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2009年7月31日 (金)

神経質礼賛 450.正常性バイアス

 一部で梅雨明け発表になった後も、激しい雨が降ったり日が差したりの亜熱帯を思わせるような天気が続いている。九州・中国地方では大雨被害が起きている。避難指示の出し遅れも一因だが、避難が遅れてがけ崩れに巻き込まれるといった事故も発生している。また、近年、中高年の間で登山ブームとなっているが、軽装で気軽に登山ツアーに参加して、悪天候のために低体温症から命を落とすような事故も起きている。夏山でも台風並みの悪天候では体感温度は0℃近くになることもあるそうで危険である。この逃げ遅れる、あるいはムリを押して遭難する、といったところでは正常性バイアス(正常化の偏見)という心理が働いている、と言われている。

 正常性バイアスとは、何か異常事態が起った時に、正常範囲内だと解釈して、こころの平静を保とうとする心理機制である。これは過剰反応で疲弊しないための働きなのだが、警報が鳴ってもどうせ誤報だろうと放置して本当に危機が迫っているのに気がつかず大変なことになってしまう恐れがある。種々の大事故においてこの心理機制の存在が指摘されている。

 その点では神経質人間は危険を察知して回避する天才である。「ちょっとくらいいいや」とか「まあ自分は大丈夫だろう」とは思わないものだ。だから、大雨で避難指示が出たら、安全を確認しながらビクビクハラハラで逃げ出すだろうし、登山で悪天候が予想されれば参加を取りやめるだろう。惨事から身を守るのには神経質はとても役立つ。

 しかし、あまり過敏に反応し過ぎても困る。正常性バイアスの反対で異常性バイアス(そんな言葉はあるのだろうか?)がかかりやすいのが神経質人間である。絶対に安全ということが確認できないと動かない、というのでは日常生活にも差し支える。神経質人間の場合、適度に正常化バイアスをかけてバランスを取るとちょうど良い具合になるのかもしれない。

2009年7月27日 (月)

神経質礼賛 449.拾ったお金、どうする?

 一昨日、土曜日の朝、出勤のためいつものように家を出て駅に向かう途中、道端に千円札が落ちていた。少なくとも落としたらしき人影は見当たらない。交番に届けている時間はないので、とりあえず拾ってそのまま出勤した。毎朝散歩しているお年寄りが落としたのだろうか。部活に急ぐ中高生がポケットから落として昼食代に困ったのでは、などと神経質人間らしくあれこれ考えてしまう。

 今まで路上にお金が落ちているのを見た記憶はない。何しろ、自販機のつり銭口を探って取り忘れた小銭を集めようとするホームレス風の男が「巡回」しているような地区である。一円玉でも落ちていることはない。それにしても、拾ってしまうと、どうするか悩ましい。十円玉、百円玉くらいではそのままネコババ、あるいは近くの神社の賽銭箱に入れる、それともお店によくある寄付金入れのビンに投入する、ということになるかもしれないが、一応、お札ともなると気が引ける。法律上は一円でもネコババすると遺失物等横領罪(刑法254条)にあたるのだそうだ。そうはいってもいちいち小銭を届けられては交番の警察官も迷惑だろう。常識として、一体いくら以上が交番に届ける「相場」なのだろうか?

 

 土日が連続当直で今日の夕方まで病院に缶詰状態だったので、帰宅前に回り道して交番に届けに行った。若い巡査がテキパキと対応してくれた。千円札1枚のことで忙しい警察官の手間になるばかりで申し訳ない気もする。とにかくこれで小心者はホッとする。

2009年7月24日 (金)

神経質礼賛 448.座禅せば四条五条の橋の上

 座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を 深山木にみて

これは鎌倉時代の臨済宗の禅僧、大徳寺を開山した宗峰妙超(大燈国師)の歌と伝えられている。

のちに江戸時代、臨済宗中興の祖といわれる白隠は遠羅天釜(おらてがま)という法語の中で「動中の工夫は静中の工夫に勝る」と述べている。ここで工夫とは通常の意味以外に修行・精進の意味をも含んでいる。白隠の勧めた座禅は日常生活における座禅である。そうでなければ日常生活でいざという場合の役に立たない。座禅修行は山中で行うよりも四条五条の橋の上がよりふさわしい。日常繁忙の中で修していく座禅、それが動中の工夫というものだと平常禅を奨励しているのだ。(西村恵信著「白隠入門 地獄を悟る」より) 

この歌は森田正馬先生の色紙では

 某禅師

 座禅せば四条五条の橋の上 

 往き来の人を深山木と見る

 折角に座禅したらば正直に

 人は人ぞと見てやればいい

         形外蝉子

 となっている。京の四条五条を行き交う人々も座禅していれば深山の木々と同じように見える、という禅師の句に対して、森田先生は蝉子とへりくだりながら、チクリと皮肉っている。人は人、あるがままに見ればよい。事実唯真ということを強調したかったのだろうと思う。

 しかしながら、座禅せば・・・の句は森田療法にも言えることではないかと私は思う。入院中は規則正しい生活習慣と作業中心の生活により心身とも健康的な状態となっても、退院してから生活習慣が崩れ、症状のせいにして仕事に就かない・学校に行かない、ということで振り出しに戻ってしまう人がたまにいる。座禅修行が静寂で厳粛な雰囲気の寺院の中でしかできないのでは効果が薄いのと同様、森田療法も病院の中でだけやるものでは効果が薄い。本当の主治医は自分自身であり、日常生活の一コマ一コマがすべて治療の場だ、という意識で自発的に取り組んでいくと真の効果を発揮できるのである。

 不安でいっぱいで人前に出るのが嫌だ、会社や学校に行きたくない、避けたいというような時に、退却してしまっては不安の悪循環が深まるばかりである。逆に「今、ここが勝負どころだ」と必死になって踏みとどまり恐怖突入すれば道は開けてくる。

2009年7月20日 (月)

神経質礼賛 447.日食

 あさって22日には日食が見られる。特に屋久島から奄美大島にかけては皆既日食を見ることができるということで、トカラ列島などへの日食ツアーも人気である。部分日食は全国各地で見られ、東京で最大75%ほど欠けるのだそうだ。私はちょうど外来の時間帯なので、窓から見て外が少し暗くなるのがわかる程度であろう。

 今では小学生でも日食の原理を知っているから驚かないが、古代の人々はさぞ驚愕したことだろう。世界が破滅するのではないかと恐れたとしても不思議ではない。日食はハレー彗星や超新星爆発などとともに天変地異の前触れと考えられた。神話の天岩戸伝説も皆既日食が元になっているのではないかと考えられている。

 小学校低学年の時に部分日食があって、学校で観察した記憶がある。プレパラートにロウソクの炎で黒い煤(すす)をつけたものを渡されて見た。めんどうだからと黒い下敷きを通して見ていた子もいたが、どちらも危険なのだそうだ。黒い煤では均等にならなくて薄い部分があってよくないし、下敷きやネガフィルムの黒色部では減光が不十分だからである。専用のフィルタをつけた観察用サングラスを使うか、ピンホールを通してスクリーンに映し出すか、簡単には鏡で反射させて壁に映して見るのが安全だという。大切な眼を守るためには神経質に観察した方がよい。と思っていたら、科学技術振興機構が全国の学校や博物館に配布した日食グラスの中に減光プレートが付いてない不良品が見つかっている、という報道があった。これではいけない。神経質不足だ。

 次に日本で観察できる重要な日食は2012年5月21日の金環食だそうである。皆既日食は2035年9月2日まで待たなければならないということだ。ともあれ、あさって天気になーあれ(ちょっとむずかしいかな)。

2009年7月17日 (金)

神経質礼賛 446.自分のニオイ

 関東地方の梅雨明けが発表され、最高気温34度といった厳しい暑さがやってきた。夜中から明け方にかけても気温25度以上の熱帯夜である。私は汗かきなので、朝、駅のホームに着いた時には汗が噴出し、ニオイが少々気になる。加齢臭も気にしなければならない年頃である。周囲の人に迷惑をかけないように神経質を発揮した方がよさそうである。普段、電車から一番先に降りられるように早めに席を立って、ホームの階段近くに止まるドア前を陣取っているのだが、すぐ後ろにやってくる年配男性がタバコ臭・ポマード臭・怪しげな香水の匂いが渾然一体となった臭気を発していることがあって、閉口する。自分もこうだと困るなと思う。

 先日、アメリカ帰りの方からSpray Mistという名前の消臭スプレーをいただいた。ラベルには天然塩を使ったもので有害な化学物質や香料は使っていない、と書いてある。また、No Alminium chlorohydrateとある。塩化アルミニウムは多汗症の治療に皮膚科で処方される薬剤で、市販の制汗剤にも使われている成分であるが、それは含んでいないということだ。本当に効果があるのだろうか、と半信半疑、出勤前にスプレーしていつものように駅に向かった。汗は少し減ったような気がする。そして、なぜかにおわない。全く不思議である。どういう機序で効くのだろうか。ラベルをよく見直してみると、成分表示にNatural Mineral Salts(potassium Alum)とある。カッコ内は(カリウム ミョウバン)のことである。ミョウバンは漬物などの食品の添加物として使われている。その一方で、古くから制汗剤・消臭剤として使われてきたということだ。現在でもミョウバンを含んだ消臭石鹸が製造されている。Spray Mistの有効成分はミョウバンだったのだ。これで謎が解けた。

 自分のニオイをある程度心配することは悪いことではないが、それが過度になってしまうと自己臭恐怖という強迫神経症の一種になる。実際にはそれほど臭わないのに自分から発するニオイのために人から嫌われていると思い込み人を避けてしまうものだ。必要のないワキガの手術を受ける人もいる。知らないうちに「おなら」が漏れていると訴えていわゆるドクターショッピングする人もいる。関係妄想に近い重篤な状態ともなると難治であり、統合失調症に用いるような薬剤を使う必要がある場合も出てくる。やはり、過ぎたるはなお及ばざるが如し、である。ニオイの心配はほどほどが一番だ。

2009年7月13日 (月)

神経質礼賛 445.夏みかんパワー

 毎年、6月から7月にかけて、実家の庭には夏みかんが実る。元は私が子供の頃に父親が数本のみかん・夏みかん・八朔の苗を植えたものだ。父が亡くなってから長いこと放置されていて、みかんと八朔の木は枯れてしまったが、夏みかんの木は元気で毎年実をつける。正真正銘の無農薬・無肥料である。例年、取りきれなくて(食べ切れなくて)最後は腐って落ちてしまう。だから、毎週仕事が休みの日に母親の安否確認がてら実家に行くと、夏みかんを大量に持たされることになる。しかし、子供たちは、酸っぱいと言って、食べてくれないので、私と妻で食べることになる。一応は「甘夏」なので、それなりの甘味もある。面倒ではあるけれど神経質らしく、皮とホロをむき、深めの皿に入れてラップをかけて冷蔵庫に入れておく。外出から疲れて帰った時につまんで食べると、酸味とほどよい苦味でしゃきっとしてくる。やはり季節に合った自然な食べ物なのだろう。

 夏みかんにはクエン酸が多量に含まれている。筋肉内の疲労物質「乳酸」の代謝に関与するとともにカルシウムなどのミネラル吸収を促進する効果がある。最近のスポーツドリンクはクエン酸を配合したものが販売されているのでその効果は御存知かと思う。ビタミンCも多く含まれ、栄養分析表を見ると、果肉100g中40mgのビタミンCがある。夏の日焼けに良さそうである。多くはないがビタミンB1・B2も含まれる。それに良質な食物繊維をたっぷり摂ることができる。近頃は発ガン抑制物質も話題になっている。果肉中のβ-クリプトキサンチンや苦味成分のリモノイドに発ガン抑制作用があると言われる。さらにマーマレードとして食べると、皮の香り成分オーラプテンにも発ガン抑制作用があるという。こうしてみると、いいことずくめである。

 小学生の時に学校給食で出た夏みかん(半分に切ったもの)は実家の夏みかんよりもはるかに苦味も酸味も強かった。今は果物でも野菜でも甘くて苦味や酸味の少ないものが好まれるが、昔ながらのものの方が体に良い成分が多く含まれていることもある。夏みかんパワーを見直してはどうだろうか。

2009年7月10日 (金)

神経質礼賛 444.縁起の悪い語呂合わせ

 数字の4は「死」、9は「苦」を連想させるので、それらの番号は嫌われやすい。かつては、ホテルや病院の部屋番号で末尾が4や9は避ける場合があったが、番号を飛ばすのは何かと不便であるから、最近はそこまではしないようだ。私が勤務している病院も現在は4号室や9号室がある。キリスト教圏の国ではキリストを裏切ったユダが13番目の弟子だったことから13が忌み嫌われる。

 私は小学生の頃、数字が気になって、廊下を歩く歩数を数えて末尾が「4」とか「9」になるのを嫌って、歩数を調節する、という不自然な歩き方をしていた時期があった。中学の時の担任の先生が「皆さんは4を嫌うけれど、私は44が好きです。し合わせ、と読めるから」と言っておられた。なるほど、とは思ったが、やはり何となく気持ちが悪いものである。

 医師になりたての時、最初に買った軽自動車のナンバーは「く 7979」だった。どう考えても「苦、泣く泣く」と読めて縁起が悪い。この車に乗っていた5年間に小さな接触事故を2回経験したが、これは単に運転技術が未熟だったためである。大学に助手で戻る前は勤務先の病院から週1回大学病院の専門外来を担当して夜は研究会に出席してから帰っていて(往復300km)、スピード違反で一度捕まったことがある。これもまあ、ナンバーのせいではないだろう。車を買い換えたらナンバーは「ね 8786」になった。「今度は、ね、やな野郎 だね」とセールス氏に嫌味を言うと、「花ハローと読んで下さいよー」と言っていた。ものは考えようである。

 強迫神経症(強迫性障害)で縁起恐怖というものがある。縁起が悪いことを過度に恐れ、無理にそれを避けるような行動をしてしまうものだ。そうなると、日常生活にも支障をきたしてしまう。不吉に思われる数字も他の数字と何ら違いがあるわけでなく、勝手に意味づけしてしまうだけのことである。気味が悪いという気分はそのままに、それを避けずに必要な行動を続けていくことが大切である。縁起を良くするような儀式をしては強迫行為のワナにはまってしまう。

2009年7月 6日 (月)

神経質礼賛 443.短歌の周辺

 通勤の電車でJR東海のポスター広告を見かける。TVでも宣伝している「そうだ京都行こう」に比べると地味だけれども、奈良の旅へと誘う万葉集をテーマにしたものもあって、野に遊ぶ鹿たちの写真を背景に「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも   崗本天皇」とある。知りたがりの神経質ゆえ、まず、崗本天皇とは誰のことだろう、と疑問がわく。歴史上、聞いたことがない天皇名である。調べてみると、明日香崗本宮を御所とした天皇を意味し、舒明天皇またはその皇后で夫の死後に女帝となった皇極天皇(さらに再度即位して斉明天皇)のことだそうだ。歴史上有名な中大兄皇子(天智天皇)の両親のどちらかということになる。また、「小倉の山」は平安時代の歌枕として名高い京都の嵯峨が頭に浮かぶが、時代から言ってもちろんそこではなく、場所は不明とのことである。

 一枚のポスターでちょっとした歴史探訪ができる。次はどんなポスターになるかまた楽しみだ。

 われらが森田正馬先生も短歌や俳句を詠んでおられる。古歌をもじった教育的な歌をよく色紙に書かれている一方、日常生活をそのままうたった歌や故人をしのぶ歌もある。

 世の中に 我といふもの 捨てて見よ 天地万物 すべて我がもの (古歌)

 何事も 物其ものに なって見よ 天地万物 すべて我がもの  (森田)

 古歌にあるように、雑念を捨て去って無我になることは極めて難しい。禅の修業を積んだ人ならばともかく、私のような凡人では無我になろうとしてできるものではない。しかし、森田先生の言われる「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くし、物の性を尽くす」というように、そのものを最大限に生かすように行動していくことは雑念を浮かべたままでもできる。そうして行動していくうちに自己中心性が薄れ、いつのまにか雑念にとらわれていない自分にふと気付くということになるものである。

靑市場 キャベツの球の ころころと ころがりてあり 露に光りて (森田)

 森田先生の医院兼自宅の近くには青物市場があって、先生はよく患者さんたちを連れて行った。何をするのかと言うと、飼っている小動物の餌にするために、捨てられたクズ野菜を拾いに行くのである。患者さん、特に対人恐怖の人にとってはとても恥ずかしいことだった。時には市場の人から「いい若い者が何やってるんだ」と言われることもあった。対人恐怖のため学生時代に森田先生のところに入院し、後に香川大学教授となった大西鋭作さんは次のように振り返っている。

入院生活の断片と森田療法(大西鋭作)

 森田先生の号は「形外」です。形外とは、形式を無視し人間の心の事実に生きるという意味と思います。「形外」は、先生の生活の至る所で、私達は感じたものでした。大学教授・医学博士たる先生が、粗末な着物で、近くの青物市場へ、鶏の餌にする野菜拾いに患者を引きつれて行ったこと等は、形式を無視し物を惜しむ神経質が作り出した傑作です。修業というようなケチな堅苦しいものではありません。人の足に踏みにじられ、捨て去られる野菜を惜しいと感ずる純なこころの動きに素直に応じただけのことです。(白揚社:森田正馬全集 月報三 昭和49年8月)

 大西さんにとっても野菜拾いは辛い作業だったろう。当時の大学生、特に帝大生は今と違って超エリートである。市場で働いている人たちの視線はさぞかし痛かっただろう。しかし、作業中心の生活をしているうちに症状をかえりみることも少なくなってしだいに視野が拡がり、退院する頃には森田先生と同様にキャベツの光る露にも目が行くようになったのではないかと想像する。

2009年7月 3日 (金)

神経質礼賛 442.感情の法則と90秒ルール

 毎日新聞の日曜版に心療内科医(歌手)・海原純子さんの「一日一粒 心のサプリ」というコラムがある。621日の話は90秒ルールに関するものだった。ささいなことで怒りが爆発しやすい「瞬間湯沸かし器」のような人の例を出して、最近の脳科学の研究から、脳から放出された化学物質が起こす反応は90秒以内におさまるので、怒りを感じたら90秒間何とかやりすごすとよい、というような話だった。これを読んだ妻は「90秒なんて、とても待てない!」と言う。妻と性格そっくりの息子とは「混ぜるな危険」の関係で、二人の間でいつも同じシナリオでのケンカが繰り返される。小言を言う前にワンテンポ待ったら、と妻にアドバイスするのだが、どうも学習効果がない。

 脳科学が進んでいなかった今から百年近く前に森田正馬先生はすでに「感情の法則」について書かれているが、現在でも通用する立派なものである。

 常識養成の根本とする処は広くいはゞ即ち心身の訓練にして狭くいはゞ即ち感情の修練なり。されば先づ感情の特性に就て考ふるに

一、感情は常に同一の強さを以て永く持続するものにあらず、之を放任すれば自然に消失す。

二、感情は之が行動に変化すれば消失す。

三、感情は之を表出するに従ひ益々強盛となる。ランゲは吾人は悲しき為に泣くに非ず。泣くが為に悲しきなりといへり。

四、感情は之に慣るゝに従ひて鈍くなる。  (白揚社:森田正馬全集第7巻 p.555

 さらに「憤怒の感情を表出して一言二言争えば、次第に憤怒は激烈になりついには暴行に至る下等社会の夫婦喧嘩におけるが如し」と付け加えておられる。鈍感な人ならば、何を言われてもカチンとくることは少ないだろうが、神経質人間は他人の言動に敏感なのでカチンときやすい。90秒という時間は短いようでも結構長く感じるものである。どうにもならない場合はその場をはずして何か物を取りに行くとかトイレに行って来るとか一工夫して怒りの感情が消失するのを待つのが賢明である。

2009年7月 1日 (水)

神経質礼賛 441.ネットゲームとひきこもり

 今年も保健所のひきこもり教室の講師を頼まれた。会の前日(624日)の毎日新聞夕刊に「バーチャルに生き、現実世界で生きられない・・・増えるネトゲ廃人」というタイトルの記事があった。ネットゲームにはまり、起きている時間はすべてネットゲームに費やす生活を3年間送った大学生、ネットゲームをやめさせようとする親に暴力をふるう中学生の実例が紹介されていた。「ネトゲ廃人」という本を出版したジャーナリストは「どこかに心の空白があって、ずるずると続けてしまう」「現実で生きがいを見出しにくくなる」と言う。あるネットゲームを運営している会社の社長は「ゲームに依存しやすいのは人生で何かが欠落している人」と分析する。記事ではネットゲーム依存への対策はおろか依存者の統計もなく、ゲーマー低年齢化の問題を指摘していた。

 さて、ひきこもり教室では、まず、私の講義でひきこもりと鑑別を要する精神疾患を概説し、その後のグループワークで参加者(ひきこもりの親)の具体的事例についてディスカッションするという流れになっている。講義の初めに前述の新聞記事の話をしたら、参加者から「まさにウチの息子も同じなんです」という話が出てきた。大学に入って一人暮らしを始めたら、ネットゲーム三昧の生活になってしまい、大学には行っていない。メールを出しても返事が来なくなったので心配してアパートへ行ってみると公共料金の督促状が挟まっていた。とりあえず親が支払ったが、後期の授業料の支払いをどうしようか、という難題を抱えている、ということだった。他の参加者からは「早く家に連れ戻した方がいいのでは」という意見と「親がムリに連れ戻したら、うまくいかなかったのは連れ戻されたからだと言うに決まっている」とそれに反対する意見があった。実際に相談業務をしている保健師さんや社会福祉士さんからは「どういう行動を取るにせよ、夫婦でよく話し合って決める方がよい」「電気代を親が支払ってあげたのでは本人は困らないことになってしまう。電気が止められたところで死ぬことはないのだし、パソコンもできなくなるわけだから、本人に処理させた方がよい」「家庭の経済状況を本人に伝え、行かない学校へ学費を払うゆとりはない、一人暮らしを続けたいのならば援助できるのは○万円までで、後は自分で働いてもらうしかない、と説明した上で本人にどうするか決めさせてはどうか」などとアドバイスがあった。

 対人恐怖などの神経症やいじめなどが原因で不登校となってひきこもっていく人とネトゲ廃人には少々違いがある。パチンコ依存症などの病的賭博に近い嗜癖の問題なのである。ネットゲームでは賭博のように勝てばお金が入ってくるわけではないが、よりレベルが上がるという「報酬」がある。パチンコにお金をつぎ込んでサラ金に借金をしまくって巨額の負債となることはなくても、パチンコと違って24時間できるので、生活リズムが破綻することで廃人生活となっていく問題は大きい。

 ギャンブル依存に関して興味深い研究が最近発表された。ケンブリッジ大学のLuke Clark博士がNeuron誌に発表したものである。被験者にコンピュータ制御のスロットマシンで遊戯させ、機能的MRIで脳の活性領域を調べた。すると、当りが出た時には自然報酬や中毒性の薬物を処理する領域が反応するのだが、「もうちょっとで当り」という「ニアミス」が出た時にも脳の同じ報酬系(線条体と島皮質)が活性化されていた。ニアミス自体は不快だがゲームを続けたいという欲求が高まっていた。ニアミスに対する反応は本来脳に備わっていて、ニアミス体験がギャンブル依存の誘因になる可能性を示唆していると結論している。

 コンピュータゲームでは、簡単に次に進んでいくのでは飽きられてしまうし、難しすぎてはあきらめられてしまう。巧みに「ニアミス」体験をさせてゲーマーを虜にしていくように作っている。誰でもネトゲ廃人になる危険性はあるのだ。現実生活での楽しみがなく、将来の夢もないとなると、ネットゲームのファンタジー世界に逃避することにもなる。まずはネットゲームの危険性を周知させるとともに、業界に対してはゲーム時間の規制をするよう働きかけていく必要があるだろう。長い目で見れば、若者が健全な「生の欲望」を発揮できるような社会、努力が報いられるような社会にしていく必要もある。

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