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2009年1月30日 (金)

神経質礼賛 390.完全欲

 神経質、特に強迫的な人の性格特徴の一つに完全主義、完全欲が強いこと、がある。いい加減にはできない、ということで、どうかすると百点満点でなければ気が済まない、ちょっとダメなところがあると「全然ダメだ」と減点法で評価してしまうということが起こる。認知療法でいうところの「allornothing thinking:全か無か思考」「overgeneralization:一般化のし過ぎ」「mental filter:心のフィルター」になってしまい、本人にとってもつらいことになる。しかし、完全主義、完全欲は必ずしも悪いことではない。森田正馬先生は次のように言っておられる。

 完全欲の強いほどますます偉い人になれる素質である。しかるにこの完全欲の少ないほど、下等の人物である。この完全欲をますます発揮させようというのが、このたびの治療法の最も大切なる眼目である。完全欲を否定し、抑圧し、排斥し、ごまかす必要は少しもない。学者にも金持にも、発明家にも、どこまでもあく事を知らない欲望がすなわち完全欲の表われである。我々の内に誰か偉くなって都合の悪い人がありましょうか。偉くなりたいためには、勉強するのが苦しい。その苦しさがいやさに、その偉くなりたい事にケチをつけるのである。あの人が自分に金をくれない、それ故にあの奴は悪人である、とケチをつけるようなものである。偉くありたい事と差引きして考える必要はない。これを別々の事実として観察して少しもさしつかえはないのである。この心の事実を否定し、目前の安逸を空想するのが、強迫観念の出発点である。  (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.32

 これではまだまだだ、もっと上を目指したいという完全欲は「生の欲望」のあらわれであり、向上心のあらわれでもある。森田先生の言われるように大いに完全欲を持ってよい。スポーツ選手が少しでもよい記録を目指し、演奏家がより優れた演奏を目指すのと同じである。

ただ、大切なのはバランスである。強迫症状に悩む人に多いのが、「局所完全主義」であり、「木を見て森を見ず」というところがある。不潔恐怖の人のように、消毒剤を使って15分も30分も手を洗ってより清潔を目指したところで意味はない。手術前の手洗いならともかく、日常生活では無駄なことである。そればかりか生活に支障をきたし、結果的には普通の人よりも不潔になってしまうことがよくある。また、ミスしないようにと一日中確認のメモばかり書いていたのでは肝心の行動をしている時間がなくなってしまい、これも本末転倒である。それよりも、もっと神経質を使うべき場、完全欲を向けるべき場はいくらでもある。

人が自転車に乗っている時には、信号機、後ろから追い越してくる車、路上駐車の車、右折してくる対向車、路面のデコボコ、上り坂・下り坂、強い風、などあらゆることに気を配りながら、自然にバランスを取って自転車をこいでいる。一点ばかりに注意しているヒマはない。それと同じで、私たちの生活でも、一点ではなくいろいろな方面に神経質を発揮し、完全欲を生かしていけば、より生活の価値を高めていくことができるのである。

2009年1月26日 (月)

神経質礼賛 389.掃除機のブラシ

 わが家には二台の掃除機があるが、いずれも先端のブラシがひどくすり減ってしまった。そのままでは床や畳が傷だらけになってしまう。一台は10年前に買ったもので、もう一台は7年前に買ったものである。神経質ゆえ電化製品の取扱説明書と保証書はまとめて保管しているし、現金出納帳の記載もあるので、いついくらで買ったかわかる。掃除機を買う時に、予備のブラシを買っておいて欲しい、と妻に言われたのだが、本体が早く壊れてしまうと予備のブラシを買っておいても無駄になってしまうので、買わなかった。力をこめて床やタタミをゴシゴシこする掃除機のかけ方を見ればブラシがすり減るのも無理はないと思う。以前、NHKの「ためしてガッテン」で掃除機の使い方を取り上げたことがあった。掃除機のブラシでゴシゴシこする世の中の奥様方は多いようだが、メーカーの開発担当者に言わせると掃除機はゴミや埃を吸い取るものであって、力を入れずにゆっくりブラシを動かしていけばきれいに掃除できる、とのことだった。

 メーカーの生産打ち切り後、部品の保有期間は6年位である。7年前のものはともかく、果たして10年前に買った掃除機の予備ブラシがあるかどうか心配ではあったが、とりあえず家電量販店で注文してみた。すると1週間後に電話があり、両方とも入荷したとのことであった。10年前に買ったものに適合するブラシは同じ色はなく、少し複雑な構造のためか5000円ほど、7年前買ったものに適合するブラシは同じ色で2500円ほどだった。さっそく新しいブラシに交換すると、動きがスムーズになり、快適に掃除ができるようになった。

 今では電化製品は修理するより買い替えが常識となっているが、このように部品の交換だけで、さらに数年間快適に使えるケースもある。捨ててしまってはもったいない。もう補修部品はないだろう、とあきらめずに、ダメでもともと、取り寄せ注文してみるものである。

2009年1月23日 (金)

神経質礼賛 388.白隠禅師

 JR沼津駅近くの商店街には地元信用金庫によるストリートギャラリーがある。建物の通りに面した部分を展示スペースとし、月替わりで書画・彫刻などを展示している。今月は、丑年にちなんで「白隠禅師画讃展」となっていることを新聞で知り、見に行った。白隠は丑の年、丑の日しかも丑天神の縁日、丑の刻に生まれた。また、近所の鎮守社は天神様を祀っていた。そのため、母親の勧めで幼少の頃より天神様を信仰していたという。

市内で一番の繁華街のはずだが、アーケード街には所々シャッターが下りたままの空き店舗が見られ、ちょっと寂しい。せっかくのギャラリーも足を止めて見る人もない。電車に乗って見に来るのは私のような物好きくらいだろう。展示されている初公開の若描き・渡唐(宋)天神図は63歳の時に描かれたもので、威厳のあるお顔の天神様である。一方、同じテーマで晩年に描かれた文字絵・渡唐天神図では天神様は抽象化されており、ユーモアを感じさせる自在な筆遣いである。この対比はとても面白い。

 白隠禅師すなわち白隠慧鶴(はくいんえかく 1685-1768)は江戸時代の禅僧で臨済宗中興の祖とされ、正宗国師と謚号されている。臨済宗の法事の際に必ず唱える「座禅和讃」は白隠の作である。現在の沼津市原で生まれ、地獄の恐ろしさから解脱したいということで出家したとも伝えられる。地元の松蔭寺に入り、のちに各地で厳しい修行を積んで悟りを開くが、25歳頃「禅病」といわれる状態となり、不眠や強迫観念などに悩まされ、体も衰弱してしまった。京都の白幽子という道者の行法(内観法)を学び、それで心身とも回復する。その体験を後に「夜船閑話」という書にまとめていて、その中には今で言うところの自律訓練法も含まれている。神経症を克服することで白隠は大成することができたのだと思う。

 私は中学時代、学校帰りに市立図書館で自律訓練法の本を見つけ、しばらくやってみたことがあるが、どうもうまくいかなかった記憶がある。神経症の治療法は一つではない。自律訓練法でも認知療法でも森田療法でもどれでも治療法になり得る。ただ、共通しているのは、最終的には自分の力で治すということである。そこが精神病の治療とは異なるところである。

2009年1月19日 (月)

神経質礼賛 387.ビューティーサロンのチラシ

 不況になっても新聞の折込チラシは大量に入ってくる。スーパーやホームセンターのチラシはたいてい水曜・木曜あたりに入ってくる。金曜・土曜に多いのが大型電気店・大型衣料店・不動産関係であり、土日の集客を狙っているのだろう。一方、月曜・火曜日の少ないチラシの中で目につくのはパチンコ屋とビューティーサロンである。

 美しくありたいという女性の願いは景気には無関係なのだろう。1月14日付毎日新聞夕刊の記事によれば、昨今の経済情勢にもかかわらず1万円の洗顔石鹸や12万円のクリームといった高級化粧品はよく売れているのだそうだ。

痩身美容をうたったビューティーサロンのチラシを見ると、お決まりの、施術前と後の比較写真が載っている。だが、よく見ると、施術前の写真が裸足なのに対し、施術後の写真はハイヒールを履いている。そして、同じ高さになるように縮小してある。従って、仮に体型が全く同じだとしても写真の上ではスマートになるわけだ。さらに施術後の写真は髪型やお化粧に手をかけているので目立つようになっている。このあたりは写真のマジックである。もちろん、体重は減少しているので、まるきりだましているというわけではないが。

 ビューティーサロンならまだいいが、ネット上の情報を鵜呑みにして、健康被害にあう、ということもある。日本では医薬品として認められていない中国製「やせ薬」をネット通販で買って飲んだところ、甲状腺ホルモン剤が含まれていて、障害が出た、ということがたびたび起きている。甲状腺機能亢進のためバセドウ病と同じようなことになり、やせることはやせても、他の問題が起きるのである。つい最近では、ネット販売でヒアルロン酸と注射器を手に入れて、顔のシワ取り目的に自己注射した女性が、皮下に肉芽腫ができてしまい、治療を受けても治らない、というケースが美容外科学会で報告されていた。これでは取り返しがつかない。

 美容情報・健康情報がTVやネット上で氾濫しているが、慎重にしたいものである。その点では、神経質人間はすぐに飛びつくようなことはないので安全である。

2009年1月16日 (金)

神経質礼賛 386.引っ込み思案だった剣幸さん

 今週月曜日の朝、いつも通り6時30分にNHKニュースを見ようとTVをつけたら、ニュースではなくホリデーインタビューという番組だった。ああ、そうか、今日は祝日だったんだ、と気付く。病院で当直が続くと、日曜も祝日も関係ない。出演者は剣幸(つるぎ みゆき)さんという宝塚出身の女優さんである。富山県の出身小学校にバトンを持って現れた。小学校時代はよほど活発な人だったのだろうな、と思った。ふと自分が小学生の時の同級生で元気一杯だった女の子を思い出す。ところが、剣さんは、引っ込み思案の女の子だったという。当時の担任の先生が登場して、そのあたりの話をしてくれた。引っ込み思案を直すために、先生からバトントワリングを勧められ、「開き直って楽しんでみる」ということを覚え、それから引っ込み思案ではなくなったそうである。そして、TVの場面は出身の工業高校の製図室に移る。自分を表現したいという気持ちから工業高校のデザイン科に進学したという。その後、デザインとは別な形で表現したいと思い立ち、急に歌や踊りの練習を始め、高校卒業後、宝塚に入り、男役のトップスターになった。現在はTVドラマや舞台で活躍されているとのことである。私は芸能界情報には疎いので、剣さんのことは今まで全く知らなかったが、インタビューからは、真面目な努力家で、気配り上手という印象を受けた。神経質な性格を生かしきっているのだろうと思う。  

もし、小学校の時に担任の先生がバトントワリングを勧めなかったら、あるいは勧められても剣さんが嫌がって逃げていたら、引っ込み思案のままで大人になっていたかもしれない。多分、最初のうちは恥ずかしかったろうし、気が進まなかっただろう。しかし、先生に勧められるまま、素直に続けていくうちに、「やってみたらできた」という体験をして、いつしかそれが楽しみとなり、さらに自分を表現してみたい、というように発展していったのだと思う。

神経質人間には引っ込み思案で人前が苦手という人が多い。私もその一人である。人前で何かをやることを頼まれると逃げ出したくなる。しかし、嫌々でも緊張しても、とりあえずやってみることだ。やってみれば道は開けてくる。

2009年1月12日 (月)

神経質礼賛 385.下されるもの

 森田正馬先生の診療所は一風変わっていた。入院中の患者さんたちが、作業をしながら外来診察の様子を見たり聞いたりすることが許されていた。今ならプライバシーの侵害として問題視されるだろうが、他の患者さんを通じての自己洞察という大きな効果があった。

さらに変わっていることに、診療所には「下されるもの」という貼り紙があったという。困るものとして、菓子・果物特にメロン・商品券、とあり、困らぬものとして、卵・鰹節・茶・缶詰・金・りんごとあった。森田先生は胃腸が弱くて下痢しやすいので菓子や果物は敬遠していたと言われる。一方、卵は大好物であったし、同じ食品でも鰹節・茶・缶詰・りんごは保存がきく。せっかくの厚意が無駄にならないので、合理的ではあるが、非常識という見方も出て当然である。この貼り紙は同業の医師たちの間で評判で陰口を叩かれたし、新聞でも「患者に贈り物を要求している」と酷評されたという。私の恩師・大原健士郎先生は森田先生と同じ土佐の御出身で、この貼り紙は土佐人特有のユーモアではないか、と解されている。

 森田先生は徹底したエコ生活をしておられて、お金の面でも無駄遣いせず堅実だった。貼り紙の「困らぬもの」に「金」と書いてあったが決してケチな守銭奴ではなく、気前よく郷里の小学校に講堂や遊具や図書や種々の備品を寄付している。村のために倶楽部という建物も寄付された。今の貨幣価値からすれば数千万円の金額に当たるだろう。森田先生を尊敬する藤村トヨ女史(東京女子体操音楽学校:現在の東京女子体育大学の創始者)から頼まれて無報酬で心理学の講義をしていたが、盆暮れの謝礼は全部郵便貯金にしていて藤村女史が留学する際にそのまま渡したというエピソードもある。なお、東京女子体育大学のホームページによれば、藤村女史は学生たちと寝食を共にし、禅の精神を取り入れた全人教育を行っていたとのことで、森田先生の治療法を教育に応用したのではないかと思う。また、熱海の旅館を買い取って森田旅館としたことを「森田は金儲けでけしからん」と非難する人もいたが、これも元患者の親族に泣きつかれて倒産寸前の旅館を買い取り、御自分の保養所として、退院患者の働き場として、さらには自分が死んだ後の遺族の生活を考えてのことだった。お金を大切にし、それが最大限人の役に立つように使われたということなのである。

2009年1月11日 (日)

神経質礼賛 384.神経質の経済学

 先週、新聞の広告欄の「はじめは中古のBMVに乗りなさい」という本の宣伝に目が留まった。経営コンサルタントをしている人が書いた本であり、前著「なぜ社長のベンツは4ドアなのか?」はかなり売れたようである。目を引くタイトル名である。お題の他にも、お金は銀行に預けなさい、買った株は忘れなさい、はじめは中古のマンションに住みなさい、独立・起業はやめなさい、といった文句がうたわれている。銀行にお金を預けないで株や投資信託さらにはリスクの高いFXを勧める従来の経済指南本とはまるで正反対である。昨年のリーマン・ショック以降の金融危機・株価低下という情勢を織り込んだものなのだろう。

 私はBMVやベンツに縁はないし、これからもなさそうだ。今のところ株取引はおろか投資信託もしたことがない。儲ける可能性はないが、損する心配はない。たまに「安物買いの銭失い」を反省することはあるが、概して無駄遣いはない。神経質は堅実である。私の場合、小学生の時の小遣い帳の習慣が延々と続いて、大学ノートに自分で線を引いた現金出納帳を付けている。逆に妻は家計簿を付けず、ドンブリ勘定だ。こういう夫婦だから(どうにか?)バランスが保たれているのだろう。

 ひとつだけ神経質流のミニ貯蓄術を御紹介しよう。普段の買物で使う商店やガソリンスタンドなどのポイントカード。ポイントが貯まると買物券を発行してくれたり値引きしてくれたりする。妻は、トクをしたと大喜びで余分な買物をしてお店の思うツボである。私はポイントで普段必要な買物をして、その分の現金を封筒に入れておく。コインは空いたフィルムケースに入れておく。景品でもらった図書カードも同様で、余分な本は買わずに必要な本を買ったら、カード分の金額を封筒に入れておく。こんなことをやっていると、数年で意外に貯まっているものである。それはちょっとした買物や、寄付金に利用できる。チリも積もれば山となる、である。

2009年1月 9日 (金)

神経質礼賛 383.背水の陣

 私が勤務している病院の開放病棟の一角には森田療法を受ける人たちのための病室とデイルームがある。そこには、雨で作業ができないような時に余った木材に森田正馬先生の言われた言葉を彫刻したものが置かれている。その中に「背水の陣」と彫られたものがある。初めてこの彫刻を見た時、それが森田先生の言葉とは思わなかったが、私の不勉強であり、患者さんたちの前で「背水の陣」という言葉を使われたことがよくあったということを後から知った。

 神経質の患者が、治療法の広告に迷うとか、あるいはここへ入院して、早く治したいとか、という気分が起こる時は、学校の休学とか・会社の辞職とか・どうなってもよい、という気分になる事がある。それは「逃げ腰」になるからである。学校や奉職のことを、自分の生活の第一条件にして、その休暇を利用して、精神修養をするとかいう事になれば、それだけでも、病気は進まないでよくなるのである。   < 中略 >

 兵法でも・強迫観念の治療法でも、「背水の陣」という事が必要になってくる。後に水があって、逃げる事ができないと決まると、勇気は百倍して、死地に入って、初めて生をうるようになる。強迫観念も、逃げる事ができぬ、治す事ができぬと決まれば、そこで初めて全快するのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.390

 実際に多くの患者さんの治療を経験してみると、何とか仕事に戻りたい、学校に戻りたい、という強く願って真剣に作業に取り組むような人は驚くほど良くなる。一方、親に言われてシブシブ入院するような人、与えられた作業だけ嫌々やって後は寝ているような人、しょっちゅう外出・外泊しては遊んで過ごす人は、いつまでたっても治らない。やはり背水の陣の覚悟は大切である。森田先生の時代には健康保険制度はなく、治療費がとても高かったから、入院すること自体が背水の陣だったのだろう。それでも、「今居る患者の内には、何時迄居てもよいといふ呑氣な人があるから、其人の眞似をせぬ様に」(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.338)と先生の奥さんが患者さんたちに注意する場面もあったようだ。

 背水の陣は神経症の治療ばかりではない。神経質人間は慎重であり、「石橋を叩いて渡る」が得意である。安全に物事を進めていく上では大変結構なのだが、どうかすると石橋を叩くだけで渡らない、ということが起こりがちである。そして思い切ってやらなければならないことをグズグズと先延ばしするきらいがある。私自身、時には背水の陣を心がけなければ、とも反省する。

2009年1月 5日 (月)

神経質礼賛 382.臆病者と呼ばれていた乃木大将

 前話にひきつづき、王丸先生の講演から乃木希典(1849-1912)についても紹介しておこう。道真が学問の神であるのに対し、乃木大将は軍人の鑑として乃木神社に祀られている。

 乃木希典は長州藩の支藩・長府藩の医師の息子として生まれた。現在の六本木ヒルズに「乃木大将生誕乃地」碑がある。生まれつき体が弱く、夜泣きが激しく近所でも有名だった。塾に通わされても、いわば登校拒否があり、厳格な父親に冷水をかけられた。王丸先生は母親への依存性が残り、別離不安(分離不安)をきたしたと分析している。長府に戻り、学問では秀才だったが、武道は苦手で「乃木の臆病者」と呼ばれていた。父親との葛藤からノイローゼとなって家を飛び出し、萩の親戚の玉木文之進のもとに身を寄せた。玉木は吉田松陰を教育したことでも知られる学者である。玉木のもとで農業をしているうちに体が丈夫になり、学問も教わるようになる。王丸先生は、森田療法に似た体験療法だったと評価している。ようやく軍人となることを決意し、不平士族の反乱の鎮圧にあたった。萩の乱の際には、実弟が戦死し、恩師の玉木も弟子の多くが反乱に参加した責任を取って切腹した。これは乃木にとって大きなショックだった。さらには西南戦争の際には軍旗を奪われるという不名誉な事態が起きた。乃木は自決しようとするが許されず、一時は捨て鉢の放蕩生活を送る。しかし、ドイツ留学後は厳しく自己を律するストイックな生活を送るようになる。台湾総督を経験した後、日露戦争では司令官を任じられ、旅順攻略という困難な使命を与えられる。この時には33晩不眠に悩んだとか神経衰弱になったと言われている。乃木は二人の息子をこの戦いで失っている。凱旋後は明治天皇からの依頼で学習院の院長を務め、のちの昭和天皇の教育にあたった。明治天皇の大葬の日、乃木は夫人とともに殉死を遂げた。王丸先生は、「多年の罪の意識の償いであり、武士道精神の発揮だろう。この日将軍は極めて朗らかだったといわれるが、長年のコンプレックスの解消-昇華のためと思われる」と結んでいる。

 乃木希典の軍人としての評価、殉死についての評価は様々である。とりわけ殉死ということは現代人には理解しがたいところである。しかしながら愚直さや高い精神性は誰もが認めるところだろう。軍旗を失うという失敗を一生忘れなかったのは、敗戦の失敗を忘れまいとした徳川家康の「しかみ像」(209話)とも共通するところがあるように思う。このあたりは神経質人間の強いこだわりであり、それが生きていく上でのエネルギー源になっていたのだと思う。劣等感や内省心の強さが、発展・向上心すなわち「生の欲望」となって、周囲からも認められ、明治の世で大活躍することができたのだろう。

2009年1月 2日 (金)

神経質礼賛 381.天神様は神経質

 元日、我が家は例年通り、妻の実家に近い川の土手にある「日切地蔵」へお参りに行った。ここはひっそりとしていて地元の人がポツポツ参拝に来るだけだ。小さなお堂に入ると妻はちゃっかり5円玉一枚の賽銭であれこれと念じる。こういう人ばかりでは線香・蝋燭などの経費でお地蔵さんは赤字になってしまう。維持・管理している地元の町内会の人たちが気の毒である。私は100円玉を投入してそそくさと引き返す。

今年も各地の神社・仏閣は初詣の人たちで混雑しているようだ。不況になると「神頼み」という傾向も出る。受験生たちはこれからの入試シーズンを前に学問の神様・菅原道真を祀った各地の天満宮で合格祈願をしていることだろう。

 精神分析・病跡学を専門とされる王丸勇久留米医大名誉教授はかつて第8回森田療法学会の会長をつとめられ、「先哲にみる森田神経質 - 菅原道真と乃木希典 -」という講演をされた(森田療法学会雑誌 2(1);53-56,1991)。王丸先生の師は下田光造九州大学教授である。下田先生は森田正馬先生の神経質学説をいち早く支持し、自ら九大で森田療法を行い、「(神経質者は)世の多くの英雄や天才が自制心に欠けて、その没落や挫折をきたすのとは趣を異にし、反省心に富むと共に、向上努力の念が強いため、真に偉大な人物が生れる」と神経質を礼賛しておられた。

 菅原道真は貧しい学者の家に生まれた。祖父も父も身分は高くないものの学者としての名は高く温厚な人であった。母親は藤原氏の圧力で没落した伴氏の出身であり、道真には期待をかけたようである。神経質な性格は母方から受け継いだのだろう。道真は学問に励み出世をとげていく。神経質なためか胃が弱く、よく温石で腹を温めていたことが知られている。王丸先生の説では、菅原道真には二度の神経症の時期があったという。若くして文章博士となって風当たりが強く学閥争いもあり、藤原氏を陥れようとする詩を書いたのではないかという疑いがかけられて悩んだ時期があった。この時は、渤海使節の応接にあたっているうちに改善した。二度目は讃岐守の任期が終わる頃、仕事に集中できなくなったが、天台禅を学んだり、老荘の書を読んだりして克服したという。道真は宇多天皇にとりたてられ、右大臣までに大出世する。これは藤原氏の専横を抑えようとする意図があったのだろう。道真は、やがては藤原氏に潰されることはわかっていたので、三回も辞任を奏上したが容れられず、結局は藤原時平の陰謀で謀反の疑いありとして大宰府に流されてしまう。このことは道真とその家族には極めて不幸なことだったが、道真の死後、次々と災厄が起こり、道真の祟りを恐れて神として祀られることとなる。さらには江戸時代あたりからは学問の神として永遠にあがめられる存在となったのである。天神様は学問の神だけではなく神経質の神でもあったのである。

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