フォト
無料ブログはココログ

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月29日 (月)

神経質礼賛 440.砕啄同時(啐啄同時)

 「砕啄(さいたく)同時」という語がある。面白い言葉である。砕は卵から雛が生まれる時に、自然に成熟して殻を破って出てくる事である。啄というのは、母親がそれを嘴でツツキ破ってやる事である。これがもし親鶏が慌てて早く殻を壊せば、雛は早熟で成育する事ができない。これに反して成熟した雛が、殻を破る事ができなければ、窒息して死ぬるという事になる。すなわち雛の完全に生育するには、砕と啄とが同時でなくてはならない。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.40

 これは形外会の副会長をしていた山野井氏の体験発表に対して森田正馬先生が言われた言葉である。山野井氏は対人恐怖と書痙(字を書く時に手が震える症状)に長いこと悩んでいた。種々の治療で良くならず、森田先生のところに40日間入院して作業に打ち込んだ。しかし、症状の方は良くなったという自信がない。会社を辞めて田舎に帰り楽に生活しようというつもりだったが、先生から「会社を辞めては絶対に治らない」と強く言われて仕方なしに会社に残ることにして重役に面会をすることになった。面会直前は激しく不安・焦燥が高まったが、会ってみると初めは緊張したものの思ったことをスラスラと話すことができた。そして帰宅して森田先生に手紙を書くとこれまたスラスラと字が書けた。入院生活で卵がしだいに孵化し、重役に会った時に砕啄同時になって心機一転したわけである。機が熟せば治る、ということなのだ。

 神経症の人は症状がゼロになることを「治った」と考えがちであり、そう思っているうちはなかなか治らない。山野井さんの場合も入院したのに症状はあまり改善していないように思われた。40日間の退院期限が迫り、田舎に帰るという逃げの一手を考えた。しかし先生に強く言われて恐怖突入し、自分の力で活路を開くことができたのだ。もはや症状があるとかないとかを問題にしない状態となって、結果的には症状も消失していた。入院生活で神経質を生活に生かす修練を積んだ上での恐怖突入であり、最善のタイミングだったのだろう。

 現代の入院ではどうかすると1年でも2年でも入院を続ける人がいる。卵の殻を破ることを恐れてひきこもる。職場を休職しても傷病手当金が出るような場合は「疾病利得」になってしまう。入院生活の優等生であっても社会生活ができなければ話にならない。機が熟したら背中を押して社会の中に飛び込ませることも治療者には必要である。

実は、この砕啄同時という言葉は森田先生の誤りで、啐啄(そったく)同時が正しい。

なお、この記事の「啄」という漢字は、正しくは右側のつくりの部分に点が付くのだが、フォントがないため「啄」としている。大原健士郎先生が一昨年出された「神経質性格、その正常と異常<森田療法入門>」(星和書店)の中でもこの「啄」が使われている。

2009年6月26日 (金)

神経質礼賛 439.山月記

 先週、学校から帰ってきた子供が、「明日までに山月記の感想文を書いて来いと言われた」と焦っていた。国語の授業中、生徒たちの態度が悪いということで全員に宿題が出てしまったという。

 山月記は中国の伝奇小説を題材にした中島敦(1909-1942)の作品である。主人公の李徴は博学の秀才で、官吏になったが、詩家としての名声を遺したいということで辞めてしまう。しかし、なかなか名声は上がらず生活苦からまた官吏の職に就く。かつての同輩たちは出世しており、つまらぬ人間だと思っていた連中に仕えなければならず、自尊心を深く傷つけられる。公用の旅の途中で突然発狂して失踪する。李徴は人食い虎と化していたのだが、かつての友人と会い、自分の心情を語り、自作の詩を託し、妻子の生活に便宜を図るように頼む。

高校時代、国語の教科書でこの物語を読んだ時、私をドキッとさせたのは、「なぜ虎になってしまったのかわからないが、思い当たることがないわけでもない」と語る李徴の言葉だった。「人間であった時、人との交わりを避けた。人々は尊大だと言ったが、実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを人々は知らなかった。自尊心がなかったとはいわないが、それは臆病な自尊心というべきものであった」

これはまさに対人恐怖の神経質人間の心理状態を表現したものである。森田正馬先生が「恥かしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥かしがらじとする負けじ魂の意地張り根性」と言われた弱力性と強力性の入り混じった赤面恐怖の心理に他ならない。だから、対人恐怖に悩んでいた私の心の中を見透かされたような思いがしたのに違いない。

李徴は世と離れ、人と遠ざかり、自尊心を飼い太らせる。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」と省みる。虎は肥大した自己愛の象徴とも読める。李徴が作った詩は、格調高く非凡な才能を示していたが、一流の作品となるにはどこか欠けるところがあるのではないかと旧友は感じる。具体的には書かれていないが、おそらく人を思う気持ちが欠落していたのだろう。家族を思いやり、友を思う気持ちがあれば虎になることはなかっただろうし、一度は虎になっても人間に戻れたかも知れない。下級官吏であってもガマンして勤めていれば家族を養っていくことはできるし、空いた時間に詩作することもできる。知識や感性だけでなく深い情感が加われば後世に名を残すような作品となってくるはずだ。山月記は対人恐怖や自己愛の心理を扱った小説だったようにも思えてくる。

 人間として生きていく上では、苦しくても嫌でも仕方なしに人と交わっていかなければならない。苦痛や不安や不全感はどうにもならないのだ。それに、よほどの能力と運に恵まれている人を別にすれば、たいていの人は自尊心がペシャンコになるような挫折を何度か経験する。私の場合も挫折体験を繰り返しているうちに20代後半になってようやく、自分はこんなもので仕方がない、できることを積み重ねていくまでだ、と思うようになった。すると対人緊張や不安はあっても、それほど意識しない存在になっていった。

 森田正馬先生の高弟である高良武久先生が書かれた入門書「森田療法のすすめ」(白揚社)の「あとがき」には高良先生御自身の体験が書かれていて、高良先生も私と同じだったのだなあ、としみじみ思うので、最後に紹介しておこう。

「不眠症、対人恐怖、頭重感、疲労感、それに人生観の問題などにつきまとわれて、高校時代(旧制)は迷いの中の苦しい努力の連続のようでした。それが長い間の数々の試行錯誤をかさねた末に、しだいに落ちついたのは、結局、人生には不安も苦悩もつきものであるということ、持続的な完全なコンディションなどあり得ないこと、そして向上する人間にとっては、不安も苦悩もまた生活の重要な内容であることが、体験的にわかってきたからであります」

2009年6月22日 (月)

神経質礼賛 438.缶コーヒーの飲み過ぎ

 勤務先の病院の隣市には大手メーカーの生産拠点がいくつかある関係で社内診療所からの紹介で外来受診する人が多い。初診時には生活習慣についていろいろ質問するわけだが、そうした中年男性(特に独身や単身赴任者)によくありがちなのは、酒は普段飲まないが、タバコは11箱で缶コーヒーを2-3本飲む、というパターンである。缶コーヒーを習慣的に飲むことの問題点はカフェインと糖分の過剰摂取である。

糖分の方は最近のメタボ警戒の流れから「微糖」や「低糖(甘さ控えめ)」の商品も増えているようだ。ちなみに標準で100mlあたり砂糖7.5gという業界規定があるので190ml缶では14g(テイースプーン7杯分)の糖分を摂取することになる。これが2本、3本では大量に摂取してしまうことになる。ちなみに低糖は100mlあたり糖類5g以下、微糖は2.5g以下、無糖は0.5g以下という規定があるのだそうで、無糖だから糖類は入っていないとは限らない。

精神科領域で特に問題となるのはカフェインである。カフェインは喘息治療薬のテオフィリンと相互作用があるため、製薬メーカーのホームページには飲み物のカフェイン含有量を表示しているが、それによると缶コーヒーのカフェイン量は100g当り平均68(最低40-最高95)mgということだ。米国精神医学会の診断基準DSM-Ⅳ-TRによるカフェイン中毒の定義では250mg以上の摂取となっているので、190g標準缶を2本飲めばそれを上回ってしまうことになる。疲れた時に缶コーヒーで頭をスッキリさせてまた仕事に臨みたいという気持ちはよくわかるが、カフェイン依存状態になってしまうとカフェイン切れで集中力が低下してイライラすることになるし、夜の不眠にもつながってしまう。やはり缶コーヒーは1日1本にとどめておいた方がよいだろう。不眠やイライラを治すのに精神科を受診して薬を出してもらおう、というのではなく、まず生活習慣を見直してみることが大切である。その辺は神経質人間ならば注意が行き届きやすいだろう。「患者」を作り出して医療費の無駄遣いをするのは避けたいものだ。

2009年6月19日 (金)

神経質礼賛 437.どうぶつしょうぎ

 6月14日付毎日新聞に「どうぶつしょうぎ」についての記事があった。女の子にも楽しく将棋に親しんでもらおうということで女流棋士の北尾まどかさんが考え出したミニ将棋である。本将棋よりも大幅に簡略化され、盤は縦4×横3マス、駒は4種類で計8枚。正方形の駒にはかわいらしい動物の絵が描いてあり、駒が動ける方向に印が付いている。自陣中央に「ライオン」(将棋の「王将」に相当し、縦横斜め1マス移動可)、その左に「ぞう」(将棋の「角行」に類似し、斜めに1マス移動可)、右に「きりん」(将棋の「飛車」に類似し、前後左右に1マス移動可)、前に「ひよこ」(将棋の「歩兵」に相当し、前に1マス移動可)という布陣になる。「ひよこ」は敵陣(1段目)に入ると「にわとり」(将棋の「と金」に相当し、前後左右・斜め前に1マス移動可)に成る。取った駒は本将棋と同様に打つことができる。自分の歩兵がいるのと同じ縦のラインに歩兵を打つと、将棋では「二歩」の反則負けになるが、どうぶつしょうぎではOKで「二ひよこ」にはならない。「打ち歩詰め」ならぬ「打ちひよこ詰め」も反則にはならない。相手のライオンを取れば勝ちで、相手陣に自分のライオンが入っても勝ち、という「入玉」ルールがある。ひよこ同士が向き合った状態からスタートするので、先手が相手のひよこを取ればいきなり「王手!」、じゃなかった「ライオン手!」になる。

 こんな簡単なものでゲームになるのだろうか。簡単に必勝手順が見つかるのではないか。神経質人間ゆえ、つい心配してしまう。ところがどうして、ホワイトボードに駒を書きながら実際に確かめてみると、なかなかのものである。本将棋の飛車・角行・桂馬・香車と違いすべての駒は1マスだけの移動であり、盤も狭いため、選べる手は限定されるから、子供さんからお年寄りまで覚えやすく手軽に楽しめるゲームになりそうだ。休日には盤と駒を作ってやってみようと思う。考案者の北尾さんに大拍手である。

<おわび>

 5月25日投稿の第429話「脳脊髄液減少症」で不適切な表現がありました。読んでくださった方々の中には御不快に思われた方々がいらっしゃいました。心からおわび申し上げます。

同記事は削除いたします。それに伴い、お寄せいただいたコメントも消えてしまいます点、御容赦下さい。

今後は記事投稿前に、より神経質に内容をチェックいたします。  四分休符

2009年6月15日 (月)

神経質礼賛 436.精神科の自動診断装置

 日経メディカル2009年6月号に「近赤外光でうつ状態を評価」という近赤外線スペクトロスコピー(NIRS)に関する記事があった。頭部に近赤外線を照射し、その反射光を測定することで大脳皮質の血液量を測定し、その変化パターンにより例えばうつ病・双極性障害(躁うつ病)・統合失調症・健常を判別するというものである。すでに東京大学や群馬大学で試用され、今年の4月からは先進医療に指定されたという。さらに血流の変化パターンを自動判別するソフトウエアの開発も進んでいるそうである。放射線や磁気を使わないので手軽に利用でき、コストダウンされれば将来的にはクリニックにも導入できる可能性がある。

 今まで精神科疾患では病気を判別できる検査法がなかった。心理検査は被験者が十分に協力してくれなければ意味がない。あくまでも診断の補助である。問診、家族からの情報、会話中の表情や態度を観察した上で診断をつけるので、1回の診察だけでは診断が困難な場合がある。CTやMRIや内視鏡検査などで確定診断がつく身体科とは大きく異なる。幻覚妄想症状があっても本人が隠そうとする場合は病気の診断をつけにくい場合がある。うつ病を装う人の場合は病気でないと言い切ることがむずかしい場合がある。近い将来このNIRSが普及すれば診断の精度が上がるであろうし、精神鑑定でも威力を発揮しそうである。

 もし、神経症の人がこの装置で検査を受けたらどうなるだろうか。うつ状態が強い時には「うつ病」、重症の強迫神経症では時には「統合失調症」と診断されるかもしれないが、神経症の多くは「健常」ということになるだろう。「あなたは異常がないので治療の必要はありません」では救いがない。そこで、症状形成のメカニズムを説明でき、症状と格闘することをやめて健康的な生活を取り戻していく、森田療法の考え方の出番となるのではないかと思う。

2009年6月12日 (金)

神経質礼賛 435.カレーふりかけ

 スーパーで買物をしていて「カレーふりかけ」というものを見つけて買ってみた。普段、妻が買う食品はこだわりの無添加・自然食をウリにしているものばかり(その割には賞味期限には無頓着)で、こういうものは御法度であるが、留守が続く時はこっちのものである。食べてみると意外といける。2、3年前あった「ラーメン茶漬け」は見かけなくなったが、これはもしかするとロングランになるかもしれない。

 私が子供の頃は、今のように副食が豊富ではなかったから、ふりかけはどこの家にもあった。食品会社が子供向けTVアニメのスポンサーになっていたのでふりかけのCMはよく見た。「のりたま」や「おかか」のCMソングは今でも覚えている。一時、オランダ風車の絵がパッケージに描いてある「チーズふりかけ」というのが出て、私はとても気に入ったが、売れ行きが悪かったためか、すぐに姿を消してしまった思い出がある。

 米飯食文化の日本では梅干やたくわんなどの野菜の漬物、小魚の佃煮、といった保存食が古くから発達してきた。ふりかけとしては、ちりめんじゃこやゆかりあたりは早くからあったのだろうが、今のように食品工業的に作られるようになったのは大正から昭和初期にかけてとのことで、「御飯の友」という商品がふりかけ第一号らしい。

 永谷園「カレーふりかけ」のCMに出演している相撲の高見盛さんは、以前書いたように(第5話)とても気が小さく、緊張しやすい、神経質な性格だそうである。翌日の対戦相手についてインタヴューでも受けようものなら、その晩は考え過ぎて眠れなくなるという話もある。あの取り組み直前の派手なパフォーマンスは、心の中での弱気な自分との戦いで自然に出ているのだろう。CMの方は「お茶漬け海苔」「わさび茶漬け」に次ぐ出演で、緊張しているようにも見えないが、御本人としてはかなり緊張しているのかもしれない。

 私を含めて神経質人間は人前で激しく緊張する。「うまくやりたい」「恥をかきたくない」という気持ちが人一倍強いからであって、落ち着こう、緊張すまい、とすればするほど深みにはまってしまう。緊張は自然なことで仕方ないものとして飛び込んでしまえば、何とかなるものである。

2009年6月 8日 (月)

神経質礼賛 434.酒場放浪記の舞台裏

 毎週必ずビデオに録って見ている番組がBS-TBS(旧・BS-i)「吉田類の酒場放浪記」である。週一回15分番組で過去の再放送分とセットにして30分あるいは1時間枠で放送される。取材する大衆酒場は東京近郊が多いが、北海道・福島・金沢・静岡・京都・大阪・高知・福岡といった地方巡業(?)もある。高知県出身のイラストレーター・俳人の吉田類さんが駅から出てくるところから番組が始まり、周辺の立ち寄りスポットを探索した後、目的の酒場で店主や居合わせた客との会話を楽しみながら飲む。番組のシメはその酒場にまつわる一句である。仕事を終えて帰宅し、ほっと一息ついて見るのには最適の番組だ。

シリーズ第1回の吉祥寺「いせや」を再放送で見て以来すっかりこの番組のファンになってしまった。昔懐かしい風情の商店街「ハモニカ横丁」が紹介され、創業80年になる「いせや」の画面からは焼き鳥の煙が匂ってきそうな臨場感があった。吉祥寺は住みたい町の調査でしばしば一位となる町である。一度行ってみたいなと思っているうちに、「いせや」の建物は老朽化のため平成18年秋に取り壊されてしまった。

 5月26日付読売新聞夕刊にこの酒場放浪記にまつわる記事が載っていた。一見何でもないように見えるこの番組を制作するスタッフの苦労は大変なものらしい。まず取材しようという酒場にスタッフが通いつめ、なじみになったところで取材許可をお願いする。許可がもらえるのは3-4軒に1軒くらいしかないという。酔客との予期しないトラブルもあるし、「顔が映されては困る」と言ってくる客もいる。狭い現場で雰囲気を壊さないように撮影するのは神経質のいる仕事である。しかも制作費が安いBS番組の中で、特に制作費が出ない番組なのだそうだ。局内でもこの番組に対する理解は乏しく、一旦終了したら再開はない、とスタッフは背水の陣の心構えで製作してきたという。

 この番組も7年目で300話を超え、DVD売上が7000枚を超えたそうだ。隠れファンも多いのだろう。吉田さんの人懐っこいキャラクターだけでなく裏方さんたちの神経質で成り立っている番組なのである。

2009年6月 5日 (金)

神経質礼賛 433.辞書引き学習

 出版不況のこの御時世、よく売れているのが小学生向けの国語辞書なのだそうである。辞書引き学習を熱心に行っている学校もあるらしく、引いたところに付箋紙を貼らせる。そうすると付箋紙が増えていき、これが子供たちのモチベーションを膨らませるらしい。できれば付箋紙なしで忘れたら何度も引きなおす方がいいような気もするが、辞書を引く習慣がつくのであれば、まあ悪いことでもないだろう。

 今は電子辞書が普及している。価格が安くなり、英和・和英・国語辞典ばかりでなく、漢和辞典・ことわざ辞典・古語辞典・百人一首・6ヶ国語会話など多くのコンテンツが盛り込まれていて便利である。発音機能や、オマケでワンセグ放送を見る機能がついている機種もある。しかし、電子辞書だと、調べたい言葉を引くだけになってしまう。これが普通の辞書だとパラパラめくっているうちに、つい目に留まった他の言葉にも興味を持って読むことがあって、知識の輪が広がっていくものだ。また巻末の便覧にも目を通すこともあって、一つの語ではなく、系統的な知識も得ることができる。こういうことは便利な電子辞書ではないことである。やはり小中学生のうちは電子辞書でなく本の辞書を引いたほうが良いだろう。

 私が子供の時、家に平凡社の大百科事典があったので、わからないことは何でもそれで調べていた。内気な神経質ゆえ人に聞くのが苦手だったせいもあったかも知れない。たまたま見かけた元素の周期律表に興味を持ち、それぞれどんな物質なのだろう、とさらに調べているうちに科学知識がついたものだ。歴史上の人物を調べるとさらに矢印マークで関連する人物が載っているので今度はそこを調べる、ということをやっていくと芋づる式に知識も増えた。カラー図版ページには東西古今の名画も載っていたので自然とそうした作品にも親しんだ。・・・というと聞こえはいいが、正直に白状すると女性の裸体画に惹かれて見ていた面もあった。

 森田正馬先生の色紙の中に「知りたがり疑ひ考へ工夫する人は精神優秀なる人である」とある。知識欲も健康的な「生の欲望」のひとつである。私の場合は精神優秀とは言いがたいが、疑問に思ったことはそのままにしておかないで、辞書や事典で調べて知識を得ることは楽しいことでもある。

2009年6月 3日 (水)

神経質礼賛 432.評判の悪い精神科医?

 新聞に雑誌「宝島」7月号の宣伝が出ていて、つい目が行ってしまった。「不況で儲ける! 悪い奴らの錬金術」という特集で、闇金、整理屋、貧困ビジネスとともに精神科医が挙げられていた。やはり気になって書店で見てしまう。

 見開き2ページの記事では3人の精神科クリニック開業医A・B・Cが儲けるテクニックを披露し合うというような形になっているが、本当にインタビューしたのかライターの創作なのかは不明である。1、2分の診察で大量に薬を処方する(それも院内処方)、「医療費が安くなる」と障害者自立支援制度(旧・通院公費負担制度)利用を持ちかけて申請させて固定客をつかむ、などの「手口」が書かれている。精神科クリニック開業医は「ヤク」の売人とでも言わんばかりの書き方である。

 そういう開業医ばかりではないはずだが、転医してくる患者さんの中には、駅前の精神科クリニックで初診時にいきなり5、6種類の薬を出されて信用できないから医者を変わりたい、と言って来る人もいるのは事実である。また、薬物依存症者と知りながらリタリンやハルシオンなどの薬を安易に処方しているクリニックが新聞紙上で槍玉に上げられることもある。

 通院公費負担制度は、本来、通院中断で再発して繰り返し再入院となりやすい統合失調症や躁うつ病など精神病の患者さんを経済的な面から支援するための制度だった。申請書類の写しは保健所で管理し、保健所職員が家庭訪問でフォローする体制だった(実際には保健所のマンパワー不足と利用者の増大で手が回らなかった)。それが、単に「医療費が安くなる制度」(自己負担5%)として広まり、うつ状態や神経症圏の人までが利用するようになった。財源の問題もあって、障害者自立支援制度となってからは所得に応じて自己負担比率を変える、神経症圏やパーソナリティ障害などの場合は重症である旨を医師が記載しないと認められない、というようになったが、それでもこの制度を利用している人は多くなっている。

 「悪い奴らの錬金術」と揶揄されるような精神科クリニックはいずれ淘汰されていくだろうし、障害者自立支援制度の濫用もいずれは是正されていくだろうとは思う。

 神経症の場合、「眠れない」「不安」だという訴えで安易に薬を処方し、生活上の注意をしないような治療では治るどころか、いつまでも薬に頼ることになる。重症でない限り、症状はあっても薬はどうしようもない時の「お守り」程度にして、症状は仕方なしに目の前の仕事をやっていくという森田療法的アプローチの方が長い目で見ればすぐれているし、無駄な医療費を費やすこともないはずである。

2009年6月 1日 (月)

神経質礼賛 431.USBメモリーに御用心

 パソコンのデータを持ち歩くのにUSBメモリーはとても重宝する。出始めた頃、私が最初に買った物は容量32MB(2980円)で、フロッピーディスクにして二十数枚分だ、と喜んでいた。一昨年に同じ値段で買った2GBの物が今では数百円で投売りされ、64GBなどという巨大メモリーまで出ている。小さいし衝撃に強いので気軽に使えるが、反面、紛失の危険性もある。よく、学校の先生が生徒の成績などのデータを入れたUSBメモリーを紛失したり盗まれたりする事件が報道される。個人情報の管理に厳重注意を払わなくてはならない昨今では一大事である。某製薬メーカーの営業員が医師たちの個人情報が入ったUSBメモリーを紛失した事件が報道され、営業員が「こちらの病院のデータは入っていませんでしたからご安心を」とお詫びに来たこともあった。

実際、職場のパソコンに挿入して使い、電源OFFにした後、USBメモリーを抜き取り忘れる、ということは往々にしてある。面倒でもメモリーをはずす処理をしてから電源OFFにするのが安全である。さらに私が使っているものはキャップが透明なのではずして置いておくと見失いやすい。そこで、必ずボールペンのキャップと同様、はずしたらメモリー本体の後ろにくっつけておくようにしている。やはりキャップをなくす人が多いとみえて、キャップレス構造のUSBメモリーも売られている。

私は個人用・病院内専用でネットに繋がないパソコンで書類を作成し、一時的にUSBメモリーに入れて共用パソコンで印刷し、終わったらUSBメモリー内のデータは消去するようにしている。この辺も神経質にするに越したことはない。

最近はUSBメモリーを介したコンピュータウイルス感染が増えているという。共用のパソコンで使った後はウイルスチェックにかけておいた方が安全である。手軽で便利な品物だけに油断は禁物。神経質が必要である。

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

最近のトラックバック

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31