神経質礼賛 443.短歌の周辺
通勤の電車でJR東海のポスター広告を見かける。TVでも宣伝している「そうだ京都行こう」に比べると地味だけれども、奈良の旅へと誘う万葉集をテーマにしたものもあって、野に遊ぶ鹿たちの写真を背景に「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも 崗本天皇」とある。知りたがりの神経質ゆえ、まず、崗本天皇とは誰のことだろう、と疑問がわく。歴史上、聞いたことがない天皇名である。調べてみると、明日香崗本宮を御所とした天皇を意味し、舒明天皇またはその皇后で夫の死後に女帝となった皇極天皇(さらに再度即位して斉明天皇)のことだそうだ。歴史上有名な中大兄皇子(天智天皇)の両親のどちらかということになる。また、「小倉の山」は平安時代の歌枕として名高い京都の嵯峨が頭に浮かぶが、時代から言ってもちろんそこではなく、場所は不明とのことである。
一枚のポスターでちょっとした歴史探訪ができる。次はどんなポスターになるかまた楽しみだ。
われらが森田正馬先生も短歌や俳句を詠んでおられる。古歌をもじった教育的な歌をよく色紙に書かれている一方、日常生活をそのままうたった歌や故人をしのぶ歌もある。
世の中に 我といふもの 捨てて見よ 天地万物 すべて我がもの (古歌)
何事も 物其ものに なって見よ 天地万物 すべて我がもの (森田)
古歌にあるように、雑念を捨て去って無我になることは極めて難しい。禅の修業を積んだ人ならばともかく、私のような凡人では無我になろうとしてできるものではない。しかし、森田先生の言われる「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くし、物の性を尽くす」というように、そのものを最大限に生かすように行動していくことは雑念を浮かべたままでもできる。そうして行動していくうちに自己中心性が薄れ、いつのまにか雑念にとらわれていない自分にふと気付くということになるものである。
靑市場 キャベツの球の ころころと ころがりてあり 露に光りて (森田)
森田先生の医院兼自宅の近くには青物市場があって、先生はよく患者さんたちを連れて行った。何をするのかと言うと、飼っている小動物の餌にするために、捨てられたクズ野菜を拾いに行くのである。患者さん、特に対人恐怖の人にとってはとても恥ずかしいことだった。時には市場の人から「いい若い者が何やってるんだ」と言われることもあった。対人恐怖のため学生時代に森田先生のところに入院し、後に香川大学教授となった大西鋭作さんは次のように振り返っている。
入院生活の断片と森田療法(大西鋭作)
森田先生の号は「形外」です。形外とは、形式を無視し人間の心の事実に生きるという意味と思います。「形外」は、先生の生活の至る所で、私達は感じたものでした。大学教授・医学博士たる先生が、粗末な着物で、近くの青物市場へ、鶏の餌にする野菜拾いに患者を引きつれて行ったこと等は、形式を無視し物を惜しむ神経質が作り出した傑作です。修業というようなケチな堅苦しいものではありません。人の足に踏みにじられ、捨て去られる野菜を惜しいと感ずる純なこころの動きに素直に応じただけのことです。(白揚社:森田正馬全集 月報三 昭和49年8月)
大西さんにとっても野菜拾いは辛い作業だったろう。当時の大学生、特に帝大生は今と違って超エリートである。市場で働いている人たちの視線はさぞかし痛かっただろう。しかし、作業中心の生活をしているうちに症状をかえりみることも少なくなってしだいに視野が拡がり、退院する頃には森田先生と同様にキャベツの光る露にも目が行くようになったのではないかと想像する。
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