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2008年8月29日 (金)

神経質礼賛 340.練習と実際

 私も含めて神経質人間は何かやろうとすると計画・準備を怠らず、いきなり取りかかるということはまずない。勢いで突っ走るということもない。これは大変な長所である反面、時間がかかり過ぎて計画倒れに終わったり、練習ばかりしていて本番に突入できなかったり、先の心配ばかりして思い切って行動できなかったりするというキライもある。森田正馬先生はそのあたりの心理を踏まえて、「練習と実際」ということで次のように述べられている。

「練習と実際とが、一つになる。仕事と道楽・勉強と興味が一如(いちにょ)となる。これが理想的である。修養の積んだ人、すなわち達人の生活は、こんなふうになるのである」(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.437

 患者の日記に、時々「飯炊きを見学した」とかいう事があるが、私はこの「見学」という字を消して、「見た」と直す。平均わずか四十日の入院で、飯炊きや習字や、稽古などしていて、本当に我々の精神自然発動の体験ができるはずがない。この直接にぶつかるという事によって、今まで釘を打った事のないという人などで、大工も感心するような仕事の出来上がる事がある。

(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.584

 ぶっつけ本番を避けがちな神経質人間にとってはちょっと耳の痛い言葉でもある。さらに徒然草から「弓を射るに、矢を二つ持つのはよくない。真剣にならないから二つともはずしてしまう」と引用され、「練習練習ということが、今日教育上の大なる弊害である」とも述べておられる。

森田先生がそう言われてから70年以上経っているが、現在の教育はどうだろうか。特に授業時間削減で実験や観察がおろそかになっている理科教育では、興味もわきにくいし、問題意識を持って自分から勉強する姿勢ができにくいのではないかと思う。ただ問題集の練習問題を解くだけでは味気ないだろう。

 もちろん、練習や準備がいけないわけではない。練習偏重にならないように、事に当たって臨機応変に行動するように、ということなのである。先日の北京オリンピックでマラソン日本代表選手が男女とも練習のし過ぎから故障して直前になって出場できない、という事態が起きたが、これではもったいなさ過ぎる。また、野球では、プロ野球選手が外野の凡フライを落とすような草野球並みのプレーが続出したが、本番で集中力が維持できていないということなのだろう。普段から過酷な練習を繰り返し、あるいはプロとして連日のように試合に出場しているわけだから、直前は軽い調整程度の練習にとどめ、本番での集中力を高めた方がよかったのではないか、と素人目には映る。

2008年8月25日 (月)

神経質礼賛 339.ズッコケ中年三人組

 子供が小学生の頃、ズッコケ三人組シリーズ(ポプラ社:那須正幹著)をよく読んでいて、子供の本棚にはほぼ全巻揃っている。TVドラマも放映されて一緒に見たので、自然とストーリーを知るところとなった。「ハカセ」「ハチベエ」「モーちゃん」3人組の冒険小説でなかなか楽しい。

 最近、その番外編で「ズッコケ中年三人組」という本が出ている。本編はいつまでも小学校6年生だが、こちらは、40歳、41歳、42歳と年をとっていく設定で書かれている。いずれは50歳の「ズッコケ熟年三人組」も書くプランがあるという。そうか、私も「熟年」と呼ばれる年代なのか・・・。

最新刊は「age42」で、「怪盗X」などの怪しげな人物は出てこないし、冒険話もない。どこでもありそうな話である。コンビニを経営する「ハチベエ」の高校生の息子が不登校となるが、いろいろな事が起こり、最終的には小学校の時の先輩のおかげで将来の希望がみつかり登校するようになる。校則で徹底管理しようとする教師と「ハチベエ」の対決も面白い。そんなところから親子の信頼関係も改善する。カーテン屋で働く「モーちゃん」は中学生の娘が学校で陰湿ないじめにあい、別の中学で教師をしている「ハカセ」に助けを求める。「ハカセ」の先輩であるベテラン女性教師がその中学で美術を教えていて、集団絵画療法のような方法でいじめを解決するばかりでなく、いじめていた生徒たちの悩みも解決する。こんなにうまくいくことは実際にはなかなかないかもしれないが、いじめ問題はいじめる側・いじめられる側、双方の心に入り込まないと解決は難しいだろう。

話の中でベテラン女性教師の発言が印象に残った。いじめに対する態度は、(要約すると)①徹底的に戦う、②不登校・転校などで回避する、③無視する、の3通りしかない、というものだ。もっともいじめの程度といじめられる側のパワーのバランスでおのずと決まってしまうだろう。徹底的に戦う位のパワーがあれば、いじめる側も他のターゲットを探すだろう。無視する、というのはいじめが軽度で、いじめられる側にある程度ゆとりがある場合である。いじめの程度が重大ならば②を選ばざるを得なくなる。

「いじめ」を仕事上のストレス・人間関係のストレスに置き換えると同じようなことが言えそうである。ストレスがあまりにも強いとなれば給与などの条件が悪くてもストレスの少ない仕事への転職を考えるという選択肢もあるだろうが、多くの場合はそこまでする必要はないし、大人である以上どこへ行ったところで多かれ少なかれストレスからは逃げられないのである。私も含めて小心で完璧主義で心配性の神経質人間はストレスを強く感じやすいものである。だが、最悪の場合を心配しているので、それ以上に事態が悪化することはない。たいてい何とかなるものである。

2008年8月22日 (金)

神経質礼賛 338.アスペルガー症候群?(2)

 8月12日付読売新聞、「論陣論客」のコラムで「子どもとどう向き合うか」というテーマでフランス人作家のダニエル・ペナックさんと有名な児童精神科医の清水將之さんの意見が書かれていた。最後の「寸言」というところで、ペナックさんは、子どもを消費者とみなす現代社会のありかたを厳しく問い、清水さんは子どもを大切にすることの真意をただした、とまとめ、問題は子どもではなく大人であり、我々の覚悟が問われている、としている。さて、その清水さんの発言で興味深い部分があったので紹介したい。「しばしば事件と関連して取りざたされるアスペルガー症候群。幼時から知的な発達水準は平均以上で、対人関係など社会性の発達に難がある。人づき合いは苦手だが匠の技を持つ熟練職人など、今ならこの範疇に入るが、昔は結構いて、有能な人たちと評されていた。それに病名がつき、社会に居場所もない。望ましいことなのか」ということで「診断」というレッテル貼りをしてしまう問題点について述べられていた。

 診断病名をつけて治療法はありません、では当事者やその周囲は迷惑千万である。そもそも病気として扱うよりは、一つの特性として、その特性が生かせるような社会適応を援助していくのが本当ではないか、と思う。清水さんの発言の中にある「熟練職人」は今なら例えば特殊なコンピュータソフト開発技術者あたりも該当するだろう。ありきたりの事務処理ソフト開発は向かなくても、ウイルス対策ソフトだとかゲームソフトの開発には向いている可能性大だと思う。医師の世界でも、(生きている)患者さんと向き合うことのない病理診断医あたりは適性がありそうだ。普通の医師が見逃す悪性のサインを鋭敏に捉えてくれるかもしれない。

 ましてや神経症はなおさらである。「社会不安障害」「パニック障害」「強迫性障害」などの「病名」をつけ薬で「治療」するのは結構だが、森田正馬先生の考え方のように、病気とは考えず、神経質を優れた性格特性として、その特性を生活の中でプラスに生かしていき、結果として「症状」はあってなきが如き状態となる、というのが本筋ではないだろうか。

2008年8月20日 (水)

神経質礼賛 337.アスペルガー症候群?(1)

 外来通院している女性。数年来、抗不安薬を服用し、不定期に受診した曜日の外来担当医の診察を受けている。本人によれば、夫のハラスメントがあるという。外出すると「どこへ行っていた?」「浮気してるんじゃないだろうな?」としつこく聞かれ、携帯電話も時々チェックされ、まともに話が通じない。離婚したいが、子供のためを思ってガマンしている。ところが子供はゲーム三昧の生活で学校へ行かなくなった。「ひきこもり」であろうと思い、公的な相談機関に何度も足を運び、「父親も来てくれなくては困る」と言われ、渋る夫とともに相談に行った。子供の相談をしていると、夫は「そんなのは俺にもあったぜ」とうそぶく。さらには県立の精神科病院の専門家にも相談したところ、アスペルガー症候群の可能性が高く、また、夫もその可能性があると言われた。どう対応したらいいか、と質問したら、「宇宙人だと思って対応すれば腹が立たないでしょう」と言われたそうである。「宇宙人を二人も抱えてやってられない」と憤慨することしきりである。長い話を聞いていたらいつの間にか45分が経っていた。初診も担当する患者数の多い曜日なので、ふと見ればカルテがたまっている。

 アスペルガー症候群はWHO(世界保健機関)の診断基準では広汎性発達障害F84の下位分類となっているが、「疾病分類学上の妥当性がまだ不明な障害であり・・・」と書かれている。知的障害がないことが特徴だが、「知的障害がない自閉症」という見解と、自閉症とは別であるとする見解があり、まだ議論のあるところである。成人例ではパーソナリティ(人格)障害との鑑別がつきにくいという問題点もあって、裁判での精神鑑定が鑑定者によって何通りも出てしまうことはよく知られるところである。

 アスペルガー症候群では、コミュニケーションの障害のため対人関係がうまくいかない、ということから、「自分もアスペルガーではないか」と心配される(特に対人恐怖傾向のある)神経質の方もおられるかと思う。しかし、神経質の場合は他人がどう思っているかに敏感であるのに対し、アスペルガー症候群の人では、その場の空気が読めない(今風に言うと「KY」)。この点だけでも、まるで違っているので、心配御無用である。

 さらに、アスペルガー症候群の人のように、鉄道の駅名ばかりでなく下手をするとダイヤまで「写真を撮るように」記憶する能力はありますか?私が小学校5年生の頃、鉄道の駅名を覚えるのが流行った。テレビ番組に国内全路線の駅名が言える「天才少年」が出ていたが、もしかするとアスペルガー症候群だったのかも知れない。私と同じクラスに東海道本線の駅を覚えたと自慢する子がいて、私も負けじと東海道本線→山陽本線→東北本線→函館本線までは苦労して全駅名を覚えたが、そこで挫折し、鉄道オタクにはなれなかった。残念ながら(?)私もアスペルガー症候群のような特異な能力には恵まれていない。

2008年8月18日 (月)

神経質礼賛 336.「一富士」フォーエヴァー

 一昨日、高校時代のクラブのOB会に出席した。近況報告の後、いろいろな曲を合奏する。最後のシメはモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という不文律がある。神経質人間の私は、楽器を持って来られない人のために楽器を2台用意し、初見で楽しめそうなパート譜を準備し、カメラ・メモ紙・筆記用具なども忘れずに持って行くので大荷物である。例年は大勢で入れるファミレスで二次会となるのだが、今年は参加者が少なかったので、高校の近くの店に集まることとなった。

 どの高校にも近くに必ず学生のたまり場になる店というものがある。「一富士」というこの店は少なくとも半世紀は続いているはずである。本来はアイスクリームとかき氷がメインだが、ラーメンと焼きソバもある。女の子たちはあんみつをよく食べていたような気がする。私が高校生の頃はクラブの練習が終わると、先輩に連れられてよく寄った。ラーメンと焼きソバとアイスクリームを食べて、それでも家に帰れば夕食が食べられた。今では考えられない食欲だった。自分が上級生や卒業生になると、今度は後輩を連れて入り、おごったものだ。おばあちゃんとその娘姉妹が切り盛りする店で、「お帰りなさーい」と迎えてくれた。壁には、甲子園に出場した時の野球部員たちのサインや写真が貼ってある。文化部系のポスターもある。大げさに言えば、ここがもう一つの「学校」だったのかもしれない。その思いは私ばかりではない。かつて、私の友人は婚約者をデートでこの店に連れて来たが、スチュワーデスの仕事をしていた彼女は「何で東京から来てこんな店?」と思ったそうだ。しかし、彼にとっては青春の思い出が一杯詰まった場所だったのである。

 今回、店に入るのは6,7年ぶり位になるだろうか。粗末な丸椅子は少々座り心地がいい椅子に変わっていた。しかし、クーラーがないのは相変わらずである。大きな扇風機が力を振り絞って回っている。考えてみれば、クーラーの効いた涼しい所で食べるかき氷よりも、汗を拭きながら食べるかき氷の方がありがたみがある。暑い屋上ビアガーデンだとビールがいくらでも進んでしまうのと同じである。店主姉妹も高齢になられた。しかし、味の方は昔と変わっていない。時々、お孫さんを連れた近所の人が氷やアイスクリームを食べに来る。最後に店を出た時、西日が照りつけていてもさほど暑く感じないのは、クーラーがないおかげだ。多くの学生たちを見守ってくれたこの店がいつまでも続くことを願わずにはいられない。

2008年8月15日 (金)

神経質礼賛 335.ハリー・ポッター完結

 ハリー・ポッターシリーズ最終巻の日本語訳が先月発売された。子供が読み終えて、私に番が回ってきた。仕事が休みではないというのに、上巻は2日間、下巻は1日で読み切った。今までの巻は学校生活が中心だったのに比べると、今回は絶えず敵方に狙われる厳しい放浪生活の中で秘密を探っていくというスリルの連続で、読み出すと止まらなくなる。戦いの中でハリーを応援してくれた親しい人々が次々と命を落としていく悲劇もある。今までの話の謎が解き明かされるとともに、宿敵との命をかけた最後の対決という最大のクライマックスを迎える。読んでいない方もおられるであろうから結末は書けないが、友情・勇気・家族愛・(他の生物をも含めた)人類愛をテーマにしたすばらしいファンタジーだと思う。また、ハリーと親友のロン、ハーマイオニーばかりでなく、彼の友人たちの成長していくさまが興味深い。

 特に注目したいのは、ハリーのクラスメートのネビル・ロングボトムという少年だ。両親はかつて敵方によって廃人にされ「聖マンゴ病院」(ひと昔前の精神病院を思わせるような病院)に長期入院中である。学校での魔法の勉強の方はどうもダメで、ドジで間抜けと思われている落ちこぼれ生徒だ。しかし、努力家で根気だけは人に負けない。これまでの巻でも戦いの場面でハリーに加勢して意外な活躍をしている。粘り強さを武器に巻を追うごとに成長を重ねていく。最終巻では敵方に乗っ取られた魔法学校で抵抗運動を続け、ついにはハリーの宿敵と直接戦うまでとなる。なお、後日談では魔法学校の教授になっている。神経質で出世する典型的パターンにも思える。

 今年の324日付読売新聞の記事によれば、作者のJ.K.ローリングさんは20代に離婚してシングルマザーとなって、抑うつ状態となり、自殺も考えたという。家賃が払えず、生活保護を受けていた。しかし認知行動療法の治療を受けて回復し、ハリー・ポッターを執筆し、今では推定資産約1000億円といわれている。再婚して幸せな家庭も手に入れた。まるでローリングさん自身が自分に魔法をかけたようである。

 神経質人間にとって魔法の呪文は「ダメで元々、やってみよう」であろう。そして、ビクビクハラハラしながらも実際に行動に起こして初めて呪文の効果が出てくる。「あるがまま」呪文を唱えているだけでは何の効果もない。

2008年8月11日 (月)

神経質礼賛 334.しりあがり寿の展覧会

 勤務先の病院がある町の美術館で漫画家・しりあがり寿(ことぶき)の「スミ絵だったりアニメだったり」という展覧会が開催されているので見に行った。実は私はしりあがり寿さんとは高校の同期である。ただ、同級になったことはないし部活動などでの接点がなかったので話をしたことはない。週刊誌に書かれていた自伝によれば、高校時代は学校行事の「仮装行列」に燃えていたとのことである。多摩美大卒業後、サラリーマンとしてキリンビールでデザインや広告宣伝を担当しながらマンガを描き続けた。この辺は実に手堅いし、仕事場として最初に買ったビルをより高値で売却したあたりは、なかなかそつがない、という感じである。

 普段は茶道具とか刀剣などの地味な展示が多いこの美術館にしては思い切った企画である。駅から徒歩10分あまり。美術館に隣接する日本庭園の木立に入ると、うだるような暑さも和らぐ。美術館1Fロビーには、展覧会初日に子供たちがしりあがり寿さんの指導を受けて書いた絵巻物風マンガが展示されていてほほえましい。2F展示室の壁いっぱいに広がる巨大スミ絵には度肝をぬかれる。後から入ってきた年配の女性が思わず「ほー!」と驚きの声を上げる。私の興味を引いたのは、中央のガラスケースに展示されていた、彼が美大生時代にマンガ雑誌「ガロ」に投稿してボツになった原稿だ。ある男が銀座の街中で首をつって自殺を図るが死にきれず、通り過ぎる人々を見ているというものだ。みな無関心で、知り合いの女の子も顔をそむけて通り過ぎていく。都会の中での孤独感がよく表現できているし、主人公の心情もよく出ていて、なかなかの佳作だと思う。これを見てから改めて巨大スミ絵を見てみると、一見楽しげでお祭り騒ぎのキャラクターたちが描かれているが、根底にはメランコリックな感情が流れているのではないか、とも思えてくる。小展示室では、「オヤジ」のアニメーション、発表されたマンガの原画があった。

 前話の赤塚マンガとは異次元の世界である。展覧会のパンフレットには「シュールでゆるくてちょっとせつないキャラクターたちに癒されに来てください!」と書いてある。しりあがり作品の特徴はまさにそんなところだろう。音楽療法で「同質の原理」というものがあって、たとえば気分の落ち込んだ時にはゆったりしたテンポの音楽を聴くと良い、ということがあるが、マンガも同じようなことがあると思う。気分が疲れている時には、しりあがり作品が良さそうである。

2008年8月 8日 (金)

神経質礼賛 333.本当は小心者だったのだ

 8月2日、漫画家の赤塚不二夫さんが亡くなった。10年前に食道がんの手術を受け、6年前には脳内出血を起こし、長い闘病生活が続いていた。

私の世代では男の子たちは「おそ松くん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」に夢中だった。学校で「シェー」のポーズをする子がよくいた。女の子たちは「ひみつのアッコちゃん」の持つコンパクト(鏡)に憧れたのではないだろうか。当時の漫画家は手塚治虫の「鉄腕アトム」と「リボンの騎士」、横山光輝の「鉄人28号」と「魔法使いサリー」というように少年マンガと少女マンガを両方描くことがよくあった。赤塚マンガは、一見ごくありふれた日常生活の中でのスピード感のある強烈なギャグが魅力だった。いつも同じように行動しなければいられない人々の強迫性をぶち壊す爽快さを指摘する評論家もいる。しかし、今どきの吉本系お笑いと違って、人情深くホロリとさせる温かみもあったように思う。また、主人公以外のキャラクターに強い個性があって魅力的だ。イヤミ、チビ太、デカパン、ハタ坊、レレレのおじさん、本官さん(警察官)、ケムンパス、ニャロメ、ココロのボスなど一度見たら忘れられないキャラクターばかりである。

8月4日付読売新聞の筒井康隆氏による追悼記事によれば、しらふの赤塚さんはシャイでまじめで驚いたという。「酒を飲まなければ、まともに人と話せない」とも語っていたという。実生活ではバカボンのパパそっくりのムチャクチャをやっていたが、酒が入ってのことだったのだろう。アルコール依存症は治らなかった。植木等さん(171話)同様、ギャグの天才だった赤塚さんも実はまじめで小心者の神経質人間だったのだ。晩年には、目が不自由な人にもマンガを楽しんでもらおうと、触図と点字によるマンガを試作していた。過度の飲酒と喫煙で寿命を縮めてしまったのは残念である。

神経質人間は過度に反省し、自己評価が低くなりがちである。時にはバカボンのパパのように「これで、いいのだ!」と思い切り言ってみよう。

2008年8月 4日 (月)

神経質礼賛 332.本当のエコは?

 エコライフへの関心が高まっている。空き缶やペットボトルの回収率も高い。資源に乏しいわが国では特に、省資源・省エネルギーを心がける必要があり、エコ意識の高まりはよいことである。しかし、せっかくリサイクルにまわしたはずのペットボトルが実際には再利用しきれていない問題も明らかになっている。リサイクル料金を徴収して回収された廃家電が某国に横流しされていた、というようなことも起こっている。エコライフも自分の工夫で無駄を減らすのは問題ないが、行政や業者任せの部分は本当に大丈夫なのか目を光らせる必要がありそうだ。

 7月17日付毎日新聞の特集ワイドでは「そのエコ本物?」と題して、「偽善エコロジー 『環境生活』が地球を破壊する」(幻冬舎新書)という本を出した武田邦彦・中部大学教授の主張と、それに対する反応が紹介されていて興味深かった。レジ袋の使用は環境によく、マイバッグは偽善だ、とこれまでの常識を覆すような説を次々と掲げている。環境問題を考えると、「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、いろいろなことが連鎖しているだけに難しい面がある。

 ともあれ、身近なところでできるエコを工夫するのは良いことだろう。

 森田正馬先生の医院兼自宅では以前書いたように(6話:もったいない)徹底したエコライフだった。洗面した水は貯めておいて拭き掃除に使い最後は植木などにかける。チラシも無駄なく使う。近くの青果市場でクズ野菜を拾ってきて、飼っている小動物の餌にする。古タイヤのゴムを机や椅子の足の底に貼り付けて利用する。先生自らこんな様子であるから、入院患者さんたちもそれを真似て行動していくうちに、物を大切にしてその物の価値を最大限引き出す工夫をするようになり、気がついたらそれまで自分に向いていた注意が外に向くようになって神経症もいつのまにか治ってしまうのだった。そればかりか神経質な性格が仕事に勉強に家庭生活に大いに生かせるようになって、仕事や勉強がはかどり人間関係もうまくいくようになるのであった。こういう「風が吹けば桶屋が儲かる」連鎖だとすばらしい。

2008年8月 1日 (金)

神経質礼賛 331.初めてのセルフスタンド

 原油高のため、石油製品が高騰している。漁業関係者は操業すればするほど赤字になるので漁を手控え、魚が品薄となって高騰し、台所直撃である。ハウス栽培の農家にも打撃である。そして、ガソリンの高騰は多くの人々の生活に影響がある。今月に入ってまた値上げのニュースである。ガソリンを使って遠くの大型郊外店で買物するより近くの個人商店で買った方が安い場合もありうる。いずれは輸送コスト上昇が価格に転嫁されるだろうから、なるべく地場産品を利用する「地産地消」を心がけた方が良さそうだ。生活スタイルを見直すことも必要だろう。

 わが家は今まで車はあまり使わず、年間2000-3000km走るのがやっとであったが、このところ、子供が足の骨折で学校への送り迎え、妻の母親が入院して実家との往復が増え、急に走行距離がのびている。

先日、大手スーパーで買物をしたら、近くのセルフスタンドのガソリン割引券をもらったので、試しに行ってみることにした。近頃、セルフ式のガソリンスタンドが増えているが、今まで利用したことはない。そのスタンドは激安を売物にしていて周辺の店よりリッター15円位安い。6レーンあるが、どこも3台以上の車が列を作って待っていた。列に並んでしまったら後戻りはできない。小心者ゆえ、混んでいる中でモタついたらブーイングを浴びるだろう、などという考えが浮かぶ。前に給油している人の様子をひたすら観察する。自分の番が回ってきて、機械の音声メッセージに従って入金し、おっかなびっくりフューエルホースを持ち、タンクに給油する。溢れてしまう心配はないのだが、それでも何となく恐ろしい。無事給油を終え、プリペイドカードと領収書を受け取る。勝手がわからないまま、車を進めて邪魔にならない所に止め、事務所に割引券の精算をしてもらいに行った。

確かにこういったシステムは人件費が削減でき、合理的である。従来のスタンドのように、窓を拭いてくれるようなサービスは日本だけらしい。しかし、私のように自動車音痴(?)の人間にとっては、スタンドでたまにタイヤの空気圧をチェックしてくれるのは安全上ありがたいことだ。ガソリンの使用量が増えている現状では、従来のなじみの店と、セルフ店と交互に利用することを考えている。

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