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2008年6月30日 (月)

神経質礼賛 320.PTSD(2)

 私の外来でもPTSDの患者さんはいる。付き合っている男性から繰り返し暴力を振るわれ、逃げようとしたら縛られて監禁され、どうにか抜け出して自宅に帰ったらストーカー行為をされ、警察の介入で一応おさまった。しかし、その男性がいつまた自宅に押しかけてくるのではないか、しつこく電話をかけてくるのではないか、という不安におびえ、恐怖体験が現実のように蘇り、毎日悪夢にうなされている、ということで来院した。こちらもPTSDは専門ではないし、できれば女性の治療者の方が良さそうだが、近隣の精神科では紹介できるところもないので、診察を続けている。最近は、ようやく自分の体験を言語化できるようになり生活のリズムも改善してきたが、まだ一人で外出はできず、些細な物音に反応してしまうこともある。

 PTSDという病名がよく知られるようになったことは歓迎できる。公的な相談の場ができ、災害や事故の後にカウンセラーが派遣されるということが普通に行われるようになった。しかし一方で、安易にPTSDという病名がつけられるという問題も出てきた。例えば、職場で上司に叱られて落ち込んで会社に行けなくなった、学校で先生に叱られてから怖くて学校に行けなくなった、という程度でもPTSDの病名をつけてしまう、というものである。さらにはパワーハラスメントだとして損害賠償裁判に発展するケースもあるという。いずれも場合によっては多少「うつ状態」の合併はあるかもしれないが、その程度では神経症圏内と考えるのが妥当である。それをPTSDとして対応するのは本人にとっても不幸なことである。自転車で転んだら、怖くてもなるべく早くまた乗らせた方が結果的には早くまた乗れるようになるのと同様、行動療法の曝露療法や森田療法の「恐怖突入」のように、怖いながらも会社や学校に行かせることが適切な治療である場合も少なくないはずである。PTSDの過剰診断、過剰対応には気をつける必要がある。

2008年6月27日 (金)

神経質礼賛 319.PTSD(1)

 今月の初め、精神科専門医の生涯教育研修会に参加した。場所は東京・お台場。時間に余裕を見て会場に行ったのだが、受付にはすでに長蛇の行列ができていて、混乱していた。専門医更新のポイントを取るために事務局が予想した人数を大幅に上回る専門医が殺到したためである。結局行列に並ぶこと50分。それでも事務局の不手際に文句を言う人がいないのは精神科医ならではだ。偉い大学教授も世界的な研究者もおとなしく待っている。まるで羊の群である。これが外科系だったら暴動(?)になりかねない。開始時刻を大幅に過ぎても受付が間に合わず、とりあえず全員入場して下さい、ということになったのだが、席が足りず、立っても入りきれない人まで出る始末で、ついにキレた人が事務局の不手際を糾弾し始め、会場は一時騒然となった。最終的には、事務局が謝罪の上、ある時刻を過ぎたら中途退出を認め退出時のチェックはしない、資料が全員に行き渡らないので後日参加者全員に郵送する、ということで何とか収まった。

トラブルはあったものの、講演自体はとても良い内容だった。その一つは「海外におけるPTSD治療ガイドラインの動向とわが国の今後の方向性」という演題だった。

 PTSD(Post-traumatic stress disorder:外傷後ストレス障害)とは大きな災害・事故・犯罪被害といった破局的な出来事に遭遇した後に起こるもので、恐怖体験を再現するようなフラッシュバックや悪夢、強い驚愕反応、不眠、無感覚と情動鈍麻などの症状が起きる。

 今回の講演によると、英国のガイドライン(2005年)では、治療にはトラウマ焦点化心理治療が第一選択であり、薬物療法を第一選択としてはいけないとしている。米国でもPTSD治療の効果評価委員会報告(2007)で、SSRIなどの抗うつ薬や抗不安薬などの薬物療法がPTSDに有効だという証拠はないとしている。つまり、ただ薬を出すだけでなくきちんとした精神療法・心理療法を行いなさい、ということである。しかしながら、トラウマ焦点化認知行動療法を習得するのは容易ではなく、専門家の養成には時間がかかる。そこで、すべての保健医療関係者が行えるPFA(Psychological First Aid::精神的ストレス反応への初期介入)というものが重要になってくる。これは事故・事件の被害者に安心感を与え、安定化を図り、一人で苦痛を抱え込まないようにし、種々の援助サービスにつなげていくものである。

 話が難しくなってしまったが、次回は具体的なことについて述べたい。

2008年6月23日 (月)

神経質礼賛 318.被害的心理

 6月16日付毎日新聞朝刊1面のコラム「余禄」では問責決議に対するF首相の「最大の犠牲者は私」という発言について「被害者意識がにじんでいる」と書いていた。日本語には被害的心理をあらわす「・・・された」と受身の言い方が多く、また「・・・してもらう」という利益の授受を示す表現も多いが、それは利益を得られなかった場合の被害的心理の存在を示していて、「被害的心理は日本人の心理の根底に巣くっている極めて日常的なもの」という土居健郎著「甘えの構造」の一文を引用している。最後に「私は最大の犠牲者」などと言っている場合ではない、と批判している。

 被害的心理は神経症の人によく見られる。入院治療を受けていてもいつまでもよくならない人の日記を見ると、被害者意識丸出しのグチが満載である。一緒に治療を受けている患者さんの悪口や職員の悪口を書き連ねている。前述の受身表現も目立つ。できないことを周囲の人のせいにしたり症状のせいにしたりして、行動しようとしないでいたのではいつまでたっても治らない。森田正馬先生の言われた「出来ぬと言ふは、したくなきが為なり」であって、現実からの逃避なのである。

 一方、めきめきと良くなっていく人の日記には、その日の行動が淡々と書かれている。受身表現も少ないように思う。一緒に治療を受けていても皆の足を引っ張る人に対しては、「あの人もつらいのだろう」という同情が示される。自分は特別で自分ばかりつらいという差別観から抜け出して、誰も苦しみながら生きているのだという平等観に立っているわけである。

 森田先生は「雪の日や あれも人の子 樽拾い」という句を引用して、たとえ酒屋の小僧でも寒い時には苦しいだろうとみるのが平等観で、小僧は寒くても平気だが、自分は寒がりで恥ずかしがりで、自分は特別苦しいというのが差別観である、と言っておられる。

 F首相もこの辺を勉強されると支持率が上がるのではなかろうか。とりわけ「後期高齢者」という差別観はよろしくなかったようである。

2008年6月20日 (金)

神経質礼賛 317.達人の能・未練の能

 森田正馬先生の色紙に

「達人の能は静かに速く和かに強し

 未練の能は静かにといへば遅く

動けといへば躁がしく

和かにといへば弱く

強くといへば頑なり」

というものがある。

学問に精通した人・すぐれた技術や芸能を持った人というものは、その時の状況に応じて最適な行動ができるものだが、未熟な人はそれができず、「静かに」と言えば動きが鈍くなり、「動け」と言えば騒がしくなり、「人と和やかに」と言えば自己主張できなくなり、「強く」と言えば頑固になってしまう、ということである。

三島森田病院に保存されている色紙ではさらに

「似たるやうにて雲泥の異なり

 万の芸能 皆かくの如し」と続く。

アマチュアのオーケストラでは手薄なパートにプロ級の腕前の「エキストラ」をお呼びするということが行われる。いくつものオケを掛け持ちで本職が何だかわからないような人もいる。さすがにそのクラスの「達人」ともなれば、12回練習に出て、あとは本番できっちり「仕事」をしていく。しかし、私も含めて「未練」のアマチュアでは、指揮者から静かにと言われればテンポが遅くなりがち、速いパッセージではバタバタして騒がしくなり、やさしくしっとりと弾けと言われると音が痩せてしまい、エネルギッシュにと言われると柔軟さのない演奏になりやすい。技術的な稚拙さもさることながら、曲全体に考えが及ばず、その場だけの指示として弾いてしまうからである。

これは、「木を見て森を見ず」になりがちな神経質人間が気をつけなければいけないことである。私自身、「未練の能」に当てはまるところがあり、大いに反省するところである。森田先生がこの色紙を書かれたのは、神経質人間が陥りやすい点を指摘されているのだと思う。言葉にとらわれやすく、柔軟に考えることができにくい。しかし、自己中心の視点からではなく、物そのものになってみていくと、達人の能に近づいていけるのである。神経質な性格は変えようがないが、神経質を生かしていけば、森田先生のような達人の域に達することもできるのである。

2008年6月17日 (火)

神経質礼賛 316.秋葉原無差別大量殺人事件の背景(2)

 新聞報道によれば犯人の男は派遣先の仕事がなくなることを極度に恐れていたそうである。犯行3日前の出勤時に自分の作業着がなくなり、自分が退職させられると思い込んで職場をエスケープし、犯行を決意したという。派遣先工場の幹部は記者会見で「契約社員を150人切る予定だった」と言ってから、あわてて「切る」を「契約解除」と言い換えた。人間を人間として扱わない。不要になれば切り捨て御免という意識がミエミエである。

 目先の利益最優先で、派遣社員の安い労働力を利用していく中で、正社員のモラルは低下し、派遣社員も半奴隷状態となっている、という図式が見えてくる。このような無差別大量殺人が発生するようになったのと、労働構造の変化と関連があるような気がしてならない。

 また、携帯電話の普及、携帯からのインターネット利用の負の部分も見逃せない。御存知のように出会い系サイト、闇サイトと呼ばれる犯罪サイト、自殺サイト、などがなければ起きるはずのない事件が多発している。生活を便利にするはずの携帯電話が数多くの凶悪事件を引き起こす要因となってしまっている。今回は直接携帯を悪用したわけではないが、犯人は携帯の掲示板に犯行までの過程を書き込んでいて、それで自己顕示欲を満たしていたと考えられる。

 今回の事件は、5年前、仙台市の商店街に男がトラックで突っ込んで次々と通行人をはね殺した事件、3ヶ月前、茨城・荒川沖駅で24歳の男が通行人を刃物で次々と襲い殺傷した事件、を模倣したものであろう。日本の社会がこのままであれば、このような無差別大量殺人はなくならないばかりか、多発化・凶悪化の一途をたどっていくだろう。理不尽に殺され傷つけられた方々やその御家族の心情を思うと、やり場のない怒りが爆発しそうである。また、事件発生時、出血し苦しんでいる犠牲者を携帯カメラで撮影している無神経な人間が多数いたというのもやり切れない思いがする。

 神経質人間としては、殺人鬼の犠牲にならないように、雑踏は極力避け、周囲に注意を払っていくしかないだろう。

2008年6月13日 (金)

神経質礼賛 315.秋葉原無差別大量殺人事件の背景(1)

 先週の日曜日の白昼、秋葉原の歩行者天国に25歳の男がトラックで突っ込んで次々と人をはね、さらに戦闘用ナイフで次々と通行人を刺して、7人死亡10人重軽傷の大惨事となった。前途ある若者たちが犠牲になった。被害にあった人を救護しようとしているところを後ろから襲われたタクシー運転手もいる。卑劣極まりない犯行である。男は「生きているのが嫌になった。(殺すのは)誰でもよかった」と述べている。TVニュースで犯罪心理の専門家は「挫折が原因でしょう」と言う。中学時代成績優秀で期待されて青森県で一番の進学校に入ったが脱落して短大に進学。自動車工場で派遣社員として働いていたという。確かに挫折ではあったろう。

 しかし、挫折だけが原因でこんな事件が起きるのなら、日本中で毎日、無差別殺人事件が多発するはずである。私だって若い時は挫折の連続であり、負け続けの人生だった。この男と同じ25歳の時にはシステムエンジニアとしてサラ金会社のオンラインシステム開発のために二重派遣されて「うつ状態」になったことは以前書いた(123話)通りである。挫折だけが原因ならば私も大量殺人鬼になっておかしくなかったはずだ。

 一見おとなしそうなこの男が殺人鬼となった原因は一つにはこの男の人格、もう一つは社会的背景にある、と私は考える。

 診断基準を完全に満たすかどうかはわからないが、この男には自己愛性人格障害(80話参照)の部分があるだろうと思う。自己愛性人格は分かりやすく言えば「自分以外はみんなバカ」というように自分を誇大視して人を見下し他人に対する思いやりのない偏った人格である。大学教授(特に医学部教授)や高級官僚にはありがちである。指揮者として有名だったカラヤンも自己愛性人格だったと言われている。彼らのようにずっと「勝者」であり続ければ自己愛は満たされ続けるが、普通はそうはいかない。中学の大秀才も進学校ではただの人である。進学、恋愛、就職などたいていの人はどこかで何度か挫折を経験して、それを乗り越えることでだんだん大人の人格になっていく。犯人の場合、挫折を親のせいにして自分で乗り越えることをせずに子供の人格のまま成人した。短大時代、サバイバルゲームに熱中し「今日は○人殺した」と嬉々として仲間に語っていたという。就職しても我慢ができず転職を繰り返した。実生活で自己愛が満たされる場はなく、ゲームの世界で万能感を膨らませていったのだろう。実際の犯行でも、トラックで歩行者をはねる、殺傷力の高い戦闘用ナイフで無防備・無抵抗の人を刺す、と圧倒的に自分が強者である状況を準備していたことでも裏付けられるだろう。

 

もし神経質人間が犯人と同じ境遇に置かれたとしたら、「自分は落ちこぼれのダメ人間だ」とクヨクヨ嘆きながらも、発展向上心が強いので、コツコツ貯金をし、資格を取って、粘り強く這い上がる努力をするところである。逆境に強いのが神経質の長所である。

 長くなってしまったので、社会的背景は次回に述べたい。 

2008年6月 9日 (月)

神経質礼賛 314.ツバメの巣離れと「ひきこもり」

 勤務先の病院には職員通用口近くの壁にツバメの巣がある。年々その数が増えてきたように思える。雨風がしのげて、ネコなどの危険もなく、居住には優良物件ということなのだろう。家主の病院側としては、糞害の問題や鳥インフルエンザの心配はあるが、ツバメが巣を作ると縁起がよい、という話もあって、今のところ撤去せず大目に見ている。まあ、迷惑カラスに比べればはるかに害は少ない。5月中旬頃には、親ツバメが病院に隣接した敷地の木立と巣とをしきりと往復してエサを与えていた。巣から4,5匹のひな鳥が頭を伸ばし大きく口を開けてエサをねだる姿は何ともほほえましい。思わず見とれてしまう。「生の欲望」「純な心」という森田先生の言葉を連想する。5月下旬になると、親鳥にうながされてひな鳥が飛び立ち始める。6月に入ると、巣の周りを子ツバメたちが盛んに飛び回っていて、見ていると目が回りそうである。

 今月末にまた保健所で「ひきこもり教室」の講師をすることになっている。ツバメの巣離れを見ていると、人間の「社会的ひきこもり」は巣離れできないことだと感じる。動物の場合、自分でエサを取り、危険から逃れることができなければ死に直結するから厳しい。親鳥はひなが飛び立てる状態になってくると、簡単にはエサを与えなかったり、羽ばたいて見せて飛び立つことを促したりする。学校で教育されたわけでなくても自然にそれができるのである。ツバメに限らず、他の動物でも、時期がくると巣離れ・親離れをさせていく。キツネの場合はくっついてくる子ギツネに歯をむいて威嚇し、追い払うという。現代社会でひきこもりが増加しているのは、あまりに居心地の良い部屋を与えていつまでもエサを与え続けてしまうところに原因があるのではないだろうか。最近、中国でも富裕層の出現でひきこもり青年が出始めているという。食べていくのに困るような貧困層ではひきこもりは起こらない。何でも親が先回りして準備してレールを敷いてしまうと、子供は自立できないわけである。自分のことは自分でやる習慣をつけていくことが大切である。親は干渉し過ぎず、必要な時だけ適度に援助するのがよい。

 森田正馬先生の色紙に「教育の弊は人をして実際を離れて徒(いたずら)に抽象的ならしむりにあり」というものがある。教育の基本は家庭にあるわけだが、塾に行かせたり、英会話教室に行かせたり、偏差値がどうのこうのと言う前に、自分の部屋の片付けや掃除、衣類を畳んで整理するくらいは自発的にできるようにする必要があるだろう。

2008年6月 6日 (金)

神経質礼賛 313.「うつ」からの脱却(2)

 5月23日付毎日新聞に「ドタキャン」という見出しのついた「うつと暮らす」というコラムがあった。うつで通院中の上野玲さんというジャーナリストが書いたものである。うつの人とアポを取ったら、約束の時間から大幅に遅れて、「用事ができたから」と断りのメールが来たという体験を述べている。筆者によれば、うつの人のドタキャンはそうでない人より頻度が高いのだそうだ。これについて、うつを免罪符にしている、と分析し、こうした非常識さは社会から自分を排除する要因になる、と述べている。

 うつ病にかかる人はまじめで責任感が強い、というのが従来の定説だったが、前回述べたように、自己中心的・他罰的・人格未熟な人の軽度のうつ状態まで「うつ病」としてしまうと、この記事のようにドタキャン常習犯まで含まれることになる。しかもその種の人は自分が「うつ病」だと高らかにアピールすることが多い。安易に「うつ病」の診断をつけて診断書という免罪符を発行する医師も共犯者であろう。

 5月27日付読売新聞で「うつ 広がる復職支援」という記事があった。主要企業100社のアンケートで、うつ病で休職した社員の復職で困っていることを尋ねたところ、59社が「一旦復職した者が、病気による休職を繰り返す」、19社が「仕事の能率が低下したまま回復しない」を挙げていたという。

いつまでもダラダラとうつが続いているのは、うつ病の休みモードからの切替がうまくいかないでいるとか、そもそも本来のうつ病ではなかった、というようなことも考えられる。従来の典型的うつ病でも、遷延化するケースでは、神経症としての治療が適することがよくある。うつ病治療の仕上げの段階では、森田療法のように、気分はともかく健康人らしく行動するように指導していくことが重要だと思う。

2008年6月 4日 (水)

神経質礼賛 312.「うつ」からの脱却(1)

 産業医からの紹介状を持って受診した男性。紹介状によると、1年前からうつ病で心療内科クリニックにかかっているが、今でも仕事を時々休んでいるので、一度診てほしい、とのこと。いわゆるセカンド・オピニオン目的の受診である。本人と面談してみると、態度や口調からして、「うつ」のかけらも見当たらない。ただ、時々、仕事に行く気がしなくて休むのだという。

 近頃、この種の人が増えている。気楽に心療内科や精神科を受診する時代になって軽度のうつが増えたせいか、アメリカ流の診断基準がスタンダードになって「うつ病」のストライクゾーンが極端に広くなったせいなのか。いずれにせよ、見るからに元気がなく、家族に連れられて受診するような本格的うつ病の人は見かけなくなった。「うつ病」と自己診断をつけて一人で来る人が多い。

 「うつ病の人は励ますな」「うつ病は休養第一」という原則が一般の方々にも広く知られるようになったのは、うつ病による自殺者を減らす上でとてもよいことである。ところが、それはあくまでも自責的でエネルギーが枯渇している本格的なうつ病の人への対応法なのである。

 最近は「非定型うつ病」「30代うつ」「新型うつ病」(223話参照)などと呼ばれる、自己中心的・他罰的で人格が未熟な人の軽いうつ状態まで「うつ病」として扱われるようになると、同じ対応では逆効果となる。診断書の「お墨付き」で堂々と休むことができるし、上司や同僚も腫れ物に触るように扱ってくれるから「疾病利得」となって、いつまでたってもよくならない、という図式が出来上がってしまう。そうなると、まじめに働いている同僚たちは馬鹿馬鹿しくなって士気が低下する。上司が本格的なうつ病になって来院することもある。

 「励ますな」「休養第一」は状態が悪い時の話で、良くなってきたら少しずつ負荷を上げていくことが重要である。骨折のリハビリとよく似ているように思う。いつまでも手足を使わないままでいたら、筋肉が痩せ細ってしまう。リハビリで体を動かすと痛みは出るが、少しずつ続けているうちにだんだん機能が回復してくるものである。これと同様、うつからの回復期に仕事をしていくのは多少の苦しさを伴うものであるが、回復過程で避けて通れないことでもある。ここでは森田療法的な対応、つまり、自信がないまま不安なままにとにかく出勤し、完全でなくてよいから70点くらいを目標に、就業時間内は仕事に取り組む、ということも必要になってくる。

2008年6月 2日 (月)

神経質礼賛 311.パソコンから煙!

 病院でほとんどワープロ専用機として使っている私物パソコンがある。種々の書類、患者さんのサマリー、入院処方箋、講演原稿とレジュメなどが入っていて、時間がある時にデータを更新している。以前、患者さんの音楽クラブを担当していた時には、シンセサイザーソフトで歌の伴奏譜を入力しておき、パソコンで伴奏させる、ということもやっていた。患者さんの声の音域に合わせて簡単に移調できるので重宝した。このパソコンには個人情報が入っているので、インターネットには一切つながない。

もう購入して4年になるN社のLL900/Dという機種なのだが、1ヶ月ほど前から液晶パネルの角度によって表示が消えたり、パカパカ点滅したりするようになってきた。院長が自宅で使っているたまたま同じ機種のパソコンも同様の現象が起きて修理に出したら液晶パネルのケーブルの不良だったという。3日前、液晶パネルの角度をいろいろ変えてみて、大きく開いて使っていた。そのうち何となくコゲ臭いニオイがしてきた。見ればパソコンの背面から煙が上がっているではないか。あわててコンセントを引っこ抜く。私はノートパソコンのバッテリーをはずして使っているため、それで事なきを得た。多分、劣化した液晶パネルのケーブルがショートしたのだろう。もし席をはずしている時だったら下手をすれば火事である。リチウムイオンバッテリーの不良でノートパソコンが煙を吹いた、という話はニュースで聞いたことがあるが、それ以外で煙を吹くという話は聞いたことがない。油断は禁物。席をはずす時には省エネも兼ねて、こまめに電源を落とした方がよさそうだ。

まあ4年使えば寿命というところなので、修理せず廃棄なのだが、個人情報がハードディスクに入っているからには業者任せは心配である。暇な時に分解してハードディスクを取り出して、徹底破壊する必要がある。この辺は神経質にするに越したことはない。

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