることになる。私のPHSの内線番号が給食の内線番号と似ているため、「常食が一人分足りないんだけど頼める?」などといきなりかかって来ることがある。トイレで用を足している時にもおかましなしにかかってくる。若い男性の看護師長は「今どちらにいますか?」と必ず聞いてくる。正直に「トイレにいます」と言うべきかいつも一瞬迷う。「今3階にいるので、もう少ししたら病棟に行きますよ」という具合に答えているが、たまには「トイレです」と答えてみようか。

 寒い時期になってくると思い出す事件がある。まだ病院が移転する前のこと、古い病院は玄関入ってすぐ外来待合室、左が外来トイレ、右が医局(医師の机がある部屋)だった。こういう構造だから、患者さんが勝手に医局に入り込んできたり、古株の薬屋さんがちゃっかり医局のソファに座っていたりするようなこともあった。職員用のトイレはないので我々も外来トイレを利用していた。ある当直の晩、夜12時頃になって、3階の当直室に上る前に外来トイレに入った。普段はトイレ入口のドアは開いたままであるが夜間なので何となく閉めた。さてトイレから出ようとするとドアが開かないではないか!内側からはマスターキーでも開かない。ドアは防火用の鉄扉でビクともしない。さあ、困った。トイレには道路に面した高窓があるが、私の運動神経ではよじ登ってこれをくぐりぬける芸当は厳しそうなサイズである。窓を開けて大声で助けを呼んだとしてもナースステーションには届かないだろうし、近隣の住民に迷惑がかかる。パトカー出動とでもなったら大恥である。かといって朝まで冬のトイレで立っているのも辛い。絶体絶命と思いきや、ちょうど2、3日前から導入されたPHSが白衣のポケットに入っていたことを思い出した。それで当直職員に助けを求め外側からマスターキーで開けてもらって脱出できた。翌朝、出勤してきた事務長に状況を話すと「アハハ、雪隠詰めでしたか」と笑われた。昨日他のドアノブと交換したが、内側から開かないはずはない、という。そこで、事務長に中に入ってもらいドアを閉めると、やはり昨夜と同じことが起こった。「開けて下さいよー!」。それみたことか。すぐにドアノブは交換となり、私の他には犠牲者は出ずに済んだ。この一件ほどPHSのありがたみを感じたことはない。同じ病院で自称神経質(?)の某先生はPHSを持ち忘れて勤務していることがよくあるが、神経質な私はこの一件以来、出勤してから帰る時まで肌身離さず持ち続けている。

2007年12月14日 (金)

神経質礼賛 255.一方通行逆走

 休日の昼間、家の近くを歩いていると、一方通行の道路を逆走していく車があった。この道路は踏切前の複雑な五叉路につながるため、一方通行だと気付きにくく、たまに誤って進入してあわてて方向転換していく車は見かけるが、この日に見た車は対向車が来ても気が付かず、対向車が歩道に乗り上げながらかわしても気が付かずに悠然と逆走を続け、小路それも逆向きの一方通行に左折したところで止まった。車から降りてきたのは年配の僧侶で、通りかかった人に道を尋ねているようであった。もしかすると、この僧侶はいわゆる認知症かも知れない。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」のうっかり話では済まない。最近、高齢ドライバーが高速道路を逆走して大事故を起こすことが問題となっているが、市街地の一方通行道路でも逆走は危険である。着実に高齢ドライバーの数は増え続けている。誰もが加齢とともに運動機能ばかりでなく確実に認知機能が落ちていき咄嗟の場合に誤った判断をしやすくなるのであるから、わかりやすい標識や案内板の整備が必要なのではないだろうか。問題の道路の場合も交差点に大きく矢印をペイントすれば、かなり誤進入が減らせるものと思う。ただ業者任せに機械的に標識を付けてよしとするのではなく、少しでも事故が減るように工夫する神経質が必要である。

2007年12月10日 (月)

神経質礼賛 254.図書館活用術・ケメ子の歌

 わが家から歩いて10分位のところに市立図書館の分室がある。駅に近い高層ビルの4・5階にあり、大変便利である。子供たちは以前からよく利用していた。たまたま子供についていった時に、貸し出しているCDがかなりあることに気付き、今年になって借りるようになった。入手不能な室内楽曲のCDはモーツアルト全集などのシリーズ物の中から探して借りることができてまさに宝の山である。学生時代に奮発してSP復刻版クライスラー全集のレコードを買ったが、今ではプレーヤーもなく実家でホコリをかぶっている。それと同じCD11枚組の全集を見つけ、大喜びである。動き出すと止まらなくなるのが神経質人間の特徴で、近くの分室だけでなく、他の分室や図書館本館を回り、面白いCD探しをするようになった。なるべく車は使わず歩いて行くので運動にもなって一石二鳥である。

 近頃はクラシックに限らず、ポップスやアニメ曲まで物色している。最近見つけたレア物はコロムビアの「珍盤・名盤コレクション」の中にあった「ケメ子の歌」である。今から40年ほど前、確か私が小学校5年生の頃はやった歌である。男の子が街で出会ったケメ子に恋をし、ハイキングに行く夢を見るが、告白したとたん「吐き気を催すその顔で私を好きになるなんて」とフラれてショボーンとなる、というストーリーの歌だ。学校でも「ケメ子」をクラスの女の子の名前に変えて歌う遊びがはやったものである。実に懐かしい。それにしても、「ケメ子」というありえない名前の由来は何なのだろうかと知りたくなる。

私が20代前半の頃は荒井由実やサザンオールスターズの歌が人気だったが私はどうも好きになれなかった。中央フリーウエーや湘南海岸は私のように貧乏でモテない理系人間には無縁の世界に思えたからである。しかし、最近それらを借りて改めて聴いてみると、メロディーも歌詞も、なかなかいいじゃないか、とすっかり見直した。いわば無料レンタルであるから気軽にいろいろなジャンルの曲を聴くことができていつの間にか音楽の幅が広がっている。

ただ、残念なことは、CDの解説書に書き込みがされていたり、CDそのものが傷ついて一部再生不能なものがあったりすることだ。特に日本のポップス系CDに多い。曲の一覧のページなどはよく○や×の記号が書き込まれている。多分ダビングする曲としない曲に印をつけたのだろうが、無神経この上ない。借りたCDは後で借りる人のことを考えて神経質に扱いたいものである。

2007年12月 8日 (土)

神経質礼賛 253.定常型社会

 旧知の間柄のKEIZOさんの掲示板「日々の賀状(A HAPPY NEW DAY)」に定常型社会と医療の関係が書かれていて、いろいろ考えさせられた。この掲示板は必ずチェックしているが、流れが速くて私の能力では追いかけてコメントを書くのが困難であるので、この場で考えを少し述べさせていただく。

 定常型社会とは「物質・エネルギーの消費が一定となる社会」である。資源や環境の制約の中で定常状態が保てる社会ということになる。医療の世界ではどうだろうか。

 医学の進歩はめざましい。技術的には遺伝子診断・遺伝子治療や万能細胞を利用した再生医療が実現する日はそう遠くないだろう。病気の早期発見・早期治療が今よりもさらに可能になるということで喜ばしい反面、医療に要するコストや資源の問題が出てくる。現時点でさえ医療費削減の国からの圧力は大きく、さらに医療訴訟・医療過誤の刑事訴追の増加で、産婦人科医や小児科医や外科医が病院を辞めていき、医療崩壊という悲鳴が上っている。

 確かに人の命は地球より重いのだろうが、現実には限られたコストの範囲内で限られた医療資源を最大限有効に使っていく道を模索しなくてはならないだろう。医療を受ける側も考え方を変えていく必要がありそうである。ドクターショッピングで無駄なコストを消費するとか、マッサージ目的で整骨院を利用して健康保険を悪用するなどはもってのほかである。飲まない内服薬や使わない外用薬は次の受診時に断ってほしいものだ。特に高齢者では使わなくても薬を欲しがる傾向があり、啓発活動していく必要がある。さらには終末期医療で11秒でも延命するために膨大なコストや資源を費やすのはどうかと思う。それよりもQOL(生活の質)を高めることにコストや資源を使った方がよいのではないか。自分が死んでいく時、病院のベッド上で種々のカテーテルがスパゲティー状態で体に繋がれモニター装置が無機的な音を鳴らしている中で死んでいくのと、自宅にいて周囲の生活の音の中で最期を迎えるのとどちらを選択するだろうか。私なら死期が早まっても後者を選びたい。

 また、病気になった→病院にかかる、となる前に、病気にならないような生活習慣にしていくことも大切である。医食同源とはよく言われるが、特に食生活を改善していくことは病気の予防や自然治癒力の向上に重要だと思う。さらに、病気はすべて薬や手術などで治療すべきだ、というものとは限らない。加齢に伴う不具合は誰にもある自然現象であるし、生命的に影響の少ない病気であれば、治療だけでなく日常生活の中で病気と上手に付き合っていく技術も大いに役立つはずである。森田療法が神経症を病気ではないとするアプローチも応用が利くはずである。いずれにせよ、定常型社会での医療には「無為自然」のような東洋思想的な考え方がポイントになってくると思う。

2007年12月 7日 (金)

神経質礼賛 252.森田療法のひろがり

 1130日と12月1日の2日間、第25回森田療法学会が東京で行われた。私は土曜日の外来と当直がはずせないので今回も日帰り参加となってしまった。この学会も精神科専門医の更新ポイントになるため、朝から夕方まで会場内に缶詰状態になっていた。

 特別講演では、力動精神医学の大家である狩野力八郎先生が、森田正馬の先見性について話され、興味深いものであった。力動精神医学はフロイトの精神分析を基盤にアメリカで発展したものである。森田療法が過去を問わず今ここで不安を持ちながら行動させていくのに対し、精神分析は正反対で、徹底して過去を問い、病気の原因を調べ、本人に洞察させるものである。他にも精神分析を専門とする先生から見た森田療法の話もあり、森田先生の入院治療は分析の立場から見ても優れているとのことであった。精神療法は時代とともに変遷していく。森田先生にしても、当時可能だった薬物療法や他の精神療法や生活療法をすべてやりつくした上で森田療法を創っていったのである。森田と分析とでは立場は全く異なるが、双方を理解し、互いの良い部分を取り入れていく面があってもよいだろう。

 個々の発表演題を見ると、外来森田療法が中心となってきている。入院治療施設の減少ということが背景にある。東京の鈴木知準診療所で長年入院森田療法をされていた鈴木知準先生もお亡くなりになった。そんな中で京都・東福寺近くの三聖病院では今なお森田先生の原法に近い「禅的森田療法」が行われているようである。私の勤務先の病院でもかつては古事記の音読をさせ読書は禁止でひたすら作業三昧という「修行の場」的な雰囲気だったが、森田先生から直接教えを受けた指導員の田原綾さん(84話)が亡くなられてからはそれも絶えて、今では大学病院に近いぬるま湯的な森田療法に近づいてしまった。現在の健康保険制度では全く採算が取れないし、個室で育ち集団生活を苦手とする人が増えている現状ではやむを得ない。

 そんな中で注目されるのは精神科以外の領域へのひろがりである。歯科口腔外科で口臭や口腔内異常感を訴える方への森田療法の応用の発表がいくつかあった。学校や職場でのカウンセリングに応用する試みの発表も年々増えている。以前から森田療法をガン治療に応用した「生きがい療法」や麻酔科での慢性疼痛治療への応用が注目されていたが、森田療法の輪がさらにひろがりを見せており、喜ばしい限りである。

森田療法は単に神経症の治療ということだけでなく、優れた生き方の指針という一面も持っている。かつては神経質な性格に悩み今では神経質に感謝している私も微力ではあるがその分野の普及活動を続けていくつもりである。

2007年12月 3日 (月)

神経質礼賛 251.アルコールセンサー

 今年も師走に入り、街はクリスマスのイルミネーションで彩られている。そろそろ忘年会シーズンでもある。それを見越してからか、先月下旬に警察署から飲酒運転撲滅の署名依頼が病院あてにあった。それとともにアルコールセンサーという小型のアルコール検知器(1個二千円)の注文受付もあった。署名の方はほぼ全員書いたが、アルコールセンサーの注文は病院全体で事務長と理事の二人しかなかったので、「注文してもらえませんかねえ」と理事に頼み込まれ、私も購入することにした。

 アルコールセンサーの外見は太目の電子体温計といった感じである。さっそく家に持ち帰って試してみる。アルコール量日本酒換算で2合弱程度の飲酒後、センサーで呼気を数回測ってみると、最高で0.15(mg/リットル)という数値が出た。これはちょうど「酒気帯び運転」にあたる値である。測定値の表示は0.05単位で最高0.5までであるからあくまでも目安ということだろう。実用性はハテナであるが、一台持つことで、アルコールの飲みすぎに気をつける意識付けにはなりそうである。

 私は普段は寡黙なので、酒を飲んで普通、と妻からよく言われる。それに飲むとなぜか食器や鍋・フライパンを洗う癖があって、これは妻には歓迎されている。ちなみに「飲んで普通」は若い頃から友人や同僚によく言われたことであるし、飲み会の後片付けや、酔いつぶれた人をタクシーに乗せる役をよくやっていたような気もする。今のところ健康を害したり酔ってからんだりなどの問題はないようだが、「酒に呑まれる」可能性やアルコール依存症に陥る可能性はゼロではない。神経質に用心しておくにこしたことはない。

 森田正馬先生もお酒は好きだったようで、よく助手の先生を相手に晩酌を楽しまれていた。先生の健康を気遣う奥さんがお酒を小さな器に入れて晩酌の量を減らそうとしたのに対し、先生はごまかされないように量を測ってチェックする、という攻防戦があったようである。

森田先生は京都三省会の座談会(昭和61013日)で次のように言っておられる。

 「酒飲みは、やめたいと思いつつ、ついつい飲む。その事実を認めなければならない。それを、飲むまいと思っても飲まずにおれない、自分は意志薄弱であるとか、なんとか理屈をつけるのがいけない。欲望と恐怖とを別々に、事実としてみなければならぬ。酒を飲みたいのは、主観的の事実。酒は有害であるとは客観的の事実。この両方を別々に、はっきりと認めれば、決して暴飲にはならない。この両事実をウヤムヤにして、いろいろの理屈をつけて、自分の心を楽にするように考えようとするから間違いのもとになる」

 理由付け飲酒をしたり、「酒なんかいつでもやめられる」「酒に呑まれることはない」と思ったりするのは、アルコール依存症の人にありがちである。本当のアルコールセンサーは自分自身なのである。

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