神経質礼賛 370.安心立命
安心立命とは、心を安らかにして身を天にまかせ動揺しないことをいう。元は儒教の言葉で後に仏教の言葉となったそうだ。仏教関係者は「あんじんりゅうみょう」と読むようである。
神経質で小心者の私は、次々と心配事が頭に浮かび、仕事や雑事でドタバタの毎日を送っている。安心立命の境地に達することができたらいいだろうなあ、と憧れてしまう。だが、実は私のような凡人であっても、悟りを開くための仏道修行をしなくても、安心立命の境地は身近なところにあることを森田正馬先生は教えておられる。
忙しいときはハラハラする・注射が未熟なときは手が震える・難解な読書は骨が折れる・人前は恥ずかしい・不潔はいやらしい・みなすべて「諸行無常」すなわち固定・常住ではないという事の事実である。この事実をそのまま認識さえすれば、初めて安心立命の境地に到達し、強迫観念が解消する。心配事をも、作為をもって安心しようとするから、そこに迷妄が起こり、絶えざる不安心に駆られるようになるのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.651)
不安な状態を何とか解消しようと「はからう」ことが次の不安を呼び起こしてしまう。平常心になろうとしてなれるものではない。平常心になろうとあくせくすること自体がすでに平常心ではないのだ。不安であっても心配事や雑念を頭に浮かべたまま、仕方なしに行動して「物そのもの」になっていくうちに、不安にとらわれない・不安はあってなきが状態となる。これがまさに安心立命の境地でもあるのだ。「道は近きにあり」なのである。「青い鳥」を探しにさまよい歩く必要はない。
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