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2009年1月 5日 (月)

神経質礼賛 382.臆病者と呼ばれていた乃木大将

 前話にひきつづき、王丸先生の講演から乃木希典(1849-1912)についても紹介しておこう。道真が学問の神であるのに対し、乃木大将は軍人の鑑として乃木神社に祀られている。

 乃木希典は長州藩の支藩・長府藩の医師の息子として生まれた。現在の六本木ヒルズに「乃木大将生誕乃地」碑がある。生まれつき体が弱く、夜泣きが激しく近所でも有名だった。塾に通わされても、いわば登校拒否があり、厳格な父親に冷水をかけられた。王丸先生は母親への依存性が残り、別離不安(分離不安)をきたしたと分析している。長府に戻り、学問では秀才だったが、武道は苦手で「乃木の臆病者」と呼ばれていた。父親との葛藤からノイローゼとなって家を飛び出し、萩の親戚の玉木文之進のもとに身を寄せた。玉木は吉田松陰を教育したことでも知られる学者である。玉木のもとで農業をしているうちに体が丈夫になり、学問も教わるようになる。王丸先生は、森田療法に似た体験療法だったと評価している。ようやく軍人となることを決意し、不平士族の反乱の鎮圧にあたった。萩の乱の際には、実弟が戦死し、恩師の玉木も弟子の多くが反乱に参加した責任を取って切腹した。これは乃木にとって大きなショックだった。さらには西南戦争の際には軍旗を奪われるという不名誉な事態が起きた。乃木は自決しようとするが許されず、一時は捨て鉢の放蕩生活を送る。しかし、ドイツ留学後は厳しく自己を律するストイックな生活を送るようになる。台湾総督を経験した後、日露戦争では司令官を任じられ、旅順攻略という困難な使命を与えられる。この時には33晩不眠に悩んだとか神経衰弱になったと言われている。乃木は二人の息子をこの戦いで失っている。凱旋後は明治天皇からの依頼で学習院の院長を務め、のちの昭和天皇の教育にあたった。明治天皇の大葬の日、乃木は夫人とともに殉死を遂げた。王丸先生は、「多年の罪の意識の償いであり、武士道精神の発揮だろう。この日将軍は極めて朗らかだったといわれるが、長年のコンプレックスの解消-昇華のためと思われる」と結んでいる。

 乃木希典の軍人としての評価、殉死についての評価は様々である。とりわけ殉死ということは現代人には理解しがたいところである。しかしながら愚直さや高い精神性は誰もが認めるところだろう。軍旗を失うという失敗を一生忘れなかったのは、敗戦の失敗を忘れまいとした徳川家康の「しかみ像」(209話)とも共通するところがあるように思う。このあたりは神経質人間の強いこだわりであり、それが生きていく上でのエネルギー源になっていたのだと思う。劣等感や内省心の強さが、発展・向上心すなわち「生の欲望」となって、周囲からも認められ、明治の世で大活躍することができたのだろう。

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