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2009年2月27日 (金)

神経質礼賛 400.死は恐ろし 恐れざるを得ず

 これは森田正馬先生の色紙に書かれている言葉である。

 「死ぬるは恐ろしい。生きるのは苦しい」。言い換えれば、「死を恐れないで、人生の思うままの目的を、楽々とし遂げたい」という事になる。これが神経質の特徴であって、無理にも、自然に反抗しようとする態度になり、死は当然恐ろしい。大なる希望には、大なる苦痛・困難があると、極めて簡単な事を覚悟しさえすれば、それだけで神経質の症状は、強迫観念でもなんでも、すべて消失するのである。既に神経質の全治した人には、これが簡単に理解できるが、まだ治らない人には、全く嘘のような法螺のような話である。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.183

 森田先生は9歳頃、村のお寺で極彩色の地獄極楽の掛図を見てから、死後のことを考えて恐れ、悪夢にうなされるようになったという。白隠禅師(150話、388話)が地獄の恐ろしさにとりつかれたのも似たような年頃である。

思い返してみれば、私も小学校3、4年生頃、「死」を強く気にするようになった記憶がある。その頃の担任の先生は雑談が大好きで、毎日1時間目は必ず漫談で終わっていた。その話の中に車にはねられて「痛いよー」と泣き叫びながら亡くなった小学生の話だとか、頭にケガをした時には何ともなくても少しずつ脳出血が起きて死んでしまうこともある、といったことがあって、そのことがずっと頭にこびりついた。ガラスの破片で切り傷をした後、小さなガラスの破片が脳の血管に穴をあけて、ある日突然死んでしまうのではないか、と恐れた。また、歩数を数えては、「死」とか「苦」のゴロ合わせで、4歩とか9歩にならないように調整する強迫行為もあった。これはしだいに薄れていくのだが、今度は人前で極度の緊張を覚えるようになっていった。対人関係の失敗は「社会的な死」にもつながるわけだから、対人恐怖も「死の恐怖」の変型だと思う。それから長いこと悩み続けた。自分は弱い性格で情けない、何とかしなくては、と苦闘し続けた。やがて試行錯誤しているうちに「苦しいままに行動する」ということが身についた。そんなわけだから、医大の講義で森田療法の話を聞いた時には、不遜にも「何だ、あたり前のことじゃないか」と感じて特に興味を持たなかった。恥ずかしながら、精神科に入局して森田療法の患者さんの治療にあたるようになって初めて森田先生のすばらしさを痛感した次第である。上記の引用部分は神経質の心理を実に的確に表現していると思う。

修行して悟りきった人ならば死の恐怖から開放されるだろうか。以前にも書いた(90話・238話)江戸時代の禅僧の仙厓(1750-1837)は素直に「死にともない死にともない」と言って死んでいったという。神経質な凡人としては死を恐れながら、生の欲望に沿って、毎日できることをやっていくのみである。

2009年2月23日 (月)

神経質礼賛 399.蛇足

 蛇足とは中国の故事からきた言葉である。蛇の絵を早く描く競争で、早く描けた人が余分な足を描いてしまい負けになった、という話である。余分かなと思いながらも念のため書き加える時に「蛇足ながら」と付け加える。より完全を期して書き加えたことが、余分であるばかりかおかしなことになっていることがある。自分が書いた文章を後から見ると、どうも蛇足部分が多いと反省するばかりである。

 普段、神経症で入院している人たちの日記を読んでいると、確認癖のあるような強迫神経症(強迫性障害)の人の日記は概して長い。書ききれなくなって欄外にまで書いてあったり、小さな字でびっしりと埋めつくされていたりする。後から付け加えて挿入記号が入っていることもよくある。書くのに時間がかかり過ぎて提出期限が守れないこともある。本人としては、あれもこれも書いておかなくては、という完全欲によるのだろうが、枝葉末節を取り払えば、頭の中もスッキリするのに、と思う。

 森田正馬先生は患者さんの日記を引き合いに出して、次のように言っておられる。

 肩の凝らない話を、合いの手に一つします。神経質の完全欲という事の一例です(患者の日記を読む)。

 「・・・そして次に、風呂場を掃除す。ただし風呂釜の方はしなかった」。なかなか正確ですね(笑)「・・・自室に入り、封筒の型、そのほかの材料を持ちて、仕事場に入る」。一つひとつの事を細かく詳しく書いてある。今日の学者の論文でも、いたずらに正確に遺漏のないようにと考えて、その書く事の目的を忘れてしまう事が多い。(白揚社:森田正馬全集 第5p.359

 と、手段ばかりに気をとられて目的を忘れる愚を指摘されている。

中には普段から「メモ魔」というような人もいる。忘れると不安だからと仕事の手順をこと細かくメモして持ち歩く。そして、その手順通りできているかどうか確認しないと気が済まないのである。その結果、どうしても仕事が遅れがちになってしまう。

 完全欲(390)は悪いことではないが、過ぎたるは及ばざるが如し、である。私たちの実生活では、ほどほどにできていれば良いということが多い。あるところばかりに時間をかけていたのでは、他のことがおろそかになる。大切なのはバランスなのである。欲張り過ぎて蛇足にならぬよう気をつけたいものである。

2009年2月20日 (金)

神経質礼賛 398.ヘンデルとハイドンの記念年

 今年はヘンデルの没後250年、ハイドンの没後200年の記念の年にあたる。それにちなんだコンサートが企画されているようだ。

 ヘンデル(1685-1759)はJ.S.バッハと同じ年に同じドイツで生まれている。なじみのない方もいるかも知れないが、表彰状授与式で流されるBGMはオラトリオ「マカベウスのユダ」の中の「見よ、勇者は帰る」である。「メサイア」の中の「ハレルヤ・コーラス」は中学生の頃、合唱コンクールで耳にされた方が多いと思う。また、「クセルクス」の中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」と「リナルド」の中の「私を泣かせてください」の美しいメロディはテレビCMやドラマのBGMで多用されていて、聞けば、「あ、あの曲!」ということになるだろう。私は、有名な曲ではないが、FMの朗読の時間に流れていた曲名がわからず、ずっと気になっていて十年以上もたってからヘンデルのリコーダーソナタ・ニ短調だと分かった経験がある。

 J.S.バッハが「音楽の父」と呼ばれるのに対し、ヘンデルは「音楽の母」と呼ばれることもある。音楽の上ではバッハが宗教曲を多く作っているのに対し、ヘンデルは世俗的な曲を多く作り、ヘンデルの曲の方が気楽に聴けるものが多い。

 二人の性格の共通点は、「短気」というあたりだろうか。しかし、ヘンデルの方が柔軟でショーマンシップがあり、渡英して成功を収め、最終的にはイギリスに帰化している。バッハは粘着気質(てんかん器質)と思われ、秩序を好み堅物で熱中しやすく、回りくどい反面、怒りっぽかった。後に妻となる人とデートしている時にからかわれていきなり剣を抜いた、とか、楽団の演奏が気に食わないと怒ってカツラを取って投げつけた、といったエピソードが知られている。雇い主とのトラブルも多かった。私はバッハの曲は大好きであるが、もし彼が生きていたら半径10m以内には近づきたくないところである。バッハはヘンデルに会おうとしたが、実現しなかったという。ヘンデルが独身だったのに対し、バッハは子沢山(20人!)で、この二人の比較は何かと面白い。亡くなった年は違うが、二人とも白内障の手術を同じ医師から受けたが効果はなく、かえって健康を害して亡くなった、という奇妙な共通点がある。

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はオーストリアの作曲家であり、現在のドイツ国歌は彼の弦楽四重奏曲の中から採られている。彼は長年にわたり大貴族エステルハージ家に楽長として仕えた。交響曲は全部で104曲と極めて多作であるが、実質的には各パート一人で演奏する室内楽曲と考えた方が良いものもあるそうだ。彼の仕事は作曲ばかりでなくお抱え楽団維持に関する雑用が多く大変であったらしいが、上手にこなしている。家族と離れて生活する楽団員たちが休暇をもらえず不満がくすぶっていたのを察知したハイドンは主人の前で交響曲第45番「告別」を演奏する。曲の最後は、十二人の奏者が順々にロウソクを消して退場していき、ついにはヴァイオン二重奏になり、その二人もロウソクを消して退場して終わる、というものだ。これを見た主人のエステルハージ侯爵は、楽団員たちの思いを知って休暇を与えたということだ。この逸話はハイドンの気配り上手ぶりを示している。最近話題の「執事」タイプだったのだろう。ハイドンの妻は音楽には全く理解がなく悪妻として有名だが、ハイドンもハイドンで楽団の女性歌手と関係を持ち子供をもうけたと伝えられている。晩年はうつ状態だったとも言われる。神経質というよりは対他配慮が強くおとなしいメランコリー親和型の性格だったのではないかと思われる。

 ヘンデルの曲もハイドンの曲も理屈抜きで楽しめるものが多く、BGMで流しておいて仕事の邪魔にはならないものが多いように思う。私のオススメの一曲は、ヘンデルの「水上の音楽」、ハイドンのトランペット協奏曲である。どちらもリラックス効果だけでなく元気を出す効果がありそうだ。

2009年2月18日 (水)

神経質礼賛 397.飲酒による不始末

 一昨日のTVニュースでは、ローマで開催されたG7会議後の記者会見で日本のN財務相が意識朦朧状態でロレツが回らない様子が放送されていた。この模様は全世界に流されており、海外の記者からは「エスプレッソを飲んだらどうか」「国内で何万人もの労働者が解雇されているのに眠れるはずはない」などと辛辣な批評もされた。本人は後から「風邪薬の飲み過ぎ」と釈明し、御用医師の診断書を提出したとのことだが、飲酒による酩酊状態だったことが疑われている。診断書を依頼された大先生も困ったことだろう。急性アルコール中毒とは書けないだろうから。

 風邪薬の主成分は、熱を下げ喉の痛みを緩和する解熱鎮痛薬・鼻水止めの抗ヒスタミン剤・頭痛を和らげるカフェインの3剤であることが多い。抗ヒスタミン剤は頭がボーとして眠くなるが、カフェインの覚醒効果は大きい。むしろ風邪薬を多量に飲むと頭がすっきりして眠くならない、ということで一時期高校生の間で風邪薬乱用が流行ったことがあった。今でも時々、風邪薬を常用しているという人が外来に来ることがあるが、結局はカフェイン依存症と考えられる。また、風邪薬の飲み過ぎで、場合によっては眠くなることはあっても、ロレツが回らないほどの状態になるとは考えにくい。本人の言う、「腰痛の薬」も通常の解熱鎮痛薬では眠気は出ない。腰痛症の適応があって睡眠薬としても用いられる抗不安薬デパスならばアルコールとの併用で意識障害はあり得ることではあるが。

 N財務相は昨日辞任を表明したが、今朝の読売新聞によれば、いろいろと前科があるようだ。昨年11月、スペイン国王夫妻を招いての宮中晩餐会の場で飲酒し、「宮内庁のばかやろう!」と怒鳴って途中退席したという。先月の衆院本会議で演説の際も原稿の読み間違いが多く「体調不良」と釈明していた。

 飲酒による失敗は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。私も会社員時代、先輩たちに誘われて深夜まで飲んで、次の朝、ひどい二日酔い状態でバスの中で気持ち悪くなりながら何とか出社したものの午前中は仕事にならなかった苦い経験がある。それからは翌日の仕事に支障をきたさないように気をつけるようになった。そこは同じ失敗を繰り返さないようにする神経質が働いている。

 飲酒による不始末は自己責任である。個人旅行中ならばともかく、重大な会議の記者会見の場で酩酊状態では話にならない。国の命運を背負って出席しているという緊張感が欠如している。全く「神経質が足りない!」である。

2009年2月16日 (月)

神経質礼賛 396.花粉症花盛り

 春のようなのどかな気候が続き、身も緩むこの頃だが、例年通りつらい花粉症シーズンの到来である。私は2月1日から抗ヒスタミン剤を飲み始め、外出時はマスクをして迎撃体制を取ってはいたが、2月6日には激しい目のかゆみと若干のくしゃみ発作が出現し、抗アレルギー点眼薬とステロイド点鼻薬開始である。鼻症状は、昨年レーザー手術を受けた(281)効果がまだ残っているようで、いく分軽い感じはある。それでも2月14日の気温が25℃を超えた日には花粉の飛散量が極めて多く、症状を抑え切れなかった。当分は通勤以外の外出をなるべく避け、外ではマスク着用厳守である。家の中に入る時には衣服をしっかり払ってから入る。ここは神経質にしないと痛い目にあう。今年は西日本でスギ花粉の飛散量が多い見込みとのことである。

 外来通院してくる患者さんたちの中にも花粉症の人は多い。現在医療機関で処方される抗ヒスタミン剤は第2世代と言われるもので、市販の風邪薬に含まれる抗ヒスタミン剤よりも眠気が少ないものである。それでも多少の眠気は出るし、精神科の薬と併用すると眠気が増大することもある。

 ある女性患者さんは、学校で母親の集まりの時に他の母親から、「○○医院で注射してもらうと花粉症がよくなる」ということを聞いて、同じ注射を打ってもらった。ところが、その後で吐き気がして、「もうこりごりだ」という。その注射とはステロイドのデポ剤(長期間持続する注射剤)のことだろう。吐き気が注射によるものだとは断定できないが、点鼻スプレーと異なり、全身に作用するだけにステロイドによる副作用が問題となる。ステロイド剤(全身投与)の副作用は感染症、消化管潰瘍、糖尿病の誘発、精神障害(特に「うつ」)、白内障、緑内障など多岐にわたる。花粉症が重症の時に頓用するセレスタミンという内服薬は古いタイプの抗ヒスタミン剤とステロイド剤の合剤ではあるが、ステロイドの量は少ないので、一時的に使う分には害は少ない。また内服ステロイド剤であれば副作用が出てすぐに中止することができるが、ステロイドのデポ剤注射では薬が長期間体内に残るので厄介である。副作用が出てからでは遅いのだ。「神経質が足りない」では済まされない。1本の注射で1ヶ月くらい快適に過ごせるのは結構ではあるが、そのために体調を悪くするようなことがあっては何もならない。花粉症にステロイド注射という選択は極力避けるのが望ましいと思う。そもそも、まともな医療機関で花粉症の人にステロイド注射をするところはないはずであり、そういう医療機関にはお近づきにはならない方が賢明だろう。

2009年2月13日 (金)

神経質礼賛 395.二月は逃げる

 よく「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」と言われる。「行く」ではなく「往(い)ぬ」、あるいは「居ぬ」があてられることもある。これはいつ頃から誰が言い出したのかはわからないが、うまい言葉だと思う。特に二月は平年では28日しかないので、すぐに過ぎてしまう。月の売り上げノルマを抱えた営業マン諸氏にとっては大変な月だろうと思う。

 どうして二月だけが28日しかないのか、と素朴な疑問を感じて調べてみた。もともとローマの暦は農耕に役立てるためのものだったから、現在の3月から始まっていて、1月・2月には名称がなかったそうだ。2ヶ月のズレの名残が10月のOctoberである。Octoは8を意味する。例えばオクターブは音楽で8度のことだ。オクトパスは8本足の蛸である。元は8番目の月ということだった。ローマの独裁者ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が月の日数を31日と30日の交互とし、最後の2月で平年29日、うるう年30日に調整することに決めた。さらに、3月からでなく1月からスタートするように変更した。なお、7月生まれのシーザーは自分の名前を月の名としたため、Julyという名称になった。その後、初代ローマ皇帝アウグストゥスも自分の名を誕生日のある8月につけてAugustとしたが、30日では面白くない、ということで31日にしてしまい、その後の月の日数をずらしてしまった。そのしわ寄せで2月の日数をさらに1日減らす必要が生じ、平年28日・うるう年29日となったということだ。

 実際、一月、二月、三月は何かと行事が多く、あわただしい。会社も学校も4月が年度始めであるから、年度末には仕事が増える。しかし、案外、忙しい方が時間を無駄にしないように意識するためか、かえって仕事もはかどり趣味などもできたりするものだ。森田正馬先生は次のように言っておられる。

 能率の事で一番大切な事は、「忙しいほど仕事がよくできる」という事です。和歌・俳句のようなものでさえも、「暇になったら上等のものを沢山につくってやろう」と考えるのは、大きな思い違いです。実際にそうなってみれば、実は気が抜けて、ちっともできない。よい思いつきや思想などもみなその通りである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻p.759

 神経質人間はヒマにしていてはもったいない。自分の周囲を見渡せば、いくらでもやることは見つかる。神経質を生かして充実した毎日を送っていきたいものである。

2009年2月 9日 (月)

神経質礼賛 394.忠正廃業

 私の実家の近くに「忠正(チュウマサ)」(吉屋酒造)という約250年続く酒造所がある。勝海舟もここの酒を飲んだという。同じ県内の「磯自慢」「花の舞」「富士錦」ほどメジャーではないが地元のファンには根強い人気がある。店は昔風のたたずまいで、入口に面した陳列棚の奥が帳場になっている。さらに奥には山を背にして工場があり、古い煙突が目を引く。私は子供の頃からここの酒粕の甘酒に親しんできた。とてもいい香りがして、飲めば体がホカホカ温まり、顔も赤くなった(これは赤面恐怖とは関係ない)。結構アルコール分が残っていたようで、私が酒飲みになってしまった一因かも知れない。毎年暮れには新酒のにごり酒が出るので、近年では弟が帰省してくると、それを飲みながら鍋をつつくというのが恒例になっていた。妻の友人にも大の日本酒好きがいて、ここのにごり酒を毎年1本プレゼントしていた。

 ところが、昨年の暮れ、いつまで待っても店頭に「にごり酒」の貼り紙が出ない。聞けば杜氏(とうじ:酒造りの職人さん)が病に倒れて、仕込ができなくなった、とのことだった。そしてついにこの3月で廃業が決まったそうだ。

 どこの酒造所も日本酒離れによる消費低迷・後継者難という問題を抱えている。BS-iの「吉田類の酒場放浪記」という番組を見ていると、長年続いた造り酒屋が廃業して日本酒専門店になったり酒場になったりという例もあるようだ。よい酒を造るには大変な努力と根気が必要であり、神経質さも要求される。日本各地にはその地独特の食材や郷土料理があり、それに合った酒が造られてきた。これもいわば伝統文化で、その灯が消えていくことは惜しい限りである。

 私は子供の頃は和食の煮物や酢の物は苦手だった。しかし、大人になってみると、そうしたものが無性に食べたくなる時がある。若い頃、日本酒は敬遠していた。日本酒の臭いが性質の悪い酔っ払いオヤジを連想させるためだろうか。しかし、煮物や酢の物と同様だんだん日本酒もいいものだ、と思うようになった。子供の時の「刷り込み」のせいか、はたまた日本人のDNAのたまものだろうか。たまの「ハレ」の日には和食に適量(?)の日本酒といきたいものである。

2009年2月 6日 (金)

神経質礼賛 393.中国で徳川家康ブーム

 先週の新聞に、中国で山岡荘八著「徳川家康」が200万部売れる大ブームとなっていることが書かれていた。昨年の金融危機以降、会社経営者やホワイトカラーの間で人気が出ているのだそうだ。長く苦しい忍従の時期を耐え抜いてトップに立ち磐石の体制を作り上げた家康に学べ、ということのようだ。目先の利益のためには粗悪なコピー商品を大量生産し、消費者の健康被害もいとわない、といった体質から少しは脱却してくれるとありがたい。

最近、静岡新聞社発行の静新新書「駿府の大御所 徳川家康」(小和田哲男著)を読んだ。小和田静岡大学教授は戦国史が御専門でNHKの歴史番組によく出演されている。定説では人質時代の暗くつらい経験が家康の一生に影を落としたとされているが、小和田教授は「家康はのびのびと育ち、どちらかと言えば、すぐ羽目をはずす茶目っ気たっぷりで奔放な少年だったのではなかろうか。「忍」の一生とみるよりは、妥協に妥協を重ねた一生であったとみる方が自然だ」と書いている。

 確かに単なる人質よりはずっと厚遇されていた面もある。9歳から13歳まで臨済寺で今川義元の軍師・雪斎の教育を受け、16歳で義元の姪(築山殿)を正妻としている。義元としては、自分の有力家臣に育てようというつもりだったのかも知れない。また、10歳の時に今川館で元日拝賀の際に衆人の見ている中で縁側で立小便をしたとか、今川氏の菩提寺で鷹狩をしようとして周囲から止められたというようなエピソードもあるらしい。

とはいえ、家康は6歳の時、当初は今川の人質になるはずが織田氏側に奪われて織田の人質となり、8歳の時、人質交換で今川側に身柄を渡されている。祖父・清康は家臣に殺され、父・広忠もまた家臣に殺されたという事実もある。今川の不興を買ったり家臣に恨まれたりしたら自分もいつ殺されるかわからない、という死の恐怖は強く感じていたはずである。神経質は弱力性と強力性が入り混じった性格である。前出の天真爛漫を思わせるエピソードも、実は見下されたくないという気持ちからわざと強がってやったことではないか、という気もする。

小和田教授は家康の性格を「保守的だった。時として思い切ったことをする場面もあるが、何かことをおこす場合、そのことが確実に成功することを確かめてから行動に移している。つまり根まわしを得意としたことが、その裏がえしの表現であろう。体制順応型だった。置かれた状況を冷静に判断する確かな目をもっていた。また、熱しにくく、さめにくいという特徴をもっていたのではないかと考えられる。すぐにはカッとならないが、じわじわくるというタイプで、記憶力のよさ、執念深さということも、この点にかかわってくると思われる」と述べている。これらは神経質の性格特徴と合致する。

以前、209話で三方原の戦いのエピソードを書いた。それを含めて家康には三大危機があった。三河一向一揆の際には家臣の中に一揆を支援する者がいて苦戦し、家康が銃弾を浴びたこともあった。三方原の戦いで敗走する際に家康は斬り死にしようとする。しかし家臣たちが思いとどまらせ、家康の兜を自分の兜と取り替えたり、家康の采配を奪ったりして、次々と身代わりとなって討ち死にしてくれた。そのおかげで家康は浜松城に逃げ戻ることができた。もうひとつの危機、本能寺の変の時、家康は少人数の供人たちと堺で遊んでいた。そのままでは明智方に捕らえられて殺されるのは時間の問題だった。家康はパニックに陥り、斬り死にして信長の後を追おうとするが、家臣の酒井忠次や本多忠勝らに思いとどまるように言われて気を取り直し、伊賀を越えて岡崎まで逃げ帰り、危機を脱している。神経質人間は時に悲観的となって捨て鉢になることがあるが、「生の欲望」は人一倍強いので、最終的には生きのびる道を選ぶことが多い。

家康が織田信長や豊臣秀吉と決定的に違っていたのは、独断専行ではなく、有能な部下たちの意見をよく聞いた上で決断を下していた点である。そういうスタンスであるから三河以来の家臣たちは遠慮なく家康に意見していた。また、マイナス思考のように思われるかも知れないが、過去の失敗にこだわり、それを生かして同じ失敗を繰り返さないようにしようとした点もある。もし、家康が神経質でなかったら、信長同様に自滅したか、秀吉同様に一代で終わってしまうところだったと思う。最後に笑うのは神経質人間であった。

2009年2月 2日 (月)

神経質礼賛 392.モンテッソーリと森田正馬先生

 前話の秦万里子さんは作曲家・歌手というだけでなく音楽教育者でもあり、モンテッソーリ教育を行っておられるそうである。

 マリア・モンテッソーリ(1870-1952)はイタリアの教育者・精神科医である。まだ女性に対する差別が強かった時代にローマ大学医学部に女性として初めて入学し、イタリア初の女性医師になっている。精神病院に勤務して、知的障害の子供たちを観察した経験から、子供の自発性を生かす教育法を編み出した。これはモンテッソーリ教育として今では全世界に広がっている。

 森田正馬先生(1874-1938)も知的障害児の教育に強い関心を持っていた時期があり、モンテッソーリ教育法に興味を持たれたのだと思う。

 人間は自己の精神の活動を喜ぶ内部の自我が成長して大きくなるのを楽しみとする。何か或る一つの事を仕遂げ、或る一つの事を知り得れば、其成功又は知識其ものが其人にとって非常な喜びである。何も他人から之に対して賞を受ける必要はない。罰に於ても同様である。之が(モンテッソーリ)女史の教育上の根本主義である。

 女史の教育は、つまり自由による訓練であつて、只制限とする処は、自分の自由活動のために他人に迷惑をかける事、及び不行儀なる事を抑止するのみである。訓練に大切なることは、児童に独立心を阻害せぬ事であつて、多くの親や教師は、児童が独りで出来る事、又は出来ねばならぬ事を代わってしてやる風がある。 (白揚社:森田正馬全集 第1巻 p.600

とモンテッソーリの教育法を紹介し、これを高く評価しておられる。過保護・過干渉の問題は現代でも言えることである。

森田先生の治療にはモンテッソーリの教育法と共通点がある。入院中の作業は、当初は森田先生が患者さんに仕事をあてがっていた。薪や材木など仕事の材料を買い入れ、夜業として豆選りや袋張りや楊枝削りなどをさせていた。しかし、しだいに患者さんたちの自主性に任せるようになった。仕事を与えてやらせるだけでは入院中は一見よくなっても、退院後に再発しやすい。「生の欲望」に沿って、自分で仕事を見つけて行動する習慣がつけば本物なのである。言われたことだけを機械的にやることを、森田先生は「お使い根性」といってよく叱った。例えば、「この盆栽に水をやりなさい」というと、言われたことだけやって、他の盆栽の水が切れていても気付かない、というような場合である。そこで周囲をよく見つめて観察すれば、自ずとやるべき仕事が次々と出てくる。心は自然に外向きに流転し、仕事三昧となるわけである。そうなってくると「症状」がなくなるばかりでなく、仕事や勉強もはかどるようになるのである。時に森田療法を「教条的だ」と批判される方もいるが、本当は様々な境遇の中で本人の自発性を伸ばしていく治療法なのである。森田療法は一種の再教育であるとも言われている。神経症の治療も、モンテッソーリ教育法と同様、自発性を生かしていくことが大切である。

2009年2月 1日 (日)

神経質礼賛 391.主婦ソング

 1月28日の「NHKニュースおはよう日本」では歌手の秦万里子さんを取り上げていた。スーパーのレジ待ちの行列やバーゲンなど主婦にとって身近な話題を歌にして、主婦層の共感を得て大人気なのだそうだ。双子の子育てで音楽活動を休止していたが、子供さんの成長で活動を再開し、「半径5メートル物語」というCDを出し、「女きみまろ」との評もある。お年は52歳ということで、同世代の「時々主夫」の私も興味深く番組を見た。コンサートの様子が少し紹介されていたが、とても楽しそうだ。会場のお客さんたちがおなかの底から笑っていた。また、実際に八百屋さんに行って、店主とおしゃべりしながら大根を購入し、即興で一曲作って披露してくれた。

 一見平凡で同じことの繰り返しのように見える私たちの生活も、よく観察すれば、お笑いのネタにもなり、秦さんのように歌のネタにもなるものである。よく「サラリーマン川柳」が話題になるが、主婦ソングや主婦川柳も結構なことではないか。自分が楽しむばかりでなく多くの人を喜ばせることができれば、こんなにいいことはない。

森田療法を自分たちで勉強して実践していく生活の発見会が発行している「生活の発見」誌の毎年1月号には発見会川柳の特集があってとても楽しい。ネタは神経症や森田に限らず日常生活の一コマからとられている。神経質人間は鋭い観察眼と旺盛な批判能力を持っている。パロディーはお手の物だ。歌や川柳を楽しむことは、神経質特有のちょっと硬くなりがちな頭をほぐすのに最適のように思う。

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