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2009年3月 6日 (金)

神経質礼賛 403.強迫的な作曲家たち(3)ストラヴィンスキー

 最後はイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)である。ロシア生まれで父親はオペラ歌手だった。大学で法律を学んでいたが、リムスキー=コルサコフに作曲法を学び、作曲家への道を歩むことになる。20代後半でバレエ音楽「火の鳥」と「ペトルーシュカ」で成功を収める。30代になってバレエ音楽「春の祭典」がパリで初演された。この時には大作曲家たちも来場していたが、サン=サーンスはすぐに席を立って出て行ったという。聴衆からはヤジと怒号が飛び交い、場内で賛成派と反対派の激しい喧嘩が始まったそうである。この曲に関する賛否両論が巻き起こり世界的に注目されるようになった。確かに強烈なインパクトのある曲である。なお、終曲の変拍子は指揮者泣かせの難物で、ストラヴィンスキー自身うまく振れなかったというし、後に大指揮者が演奏中に曲を見失ったり中断したりするアクシデントに見舞われている。第一次世界大戦でスイスに移住するが、1917年のロシア革命でロシアにあった土地などの財産を失った。その後はしだいに古典回帰の曲を作るようになる。第二次世界大戦前には娘と妻を亡くし、ナチスの圧迫のためにアメリカに渡り、ハリウッドに住んだ。1959年に来日した際には日本人作曲家・武満徹の作品を聞いて絶賛し、それまで無名だった武満徹が評価されることとなった。晩年はニューヨークに住み、長寿を全うしている。

 ストラヴィンスキーも一旦発表した曲を何度も改訂したことで知られている。「リハーサル中でも書き直す」と言われた。アメリカに渡って過去の版による著作料が入ってこないため改訂版を出した、と言われているが、完全欲が強く強迫的であることも大きな原因だったのではないだろうか。作風は初期の原始主義から古典派回帰、十二音技法と次々と変化し「カメレオン」とまで評され、作風の変貌ぶりという点では美術界で同世代のピカソ(1881-1973)と比較される。これもあくなき探究心によるものだと思う。

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