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2008年5月30日 (金)

神経質礼賛 310.笑って青山を望めば

 笑望青山山亦笑 泣臨碧水水亦泣

 (笑って青山を望めば山また笑い 泣いて碧水に臨めば水また泣く)

 これは森田正馬先生が患者さんの指導の際に引用された漢詩である。

 神経質人間の中には、自分の心を偽るのは嫌だ、という人がいる。そういう人は、気分が悪い時には仏頂面になりがちであり、そうなると周囲の雰囲気を暗くし、結局自分に返ってきてしまう。私自身、若い頃はそういう面があった。今でも時々反省することがある。大人であれば多少イヤなことがあってもそれをなるべく顔に出さず、かなり辛い時でも「顔で笑って心で泣いて」ができるものである。よくしたもので作り笑顔であってもそれを続けていれば気分もいつの間にか晴れてくるものである。

 やはり森田先生がよく引用された心理学者ウイリアムス・ジェームズの言葉、人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ(「心理学の原理」より)も一理ある。これを笑いに置き換えれば、笑うから楽しいのだ、ということにもなるだろう。

 最近、笑いの効用が話題になる。笑いが免疫学的にもよい作用をもたらすという研究もある。やはり「笑う門には福来たる」「笑って損した者なし」という格言は経験則なのだろう。どうもツキがない、いいことがない、と嘆く方は、意識して笑うことを心がけたらどうだろうか。もちろん、TPOをわきまえて、不適切な場面で笑ってはいけないが、その辺は神経質人間ならば大丈夫であろう。

2008年5月26日 (月)

神経質礼賛 309.ムソルグスキーとボロディン

 忘れないうちにもう少し神経質作曲家のことを書いておこう。まずはロシアの作曲家「五人組」の一人、ムソルグスキー(1839-1881)である。代表作の組曲「展覧会の絵」はどなたも御存知だと思う。原曲はピアノ曲で、ラヴェルがオーケストラ用に編曲して有名になった。現代ではロックバンドによる演奏もある。他には交響詩「禿山の一夜」が有名で、映画やドラマの不気味な場面・恐怖の場面の音楽としてよく使われている。百鬼夜行を描写したような音楽で、強烈なインパクトがある。

 ムソルグスキーは地主の家に生まれ、母親からピアノの手ほどきを受けた。士官候補生となっても音楽は続け、「五人組」の中心人物バラキレフ(1837-1910)に師事した。物腰が柔らかく礼儀正しく、女性たちからは好かれていたという。しかし生涯独身だった。1861年の農奴解放令によって実家が没落し、下級官吏として生計を立てようとしたが、母親の死をきっかけにアルコール依存となっていく。彼は自尊心が強い半面、自己卑下も強く、神経質な性格の持ち主だった。五人組の中では辛辣な批評をするキュイ(1835-1918)とは合わず、バラキレフからも離れていく。仲が良かったのは、ボロディン(1833-1887)と、共同生活した時期もあるリムスキー=コルサコフ(1844-1908)の二人だった。作曲した作品は評価が得られず、身近な人たちの死もあり、さらにアルコールにのめりこんでいくことになる。官吏の仕事もクビになり、貧困にあえいでいた。最晩年の肖像画では髪はボサボサ、眼はうつろ、鼻は赤く、心身とも不健康な状態だったことが推察できる。ムソルグスキーの音楽が評価されるようになったのは彼の死後のことである。アルコールに溺れていなければ、長生きしてさらに良い作品をいくつも残せたであろう。同じ五人組のキュイが陸軍大将まで出世して長命だったが現在ではほとんどその曲が演奏されないのと比べると、対照的である。

 アルコールは不安を一時的に忘れさせてはくれるが、それが根本的な解決になるはずはなく、多量の飲酒を続ければ心身ともに蝕まれてしまう。ムソルグスキーの場合は、神経質を生かしきれなかったということになろう。

 同じく五人組の一人、ボロディンは歌劇「イーゴリ公」の中の「韃靼(だったん)人の踊り」が有名で、最近ではポップス歌手が歌っている。また弦楽四重奏曲第2番の中の「夜想曲」も非常に美しい叙情的な曲で人気がある。ボロディンは「韃靼人」の血統をひくグルジア皇太子と家政婦の間に生まれた非嫡出子であり、病弱で神経質な子供だった。9歳で作曲を始めたという。大学は主席で卒業して軍医となったが、仕事が合わず、化学者としての道を歩むことになる。ハイデルベルク留学中に女流ピアニストと出会い、のちに結婚。大学教授をしながらも「日曜作曲家」として地道に活動し、交響曲第1番で認められるようになる。さらに女性にも教育を受けるチャンスを与えるべきだと考え、女子医科大学設立のために奔走した。まじめで仕事を頼まれると引き受けてしまう人だった。窮乏にあえぐムソルグスキーをよく助けている。それでも多忙な中、少しずつ作曲活動を続ける粘り強さはいかにも神経質らしい。作曲家は旋律が頭に浮かぶと夜中でもピアノを弾いたりするものだが、彼は家族が目を覚まさないように気配りして、そうしたことはしなかったという。「イーゴリ公」は20年近く書き続けて未完のまま急死したため、リムスキー=コルサコフとその弟子グラズノフによって完成された。ボロディンは純情で涙もろいところがあり、友人ムソルグスキーの死後、そのオペラ演奏を聴いて涙が止まらず、席を立ったという逸話がある。ボロディンの場合は化学研究に、音楽に、社会事業にと神経質を四方八方に生かした人生だったのだと思われる。

2008年5月23日 (金)

神経質礼賛 308.今を生きる

 足早に駅へと向かう朝の通勤途中、お寺の横を通ると、塀の掲示板の標語が目に留まる。思わず足が止まる。

 大切なのは

 かつてでもなく

 これからでもない

 一呼吸

 一呼吸の

 今である      (原文は縦書き)

 街中でひっそりとした佇まいのこの寺は、家康の祖母、源応尼・げんのうに(華陽院・けよういん)ゆかりの浄土宗のお寺である。源応尼は何度も政略結婚させられ、数奇な運命をたどり、晩年ようやくこの寺に安住することができた人である。今川家の人質として送られてきた神経質人間の家康(11話、209話参照)にとってこの祖母は心のよりどころだったであろう。

 神経質人間はつい過去をクヨクヨ嘆き、将来を心配しがちである。過去の反省や将来への備えはとても大事なことではあるが、過去を過度に反省して自己否定してしまうのは損なことであるし、将来の心配ばかりして取越苦労や予期恐怖ばかりになっては行動が止まってしまう。クヨクヨ心配しているような時間があれば、その間にいくつかできる仕事はあるはずだ。一呼吸するわずかの時間にどれだけのことをするか、その少しずつの積み重ねで自分の人生は決まっていくのである。

 森田正馬先生は患者さんの指導の際、達磨大師の「前に謀(はか)らず、後に慮(おもんぱか)らず」という言葉をよく引用された。悲観したり先の心配が浮かんだとしても、気のないままに現在の仕事にぶつかって、ボツボツやっていれば、必ずそのような心境になるものだ、と言っておられる。イヤだなあと思っても、現在の境遇から逃げずに、今を生きていくことが大切なのである。

2008年5月19日 (月)

神経質礼賛 307.神経質なラフマニノフ

 作曲家には神経質人間が多い。以前にもショスタコーヴィチ(138話)、グリーグ(156話)、シベリウス(157話)を取り上げていて、そのうち神経質作曲家列伝でも書こうか、と思いながら中断してしまった。前話でピアニストを書いた関係で、今回は歴史的な大ピアニストで作曲家のラフマニノフの話である。

 クラシック音楽に全く興味がない人でも、彼の代表作「ピアノ協奏曲第2番」や「パガニーニの主題による狂詩曲」のロマンティックな旋律を聞けば、「あっ、この曲知っている!」と思うはずだ。というのも、映画音楽、テレビコマーシャルやドラマのBGM、フィギュアスケートの音楽としてあまりにも多用されているからである。そういえば「のだめカンタービレ」のテレビドラマ版で、千秋真一がピアノ協奏曲第2番を演奏する場面があったし、2台ピアノ編曲版でのだめと千秋が練習する場面もあった。

 セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシア貴族の出身だが、幼少時に家は没落、破産している。内向的で厳格な母親からピアノの手ほどきを受け、やがて18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を主席で卒業。この時、次席だったのは、やはり歴史的大ピアニストとなるスクリャービンだった。さらに作曲科を卒業し、チャイコフスキーから認められた。1897年に交響曲第1番が初演されたのだが、オーケストラ演奏のまずさもあって批評家たちの散々な酷評にさらされ、彼は完全に自信喪失に陥り、「神経衰弱」にかかった。アマチュアのヴィオラ奏者でもあった精神科医ニコライ・ダーリの暗示療法で回復し、1901年、ピアノ協奏曲第2番の初演は彼自身の独奏で大成功を収めた。1915年発表のヴォカリーズはスキャットで歌う歌曲で、今ではヴァイオリンやチェロの重要なレパートリーとなっている。私自身はヴァイオリンよりも落ち着いた音色のヴィオラで弾く方が好きである。彼はロシア革命後、アメリカに移住し、もっぱらピアニストとして大活躍した。今でもSP復刻版CDやピアノロールから再現したCDでその名人芸を楽しむことができる。大ヴァイオリニストで作曲家のクライスラーとの共演の録音も残っている。周囲の評価にもかかわらず、彼は自分自身を偉大なピアニストとは思っていなかったそうである。この辺も実に神経質らしい。後世に残る、限りなく美しい旋律の数々は神経質作曲家からの贈り物だったのである。

2008年5月16日 (金)

神経質礼賛 306.フジコ・ヘミングさん

 先週の金曜日、NHKの生活ほっとモーニングという番組にピアニストのフジコ・ヘミングさんが出演されていた。残念ながら私は見ている時間がなかったが、お元気そうだった。

 フジコ・ヘミングさんは1932年生まれで父親はスウェーデン人の画家・建築家、母親は日本人ピアニストである。第2次世界大戦前の日本であったから、差別や偏見が強く、父親はスウェーデンに帰国してしまう。母親から厳しいレッスンを受け、のちに東京芸大に進学。国内のコンクールで入賞するも、無国籍であることが判明し、念願の留学を果たしたのは29歳の時に赤十字から難民としての認定を受けてのことだった。わずかな奨学金で極貧生活を送り、日本にいた時と同様、ベルリン留学中もその才能を妬む人たちから難民ということで中傷され居場所がない思いをしたという。ようやく指揮者のバーンスタインに才能を認められてリサイタルを開くことになるが、以前から中耳炎のために悪かった耳が、風邪をこじらせて一時全く聞こえなくなり、絶好のチャンスを逃してしまう。その後はストックホルムに移りピアノ教師として食いつなぎ、細々と音楽活動を続けていた。1995年、日本に帰国。1999年、NHKのETV特集で紹介されたところ、一大センセーションが巻き起こり、デビューCDが爆発的ヒットとなったのは記憶に新しい。必ずしも楽譜に忠実とは言えない演奏には人によって好き嫌いが分かれるところであるが、繊細でありながら情熱に溢れた演奏で「魂のピアニスト」と評されている。

 ピアニストは完全主義で強迫的な傾向を持った人が多い。特に日本人ピアニストは概して神経質である。逆にそうでなければ毎日長時間繰り返しの練習には耐えられないだろう。フジコさんの場合も、持って生まれた性格的要因以外に、母親の厳しい減点法のレッスンで神経質傾向が強くなったのかもしれない。フジコさんもお若い頃はコンクールや演奏会では緊張が強くあがりがちで、自分の力が十分に発揮できなかったようである。また、いじめの影響もあってか、人間関係は苦手だったという。しかし、耳の障害や長い不遇の年月に耐えて、あきらめずに音楽活動を続けられたことが大ブレークにつながったのである。この粘り強さは神経質のおかげとも考えられる。今では「機械じゃないんだから」とミスタッチも何のその。わが道を行くで、あるがままに伸び伸びと御自分の音楽表現をされている。これからも多くの人々に感動を与え続けていただきたいものである。

2008年5月12日 (月)

神経質礼賛 305.モラル・ハザード

 近頃、モラル・ハザードという言葉をよく聞く。小中学校でお金があっても給食費を払わない親の問題、公立高校で授業料未納問題、つい最近では「ゴキブリが出て困る」と110番通報して警官に自室のゴキブリ退治をさせる若者やタクシー代わりにパトカーを呼ぶ輩の問題、など使われる場面に事欠かない。こういった「倫理崩壊」という意味での使い方は本来の「モラル・ハザード」にはなく誤用だったのが一人歩きしてしまったらしい。

 モラル・ハザードは保険業界の用語だそうだ。保険のしくみのおかげでリスクを回避できるのだが、そのために注意を怠り、事故がふえてしまう、ということを指している。金融の世界でもセーフティーネットを見越して、金融関係者、場合によっては利用者がセーフティーネットを悪用するような行動を取ることにも使われる。

 神経症もモラル・ハザードのような部分があるのではないだろうか。確認することは事故や失敗を回避するのに役立つのだが、強迫神経症の確認行為は儀式化してしまい、それで一時的な安心感を得るだけのものとなり、確認が役に立たないばかりか生活に支障をきたすことになる。神経症全般によくあるドクターショッピングは健康保険の無駄遣いでもあり、「倫理崩壊」に近い場合もあるだろう。「症状」を捜し出してモグラ叩きをしているうちは決してよくならない。

森田正馬先生は患者さんを指導する際に孔子の「道は近きにありて之を遠きに求め、事は易きにありて之を難きに求む」という言葉をよく引用された。そしてフロイトの精神分析を「遠きに求め・難きに求め」であると批判されているのだが、薬物偏重の現代の治療もそうではないと言い切れるだろうか?森田療法では「症状」をよくしようとすることをやめ、仕事や勉強や日常生活に神経質を生かしていくようにしていく。それが実は「道は近きにあり」であり「事は易きにあり」なのである。その結果として「症状」は忘れられた存在となり、仕事や勉強や日常生活が面白いようにはかどるようになるのだ。一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなる。医療費削減に躍起になっている厚生労働省さんもローコストな森田療法を勉強された方がよい。

2008年5月 9日 (金)

神経質礼賛 304.入院証明書

 連休明けに出勤すると、予想通り大量の書類が溜まっていた。自立支援医療や障害手帳の診断書は年々増える一方である。先送りしたところでいつかは書かなくてはならないのだから、依頼があったらとにかくできるだけ早目に書いてしまうのが私のモットーだ。これは神経質を生かす仕事法(70話)でもある。外来診療の合間に少しずつ書いていく。休符なしの音符だらけの楽譜を演奏する心境である。仕方なしに森田先生の言われる「休息は仕事の中止に非ず、仕事の転換の中にあり」(24話参照)状態になっているのだが、ちょっと一休みでお茶でもしたくなるのが本音である。

 その書類の山の中には4年前に退院した人の(保険会社に提出する)入院証明書の依頼もあった。退院してから数年経った人の入院証明書の依頼がこのところ増えている。保険金不払いが問題になって、各保険会社が加入者に周知して支払い申請を促しているためだろうと思われる。

 入院証明書は保険会社によって書式が若干異なるが、今回書いた書類では本人に告知した病名とその告知日、家族に対して告知した病名とその告知日の欄があった。同じ保険会社で以前の証明書にはなかったはずなので、最近この欄が追加されたのだろう。外傷や身体的な病気とは異なり、精神科疾患の場合、発病年月を特定しにくいケースがあり、ましてや病名に関しても本人の目に触れる証明書には書きにくいこともあり得る。入院時に渡す治療計画書には病名欄があるのだが、後から診断名が変わることも少なくない。今回書いた人の場合、気分変動が主訴で、軽い躁状態だったが、本当の主診断は演技性人格障害つまりヒステリーであり、DSM(アメリカ精神医学会の診断基準)やICD(WHOの診断基準)を見せて本人に告知もしている。しかし、使用する薬剤の適用からして、保険診療上、人格障害を主病名に持ってくることはあまりしないので、例えば境界性人格障害(通称ボーダーライン)の場合、躁うつ病のような気分障害が主病名とされることが多い。入院証明書は1通1万円なので、ムダになるようでは気の毒だし、かといって誤った記述をすれば、書いた医師の責任が問われるわけで、神経質を必要とするところである。

2008年5月 5日 (月)

神経質礼賛 303.硫化水素自殺

 連休で海へ山へ海外へというこの時期に、連日、硫化水素自殺のニュースが流れている。自殺は伝染する。自動車の中で練炭コンロを用いた一酸化炭素による自殺が一頃流行したが、今年に入ってから硫化水素ガスを発生させることによる自殺が急増している。自宅やアパートばかりでなくビジネスホテルでの自殺も相次いでいて、これでは怖くてビジネスホテルに泊まれたものではない。小心で人一倍死を恐れる神経質人間としては、巻き添えにならないように気を配っていくしかない。間違っても自分が硫化水素自殺をする心配はない。

 硫化水素は強い臭気を持ったガスで、「おなら」にも含まれる成分でもある。箱根の大涌谷のような温泉地で卵が腐ったような強い臭気に驚いた経験をお持ちの方も多いだろう。まれに温泉や活火山の噴火口付近で硫化水素中毒が起こる。高濃度の硫化水素は嗅覚をマヒさせるため、かえって気が付かないというところが恐ろしい。そして中枢性の呼吸麻痺を起こし、致死的となる。

 最近の硫化水素自殺の流行は、具体的な方法を指南する自殺関連サイトが影響していると言われている。周囲の住民や救出しようとした救急隊員や警察官にも被害が及んでいる。硫化水素自殺は自己顕示欲の表れと見る向きもあるが、自己顕示欲を満たしたければ、高いビルから飛び降りるぞ、と自ら通報してTVカメラが集まったところで実行した方が効果的なはずだ。硫化水素自殺の場合、おとなしく自分だけ死ぬのではなく周囲を巻き込んで迷惑をかけようとするあたりからは、他罰的な面がうかがえ、世の中に対する怨恨も感じられる。それと、首を吊るとか飛び降りるとかの覚悟はなくても、(ここでは具体的には触れないが)家庭にあるものを反応させるだけで簡便に実行できる、という特徴があり、今後若い人の間でさらに増えていくことが懸念される。自殺サイトの制限だけでなく自殺防止サイトを作って啓発活動していくことが必要なのではないだろうか。

2008年5月 4日 (日)

神経質礼賛 302.にわか主夫

 連休で妻が実家に帰っている。例年は子供たちも付いて行ったのだが、さすがに高校生ともなると友人と遊びに行ったり部活動があったりで、もう一緒には行かない。結局、私がにわか主夫である。昨日はスーパーで食材を買い込み、久しぶりにカレーライスを作った。朝は食事の支度に洗濯。ついでに冬物の衣類もおしゃれ着洗い用洗剤で洗う。それが終わると家の中を掃除機がけ、風呂掃除。洗濯物も途中で裏返したりしていると意外とのんびりしている時間がないものだ。今日の外出先は図書館とスーパーだけだった。普段から時々、食器洗い、風呂場の壁・天井拭き、包丁研ぎ、などできる時にはやっているが、主夫として責任がかかってくるとちょいと大変である。神経質ゆえ、つい仕事を見つけてしまうので、商売繁盛である。

 どうも主婦業というとラクをしていそうに思われがちだが、実際はなかなか大変である。ほぼ年中無休だし、食事を何にするか毎日考えるのもうっとうしいだろう。子供の弁当作りや大量の汚れ物の洗濯もある。もちろん手を抜こうとすれば抜けないこともないが、ていねいにやろうとすればこれまたキリがない。そして気の毒なのは、いい仕事をしてもなかなか家族から評価してもらえないことだ。やって当たり前、と思われるのは辛い。にわか主夫をしてみるとよくわかるものである。感謝の気持ちを持つことは大切だが、実際に言葉に出すことはもっと大切である。なるべく「ありがとう」を言うように心がけたいものである。そういえば来週は「母の日」。待てよ、来週は土日が当直勤務で病院にカンヅメだったのだ。

2008年5月 2日 (金)

神経質礼賛 301.ジコピー

 先日、「ガイアの夜明け」という番組で最近の就職活動事情を扱っていた。かつての就職協定がなくなった今日、大学3年生になると就職活動いわゆる「就活」が始まる。学生間でも一人でいくつもの大企業の内定が取れる人と、希望する企業の内定が全く取れない人との格差が広がっているという。学生側でも企業の面接で自己アピールをうまくやるための勉強会「ジコピー」を行っているそうである。番組では「ジコピー」の様子や、実際の面接にカメラが入って、内定が取れずに苦戦している学生さんを追って取材していた。それにしても、大学3年・4年の丸2年間、就職活動に精を出しているようでは、大学教育っていったい何なのか、と言いたくなる。

 日本人は元来、自己アピールが苦手である。「能ある鷹は爪を隠す」で自分の能力をひけらかさないのが美徳でもあった。これがアメリカ人だと指一本でピアノを叩く程度でも「自分はピアノが弾ける」と自慢しがちである。日本でも終身雇用制の崩壊、短期的な業績最優先、といった企業風土の変化の中では、アメリカ流にやっていかないと人柄も才能も優れた人が採用されず、口先のうまい人間ばかりが採用になる、といった現象が起きているのだろう。しかしながらアメリカ流に短期的な利益の追求ばかりやっていると、サブプライム問題のようなことも起こる。自己アピール力ばかり重視しすぎると、とんでもないことになるような気がする。

 神経質人間は特に自己アピールが苦手である。しかし、必要に迫られれば必死になってアピールする力を秘めている。神経質人間の代表の一人、松下幸之助は、自社開発の製品を持って販売店を回り、その長所をアピールしまくった。そうした中で、当時は高価だった自転車用ランプを試用品として販売店に提供し、優秀さを体験してもらうという戦術を編み出し、大ヒット商品にすることができたのである。森田正馬先生の場合も、神経質学説を広めるため、手を替え品を替え、同じ論旨を何度も学会発表してアピールされた。当時、精神分析で有名だった丸井清泰・東北大教授との激しい論戦は語り草となっている。

 就職活動まっただ中の神経質学生さんには、緊張しながらも当たって砕けろくらいのつもりで、自己アピールしていただきたい。そうした中で道は開けるはずだ。神経質の良さを評価してくれる企業は将来有望である。

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