神経質礼賛 390.完全欲
神経質、特に強迫的な人の性格特徴の一つに完全主義、完全欲が強いこと、がある。いい加減にはできない、ということで、どうかすると百点満点でなければ気が済まない、ちょっとダメなところがあると「全然ダメだ」と減点法で評価してしまうということが起こる。認知療法でいうところの「all-or-nothing thinking:全か無か思考」「overgeneralization:一般化のし過ぎ」「mental filter:心のフィルター」になってしまい、本人にとってもつらいことになる。しかし、完全主義、完全欲は必ずしも悪いことではない。森田正馬先生は次のように言っておられる。
完全欲の強いほどますます偉い人になれる素質である。しかるにこの完全欲の少ないほど、下等の人物である。この完全欲をますます発揮させようというのが、このたびの治療法の最も大切なる眼目である。完全欲を否定し、抑圧し、排斥し、ごまかす必要は少しもない。学者にも金持にも、発明家にも、どこまでもあく事を知らない欲望がすなわち完全欲の表われである。我々の内に誰か偉くなって都合の悪い人がありましょうか。偉くなりたいためには、勉強するのが苦しい。その苦しさがいやさに、その偉くなりたい事にケチをつけるのである。あの人が自分に金をくれない、それ故にあの奴は悪人である、とケチをつけるようなものである。偉くありたい事と差引きして考える必要はない。これを別々の事実として観察して少しもさしつかえはないのである。この心の事実を否定し、目前の安逸を空想するのが、強迫観念の出発点である。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.32)
これではまだまだだ、もっと上を目指したいという完全欲は「生の欲望」のあらわれであり、向上心のあらわれでもある。森田先生の言われるように大いに完全欲を持ってよい。スポーツ選手が少しでもよい記録を目指し、演奏家がより優れた演奏を目指すのと同じである。
ただ、大切なのはバランスである。強迫症状に悩む人に多いのが、「局所完全主義」であり、「木を見て森を見ず」というところがある。不潔恐怖の人のように、消毒剤を使って15分も30分も手を洗ってより清潔を目指したところで意味はない。手術前の手洗いならともかく、日常生活では無駄なことである。そればかりか生活に支障をきたし、結果的には普通の人よりも不潔になってしまうことがよくある。また、ミスしないようにと一日中確認のメモばかり書いていたのでは肝心の行動をしている時間がなくなってしまい、これも本末転倒である。それよりも、もっと神経質を使うべき場、完全欲を向けるべき場はいくらでもある。
人が自転車に乗っている時には、信号機、後ろから追い越してくる車、路上駐車の車、右折してくる対向車、路面のデコボコ、上り坂・下り坂、強い風、などあらゆることに気を配りながら、自然にバランスを取って自転車をこいでいる。一点ばかりに注意しているヒマはない。それと同じで、私たちの生活でも、一点ではなくいろいろな方面に神経質を発揮し、完全欲を生かしていけば、より生活の価値を高めていくことができるのである。
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