神経質礼賛 260.夢の中の有無は有無とも無なり
森田正馬先生は「夢ノ本態」の中で大久保彦左衛門の言として「迷いの中の是非は是非とも非なり 夢の中の有無は有無とも無なり」という言葉を紹介している(白揚社 森田正馬全集第6巻p.48)。「中」が「内」となっていることもあるが同じことである。この言葉は悪夢に悩まされる人にピッタリの言葉である。いい夢を見ようが悪い夢を見ようが関係ないというのが現実重視の森田療法家の立場である。夢判断や夢解釈を行う精神分析とは対極的である。
心配性で小心者の私がよく見る定番の夢は、学生時代にタイムスリップしていて、学校へ行ったら今日が試験の当日だと知ってパニックになるとか、授業の科目を勘違いしていて別の科目の教科書を持って来てしまったところで教師から指名されてパニックになるとか、オケの演奏会でコンサートマスターの席について楽譜を見たら全く初めて見る曲でパニックになるとかいうような情けない夢である。いずれもそこで目が覚めて、「夢でよかった」とほっとするわけである。
恥ずかしい話、幼稚園から小学校低学年の頃に時々見た困った夢は、トイレに駆け込んで「間に合った」と、ほっとしてオシッコする夢で、その直後に寝小便に気付いて大慌てだった。この場合は「夢の中の有無は無」とは言い切れないかもしれない。話は脱線するが、こと寝小便に関しては、森田先生にはかなわない。自著の中で「余は寝小便たれであった」と10歳過ぎてもオネショしていたことを告白されている。森田先生は同郷の偉人・坂本龍馬もそうだったのだから、と開き直っておられた。
できることなら初夢くらいはいい夢を見たいものであるが、またいつもの悪い夢を見たときには冒頭の言葉で開き直るだけのことである。
今年も御愛読いただきありがとうございました。当ブログがスタートして間もなく丸2年を迎えます。一度もデザインを変えず、写真なしの文章だけで、いかにも神経質人間らしい無愛想なブログですが、質実・辛口をモットーにこれからも細々と続けていきたいと思います。
それでは皆様、よいお年をお迎え下さい。
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