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2008年12月 5日 (金)

神経質礼賛 372.鈴木知準先生

 鈴木知準(すずきとものり:1909-2007)先生が亡くなられて1年になる。多くの神経質者から「知準(ちじゅん)先生」と慕われてきた方である。長年、鈴木知準診療所で入院森田療法を行っておられ、御著書も多数ある。日本森田療法学会雑誌に追悼記事が載るだろうと思っていたが、今年の4月号をよく見ると理事会報告の中に「鈴木知準理事が逝去された」という一文があっただけで、最新の10月号でも全く触れられていない。同じく森田正馬先生の高弟であり高良興生院で入院森田療法を行っていた高良武久(こうらたけひさ:1899-1996)慈恵医大名誉教授が亡くなられた時には「追悼の辞」が掲載されたことを思うと、臨床家と学者では扱いが異なるのは仕方ないが、ちょっと寂しい気がする。

 私が知準先生の御姿を拝見したのは十数年前の森田療法学会の会場である。すでに80代ではいらっしゃったが、一般演題の質疑応答の際にはよく発言されていた。特に心理系の先生が少々理論に偏った発表をされると厳しい質問をされていたように思う。その都度、発表者の上の先生が助け舟を出して代わりに回答していた。やはり「打ち込み的助言」で実践重視の知準先生ならではだなあと思った。私の発表はいつも実際的な治療技法に関するものだったので、幸か不幸か知準先生の質問の洗礼を受けたことはなかった。

 その知準先生は学生時代に神経症に苦しみ、昭和2年に森田先生のところに入院している。第8回形外会(昭和5年12月)の記録に、知準先生の発言がある。

 中学3年の一学期から眠れなくなり、小さな物音でも目が覚めるため、土蔵の2階で寝て、母親に番をさせた。眠れずに野原をさまよい歩き、(心配した親が)提灯を持ってつけてきた。不眠の苦しさに時計を投げつけたり、家をひっくり返そうとしてナタで柱を半分切ったりもした。空気銃を買ってもらって雀を撃って、鬱憤をはらそうともした。種々の民間療法を受け、医者にも12人ほどかかったが良くならなかった。4年の3学期に(森田)先生の本を見つけて買ったが、人から神経衰弱と思われるのが嫌で隠していた。中学の先生から(入院してよくなった人の)経験談を聞いて、入院することになった。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.79-80

知準先生の他数名の発言に対して森田先生は次のように述べている。

 皆さんのお話を聞いて、神経質は徹底的であるという事がわかる。元来、神経質は理屈から出発して、自分で当然こうあるべきものと決めれば、人情をも没却して、押し通してしまい、随分無理な事をもするようになる。鈴木君が柱をたたき切ったり、夜中にウロウロ出歩くとかいう事実をそのまま聞けば、狂人のようにも思われる。しかしこれが理屈から出発したという事を確かめて、初めて神経質という診断がつくのである。 <中略> この神経質の徹底的という事が、最も有難いところである。昔から釈迦でも、白隠でもその他の宗教家でも、哲学者でも、皆徹底的に苦しみ抜いた人ばかりである。少しも煩悶し苦労した事のない人にろくな人はない。 (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.82)

 知準先生の場合、今なら「自傷他害のおそれあり」の精神病症状ということで措置入院(都道府県知事命令の強制入院)にでもなりかねない激しい症状だったことがわかる。御両親の過保護も症状を悪化させた一因だったかも知れない。しかし、森田先生は神経質であることを見抜かれ、森田療法を適用された。家族的な雰囲気の中での再教育で知準先生は生まれ変わったように勉強に集中できるようになる。退院してからも森田先生にいろいろと相談し指導を受け続ける。森田先生も知準先生を自分の子供のようにかわいがっていた。やがて知準先生は旧制浦和高校から東京大学医学部に進学。御自分と同じように神経質に悩む人を助けたいという気持ちから精神科医を志すが、森田先生のアドバイスに従って一旦は内科に入局し、それから精神科に移っている。昭和26年に静岡駅近くで診療所を開業され、森田療法を実践された。私の母方祖父が家族に隠れてそこに通院していたことは以前に書いた通りである(118)。昭和39年には東京の中野に診療所を移し、作業にバラ栽培をされていた。入院患者さんとともに生活し、1年365日、直接指導にあたられた。入院治療を受けた人は約5000人にのぼる。雑誌「今に生きる」を発行し、森田先生と同様、退院後の指導も徹底されていた。入院者に限らず、「不安は不安だけでそれっきり」という知準先生の指導で症状の悪循環から脱却した神経質者は数知れない。

 鈴木知準先生が亡くなられて、森田正馬先生の直接のお弟子さん、いわば第2世代の治療者は姿を消した。精神療法は時代とともに変遷していくものである。今では森田療法もずいぶん変化しソフトになった。治療者も父親的というよりオトモダチ的な存在と化しつつある。適応範囲が広がった反面、切れ味が甘くなったきらいも否めない。森田先生の「先生が恐ろしいのは、勉強が苦しいように、当然の事であって、もし、それが友人や路傍の人のようであっては、ここへ入院しても、なんの効もないのである(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.409)」という発言が浮かんでくる。森田先生にせよ知準先生にせよ、御自身の神経症体験をふまえて、厳しくも心温かな治療者だった。神経質者の再教育に一生を捧げられた知準先生の姿勢からあらためて学ぶべきことは多いように思う。

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コメント

鈴木知準先生について書いてくださったのですね!
これは貴重なエントリーだと思います。
以前お話ししましたが、検索しても知準先生について
ほとんどヒットしないのです。ありがとうございます。

WK様
 コメントいただきありがとうございます。相変わらず知準先生の情報が検索で得られないというのは実に残念なことです。神経質に悩む多くの人にとって救いになった、という点では高良先生にひけを取らないと思うのですが。

文中の「臨床家と学者では扱いが異なるのは仕方ないが…」という一文に「なるほど、そういうことか」と思い至りました。納得は行きませんが…(笑)。

四分休符様の仰る通り、知準先生の貢献は偉大ですし、お書きになったものは臨床経験に基づいた、森田療法と人間への深い洞察に満ちています。臨床家と学者の間にそんなに明瞭な線引きはないと思うのです。

ところで四分休符様との出会いがきっかけとなって、man和尚様ともメールのやりとりがありました。この秋、知準先生や森田先生のものを再び熱心に読む時期が訪れ、こちらのHPを知り、そこからまた新しいネットワークが広がったことは嬉しい限りです。ありがとうございました!

WK様
 コメントいただきありがとうございます。「なるほどそういうことか」なんですよ(苦笑)。「納得いかない」というお気持ちは私も同じです。やはり大学教授だとお弟子さんも教授になって、師匠を盛り立ててくれます。知準先生のように生涯一臨床医は一匹狼みたいなものです。孤軍奮闘で森田療法の普及に生涯を捧げられた知準先生を私もとても尊敬しています。
 知準先生を熱く語る男man和尚(mandy)さんとコンタクトがつきましたか。知準先生に関する膨大な情報が得られることと思います。

四分休符先生、はじめまして。
ブログ(森田療法に関する記事)の情報がとても参考になっております。

私も、鈴木知準先生の下で森田療法を受けてみたかったので、先生が亡くなられてとても残念でなりません。

今後もブログを参考にさせて頂きます。

神経症な medical student 様

 コメントいただきありがとうございます。ずっこけた駄文も多いかと思いますが、多少なりともご参考になれば幸いです。
 森田先生はじめお弟子さんたちの多くが神経質性格の持ち主であり、知準先生のように激しい症状になやまされた人も少なくありません。しかし、皆、大成しておられます。
 医療関係の仕事には神経質な性格はとても役立ちます。自分が患者として医者にかかるとしたら、無神経で鈍感な医者は避けたいところです。命がいくつあっても足りません(笑)。
 ぜひ神経質を症状探しに浪費しないで、勉強や仕事にお役立て下さい。

四分休符先生
返信ありがとうございます。
駄文など、とんでもありません。
遡って先生の書かれた記事を読んで森田療法や神経質に関して勉強したいと考えています。

ところで、
上記記事に関連して一つだけお聞きしたいことがあります。
質問に個人的なことも含まれていますので、もし可能でしたらメールにて質問させて頂けないでしょうか。

初めての質問でメールで質問を希望するなどという大変失礼な行為をしてしまい申し訳ありません。

はじめまして。
鈴木先生についてのWEBでの情報がなかなか
得られないとの意見もありましたので、元入院患者として、主にエピソード的な事を
2,3紹介したいと思います。
①講義等では道元禅のことが良く取り上げ
 られましたが、先生ご自身は長身の学者 という感じの方でした。西洋人風。
②生きがいとか人生観とかノイローゼにな って良かったとかの抽象的な事には全く 触れられず、単純明快な方でした。
③健康面を考えてか、講話はピッタリ1時 間で延長は一切なしでした。
④森田先生の事や昔の話をする時は話す事 がうれしくて仕方がないといった感じで した。
⑤愛犬が先生のいう事を良く聞くと破顔状 態でした。(聞かないと逆?)
⑥写真撮影の時、花を横に置いたり、構図
 をご自分で考えたりと非常に熱心で、プ リントしたものをお見せすると、破顔状 態でした。
⑦夜の日課の散歩も傍目にも楽しんでいる ようでした。
 まだ他にもありますがこの辺で。
 とにかく恐いのですが、明るくからっと した方でした。

shin様
 貴重な情報をお寄せいただきありがとうございます。厳しくも温かい知準先生のお人柄がうかがえます。知準先生が「単純明快」だったというあたり、最近の森田療法家は観念的になり過ぎている点を反省しなくてはならないかと思います。
 またお気づきの点がありましたらよろしくお願いいたします。

四分休符様
この素晴らしい御ブログページの存在、心より感謝しております。

鈴木 知準先生のご本は、出版されているもの全てではありませんが、
とにかく何度繰り返し読んだか知れません。
森田先生も親鸞の言葉など引用されておりましたが、
禅の世界と森田療法をしっかりと結びつけたのは、
素人の私の知る限りではありますが、これは鈴木 知準先生の大きな功績の
一つだったのではないか、と。

しかし、そういうことよりも何よりも、
ご自身をまさしく、役立て切った。使い切ったとでも言えば良いのでしょうか。
森田先生が「物の精を尽くす」というようなことを仰られておりましたが、
本当にご自分の体験~人生を「精を尽くして」使い切った方だったと思います。
地位や名誉より、一人でも多く救うことだ、と。
理屈を言うよりも本を出すよりも、まずは治療だ、と。
それを最優先に生きた方だったのではないか、と思うのです。
大変なご高齢に至るまで、診療を続けられたことも、そういうことの一環かな、と。

究極の人だったと思います。

先生に面談していただいたことがあります。
「入院させて下さい」「駄目だ」
そして最後に温かい笑顔で「また来なさい」と言っていただきました。
何か、風のような人でした…

NB様
 貴重なコメントをいただきありがとうございます。

 実は知準先生御自身もかつて森田医院を受診した際(昭和2年3月13日)、なかなか入院を許されなかったというエピソードがあります。学校に通えていないことを理由に森田先生から「意志薄弱で(森田療法は)ムリだ」と言われたそうです。予診をとった野村章恒先生(のちに慈恵医大教授)と森田先生の奥さんが「若いから何とかなるかもしれない」と助言してくれてようやく入院を許されたといいます。
(世界保健通信社刊「森田療法」p.158逸話が語る森田療法②より)

 「駄目だ」とNB様を一旦突き放したのも「森田療法は治してもらうものではなくて自分の力で治すものなのだよ」「どうしてもヤル気なら背水の陣のつもりでやりなさい」ということを言いたかったのではないかと想像します。温かい笑顔で「また来なさい」というお言葉が実にいいですねえ。知準先生のお人柄がしのばれます。大変勉強になりました。

お気遣いいただいて本当にありがとうございます。実は鈴木先生の入院時のエピソードは、先生の著書「ノイローゼ全治の道を語る」の冒頭にも書かれており、先生にそう言われた際も、「あーきたな」と思ったものです(苦笑)。
様々な事情があり入院はできませんでしたが、とにもかくにも、私の人生にとってこの上ない貴重な体験でありました。森田先生が「懺悔の精神構造」というようなお話をされておりましたが、私も鈴木先生に悩みを聞いていただき、それだけでスッキリしたものです。それまで世界中の誰にも、自分の悩みを打ち明けたことがなかったのです。

今後も御サイトの一層のご活躍をお祈り致します。ありがとうございました。

NB様
 知準先生との出会いはまさに一期一会だったのですね。NB様の悩みは知準先生の中で大きく共鳴してすばらしい響きとなって返ってきたのでしょう。
 よい話を伺いました。ありがとうございます。

鈴木先生の御名で検索し、こちらのサイトに至りました。

私は現在42歳ですが、20歳当時の若かりし頃、中野にある診療所に約半年入院し、知準先生に数多くの打ち込みを頂いた身でございます。

私は、重度の強迫神経症、潔癖症、対人恐怖症などが複雑に絡んだ実に厄介な鈴木学校の生徒(患者とは言いませんでした)でした。

もう筆舌に尽くしがたい心境で辿り着いた鈴木知準診療所。白衣ではなく背広姿の先生が初診で私に言ってくださった言葉、未だ忘れ得るものではございません。「君は大丈夫だ。時期が来たらスッと治る。」・・・実に淡々とキッパリ話されました。とめどなく溢れる涙を堪える私。

あれからもう22年。その後、私の神経質な性格は当時と全く一緒ですが、一つだけ大きく変化しました。それは自分の強迫的観念と対峙・対決しなくなり、目の前にある物事に対してスッと身が動くようになりました。そして私の人生は180度変わりました。本質を見抜く感覚も宿りました。全て知準先生のお陰です。命の恩人です。

私は24歳で東京の中堅企業に入社し、20歳代後半には一人で年間20億円売上げる営業職トップとなり、32歳で役員となり、34歳で系列6企業の役員、および2企業の代表取締役にまで就任しました。その間10年です。その後は、最大手のネット通販企業の執行役付に競争率700倍の難関を一気に突破し就任。現在は故郷に戻り、ボランティア、非営利を旨とした活動を致しております。

鈴木先生とのご縁がなかったら、今の私は存在しません。きれい事の理論なんかじゃなく実践を生涯貫かれた偉大なる鈴木先生に深く深く感謝と哀悼の意を表します。

長々と書かせていただき、有り難うございました。

高山様

 貴重なコメントをいただきありがとうございます。重症の神経症に悩まれて、鈴木知準診療所の門を叩いた時の様子がよく伝わってきます。「君は大丈夫だ。時期が来たらスッと治る」という知準先生の御言葉は、御自身を重ね合わせておられたのでしょう。知準先生の打ち込み的助言を受け、素直に行動していかれて、単に神経症が治るだけにとどまらず「己の性(しょう)を尽くす」神経質を生かした人生になったのだと思います。さらにボランティアで人のために活動され、「人の性を尽くす」にもなっておられるのですね。実にすばらしいことだと思います。

森田正馬先生の言葉に次のようなものがあります。
 神経質は、机上論の屁理屈を押し進めているうちに、病の悩み死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きもとれなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮という事に気がついたのを心機一転といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.705)

 ますますの御活躍をお祈りいたします。

はじめまして。皆様にお尋ねしたいことがあり、参加させていただきました。
現在、アメリカ在住で大学のピアノ教授をしています。人前に出て、演奏することの不安や恐怖を取り除くため、演奏前に安易に薬を飲む学生たちを見て、もし彼らが、この恐怖を正面からみつめ、受け入れるようになれたら、と考え、そういう彼らと一緒にいろいろな視点から、自己をさぐっていくようなクラスを計画しました。
アメリカでは、今とても坐禅がはやっており、それを利用して、禅の教えの根本をなんとか取り入れられたら、と考え、中国人で仏教を教えている教授に坐禅の指導をお願いしてあります。
今年が初めてなので、どうなるかわかりませんが、今はまず、自分が禅を学ばなければ、(本人はクリスチャンであり全く仏教には無知)と意気込んでいるのですが。

そんなおり、「精神医学に禅の教えを深く取り入れた森田療法」というのをあるブログで拝見し、とても興味を持ちました。中野の慈恵医大は実家にも近いため、帰国したおり、研修をうけてみようかとも思い、サイトを拝見したのですが、残念ながら、そこには禅との関係については全くふれてありませんでした。
今、私が一番知りたいのは、坐禅をすることと、己の中でいつも聞こえてくる「自分はできないんじゃないか、だめなんじゃないか、」という雑音にまどわされなくなること、自分のもっている本当の可能性をひきだしていけること、に禅の教えがどのようにつながっていくか、また、それをどのように学生に伝えればよいのか、ということなのです。
これを研究するために参考になる森田先生の現在出版されている本、あるいは、森田先生のお弟子さんの情報、などありましたら、ぜひ教えていただけるとありがたいのですが。
よろしく御願いします。

ピアノウーマン様

 コメントを読ませていただきました。ピアノ演奏家の方でも激しく緊張して困っている方は少なくないようですね。以前書きましたように神経質なショパンはコンサートが苦手で気心が知れた人たちのサロンで弾くことを好んでいましたし(549話参照)、ピアニストのフジコ・ヘミングさんも若い頃はコンクールやコンサートの際にひどく緊張して実力が出せないということがあったようです(306話参照)。いろいろな楽器の演奏家の中でもピアノを専門とされる方は特に完全主義の方が多く、神経質傾向が強いように思います。演奏前に抗不安薬を飲んだのでは不安は軽くなってもミスが増えてしまうでしょう。ピアノ演奏に禅を取り入れようという試みは大変面白いと思います。

 激しい緊張を改善するためのイメージトレーニングがよく行われていますが、神経質な性格傾向を持った方の場合はどちらかと言うとそうした暗示にはかかりにくいと思われます。「緊張してはいけない」「緊張しないようにしよう」と思っていたら自分の心身の変化に注意が向いてしまい緊張はますます強くなります。ちょっと乱暴な言い方をすると、「緊張するのは当然で仕方なし」「緊張しながらも一生懸命弾こう」と逆に開き直ってぶつかっていくのが森田式です。

 森田療法は禅からきている、とよく言われていますが、森田正馬先生自身はそれを否定しておられました(禅と森田療法の差異については135話参照)。しかしながら東洋思想、特に禅をバックボーンとしていることは確かです。森田療法を行っている施設で禅を強く打ち出しているのは京都の三聖病院だけだと思います。三聖病院は森田先生の弟子で僧侶でもあった宇佐玄雄先生が大正11年に東福寺の塔頭を利用して創設されました。現在は宇佐晋一先生が二代目院長として治療にあたられています(禅的森田療法)。禅ではありませんがアメリカではD・K・レイノルズ博士(1940- )が森田療法と内観療法を応用した「建設的な生き方(Constructive Living)」を展開されています。オレゴンに「建設的な生き方センター」があるそうです。

 森田正馬先生の著作は白揚社の森田正馬全集全7巻にまとめられていますが、よほど大きな図書館か大阪のメンタルヘルス岡本記念財団図書室でもなければ見られないと思います。白揚社から単行本で現在も出版されているものは、『新版 神経症の本態と療法』『新版 生の欲望』『新版 自覚と悟りへの道』『対人恐怖の治し方』です。詳しくは白揚社ホームページを御覧下さい。

 なお、一般的な森田療法入門書としては、高良武久著『森田療法のすすめ』(白揚社)が一番オーソドックスかと思います。認知症(痴呆)の「長谷川スケール」で有名な長谷川和夫先生の『森田療法入門』(ごま書房)はイラストが入っていてわかりやすいです。森田正馬と森田療法全般についてより詳しく知りたいということでしたら大原健士郎著『神経質性格 その正常と異常』(星和書店)もよろしいかと思います。

 あまり直接お役に立つ情報ではなかったかも知れませんが、また疑問点等ありましたら、どうぞコメントをお寄せ下さい。

四分休符先生、
とても参考になることをたくさん教えていただきありがとうございました。ピアノ演奏と禅がどのようにつながるのか、そこをどのように自分が教えていけるのか、試行錯誤している時でしたので、先生からの励ましのお言葉にとても元気がでました。
「緊張してはいけない」、ではなく、「開き直って受け入れていく」というのが森田式とおっしゃってくださいました。まさにこれは、私が学生達のために目指している演奏恐怖症対策でもあります。

また、森田先生は森田療法は禅からきている、ということを否定していらした、と教えてくださいました。これは、大きな発見でした。(ところで、135話は何月に書かれましたか?)

自分がどうしても耳をかたむけてしまう、否定的な声、ノイズ、に気づき、認めることで、本当の自分を発見することができる、というのが、禅からくる教えと似ているのかな、というのが、私の単純なセオリーなのですが、かなりいい加減ですよね。ですから、禅を勉強しなければ、と考えているわけです。やはり、どのように禅の教えがバックボーンになっているのかを知りたいと思います。

少々、話はズレますが。
日本で、坐禅を初心者に教えてくれるとはないだろうか、と検索したら、あまりの数に驚き、これでは、どこを選んだらよいのかを決めることの方が大変とわかりました。日本でも今、はやっているのでしょうか、坐禅。
期待ゼロで、「まともな禅寺」と検索したら、そこのプログに、森田療法のことについて書いてあるコメントをみつけ、このすばらしいサイトに巡り合えた、というわけです、感謝!

他の雑音(心の声)が全く聞こえなくて、演奏の時に自分の音にからだが「運ばれている」ような経験をたった一度だけしたことがあり、そのときの演奏は、私が禅の域に知らずにいた時だったと直感で思うのです。あの境地になんとか、自分の修行で意識して、もういちど行けたら、というのが私の夢です。

私は思春期のころから、おまえは気違いだね、とよく両親から言われてきました。何時間もピアノを弾きまくっていたし、普通の人とは違う感性をもっていたからでしょう。それで、大学を卒業してすぐ「日本脱出」を計り、アメリカに逃げて来て、少しほっと息がつけるようになりました。もう、20年以上になりますが、こちらの方がそういう”気違い”には暮らしやすい環境がありますhappy02
今は、過度の恐怖症、落ちこみ、アスペルガー症状などを、を抱えている、若い学生たちに、それはそれでいいから、と言い続けて、音楽を通して一緒に活動している、という感じです。
みんな「普通の学生」で、勉強もがんがんやりますが、そういう表面上のことでなく、内面にはやはり、それぞれにいろいろ抱えている、という事実があり、そういうことを無視してただピアノだけ教えるわけにはいかないな、ということもあり、この新しいクラスを計画しました。
「緊張しながらも一生懸命弾こう」という森田式をアメリカの学生たちに伝えたいと心から思い始めています。
また、書きます。
ありがとうございました。

P。S。
もしご迷惑でなかったら、日本の現代音楽ピアノ曲を集めた私のCDを送らせてください。先生は音楽がお好きですよね。まだ、372話しか読ませていただいていませんが、そのように思いました。
メールにてお知らせくだされば幸いです。

ピアノウーマン様

 単にピアノの演奏技術を教えるだけでなく、全人教育をなさろうとしておられることはすばらしいことだと思います。一人でも多くの学生さんが、緊張しながらも演奏に取り組めるようになって、その人の力が最大限に発揮できるようになるといいですね。
 「禅的森田療法」の三聖病院について書かれたものを添付ファイルでお送りします(森田療法雑誌をスキャンしたjpegファイルなので重くなってすみません)。

林 先生、ご無沙汰致しております。
 実地診療の他に、ブログでも大活躍され、敬服致しております。
 さて、鈴木知準先生の「東京雑談会」関係者で、現在も東京、もしくはその近辺に居られる方をご存知でしたら、ご紹介頂けませんでしょうか。
 宜しくお願い申し上げます。2011-06-24
   pithecan1894@gmail.com 澤野より

澤野様

 せっかくコメントをいただき申し訳ありませんが、私は「林先生」ではありません。現在も入院森田療法を行っている三島森田病院に勤務している者です。

 森田正馬先生が形外会で話されたことは森田正馬全集の第5巻で読むことができます。鈴木知準先生が患者さんたちを指導された素晴らしい言葉も、本を通じて後世に残っていくだろうと思います。

僕は最近まで、対人恐怖症でした。
高校3年生のころ、会話というものがまともにできていないのでは?と思いはじめ、
会話中の様々の症状(話題のつまり、焦り、沈黙にたいする恐怖)
を気にするようになり、これをどうにかしようどうにかしようと、色々な会話技術本を読んだり、臨床心理学の本を読んだりとしましたが、一向によくならず、ますます酷くなっているような気がしていました。そして、あるとき森田正馬さんの著書「対人恐怖症の治し方」を本屋で見つけ、対人恐怖症を治すことができました。

まだ20歳の若造なのですが、最近死の恐怖に苦悶したりすることがあります。親はいつか死んでしまうと思うと悲しくなり、自分の今こうしている間も死に近づいていて、いまやっていることに意味はあるかとか悩んだり、死んだらどうなってしまうのだろう?などと人生を悲観してしまっている現状なのですが、それだけ僕は生の欲望が大きいのかなっと思っています。

もっと、この世に森田先生の教えが広く伝わったら良いなと思っています。

駄文申し訳ありません。

本田様

 コメントいただきありがとうございます。あなたの書かれたものを見ますと、昔の私そのものです。私は対人恐怖や種々の強迫観念に悩んでいました。あなたと同じように心理学の本を読んだり、自律訓練法の本を読んでやってみましたがよくなりませんでした。その時に森田療法を知っていれば、遠回りしなくて済んだろうにと思います。いろいろ試行錯誤した上、結局は苦しいまま行動していくしかない、とだんだん気づいたのが20代後半でした。
 理工系の大学を卒業してサラリーマンを4年した後で浜松医大に入り直し、たまたま大原健士郎教授の精神科医局に入り、精神科医となり、森田療法にたずさわるようになりました。全く不思議な縁です。

 そうですね。不安の根本は死の恐怖です。でも死は誰にでも来るもので避けることができません。しかし、死の恐怖の裏側にある生の欲望に沿って、よりよい生を追求していくことは可能です。言われるように悲観するということは、「もっとよく生きたい」という欲望があるのです。
 今後のますますの発展をお祈りいたします。

四分音符さま
私は現在74歳、24歳で静岡の鈴木内科神経科に63日間お世話になり、君は短いからと、卒業(退院)後も先生が東京のご自宅に帰られる毎日曜日ごとにご自宅にお伺いして、入院時に身に付けた生活態度が崩れないようにご指導いただきました。
形外会のように、鈴木先生も「神経質雑談会」を持たれ、ほぼ定期的に、卒業生、入院生、外来の方々を対象に会合を開かれましたが、大阪、名古屋などの卒業生の集会にお出かけになるときには、仲間と同行してご一緒させていただくとともに、これにあわせて京都や奈良に遊んだことが懐かしく思い出されます。先生は、ここは病院ではなく寮のようなものだとか、鈴木学校とか言われていましたが、寮長には、ただ「有難うございました」と感謝の黙礼をするしかありません。なにかとお声を掛けて頂き、結婚後仕事の繁忙もありいつしか離れてしまい、お世話になりっぱなしでお亡くなりになりました。

私ごとになりますが、結婚披露宴で、色紙に「不安心即安心」と書いて下さいましたが、
後年傘寿のお祝いのとき頂いた色紙には、「不安心即不安心」と記され、これを見たとき、ふと達人の生活を通して熟したものがあるのだと思いました。
フランクルは、「心理療法の実践は、二つの未知数からなる方程式であって Ψ=x+y
と表すことができる。xは患者の個人性、yは医師の人格性であり、治療方法は、患者の
個人性に応じて変更されるとともに、医師の人格性に応じても変更されねばならない」と言っていますが、森田療法は生活の仕方の矯正であって(先生は外来ではうまくいかない、
どうしても遮断の環境が必要だと言われていたのは、そのためだと思います)心理療法ではないと言われるかもしれませんが、医師により多少ともアプローチが異なるのは、禅で、禅匠により導き方が異なるのと同じ事情ではないでしょうか。

takao様

 貴重なコメントをいただきありがとうございます。

 古い記事に書きましたが、私の母方祖父も鈴木知準先生の静岡時代の診療所に外来通院していたようです。私は神経質DNAを引き継いでいます。
 森田療法の本質は医療と言うよりも神経質人間の再教育なのかも知れません。「鈴木学校」という表現は実に適切だろうと思います。
 そして「不安心即不安心」は本当に見事な言葉だと思います。不安の根源は死です。どんなに現世で栄華を極めた人でも死は避けられません。藤原道長でさえ、晩年にはパニック障害に悩まされています(413話)。江戸時代の禅僧・仙厓は「死にともない、死にともない」と言って死んでいきました。森田先生も「死にたくない」と言って死んでいかれました。ですから、どうあがいたって不安はなくならない。そこで「不安心即不安心」、不安は不安でそれっきり、生きている限り不安からは逃れられない、できることをひたすらやっていくしかない、まさに知準先生の教えの真骨頂だと思います。

四分休符 様

早速コメントバックして頂き有難うございます。
よく見ると、niftyのブログランキング2位になっていますね。
苦悶して、生きるヒントを探している方々がいかに多いのかを思わずにいられません。
そして、それ自体はきわめて自然で、正常なことではないでしょうか。
数十年前になりますが、一度、鈴木先生関連の書物を整理したので、単行本では何も残っていませんが、雑誌「今に生きる」は、3号から78号まで残っています。
(但し、57号と66号が欠落しています)
生意気にも、マンネリでもういいやと思い、ここで打ち切りました。
三島森田病院には恐らく最初から最後まで揃っていることと思いますが、もし何らかの形でお役にたてるようならお申し出下さい。(古いので汚いですが)
先生の考え方や表現にも、変遷があると思うので、どうかとも思ったのですが、取りあえずご連絡差し上げる次第です。

takao様

 知準先生の「今に生きる」を揃えていら
っしゃるのですね。すばらしい宝物だろう
と思います。

 勤務先の資料室には森田先生以外の書籍
としては、高良先生、古閑先生、知準先生
、水谷啓二氏などの書籍が揃っています。
 ただし、雑誌類はありません。また、調
べていて必要になった際にはお貸し願うこ
ともあるかもしれませんので、その際には
よろしくお願いいたします。ご親切なお申
し出をいただきありがとうございます。

 知準先生ばかりでなく、森田先生にして
も、だんだんに時代とともに少しずつ考え
方や表現に変化はあるだろうと思います。
やはり、少しでもよりよい治療・指導を行
おうと日々工夫を重ねておられれば、それ
も当然だろうと思います。

 御著書「神経質礼賛」を読ませていただいた者です。
 小生、鈴木知準先生のところへ、昭和45年に4ヶ月お世話になりました。「不安神経症」と診断され、入院したのですが、あの頃を懐かしく思い出しました。
 もう、40年以上も前になりますか。
 知準先生の思い出としては、夜の講話の時、指名されて、先生の横に正座して皆の前で、参考の本を声をだして読まされたことです。
 読んだ本はいろんな種類のもので、先生の蔵書でした。形外会の記録も読みました。
「神経質」誌が合本になっており、これは貴重なものだと密かに思っていました。
 先生の思いは、「森田の教えが間違って伝えられるいる場合が多く、正しい教えを残しておきたい」というものでした。
 先生は「僕が森田先生の教えがピタッと心にきてわかったのは、20年、30年たってからですよ」と言っておられました。
 私には、本格的森田療法を受ける施設が今はありますかどうかわかりませんが、確かに鈴木先生のところは厳しくも、暖かいところでした。
 なつかしく、ちょっと一言投稿しました。

sugiya様

 貴重な御体験をお教えいただきありがとうございます。また、拙著をお読みいただきありがとうございます。

 鈴木知準診療所と高良興生院が閉院になって以降、森田療法原法の雰囲気を残しているのは京都の三聖病院だけかと思います。三島森田病院も指導員の田原綾さん(84話)が亡くなり、さらに病院が移転してからは大学病院の森田療法に近いものになっています。ただし農作業に関してはとても充実しています。
 
 森田先生や知準先生のように治療者の「気合いにふれる」という点は、現在の大学病院で行なわれている森田療法には欠落しているところだと思います。

四分休符 様

 知準先生の言葉①
 ご返事いただきましてありがとうございます。気合いに触れる療法が消えかかっているとのお言葉、非常に残念に思います。

 先生のご著書は体験からでたおことばであり、単に森田の言葉をオウム返しに写しただけのものではなく、大変感銘を受けました。

 私は、現在74歳で33歳の時、知準先生のところにお世話になりました。
 家から一歩も出ることが出来なかった心臓神経症でした。父についていってもらって、転げこむように先生のところへ入寮しました。昭和45年のことです。

 おかげで神経質が完治し、知準先生のことを少しでも皆様にお知らせすることが、わたしにとってある種義務みたいなものかと思い、再び投稿することにしました。

 鈴木知準先生はつぎのように言っておられました。
『こういう森田的環境に身を浮かべておったらいい。
 だから、私たち治療家はこの遮断の環境を必死でまもりますよ。
 森田の療法は、いかにしてこの緊張した作業と生活の環境をつくりだすか、守っていくかにあります。
 入寮者はこの環境に身をゆだね、身体を動かし、私の言うことを疑ってもいいから、毎日の生活を精一杯やっていくことです。
 ここでの環境と一つになってやっていると、次第に心が動いていく。心が次次と流れていきます。
 それは、内発的に転回していくのであって、意志の力でやるのではないのです。今まで神経質の症状を起こしてきた自分の環境でそれをするのは、大変難しことです
 動きのなかにフト入っていく、その時症状があっても、気がつかないですよ。
 その動きだけをやっているんですよ。それが治療と言えば、治療なんだ。
 「あるがまま」とかなんとか、言葉をおぼえることではない』

 こういう療法がなくなっていくのは、神経質者にとって大きな損失だと思います。
 私は素人で専門的なことはわかりませんが、こういう療法を受ける条件として、

 わたしの体験からすれば、
①有る程度症状がすすんでしまった神経質者には、このような治療が是非必要かとおもいます。「有る程度」とは、社会生活ができなくなってしまったとか、と言ったこと。
①疑っていても、とりあえず療法家への信頼が必要でしょう。そのためには、この先生にカケてみようという心理を働かせることになりましょう。

 先生の御著書が機縁となって、私自身、もう一度神経質を見直してみよう、知準先生のお言葉を思い出してみよう、との思いに駆られ駄文を記しました。
 

sugiya様

 コメントいただきありがとうございます。

「知準先生のことを少しでも皆さんにお知らせするのが義務」というsugiya様の心意気に大変感動しました。自分が治ればよしではなく、「同病相憐れむ」で同じ悩みを持った人の役に立とうとしてこそ本物である、ということを森田正馬先生も形外会の場で繰り返し言っておられます。

 鈴木知準先生は多数の御著書を書かれていますが、残念なことにインターネット上の情報が十分ではありません。またお気づきの点がありましたら、ぜひ御投稿いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。

四分休符 様

 お忙しいところ早速にコメント頂き感謝。

 鈴木知準先生のお言葉②

 素人の気安さで、入寮時の体験したことを記します。
 先に、入寮知準先生の講話の際、指名され、皆の前で本を読まされたことを記しました。(この欄9月27日)
 これは、本の内容にそって、先生なりに、森田的な自由な心のありようを入寮者に説明するためです。
 読んだ本は、当時の日記から次のようなものです。(全部は記録していないのですが)

 ○ 森田正馬先生の著書
 ○ 雑誌「神経質」
 ○ 鈴木知準先生の著書
 ○ 雑誌「今に生きる」
 ○ 鈴木大拙 「禅と精神分析」 
 ○ 田中忠雄 「生活改造と禅」
 ○ 伊福部隆彦 「人間道場」雑誌?
 ○ 倉田百三 「絶対的生活」
 ○ 河原宗次郎 「草土記」
 ○ オイゲンヘルゲル「弓と禅」
 ○ 道元 「典座教訓」
   などなど

 こう見てくると、禅関係の書物が多いようです。そこで、知準先生の治療法と禅との関連が云々されていますので、そのことに触れてみます。

 たしかに、禅のお話が多かった記憶があります。とくに道元について。
 しかし、先生は次のように言っておられます。

 『神経質のとらわれから脱した心の状態は、禅の修行をして心がひらけた僧のものと、同じか、それに近いものだと考えられる』
 しかし、知準先生の療法方法(治療戦略、治療戦術)に禅の修行方法が取り入れられてはいませんでした。
 あくまでも、森田の原法を忠実に行っているというものでした。

 たとえば、座禅(正座もしくは静坐と言っていたようです)は毎日夜間に20分ほどありましたが、先生は
『静坐で特別な治療効果を求めているものではありません。皆が一日中動き回っているので、呼吸を調えて休んでいると思って下さい。ぼんやりして休んでいるよりいいのです』 と言っておられました。

 ご承知のとおり、森田先生もどこか著書のなかで、つぎのように書いておられます。

《私の著書に、禅語の引用されているのは、皆、強迫観念の治療に成功して後に、始めて、禅の意味が解かるようになったのである。即ち、禅と一致するからといって、禅から出たのではない》
(私宛、柿原美恵さんのお手紙からの引用で、どの書物か調べておりません)

 少し長くなりましたが、知準先生と禅について述べてみました。禅について知らないものが、こういうことを述べると間違いがでてきて、あまり参考にならないかも知れませんが。

sugiya様

 コメントいただきありがとうございます。森田先生が禅について書かれた部分は全集にあります。

 私の著書に、禅語の引用されているのは、みな強迫観念の治療に成功して後に、初めて禅の意味がわかるようになったものである。すなわち、禅と一致するからといっても、禅から出たのではない。私が神経質の研究から得た多くの心理的原理から、禅の語を便利に説明する事ができるようになったのである。(中略)こんな風の事は、私は神経質の発作性症状の心理から類推して、禅の語を解釈する事ができるかと思う。この故に禅の修業や、その方の説得のみをもって、神経質を適切に治すという事はできないが、私の療法は、それなどとは全く関係なしに、直す事ができるのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.388)

 知準先生と鈴木大拙さんとの関係は有名ですね。禅関係の本が多いのはわかるとして、『草土記』もあったのですね。670話に書きましたが、森田先生のところに入院した額縁商・河原宗次郎の自伝の形で水谷啓二さんが書かれて白揚社から出版された本です。この本の最後の部分、森田先生の弟子・古閑義之先生(聖マリアンナ医大学長)の御自宅を河原さんが訪ねる場面は感動的で、私は何度も繰り返し読んでいます。

 また、御記憶に残ったことがありましたら、ぜひ御投稿お願いいたします。何分、ネット上に公開されている知準先生に関する情報が少ないものですから、貴重です。よろしくお願いいたします。

四分休符 様

 引用した文の出典も調べることのない杜撰さ、お許しください。早速にご教示賜り恐縮です。
 出来る限り、私の体験した(主として鈴木学校で)ことどもを、これからも記していきたいと思います。

 私は、大学で演劇を専攻し、映画会社へ就職しました。そこで、不安発作を起こし、4年あまりで退職を余儀なくされました。
 鈴木知準先生のところを卒業し、郷里の名古屋へ帰って、民間のエフエム放送の会社に入れていただきました。そこで30年余務め、62歳で退職し現在に至っております。

 したがって、専門家ではありませんのであまり参考にはなりませんが、私の体験した拙文を一人でも読んでいただけるならば、またそれが一行でも心に響くものであれば、幸いこの上もありません。

 先生からご指摘をうけました森田全集も揃えております。今回は森田療法本のことを述べてみます。

 昭和30年代はまだ森田関係の書物があまり出ておりませんでした。
 水谷啓ニ先生に、もっと正馬先生の本を出してください、と手紙に書きましたら、
 「私が、著作権を持っているわけではないのでどうしようもありません、しかし機会があったら努力してみます」
 そんなご返事がありました。

 それから今日まで、実に多くの森田関係の書物がでました。
 わたしは、慾張りですから、ほとんど買いもとめました。
 例えば、高良興生院から出ていた雑誌「形外」まで蒐集するありさま。
 大原健士郎先生のご著書も。(2~3回講演を拝聴しましたー愛知県の美和町の病院へも来られたように思います)

 度重なる引越しで散逸しているものもあるかもしれませんが、いつかは、まとめてどこかへ寄贈したいと思っております。

 この欄で雑誌「今に生きる」の記事が出ておりますが、私のところに、13号から108号(これが最終号?)まであります。
 入寮中に編集を手伝った思い出のものもあります。ご参考になさることがおありでしたら、ご連絡ください。

 私が、よく参考にし、びりびりになるまで読んだ本は、辻村明著「私はノイローゼに勝った」ごま書房 氏は東大教授、社会学専攻、水谷啓二先生のところへ入寮した人。
不安神経症の方には最適かと思います。

 最近感銘した本、「神経質礼賛」。と、もう10年前になりますが、松永昇著「森田療法の入院体験記及び解説」 氏はかって野村章恒先生の病院に勤務されていた精神科医です。
(非売品になつており、手に入りますかどうか)

 書物のことのみ書きました。

sugiya様

 コメントいただきありがとうございます。

 sugiya様は不安発作に苦しまれて鈴木知準先生の門を叩かれ、「卒業」後は人生が大きく転回していかれたのですね。

 個人で森田正馬全集を揃えている方はあまりないと思います。私も自分で買わなくてはと思いつつ、勤務先に何セットもあるものですから、ちゃっかり買わずに済ませています。退職したら自宅にも揃えます(白揚社さん、ごめんなさい(笑))。

 森田療法関係の稀少な雑誌や絶版になった書籍を数多くお持ちなのですね。メンタルヘルス岡本記念財団の図書室(担当:万代博志さん)が森田関係の図書や資料を収集していますので、ご不用になった際には御寄贈していただけましたら、多くの人が閲覧できてよろしいかと存じます。

 またお気づきの点がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

四分休符 様

 「鈴木学校」を卒業して

 もう40年近く前になりますか、岡本常男さんから「鈴木先生のところへ行って、何が一番印象に残っていますか?」と尋ねられたことがあります。
 生活の発見会の名古屋での会合の時だったと思います。まだ記念財団ができる前です。

 私は、とっさのことでどぎまぎして、「打ち込み的助言ですかね」と答えました。たしかに、その人ごとに、作業現場で自分のしていることで、注意の払い方につき的確に打ち込まれました。
 しかし今考えてみると、一番大きな事はほかにあります。岡本さん、40年経って、訂正させていただきます。
 
 鈴木学校では、漠然とした不安、乗り物恐
怖などでお世話になったのですが、120日入寮してどうなったか。
 それは、「神経質は神経質のまま生きていくしかないんだ」ということが身に沁みこんでどんよりした重い気持ちでの卒業でした。

 入学するときは、父につき添ってもらって、名古屋から新幹線で鈴木先生のところにいきました。帰りは、不安ながらも一人で新幹線に乗り帰ってきました。その時の恐怖はいまでも憶えております。

 「神経質で生きていく」、それは将来に希望を持った明るい展望のあるものではなく、ちょうど、海の底に沈んでうごめく貝のようなもので、(私は貝になりたい、というテレビや映画ががありましたが)それしかないんだな、と重いなまりのようなものが身体全体に広がって、それしかないんだ、それしかないんだ、となんども独り言をいっていました。
 それが、鈴木学校で得たことです。しかし、それは、悲観的なことではなく、当時は、「目の不自由なひとは不自由なりに生活しているではないか、脚が不自由な人は不自由なりにがんばっているではないか」、神経質でいいんだ、一生、海の底で這いつくばってでいいから暮らしていこう、というもので、不思議と建設的な色合いもありました。

 今考えると、それがすべての神経質の症状を受け入れていく最初の一歩だったとおもいます。鈴木先生にいやというほど、身に沁みて仕込まれたことだったのですね。

 その後の社会生活では、苦しい時期もありましたが、なんとかねばってやってきました。結婚して、子供が出来、課長、部長になって不出来ながらサラリーマン生活30年をすごし、現在に至っています。
 その基礎が、鈴木学校でつくられたように思います。

 いまでも「オレは神経質だなあー」といつも思っています。

 岡本常男さん、以上訂正してご報告します。

sugiya様

 とてもよい話です。ありがとうございます。

 「神経質なまま生きていくしかないんだ」という「どんよりとした重い気持ち」、非常によくわかります。そしてそのように諦め、覚悟を決めてしまうと、不思議と建設的な色合いも出てくるものです。

 私は、若い頃、対人恐怖と強迫観念にさいなまれ、悪戦苦闘したあげく、「自分はダメ人間だけれども、このままで生きていくしかないんだ。とにかくできることを積み上げていくしかないんだ」という覚悟に到達した時の心境を思い出すと、sugiya様が鈴木学校を卒業された時の心境とよく似ている思います。深い海の底でうごめいているような心境、でも同時に、今の自分は最低だと思えば、あとはがんばっただけ上に這い上がれる、そんな気もしたものです。

 森田療法を受けと気分が青空のように晴れ渡ると思い込んで入院して来られる方がいますが、そんな魔法はありません。

 症状はあろうがなかろうが、目的に沿って行動する習慣が付き、神経質を生活の中で生かしていけるようになると、やがては神経質でよかった、というところまで到達するのですが、やはり年月はかかります。

 「自分は不出来だ」と努力を重ねるところが神経質の優れた点です。sugiya様も努力を重ねられ、神経質を生かしてよい仕事をされ、サラリーマン生活を全うされたのだと思います。

 また、お気づきの点がありましたら、お願いいたします。

四分休符 様
Sugiya様の的確なコメントを拝見して懐かしく、小生も先生についての思い出をいくつか書いてみたいと思います。
1 鈴木先生に面談していただくために初めてお会いしたとき、職場の上司との人間関係
  が発端で対人恐怖のために森田系の女性医師に相談に行った際に「お会いした方に下
  手に出る」ようにアドバイスされたことをお話しすると、間髪を入れずに、「そりゃ、
  ○○さんの間違いだよ」と言われ、「あぁ、この人はわかっている。ついていこう」と
思いました。
2 Sugiya様も書いておられる通り、先生は、伊福部隆彦氏の主宰する雑誌「人生道場」
  を題材に講話をされることがありました。
  その延長線だと思いますが、退院時(卒業時)の講話で、中村久子さんの
  「ある、ある、ある、みんなある」という詩を紹介されました。
  せっかくご紹介頂いたのに、骨身にこたえませんでした。
  当時の小生には高級すぎました。
3 「神経質は、とにかく粘ることだよ。」といわれました。
4 いまとなっては、その時の内容が定かではありませんが、退院後(卒業後)、煩悶して
  お手紙を差し上げた後にお会いしたとき、先生は「takao君、はがきを寄こしたね」と
  笑っておられただけでした。そのとき、これ以上先生に苦悶を訴えても仕方がないと
覚悟を決めました。

大変な導師だということは、先生の話される言葉で察知はできるのです。例えば、上記の
中村久子さんの「ある、ある、ある、みんなある」は、感激はするが他人事のため、
本当のことは分からないのです。それはなによりも、中村久子さんが圧倒的な苦悩を
自ら引き受けているから言えることで、自分は外野で眺めているのにすぎないということがわからないのです。そうしたことが見えたのは、ごく最近です。(恥ずかしい)

takao様

 貴重なコメントをいただきありがとうございます。

 不勉強で、中村久子(1897-1968)のことは知りませんでした。幼少時に凍傷のため両手両足を切断。身売りされて見世物小屋で働きますが、自立しようと努力を重ね、作家・詩人として活躍するとともに講演活動などで多くの人々に勇気を与えた人ですね。過酷な境遇を恨まず、無手無足は仏様から賜った身体であるとして、まさに「己の性を尽くし 人の性を尽くす」の一生を送った人なのだと思います。

 森田正馬先生も、よくヘレン・ケラーや晩年の正岡子規などを引き合いに出して患者さんたちに話されています。たとえ重大な病気や障害があっても生き尽すことができるのだ、ましてや神経質の症状ごときでグチをこぼすなどもってのほかだ、ということなのだと思います。

 不器用でも不具者でも、そのままで工夫し努力するほかに道はない。柳生十兵衛は片眼で武道の達人であり、ヘレン・ケラーは聾唖盲で博士になった。高知県生まれのある男は、生来、両腕がなくて、足で字を書き、弓を射て非常に上手であった。それを生まれつき器用だといって片付けてはならない。決して容易な工夫と努力とでできる事ではない。(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.740)

金持ちだから・熱があるから・不具者だから、好日でないと云ふのではない。跛でも、一方の脚は長い・と思ふ希望を持って居るのである。あらん限りの力で・生き抜かうとする希望・その希望の閃きこそ、『日々是好日』なのである。(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.478)

 takao様が退院(卒業)される時に知準先生が言われた言葉、「神経質はとにかく粘ることだよ」はまさにその通りだと思います。神経質人間は大博打やハッタリで大儲けすることはできませんが、コツコツ働いて人並み以上に成果を挙げることはできます。そして一度失敗するとますます慎重になるので、大失敗は避けることができます。ホームランは打てないけれど、ファウルで粘りに粘ってフォアボールを選んで出塁し送りバントと相手エラーで着実に1点を決めていくようなものでしょう(笑)。神経質を生かすためのすばらしい言葉だと思います。

 また、お気づきの点がありましたら、よろしくお願いいたします。

四分休符 様

 takao様のご文章拝見。中村久子さんの本なつかしく思い出しました。先生の横に正座して、確かに読んだおぼえがあります。
 
 「森田」の先輩、同僚、後輩と自分との関係について考えてみました。 

 四分休符様が、鈴木知準先生が亡くなられて、森田正馬先生に直接指導を受けた方がこれでいなくなってしまった、と書いておられますが、さみしいことですね。

 鈴木先生は、「森田療法の人間関係の中心は、治療者と患者の一対一であり、治療者・補助者である医師、看護婦と同期の患者等の人間関係は、補助的なものである・・・」(ノイローゼの体験療法・池田書店・121頁)
と、述べられております。

 私の体験。入寮中に、雑誌の編集を手伝っていて、山野井房一郎さんの先生宛てはがきを拝見して驚きました。氏は書痙と対人恐怖が主訴であったと思います。
 山野井さんのご著書を、自費出版の「森田式生活30年の体験記録」ですが、わけていただき、拝見し、模範的に治癒された方とつねづね思っていました。しかし、書かれた字はスラスラといっ
たものではありません。確かに味わい深い字ではあるのですが。

 私は、治るということはどういうことか、と悩みました。当時は、書痙の方は治ると、書道の先生のように、流麗に手紙など書かれるのかとおもっていたのです。

 その後、何度か山野井さんとお会いする機会がありました。やさしい口調と笑顔の素晴らしい方でした。はがきもいただきました。
 字はすこしごつごつした感じはありますが、立派な字ですこしも読むのに問題ありません。誠実なお人柄を感じさせる書体です。

 実際にこういうことで、治るということはこういうことだ、とはっきり理解できました。
 これは、森田の先輩との人間関係で、身をもって教えられたことです。
 山野井さんは「郵便局というところは、人に何回でも住所や名前を書かせるところだね。いやになるよね」と、笑っておられましたが。

 鈴木先生は、補助的人間関係と書いておられますが、私にとっては、「大いなる補助」と言うべきものでした。

 言葉足らずで申し訳ない。

 (山野井さんはその後、白揚者から著書をだされています)

 

四分休符 様

 上段の投稿に補充します。

 鈴木学校では、形外会のように1ヶ月か2ヶ月に一回、「神経質雑談会」といって、森田先生に指導を受けられた先輩、鈴木学校の卒業生、只今在学中の者が集まり座談会が開かれておりました。

 始めて出席した時はショックをうけました。みんな神経質だったからです。当然なことですが。それは、座っている先輩たちの姿を拝見するだけで「ああ、この方もそうだ」とわかります。

 五感を超えた何物かでわかるのでしょうね。まるで自分の姿をみているようで。

 ある日、鈴木先生が「日本寮歌祭」でテレビに映り、後日入寮者一同がビデオで拝見したことがあります。
 かってのバンカラな旧制高校の学生たちが、いい大人になっても、昔をしのび声を張り上げ奇妙な踊りをやらかすのです。
 鈴木先生はすぐわかります。動きに抑制が効いているのです。
 同僚と、やはり先生も神経質者だね、すぐわかるね、と話し合ったものです。
 
 こういう、先輩、同僚から無言のうちに教えられるものは、私の場合たいへん多くありました。
 うまく言えませんが、人の性格には神経質という種類が確固としてあり、それが世の中でなにがしかの役割を果たすのだ、人というのはそういうふうにできているのだ、ということですね。

 専門的にはいろんな見方があるのでしょうが、「補助的人間関係」について、私の場合、たいへん大きな収穫があったと言わざるをえません。

 そのように思います。
 以上補足いたします。

sugiya様

 コメントいただきありがとうございます。

 山野井房一郎さん(1903-1981)の字は私も見ています。三島森田病院に山野井さんから寄贈された『神経質でよかった』(白揚社)がありまして、そのサインは少し右下がりの大きな字です。もちろんふるえはありません。
 この本には大変感銘を受けたので、当ブログでも660・661・662話に書かせていただきました。
 山野井さんは、独学で公認会計士・税理士の資格を取られ、経理関係の著書も20冊に及ぶ方です。単に自分が治ったからよしではなく、形外会や戦後の新生形外会でも後輩のめんどうをみておられ、すばらしい方だと思います。もし、生きておいでだったら、是非ともお会いしたいところですが、残念です。

 昨年は森田療法の生き証人とも言われた井上常七さん(1909-2010)がお亡くなりになって、森田正馬先生の治療を受けられた方はほとんどおられなくなったと思います。森田療法のすばらしいところは、ただ神経症を治すのではなく、神経質を生かせるようにするところだと思います。実際に治療を受けた方が書き残した書はとても貴重です。

 「五感を超えた何物か」は私も感じるところです。神経質の人と接すると、共振回路で電圧がピークになるような感じがします(笑)。おっしゃるように、森田療法では、治療者や先輩から無言のうちに教えられるものも大切なことだろうと思います。

四分休符 様

 コメントをいただきありがとうございま
す。

 鈴木先生の診察を受けた時の様子を記します。

 電話で予約したうえ、父についていってもらい、名古屋から東京中野の鈴木知準診療所へ行きました。(電車に乗れないので、父に頼みました。情けない限り)
 昭和45年の夏。私は33歳でした。

 鈴木学校(中野の診療所)は400坪の敷地に3階建ての立派なものでした。
 2階の診察室前の待合室に座っていましたら(もうドキドキものです)、鈴木先生はバラ園からの帰りで、階段を上ってきました。
一瞬、目が合い、ア、この人なら何とかしてもらえる、直観でそう思いました。

 先生は、恰幅の良い大柄な体格に、背筋がスッと伸びた、明るい感じの紳士然とした人です。

 診察は30分(あるいは40分だったかもしれません)。父が診察室へ入ろうとしたら、
 「お父さんは待合室でお待ち下さい」と言われました。
 そして私が先生の前に座ると、
 「もう少し離れて下さい。どんなことが、一番つらいですか」と言われました。
 私は、普通の内科医の前に出るような距離(聴診器がとどく)をとったのですが、すこし、後ずさりしました。

 「心臓発作を起こし、救急車ではこばれたのですが、異常はありませんでした。漠然とした不安にたびたび襲われ、外へ出るのが怖くなり、電車に乗るのもできなくなりました。食欲不振、不眠、身体がゆれる、などの症状もあります」
 先生は、両手を前に出させ、指をピンとのばしたり、皮膚を楊枝のようなもので引っかいたりなど、原始的で物理的な検査をされたように記憶しています。 

 そして、学歴、職業、家族構成、父の職業を尋ねられました。お医者さんに学歴まで聞かれたことは始めてです。

 「森田の本はどんなものを読みましたか」
 「正馬先生、水谷先生、古閑先生、高良先生、馬杉、・・・手に入るものは全部よみました。」
 「そうじゃなく、僕のどの本を読みましたか」
 「そうですねェ、不安の解決、ノイローゼを越えた人々・・・」
 どぎまぎして、全部答えられませんでした。先生は、自分の著書と他の方のものとは少し違うと思っておられました。
 
 そして、診断。

 「君は不安神経症です。森田療法で治ります。 これは、神経質とヒステリー性格が混 じって いて、君には、強迫観念などは少し理解できな いかもしれませんね。」
 「先生、是非入院させてください」
 「君が、もう少し若かったらなァ・・・。まあ、私も年だからあと何人治療できるかわから ないので、若い人を指導したいのですよ。若い 人は大きく伸びますからね。まあ、いいよ、今 はここがいっぱいなので、 一旦帰りなさい。 空きができたら、電話する。」
 というものでした。

 先生当時61歳。今ならまだまだ若い年頃です。あとから、わかったのですが、一人くらいなんとでもなったとおもいます。
 しかし、一旦帰らせて、様子をごらんになったと思います。本物の神経質なら、必ずもう一度来る。そうでなかったら、来院しないこともある、と思われたのではないか。

 名古屋へ帰ったら、その日の夜に、先生から電話がありました。
 「明日、鈴木学校に来るように。お父さんに替って下さい。お父さんですか、ご足労ですが、息子さんをもう一度連れてきてください。」
 
 上京して、先生にお目にかかったら、慈愛の満ち溢れたお顔で
 「これから、どしどしやりますからね」
と、言われました。

 念願の鈴木学校入校を許され、これで地獄から、苦悩から抜け出せる、天の助けだと心から思いました。
 
 鈴木先生のご診察のもようのみを記しました。こんなことご参考になるかどうか。
 

sugiya様

 貴重な御体験をお書きいただきありがとうございます。

 おっしゃるように、本当は初診時に入院させることは可能だったのかもしれませんね。しかし、背水の陣で、もうここで自分ががんばるしかない、と覚悟を決めさせるために一旦帰宅させたのでしょう。こういった「呼吸」はマニュアル医療にはない点で、面白いところです。
 

四分休符様

 鈴木知準先生についての情報が少ないということなので、私のとぼしい体験のなから、先生に接したときの様子を再び述べてみます。
 南条先生のご文章によりますと、知準先生が静岡の地で、医院を開業されていたのは、昭和39年までということ。
 私が、東京・中野の鈴木知準診療所の門をたたいたのは、昭和45年ですから、東京に開院して6年経った時になりますか。
 それでもこの時期、静岡の医院は分院として残し、週1回は東京から診察に出かけておられました。そんな日は朝早く、私たち入院性数人で先生宅の愛犬を連れて、先生を地下鉄の駅までお見送りしたものです。
 
 先生のご本宅は、中野の診療所に隣接してありました。もともと奥さまのご実家だと伺ったことがあります。
 しかし、先生はほとんど毎日診療所で生活しておられ、来客も院長室と診察室で応接しておられました。夜遅く、本宅へ入られる程度だったと思います。
 静岡時代は、「入院生とのみ食事をして、家族とは一緒に食事はしなかった」といっておられました。この時代でも、先生の食事は入院生が作っておりましたが、一緒ということはありませんでした。
 先生の生活のすべてが入院生とともにあり、森田療法一筋のひとでした。私ども二十数名、時には三十名近く、先生とともに家族的雰囲気のなかで生活をさせていただきました。
 近頃、こういった森田の原法をやっておられる施設がほとんどないことをお聞きして、やはり淋しく思います。

 先生は、ほとんど毎日、診療所で入院生の指導にあたっておられましたが、私が当時いつも思っていたのは、不思議と先生が、今どこにおられるかわからないことでした。
 この時間は、診察室、食堂、いんちょうしつ、庭、バラ園、ご自宅と、何カ月も一緒に生活させていただいておれば、わかりそうなものですが。
 庭で水をまいていた私に、二階のベランダから先生がご覧になっていて、「ダメだよそんなところまで水を撒いちゃ、石の上は滑るから」と打ち込まれます、油断ならないのです。
 また突然、講話がはじまります。ぼんやりしていると部屋にはいれません。絶えず注意を払っての生活が自然と身に着くようにさせられました。

 知準先生は、大原先生のいわれた、「守・破・離」のうちで「守」に焦点をあてて、森田の原法を伝えるという、そのことにその一生を捧げた人だと思います。

 卒業生が5,000人近くいると伺いました。医家で立派にやっておられる方もいますので、いずれ知準先生の業績もきちんとした評価がなされるものと信じております。
 

sugiya様

 貴重な御体験談、ありがとうございました。私も大変勉強になりました。

 作業の様子を2階ベランダから御覧になって「打ち込み的助言」を放つ知準先生。すごいものです。現代の治療者ではこれができません。甘々になってしまいます。「油断ならない」「ぼんやりしてられない」これでは症状を相手にしているヒマなどありません。神経質を生かす他ありません。厳しいように見えて、本当は一番優しい先生だったのかもしれません。見せかけの優しさだけでは神経質人間をダメにしてしまいます。現代の治療者は大いに反省しなくてはならないところだと思います。

 またお気づきの点がありましたらよろしくお願いいたします。

四分休符 様

 鈴木知準先生のところを紹介して下さった方は、是非何かに記して残さなければならないと思い、投稿申し上げます。

 堀滋美という、岐阜県多治見市で外科医院を開業しておられた先生です。(姓は間違いないのですが、名は違う表示かもしれません)何しろ40年以上前のことで、記憶があやしいと、思うからです。

 四分休符先生はご存知ですか?
 この堀先生は、森田正馬全集第五巻にでてくる、当時19歳の少年だった人です。(全集5巻511頁)
 電車で切符を買う時、「御成門」という言葉が言えず、地図を持っていって指をさして購入した人で、吃音恐怖で森田先生のご指導を受けられました。
 堀先生はその後全快され、外科医となって活躍されました。

 どなたの紹介でしたか記憶がないのですが、私は「入院森田療法受けるには、どこの施設がいいですか?」とご自宅へ電話をかけてお尋ねしました。
 堀先生は、どこがいいとは仰りませんでした。ただ、ある施設は入院生が集まる部屋の壁に皆が座って頭を凭れかけるのか、うっすらと跡がついていた。鈴木先生のところは、部屋にチリひとつ落ちていなかった、と自分が見た事実のみを淡々と話されました。

 私は、すぐ鈴木先生のところに決めました。紹介状もないのに、鈴木先生に「堀先生の紹介でまいりました」と言って、なるべく断られないよう自分の都合のいいようなことを口走り、必死で鈴木先生に食い下がったのです。
 その甲斐あってか入院を許されたのです。入院何日目かたって、講話の時間、知準先生の横で参考文献として神経質誌を声を出して読まされた折、丁度吃音恐怖の症例で、堀先生の体験談(名古屋形外会・座談会・昭和9年)のくだりにさしかかった時、
「君は堀滋美先生の紹介でここに来たんだね」と言われました。
 何か、嘘を言ったようで内心穏やかではありませんでした。

 その後、退院して、堀滋美先生にご報告とお礼の手紙をかきました。それでも一度お会いしてお礼を申し上げたく、水谷啓二先生が主宰しておられた「生活の発見会」の集まりがあり(当時水谷先生は逝去されておりましたが、名古屋で独自に集まっておりました)一度堀先生をお呼びして講話をお願いしようと、提案しました。
 それが実現して、岐阜県多治見市から名古屋までおいでになり講演をしていただきました。厚くお礼申し上げたのは言を待ちません。
 実に恰幅のいい紳士然とした方で、もちろん吃音の影もなく、にこやかに、森田先生の思い出話など聞かせていただきました。
 詳しい内容は忘れましたが、テープにでも録音しておけばどんなにか後輩のお役にたつたか、と思うと残念でなりません。

 このような記事はご参考になるかどうかわかりませんが、今回は、堀滋美先生について、少しでも何かを残させていただきたく記しました。

 時節柄、どうかご自愛くださいますよう念じております。

sugiya様

 またまた貴重なコメントをいただきありがとうございます。「チリひとつ落ちてない」はさすが鈴木学校ですね。

 吃音恐怖と御成門が言えない、という話は記憶にあります(自宅に森田正馬全集がないので明日勤務先で確認いたします)。

 残念ながら堀滋美先生は存じ上げていません。ネット検索してみると、「再び森田神経質学説について 森田正馬博士の思い出」という記事を1953年に日本医事新報(医家向けの雑誌)に書かれているようです。また、『コンタクトレンズ』という詩集、『造膣術 堀滋美小説集』という本も出されているようで、文才のある先生なのだと思います。やはり森田療法で全治すると、神経質を生かして縦横無尽に活躍できるようですね。他の治療法ではそうはいきません。

 sugiya様もよい神経質の先輩に巡り合えたのですね。

Sugiya様

追記です。

 堀先生につきまして記載箇所(全集第5巻p.511)も教えていただきありがとうございました。
 名古屋形外会・座談会(昭和9年6月16日)の記事にあります。当時19歳の堀さんは入院中も吃音を恐れて切符を買う時に「御成門」と言えず駅員に地図を見せたり、森田先生から自動車を呼んでくるように言われて「愛宕山」と言えないので水谷啓二さんに頼んで呼んでもらって先生から強く叱られたりしたということですね。そこで絶体絶命、「どもるなら、どもれ」と開き直って外出すると、車掌に目的地がスラスラと言えた。さらには読書恐怖も治り、能率が上がるようになった。まさに「啐啄同時(森田先生は誤って砕啄同時と言っていた)」です。書痙と対人恐怖で入院した山野井さん(形外会副幹事:のちに独学で公認会計士試験に合格し開業)が会社を辞めようとして森田先生から叱られて背水の陣で会社の重役会いに行ったらスラスラと言いたいことが言えてしまったのと同じですね。

 このように絶妙のタイミングで適切に叱る、ということは森田正馬先生や鈴木知準先生ならではだと思います。

四分休符 様

 お忙しいなか早速にご返事賜り恐縮です。

 今日、堀滋美先生のお宅に電話しました。
 もしや、と思っていたのですが、先生は平成15年にお亡くなりになっていました。残念です。
 昭和9年に19歳ですと、いまご生存しておられたら、95歳でしょうか。お会いした当時、詩も書かれていて、何か雑誌のようなものをいただいたように記憶しています。四分休符様が仰るように、神経質を生かして多才ぶりを発揮されておられました。
 多治見市から自家用車を運転して、われわれの集まっていた会場まで颯爽とおいでになったのを思い出します。

 森田先生に直接指導をうけられた方々は私がお会いした狭い範囲内でも、まことに立派なお方ばかりです。神経質という性格は、すぐれた指導者によって、大きく伸びる素質なんだということがよくわかります。

 まだまだ未熟で恥ずかしい74歳の私ですが、いま手がけている仕事にもっともっと真剣にならなければ、知準先生に申し訳ない・・・・・・そんなことを思うと、なんだかモリモリと勇気が湧いてきます。

 また、思いついたことがありましたら、コメントさせていただきます。ありがとうございました。

 

sugiya様

 そうですか。堀先生はお亡くなりになっていたのは本当に残念でしたね。森田正馬先生が亡くなられて73年になりますから、入院治療を受けた方も御存命ならば少なくとも90歳以上。しかも男性が多かったはずですから、お元気な方はめったにおられないでしょう。

 おっしゃるように、森田先生の治療を受けた方々は、神経質性格を生かして大活躍し、後輩のために尽くしてこられました。堀先生もそのお一人だったのですね。森田療法のすばらしいところは、自分が良くなっただけで良しではなく、同じ悩みを持つ人のためにそれを伝えていくところにあるのではないでしょうか。このすばらしい「森田リレー」がいつまでも続いていってほしいと思います。

 貴重なお話、ありがとうございました。

四分休符 様
先生の指導や、考えの一端を記します。
先生は、患者の中から選んで「看護婦見習い」とでもいう仕事をさせることがありました。
診療所の仕事手伝わせるという意味もあったでしょうが、私の勝手な推測では、見込みのありそうな人をより近くにおいて鍛える気持ちもあったのではと勝手に思っています。
そうした方の一人(Uさん、結婚されてIさん)が数日前に来宅され、お話の中で、日本のお医者様がご案内してお連れする外国の医師との歓談の中で、「無」と記された掛け軸
(恐らく倉内松堂老師の書かれたもの)について、外国の医師があれは何と書いてあるのかとお連れした医師に訪ねたとき、Nothigと説明したそうです。
Uさんの話では(その場で鈴木先生が言われたのか、それとも後で言われたのかUさんに
確認しませんでしたが)、Nothingではない、流れて留まらない心のことだと言われたそうです。
鈴木先生は、「一つの生き方」以外にはあまり禅や宗教については触れておられないと思いますが、森田先生同様、禅について「はっ」とする卓見があるのではと思います。親鸞聖人の「光雲無碍虚空のごとし」についても「雲があっても光に満ちている」ということだ、と言われたのが、今でも耳に残っています。
大したことを言う方だと思いました(その境地は仰ぎ見るばかりでしたが)。
(そぐわないようでしたら、削除して下さい)

takao様

 貴重なコメントをいただきありがとうございます。このページが鈴木知準先生に関する掲示板として皆様のお役に立てれば幸いです。

 確かに唯物論的に言えば「無」はnothingになってしまいますね。

 森田正馬先生の雅号は最初は「是空」でしたが、のちに懇意にしていた日本美術(鋳金家)の原安民(1871-1922)のすすめで御存知の「形外」に変えています。「形外」も形に表せないもの・・・「こころ」を示していると言われています。知準先生のエピソードと重なるところだと思います。

 またお気づきの点がありましたら、ぜひお教え下さい。

 

先生こんばんは。以前799回目で平等感についてご教授いただきました、2回目の投稿です。鈴木知準先生の回を見つけましたもので、投稿したくなりました。私も鈴木知準診療所の入院経験がありまして、思いつくことを2,3書きたいと思います。私が初診で診察に行った際は、症状を紙に10個くらい書いて読み上げていったのですが、紙はいりません、今一番困っていることを言って下さいと言われ、いっぱいあるんだけど・・・と困りました。が、一番困っていることを何とか申し上げると、何でもありません。すぐ直りますとなんでもないことのように言われ、拍子抜けしました。それから高校は辞めたと伝えると、辞めたら駄目だ、と言われ、心の中で高校にいけるんだったら入院なんてしないよ、いろいろ簡単に言ってくれるなあと思っておりました。一番困ってることを主題を間違えたかな、別のにすれば良かった、何も悩んでいないと勘違いされてしまったと思い、一番困ってることはもう一つあるのですけどと切り出すと、「それはもういいよそれより僕が森田先生のところに行ったときは・・・云々」と、先生の思い出話を30分くらい延々と話され言いたいことははじめに少し言っただけでした。その時の印象は僭越ながら大丈夫かな?と思ったものでした。(今では本当に感謝してます。)入院時は先生は日誌指導や講話で動きのことを毎回おっしゃられ、今の森田の治療は理論ばかりで動きのことを書いてる本がないとうれいておられました。軽い神経症では通院でも良いが重症になると話し合いだけでは歯が立たない、そこで入院が必要だが遮断の環境が森田の傑作であると良くおっしゃられておられました。神経症を発祥した自宅では症状を逆行させて回復させることは至難の業であり遮断の環境で医師の後押しがあって初めて動きに入ることができる。とおっしゃっておられたのが印象的でした。後、森田先生との思い出話ではじめ断られて何とか入院させていただき、後から森田先生に「鈴木君は拾い物だったよ」と言われたらしく、「拾い物だよ、はっはっは」楽しそうによく話の種にされていました。また、いつか続編を書かせていただきます。

神経質様

 コメントいただきありがとうございます。

 貴重な御経験を公開していただき、ありがとうございます。知準先生の診察の様子や、その時の神経質様の心の動きが生き生きと伝わってくるお話でした。「今の森田の治療は理論ばかり」という知準先生の御指摘は強く感じます。本当の主戦場は日常生活の中にある、ということなのだと思います。

 また、御記憶に残ったことがありましたら、ぜひ続編をお願いいたします。

上記のコメントをたいへん興味深く、
かつ有難く拝読しましたgoodshine
有難うございます。

こういう書き込みに出会えるのが
四分先生の本懐でしょうねhappy01

たらふく様

 コメントいただきありがとうございます。

 鈴木知準先生の教えを受けた方々が、体験談を次々と書き込んで下さって、私も大変勉強になりますし、読まれた方々も参考になると思います。とても有難いことです。

四分休符様ほか鈴木知準先生支持者様
私は平成元年に平均的対人恐怖で入院しました。現在はニューヨークでMBAの学生です。日本でも森田療法が正しく伝えられていないのですが、アメリカではもっとひどい状況です。というのは、精神科医やカウンセラーでも森田療法を知らない人がほとんどなのです。知っている人でもよく分かっていないという状況です。この状況を危惧し、Facebookに「鈴木知準診療所 同窓会」というグループを作りましたので、もしよろしければ、ご入会をお願いします。 

変わり者 様

 コメントいただきありがとうございます。

 森田療法の裾野が広がっているのは喜ばしい反面、森田療法の本質からはずれたような「森田療法」が増えている問題があります。数年前の森田療法学会でJ医大の先生の発表に、内心、果たしてこれが森田療法なのだろうかと思っていたら、生活の発見会員でもある精神科医・上野高尚先生が「この発表の一体どこが森田療法なんですか」とズバリ質問されていて、溜飲が下がる思いがしたものです。森田の殿堂たるJ医大でさえこんな具合ですから、他は推して知るべしです。
 私はFacebookを一切やらない変わり者ですので(笑)、御容赦ください。

四分休符 先生

ブログ拝見させていただきました。
私は、入院森田療法経験者で、現在精神科医をしています。現代の森田療法の動向を気にしてインターネットでここのサイトに行きつきました。
過去から現在にかけての貴重な情報や体験談等懐かしく読ませていただきありがとうございます。

師は、京都三聖病院の宇佐晋一先生であります。浪人時代に死の恐怖に苛まされ宇佐先生下で禅的森田療法のご指導を受け、立ち直ることが出来ました。私の人生を救ってくださった森田理念を始めとしその門下生の数々の諸先輩方に感謝しておりますとともに、微力ながら力になりたいと思っているのです。
しかし、先生もご存じの通り現在の森田療法の実際は、体験者であるから言わせてもらいますが入院環境や、治療者、普及度等々その力が薄まる一方であるように思います。

先生にお聞きしたい点は、そのようになっている原因、今後の精神医療における森田療法の必要性をご教授していただけたらと思います。
私の意見としましては、認知行動療法等、精神療法自体が多種多様化してきていること、薬がある程度効果的であること、文化的、社会的背景から森田にfitするような性格傾向のある患者が少なくなった等、、、、
です。
私が助けられた森田であるために、今後も発展、変化を強く望みます。
駄文で伝わりにくく失礼しました。
ご意見よろしくお願い致します。

努力即幸福 様

 コメントいただきありがとうございます。
 御指摘の点、すなわち森田療法の効力が薄くなっているのではないか、ということに関しては(372話「鈴木知準先生」の本文中に書いた通りでして)私も同様に思っています。森田療法の裾野が広がって適応範囲が広くなったことは良いことである反面、切れ味が落ちていることは否めないでしょう。御分析のようにその原因として①認知療法等、神経症圏に用いられる精神療法の多様化、②SSRIをはじめとする薬物療法、③文化的、社会的背景の変化、があることはまさにその通りだと思います。以前から森田神経質が減少して不純型が増加しているということも言われていますが、これについては最近の913話「不純型」に書いています。治療者自身も変質して、不問の姿勢を取らなくなっていることもありそうです。森田療法治療者についての私見は、27話「不問と暗黙の了解」、572話「森田療法家のスタンス」、850話「問うても不問」あたりに書いておりますので、御覧いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。

四分休符 先生

早速のご回答ありがとうございます。閲覧させていただきました。様々な要素があって森田療法の効力が薄まっていることがよく理解できました。
中でも「不純型」という言葉は初めて聞き、なるほどなあと思った次第です。私の経験で、パニック障害で外来通院をしていた方がおられまして、仕事を全くしようとしない患者をみて「あなたを診察して長いことになるがするすると言って全く仕事を見つけようともしない、それでは治るはずもない」と、その反応は「先生はこの苦しみが分かりますか?なったことないでしょう」と流涙し早速転医していった患者を思い出します。今となっては、私の力不足であったことも否めませんが、「不純型」という言葉を想起するには十分な症例だったように思います。
おかしな話ですが、生の欲望に乏しい=死の恐怖に乏しいわけですから、治療者としてはそういう神経質者が少なくなるのは、残念なことであり、神経症を生かし切れないとでもいいましょうか、そういう気持ちです。

今現在、精神疾患の中で中々治らないというイメージが先行しますが神経質だけは、将来性を含めて魅力を感じるような気がしてならないのです。

私の個人的な感想になりましたが(^^;)


努力即幸福 様

 コメントいただきありがとうございます。

 つらいながらも仕方なしに行動する、というのが森田先生の言われた「小学程度」でありますが、未熟で依存的なパーソナリティ(ヒステリー傾向)の方だと、症状をこらえるのがなかなか困難であり、「不安心即安心」ならぬ「依存心即安心」になりがちです。そういった方に「できないのではなくやらないだけ」と強く迫ると依存させてくれる治療者を求めて去っていくことになります。背中を軽く押してあげて小さいことでよいからできることを探してやってみるということを少しずつ積み重ねていくしかなさそうです。
 確かに、前回御指摘のような背景があって、精神科を訪れる典型的な「森田神経質」は減少しているのかもしれませんが、健全な神経質の部分は多かれ少なかれあるわけですから、その部分に着目して長所を生かすようにアドバイスしていければと思っています。

はじめまして。昭和53年鈴木知準先生の診療所に私は入院しました。初診の時先生がふと窓の外を一瞥し「あそこの木にカラスが・・・」と急におっしゃいました。
その時は治療と何の関係があるのか判断できず当惑したのを覚えています。今になって思うにそれが答えだとつくずく納得致します。
あの頃は、今で云うmind wondoringにあったと存じます。そこに心と身体が同期していなかった懐かしくもおぞましい時期でした。
素直に「あら、そうですね。」とか言っておれば入院などしなくてもよかった気がします。
まさに今に生きるだと存じます。
煩悩即菩提、ハイデガーの機投、老子の無為自然等皆同じ土俵にあって同一に連関しているのが判ります。
鈴木先生は時に怖く、時にお優しくまるで賢老人のような稀有なお方でした。人生の中で一時でもご一緒できたことに感謝せざるを得ません。たまたまこのサイトを見て懐かしく思いつれずれ雑文を書かさせていただきました。

鈴木知凖先生のところに昭和47年5月~11月まで入院指導を受けました。お亡くなりになるまでご指導をうけたものです。
私は入院中に大きな心的展開を得て全治した者で、その時の実感は「心の底が抜けた」でした。
先生は「今になりきるところを通して心は内発的に展開する」とよくおっしゃっておりましたがその通りでした。
今まではなんだかんだと心に引っかかって心を煩わしていたものがいっぺんで解決しました。
「今になりきる」には目前の事柄を工夫することでできます。
若い方に参考にしてほしいと思います。


今に生きる 様

 コメントいただきありがとうございます。

 入院指導だけでなく、長年にわたり知準先生の薫陶を受けられたのはすばらしいことですね。「心の底が抜けた」と表現された感覚は、心的転回を体験された方ならではです。いつも鈴木学校の卒業生の方々からいろいろお教えいただき、ありがたいことです。
 悩める神経質者が、一人でも多く、理屈はさておき目の前の仕事に手を出して、「今になりきる」を実践してほしいものです。

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