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2009年2月27日 (金)

神経質礼賛 400.死は恐ろし 恐れざるを得ず

 これは森田正馬先生の色紙に書かれている言葉である。

 「死ぬるは恐ろしい。生きるのは苦しい」。言い換えれば、「死を恐れないで、人生の思うままの目的を、楽々とし遂げたい」という事になる。これが神経質の特徴であって、無理にも、自然に反抗しようとする態度になり、死は当然恐ろしい。大なる希望には、大なる苦痛・困難があると、極めて簡単な事を覚悟しさえすれば、それだけで神経質の症状は、強迫観念でもなんでも、すべて消失するのである。既に神経質の全治した人には、これが簡単に理解できるが、まだ治らない人には、全く嘘のような法螺のような話である。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.183

 森田先生は9歳頃、村のお寺で極彩色の地獄極楽の掛図を見てから、死後のことを考えて恐れ、悪夢にうなされるようになったという。白隠禅師(150話、388話)が地獄の恐ろしさにとりつかれたのも似たような年頃である。

思い返してみれば、私も小学校3、4年生頃、「死」を強く気にするようになった記憶がある。その頃の担任の先生は雑談が大好きで、毎日1時間目は必ず漫談で終わっていた。その話の中に車にはねられて「痛いよー」と泣き叫びながら亡くなった小学生の話だとか、頭にケガをした時には何ともなくても少しずつ脳出血が起きて死んでしまうこともある、といったことがあって、そのことがずっと頭にこびりついた。ガラスの破片で切り傷をした後、小さなガラスの破片が脳の血管に穴をあけて、ある日突然死んでしまうのではないか、と恐れた。また、歩数を数えては、「死」とか「苦」のゴロ合わせで、4歩とか9歩にならないように調整する強迫行為もあった。これはしだいに薄れていくのだが、今度は人前で極度の緊張を覚えるようになっていった。対人関係の失敗は「社会的な死」にもつながるわけだから、対人恐怖も「死の恐怖」の変型だと思う。それから長いこと悩み続けた。自分は弱い性格で情けない、何とかしなくては、と苦闘し続けた。やがて試行錯誤しているうちに「苦しいままに行動する」ということが身についた。そんなわけだから、医大の講義で森田療法の話を聞いた時には、不遜にも「何だ、あたり前のことじゃないか」と感じて特に興味を持たなかった。恥ずかしながら、精神科に入局して森田療法の患者さんの治療にあたるようになって初めて森田先生のすばらしさを痛感した次第である。上記の引用部分は神経質の心理を実に的確に表現していると思う。

修行して悟りきった人ならば死の恐怖から開放されるだろうか。以前にも書いた(90話・238話)江戸時代の禅僧の仙厓(1750-1837)は素直に「死にともない死にともない」と言って死んでいったという。神経質な凡人としては死を恐れながら、生の欲望に沿って、毎日できることをやっていくのみである。

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コメント

「死」というのは、いつになっても怖いものですね。
僕の場合も、小学校5、6年ごろだったと思いますが、学校の先生が言った言葉で「死」の恐怖を感じたことがあります。
その先生はノイローゼ気味だったようなのですが、生徒に「ある学校で、生徒が息をするのを忘れて死んでしまった。怖いなあ~」と、自身も怖かったのでしょうがそう言われました。

それを聞いた僕は、「自分も息を忘れたらどうしよう」という気持ちになり、それから何ヶ月か夜中に息苦しくなって怖さを感じたのを覚えています。
僕もかなりの神経質でしたから。

それから、青年期に不安神経症(今で言うパニック障害でしょうか)に陥り、一時大変苦しい思いをした時期がありました。

その病気と同居しようと思いだしてから、その症状はほとんど出なくなりましたが。
森田療法を知ったのもその頃です。

「死」というのは、確かに怖いものですが、「死」というものをいずれは迎えるものだという覚悟というか受け入れる気持ちは必要かもしれませんね。

先生こんにちは。興味深いお話をありがとうございます。
実は以前から「死」の話題が気になっていました。というのも私は極度の神経質な性格にも関わらず「死に対する恐怖」というものを生まれてこのかた、もったことがありません。他にもこういう方はいるのですか?
「暴力」「虐待」「戦争」といったものに対する恐怖というか憤りはあって、それに伴う人間の死はとうてい受け入れられません。断固として反対です。
ただ自分自身が例えば病院の床で死を迎える、といったことについては「そうなんだ」といった程度です。
神経質であっても死に対する感覚は人それぞれですか?カトリック信者ということも関係があるのでしょうか?

スローライフ様
 御経験に基づくコメントをいただきありがとうございます。やはり、死を意識し始めるのは10歳前後が多いのかもしれません。私は小さい頃は「死」というものがピンときませんでした。小1の時、伯母が亡くなって、火葬場で他の従兄弟たちと悪ふざけして叱られた覚えがあります。
 不安神経症、特にパニック障害にあたるものは、「今、このまま死ぬのではないか」という強烈な恐怖感に襲われますし、動悸、冷汗、呼吸困難(感)などで苦しい思いをします。「症状と同居しよう」というのはまさに「あるがまま」だと思います。御自分の力で神経症を克服されたのですね。すばらしいことです。
 死は必ずやってきます。それまで死を恐れながらも精一杯生き尽くしたいと思います。

 コメントいただき、ありがとうございます。「死に対する恐怖」を持ったことはない、というのは、それはそれで結構なことだと思います。
 多くの宗教が死後の世界を説くのは、死の恐怖を緩和させるとともに残された人たちの悲哀を軽減することが目的ではないか、と個人的には思います。敬虔なクリスチャン(他の宗教でもそうでしょうが)の方でしたら、死は怖いことでも悲しいことでもない、と思っていらっしゃる方がいてもおかしくはないでしょう。それはすばらしいことです。

 森田療法では神経症の症状は「死の恐怖」が根源にあると考えます。不安神経症で典型的なパニック障害はまさに今死んでしまうのでは、という死の恐怖です。一見「死」とあまり関係ないような対人恐怖や不完全恐怖も本文で書いたように、社会的「死」を恐れていると考えられます。不潔恐怖は不潔→病→死の恐怖と考えてよいでしょう。頭痛、胃部不快感、めまい感、不眠などを訴える普通神経質の場合も病気(死)を恐れることが基本にあると考えられます。

先生こんにちは。
今回のエッセーとコメントには、
先生の死生観、宗教観、が根源的にコンパクトに語られ、
とても興味深いものでした。

森田先生の「死は恐ろし 恐れざるを得ず」という
死に対する受容のスタンスは、座右の銘にしたいと思います。

keizo様
 コメントいただきありがとうございます。私は小心で弱虫のくせに強がろうとしてきました。森田正馬先生の全集を繰り返し読んでいるうちにそうした自分に気付き変化してきたように思います。巷には「こころが強くなる・・・」と称するような書籍が数多く出版され、売れています。かつての私と同様、強い心をもたなければいけない、という「かくあるべし」の呪縛に悩んでおられる方は少なくないと思います。弱いままでよい、弱くなりきればよい、と説くのは森田正馬先生以外にはありません。

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