神経質礼賛 340.練習と実際
私も含めて神経質人間は何かやろうとすると計画・準備を怠らず、いきなり取りかかるということはまずない。勢いで突っ走るということもない。これは大変な長所である反面、時間がかかり過ぎて計画倒れに終わったり、練習ばかりしていて本番に突入できなかったり、先の心配ばかりして思い切って行動できなかったりするというキライもある。森田正馬先生はそのあたりの心理を踏まえて、「練習と実際」ということで次のように述べられている。
「練習と実際とが、一つになる。仕事と道楽・勉強と興味が一如(いちにょ)となる。これが理想的である。修養の積んだ人、すなわち達人の生活は、こんなふうになるのである」(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.437)
患者の日記に、時々「飯炊きを見学した」とかいう事があるが、私はこの「見学」という字を消して、「見た」と直す。平均わずか四十日の入院で、飯炊きや習字や、稽古などしていて、本当に我々の精神自然発動の体験ができるはずがない。この直接にぶつかるという事によって、今まで釘を打った事のないという人などで、大工も感心するような仕事の出来上がる事がある。
(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.584)
ぶっつけ本番を避けがちな神経質人間にとってはちょっと耳の痛い言葉でもある。さらに徒然草から「弓を射るに、矢を二つ持つのはよくない。真剣にならないから二つともはずしてしまう」と引用され、「練習練習ということが、今日教育上の大なる弊害である」とも述べておられる。
森田先生がそう言われてから70年以上経っているが、現在の教育はどうだろうか。特に授業時間削減で実験や観察がおろそかになっている理科教育では、興味もわきにくいし、問題意識を持って自分から勉強する姿勢ができにくいのではないかと思う。ただ問題集の練習問題を解くだけでは味気ないだろう。
もちろん、練習や準備がいけないわけではない。練習偏重にならないように、事に当たって臨機応変に行動するように、ということなのである。先日の北京オリンピックでマラソン日本代表選手が男女とも練習のし過ぎから故障して直前になって出場できない、という事態が起きたが、これではもったいなさ過ぎる。また、野球では、プロ野球選手が外野の凡フライを落とすような草野球並みのプレーが続出したが、本番で集中力が維持できていないということなのだろう。普段から過酷な練習を繰り返し、あるいはプロとして連日のように試合に出場しているわけだから、直前は軽い調整程度の練習にとどめ、本番での集中力を高めた方がよかったのではないか、と素人目には映る。
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