神経質礼賛 460.ぶざまでよい ダメ人間でよい
仕事でうまくいかないことがある。家庭の中でもいろいろと問題が起る。年を重ねるに従い、自分の努力だけではどうにもならない問題が増えてくる。思わず、フーッとため息をつきながら、ぶざまだなあ、自分は本当にダメな人間だなあ、と心の中でつぶやく時がある。
認知療法でいうところの「認知の歪み」の「レッテル貼り」だとは承知の上である。しかし、どうにもならないのだから、あえて「認知の歪み」を是正しようともせず、落ち込んだ気分をぶらさげたままで仕方なしに、やらなくてはならないことを次々と片付けている。
しかし、自分のダメぶりを嘆くことも悪いことばかりではない。逆に自分のいいところばかり誇張して根拠に乏しいプラス思考していたら自己愛のかたまりのような鼻持ちならない人間になってしまう。謙虚に反省することで自分を向上させようという気持ちになるし、人に対しても優しくなれるものである。そして自分を徹底的に貶めてしまえば、開き直りもできるというものである。ぶざまでもいい。ダメ人間でもいい。できることをやっていくだけである。
ちょっと長いが森田先生の言葉を引用してみよう。
私が常にいうように、神経質はいつも劣等感を起こすのが自分の持前であるから、そのまま劣等感になりきっていさえすればよい。自分を不器用と決めておきさえすれば、あらためて、時々に、自分を不器用呼ばわりする必要はなく、何か自分で作りたくてたまらぬ物ができれば、丁度小児が力一杯でやるように、ただ工夫努力するよりほかは道がなくなる。そこに初めて成功の喜びができてくるのである。
およそ何事にも偉くなるような人はみな劣等感をもち、へりくだった心から、自分の行いを慎み励んでいるものである。高ぶった心の人は、決して優れた者になる事はできない。私が色紙に書いたものに、こんな文句がある。
「金持は常に己れの財産の乏しきを思い、知者は常に己れの知能の足らざるを憂う。柔順なる人は常に自らわがままに非ずやと恐れ、善人は常に己れを悪人と信ぜり。貧者は常に己れのありたけの金を使い果たし、愚者は常に自分のありたけの知恵才覚をみせびらかし、不柔順なる者は常に己れがこれ以上の柔順ができるかと恨み、不善人は常に己れを誠実親切なりと信ぜり。」
己れを偉いと思い・よい人のように思う者にろくなものはない。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.741)
特に最後のところは政治家センセイたちや官僚様方にお読みいただきたいところである。
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