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2007年12月 8日 (土)

神経質礼賛 253.定常型社会

 旧知の間柄のKEIZOさんの掲示板「日々の賀状(A HAPPY NEW DAY)」に定常型社会と医療の関係が書かれていて、いろいろ考えさせられた。この掲示板は必ずチェックしているが、流れが速くて私の能力では追いかけてコメントを書くのが困難であるので、この場で考えを少し述べさせていただく。

 定常型社会とは「物質・エネルギーの消費が一定となる社会」である。資源や環境の制約の中で定常状態が保てる社会ということになる。医療の世界ではどうだろうか。

 医学の進歩はめざましい。技術的には遺伝子診断・遺伝子治療や万能細胞を利用した再生医療が実現する日はそう遠くないだろう。病気の早期発見・早期治療が今よりもさらに可能になるということで喜ばしい反面、医療に要するコストや資源の問題が出てくる。現時点でさえ医療費削減の国からの圧力は大きく、さらに医療訴訟・医療過誤の刑事訴追の増加で、産婦人科医や小児科医や外科医が病院を辞めていき、医療崩壊という悲鳴が上っている。

 確かに人の命は地球より重いのだろうが、現実には限られたコストの範囲内で限られた医療資源を最大限有効に使っていく道を模索しなくてはならないだろう。医療を受ける側も考え方を変えていく必要がありそうである。ドクターショッピングで無駄なコストを消費するとか、マッサージ目的で整骨院を利用して健康保険を悪用するなどはもってのほかである。飲まない内服薬や使わない外用薬は次の受診時に断ってほしいものだ。特に高齢者では使わなくても薬を欲しがる傾向があり、啓発活動していく必要がある。さらには終末期医療で11秒でも延命するために膨大なコストや資源を費やすのはどうかと思う。それよりもQOL(生活の質)を高めることにコストや資源を使った方がよいのではないか。自分が死んでいく時、病院のベッド上で種々のカテーテルがスパゲティー状態で体に繋がれモニター装置が無機的な音を鳴らしている中で死んでいくのと、自宅にいて周囲の生活の音の中で最期を迎えるのとどちらを選択するだろうか。私なら死期が早まっても後者を選びたい。

 また、病気になった→病院にかかる、となる前に、病気にならないような生活習慣にしていくことも大切である。医食同源とはよく言われるが、特に食生活を改善していくことは病気の予防や自然治癒力の向上に重要だと思う。さらに、病気はすべて薬や手術などで治療すべきだ、というものとは限らない。加齢に伴う不具合は誰にもある自然現象であるし、生命的に影響の少ない病気であれば、治療だけでなく日常生活の中で病気と上手に付き合っていく技術も大いに役立つはずである。森田療法が神経症を病気ではないとするアプローチも応用が利くはずである。いずれにせよ、定常型社会での医療には「無為自然」のような東洋思想的な考え方がポイントになってくると思う。

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コメント

先生、私の掲示板での問題提起を、
お心に留めていただき、ご丁寧かつ有益なコメントをいただき、
恐縮しております。
この問題に関心を寄せる人も多いと思いますので、
私の掲示板に引用させてください。
よろしくお願いします。

keizo様
 さっそく掲示板で御紹介いただきありがとうございます。今後ともこういったテーマについて考えて行きたいと思います。また御教示いただけましたら幸いです。

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