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2009年10月30日 (金)

神経質礼賛 480.平常心是道

 今回は平常心是道(へいじょうしんこれみち)という言葉を紹介させていただこう。私の恩師・大原健士郎先生は御著書の中で、これは唐の名僧・南泉禅師の言葉であり、はからいのない、素直な気持ちが取りも直さず人の求める道である、という意味だと解説されている。

 一方、禅語を解説した本を読んでみると、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)で言うところの平常心とは、われわれが普段使っている意味とは異なり、「日常の小さな行いもおろそかにしない心」であり、普段の生活での心がけがすなわち「仏の道」である、という意味なのだそうである。

 森田療法は禅からきている、と思っている方もおられるかもしれないが、実際には禅でよく使われている言葉を森田先生が自分なりに解釈して用いていたのであって、本来は禅と直接的な関係はない。森田正馬先生は形外会(月1回、患者さんや雑誌「神経質」の読者が集まる会)で次のように述べておられる。

 かつて弁護士で・心悸亢進発作の患者があった。その人は十余年来、禅をやり、公案を百も通過したとの事である。「平常心是道」という事は、この人から初めて聞いた。この患者が、家で座禅する時には、直ちに「平常心是道」になるが、電車の中で発作の起こった時には、その平常心になれないとの事である。その時に早速私はいった。平常心という文字から察すれば、それは自然の心という意味ではないだろうか。死は恐ろしい。電車の中で、今にも死にはしないかと思う時は、当然不安である。そのあるがままの心が、すなわち平常心ではあるまいか。すなわち電車の中で、その恐怖心そのままになりきって、あるいは逃げ出したり・交番に駆け込んだりしないで、じっと忍受していれば、そのまま発作は経過して、苦悩は雲散霧消する。これが「平常心是道」であって、すなわち心悸亢進発作はたちまちにして全治するといって教えたけれども、その人はよく理解ができなかったのである。こんな風の事は、私は神経質の発作性症状の心理から類推して、禅の語を解釈する事ができるかと思う。この故に禅の修業や、その方の説得のみをもって、神経質を適切に治すという事はできないが、私の療法は、それなどとは全く関係なしに、直す事ができるのである。 (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.388

 今で言うパニック障害に対する対処法である。この人の場合は平常心になろうと「はからう」がために平常心になれなかったわけであり、森田先生の指導に従ってジタバタせずに発作の恐怖を受け止めた人は良くなっていった。森田先生の言われる「平常心」は明らかに私たちが使っている意味である。対人恐怖の人の場合で言えば、人前で緊張し、ドキドキし、赤面するが、そのありのままが平常心であって、そこで逃げ出さずに踏みとどまって、必要なことを話していけば何とかなる、それが平常心是道ということになる。

 よく言われる「あるがまま」も「平常心」と同様で、なろうとしてなれるものではない。不安があっても行動しているうちに自然と「あるがまま」「平常心」になっているものである。大切なのは理屈ではなく行動である。

2009年10月27日 (火)

神経質礼賛 479.新型インフルエンザの予防接種

 3日前、外来診察の合間に、新型インフルエンザの予防接種を打ってもらった。医療従事者は感染予防のため最優先ということだが、副作用情報を集めるためのモルモット代わりの意味合いもあるだろう。接種は1回でよいことになったとはいえ、ワクチンの絶対量が限られている。救急を扱っていない一般病院やクリニックでは入手できたワクチンは医師・看護師数の半分程度に留まっているのが現状だ。勤務先の病院でも、やはり医師・看護師の約半数が接種できる分しか入ってこなかった。通常のインフルエンザワクチンは1mlバイアル(成人2回分)が主で0.5mlバイアルもある。今回の新型インフルエンザワクチンは一度に大勢の人に接種するためか1mlに加えて10mlバイアルで供給されている。普通に考えれば10mlだと成人20回分のはずだが、厚生労働省からの文書によればなぜか18回分となっていて、その理由は不明であり、ちょっと気になる。

 毎年、通常の季節性インフルエンザの予防接種を打ってもらっている。一般に注射部位周辺の発赤・硬結といった「副反応」は起こる。抗原抗体反応が起るので、微熱や頭重感も出現することがある。私の場合、神経質だからというわけではないだろうが、副反応が出やすい。新型ワクチンではこの副反応が出る割合が高い、というのでちょっと心配だった。今のところ、注射した部位がわずかに発赤・腫脹した程度でかえって例年の予防接種よりも軽い感じがする。薬局長が「今出回っているのは国産品で純度が高いから大丈夫でしょう」などと言っていたが、真偽のほどはわからない。新聞報道によれば、国立病院の医療従事者22,112人に接種して入院を要する重篤な副作用が出たのは、両足筋肉痛による歩行障害、嘔吐、脈拍上昇、発熱・意識低下、の4例で、他にもショック状態などが3例あったという。入院レベルの副作用は0.02%ということになり、通常の季節性インフルエンザ予防接種の0.0003%よりも高い。厚生労働省は、調査方法が異なるので頻度が高いとは言えないというコメントを出している。

 これで来月には反対側の腕に季節性インフルエンザの予防接種をすることになる。いずれの予防接種にしても効果は5ヵ月位しか続かないので、新型インフルエンザの流行が長引くと、感染するリスクが高くなる。それに予防接種をしたら感染しないというわけではない。うがい、手洗い、人ごみは避ける、といった対策を神経質に続けていくしかないだろう。

2009年10月23日 (金)

神経質礼賛 478.悲しくてやりきれない

 今月の17日、歌手の加藤和彦さんが「私は消えゆくだけ」という遺書を残して自殺した。遺書では、自分が世の中に必要な人間だったのか、と悩んでいたことが綴られていたという。

 近年は他の歌手たちに曲を提供したり歌舞伎の音楽を手がけたりしていたようだが、私の世代では「帰って来たヨッパライ」の強烈な印象がある。一般的には「あの素晴らしい愛をもう一度」が一番の名曲だろうか。仲間だけの葬儀で出棺前の挨拶をした「フォーク・クルセダーズ」以来の盟友・北山修(精神科医:九大大学院教授)さんによれば、加藤さんは明るく前向きな反面、完全主義で怒ると怖い面もあった、という。「二度と同じことはやらない」がモットーだった。常に新しいものを開拓していくのには大きなエネルギーが必要で、それができる人だった。基礎気分が高く、極めてエネルギッシュな人は、政治家や財界人や芸術家でしばしば見かける。しかし、そういう人が一転してうつ状態に陥ると、落差が非常に大きいだけに、奈落の底に突き落とされたようになってしまう。加藤さんの場合も、自己否定的な観念に取り付かれて絶望し、不幸な結果になってしまったのだろうと思う。

 私が持ち歩くミュージックプレーヤーにはフォーク・クルセダーズ時代の「悲しくてやりきれない」という曲が入っている。「イムジン河」というレコードが政治的な理由で発売中止になってしまい、その曲を逆回転させて作ったのがこの曲だと言われている。サトーハチロー作詞で後半部分「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」の後は1番が「このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか」、2番が「この限りない空しさの救いはないだろか」、3番が「この燃えたぎる苦しさは明日も続くのか」となっている。今の若い人が聞いたら、暗い歌だと思われるかもしれない。最近のヒット曲はテンポが速くてノリがよい元気が出そうな歌が多い。しかし、気分が落ち込んだ時・つらい時に癒しとなるのは、音楽療法の「同質の原理」からしても、本当はこのように自分の心情を代弁してくれる曲なのである。こうした曲は、自己評価の低い神経質人間にとっては貴重な存在である。

 誰でも状況しだいではうつ状態になることがある。私自身、若い頃に3ヶ月で体重が12kg減少するといううつ状態を体験したことがある(123)。八方塞で出口のないトンネルに入ってしまったように感じ、むなしさの救いもなく、苦しさがいつまでも続くのではないかと思ったし、モヤモヤを告げるような相手もいなかった。しかし、うつが永久に続くことはない。雪に閉ざされていてもいつかは雪が融けて草木が芽吹く時がやってくるものである。悲しくてやりきれなくても、どん底の後にはいつしかまた楽しい気分も戻ってくるものだ。加藤さんの場合も早まった決断をせずに、誰かに相談していたら、そして適切な治療を受けていたら、また回復して活躍できたのだろうに、と惜しまれる。

2009年10月19日 (月)

神経質礼賛 477.アルコールと不眠

 土曜日の外来に40代男性が産業医の紹介状を持って受診した。不眠と意欲低下が主訴で、産業医の先生はうつ病ではないか、と心配して紹介されたようだ。しかし、表情や会話のテンポなどからは、うつ的なところは見当たらないし、簡単な心理検査でもうつ病は否定的である。体重減少もない。寝つきはいいが、午前2時や3時に目が覚めて、それからは眠れないという。職場でのストレスはあるのだろうが、工場の生産現場で夜勤や残業や休日出勤はない。会社の寮で単身赴任生活をしており、週末には自宅に帰っている。問題は生活習慣である。日本酒を毎晩3合飲み、趣味はパチンコとのことである。

 寝酒という言葉があるように、アルコールを飲むとよく眠れるので睡眠薬を飲むよりいい、と思っている方も少なくないだろう。ところが、アルコールは睡眠に悪さをするのである。アルコールを飲んで眠くなるのは、意識レベルに関与する脳幹部の網様賦活系を抑制するためである。一見、寝つきはよくなったように見えて、睡眠の質は悪くなっている。一部の睡眠薬でも似たような問題があるが、レム睡眠が抑制されて、「眠ったような気がしない」「疲れが取れない」という感じになりやすい。それにアルコール濃度が低下してくると中途覚醒してしまい、そこから眠りにくくなる。ウトウト眠っても、それまで抑制されていたレム睡眠が反動で出てきて、「悪夢を見る」「変な夢ばかり見て疲れる」ということになってしまう。また、人間の体温は日中上昇し夜間低下するリズムがあり、夜は眠りやすくなっているのだが、アルコールのカロリーは体温上昇に使われるので、睡眠リズムがおかしくなる一因となりうる。それに、休肝日なしに飲酒していたら、体の負担も出るので、特に朝は元気が出ない、ということになるはずである。

 結局、前述の方には、アルコールが睡眠に悪さをするということを説明し、なるべく飲酒しない日を作ること、休日はなるべく体を動かすこと、といった生活上の注意をして、飲酒しない日にどうしても眠れなければ服用するように、と睡眠薬を少量だけ処方しておいた。

 神経質な人で不眠を気にする人はよくいる(60話・463)。しかし寝酒のアルコールは感心しない。今日は眠れなくても仕方がない、とあきらめていれば、いつしか眠っているものである。

2009年10月16日 (金)

神経質礼賛 476.バリアフリーとバリアアリー

 1013日夜、テレビ東京で「逆転発想のススメ! 常識破りで成功した人たちを追いました」という番組があった。過疎地の巨大スーパー、現在よく売れている「消せるボールペン」などを取材したものでどれも面白かったが、その中で特に私の興味を引いたのが「坂階段あり・・・筋トレ&ギャンブル推奨老人施設」だった。この老人施設、以前は普通の老人施設と同様、バリアフリーで上げ膳据え膳、ごく普通のプログラムで運営していた。ところが、利用者の機能は衰える一方で要介護度はどんどん上がってしまう。そこで方針を180度転換して、利用者が単なる「お客様」ではなく自発的に動いてくれるような工夫をほどこした。その一つがバリアフリーならぬ「バリアアリー(有り)」だ。広いデイルームの中に家具が置かれて邪魔そうに見えるし、階段や坂で不自由そうに見えるが、実はこれが機能改善に役立つ。さらにあちこちに筋トレの器具がある。歩行が危ないということで車椅子とエレベーターに頼っていたのでは筋肉は衰え、萎縮していくばかりだ。また、食事の下膳なども利用者にやってもらう代わりにやってくれた人には施設内だけで有効な通貨を渡す。通貨を稼ぐためには施設内の「アルバイト」もある。この通貨はいろいろな遊びに使えるし、花札賭博で楽しむこともできる。利用者たちの意欲や自発性が高まり、要介護度も改善するという成果が出ているとのことである。

 精神科病院はどうだろうか。今ではどこの病院も建て替えてバリアフリーである。さらに転倒事故を減らすために、危険性のある人は車椅子で移動しエレベーターで他の階に行く。確かに事故は減っている反面、60代、70代の人たちの歩行能力の衰えが早いような気がする。「バリアアリー」もある程度必要なのではないかと思う。かつては食事の配膳・下膳や病室の清掃は患者さんたちが当番でやっていたが、「患者さんの使役にあたるので職員がやるように」という県・保健所の指導で、現在は職員が行っており、患者さんたちは「お客様」状態である。以前ならば積極的に当番をやるような人はやがて外勤作業に出て、身寄りがなくても会社の寮に入って退院していった。今は社会復帰施設やグループホームに退院していく人は多くても、寮やアパートでゴロゴロ寝て過ごすようになってしまうケースが増えている。森田療法で入院している患者さんたちの畑作業や室内清掃までもが保健所の指導でいつも問題にされる。「患者さんに労働させるのは人権上けしからん。対価を支払え」というわけだ(29話)。旅館のお客様状態は長期的に見ると、患者さんの生活能力をダメにしてしまうように思うのは私だけだろうか。

2009年10月14日 (水)

神経質礼賛 475.殺人増加は経団連の責任?

 先日、亀井金融郵政改革担当大臣が、日本で家族間の殺人が増えているのは経団連に責任があるという趣旨の発言をして物議をかもしている。家族間殺人と経団連とを直接結びつけるのはちょっとムリがある。いくら何でも大臣の公的発言としては不適切ではないだろうか。神経質が足りなすぎる発言である。

 しかし、家族間殺人に限らず通り魔事件が次々と起るような殺伐とした社会風潮を作り出したことに関しては、政治経済界のトップたちにも責任の一部はあるだろう。小泉改革で何でもアメリカに倣えで、目先の利益優先のため派遣切りが行われた。さらには正社員もリストラされて路頭に彷徨うようになった。まとめて人斬りといってもよいだろう。それを率先して行ってきたのがC社のトップで経団連のM会長というわけである。ワーキングプアあるいは職にありつけない若者たちが通り魔事件を起こす。また経済的な困窮が家族間殺人の一因となったケースもある。そして家族間殺人は意外にも大都会よりものどかな都市近郊や農村で起っている。郵政民営化で採算の取れない田舎の郵便局が廃止されたことに象徴されるように、都市と田舎、東京と地方の格差が拡大し、田舎での生活が困難になってきていることも背景にあるのかもしれない。そういう意味では拡大解釈すれば亀井大臣の発言にも一理はあると言えよう。

 実に生きにくい世の中になったとグチを言っても始まらないし、犯人探しをしてもどうにもならない。神経質人間は特に不全感を抱きやすいが、森田正馬先生の「己の性(しょう)を尽くし 人の性を尽くし 物の性を尽くす」で、自分や人や物の価値を最大限高める努力をしていく他はない。皆がそのようにしていけばいつか世の中も変わってくるのではないかと思う。

2009年10月12日 (月)

神経質礼賛 474.座敷わらし

 先週の日曜日、座敷わらしが出るということで有名な岩手県内の老舗旅館が火事で全焼してしまった。宿の主人は死者が出なかったのは座敷わらしのおかげです、とコメントしていた。何とか再建して、また座敷わらしが戻ってきてくれたらと思う。

 座敷わらしは東北地方に伝わる話に出てくる童子で、夜中に現れていろいろといたずらをする。座敷わらしを見た人は幸せになるとか、座敷わらしのいる家は栄え去った家は没落するとか、大人には見えず子供にしか見えないとか言われていて、旧家ではその家の守護霊として祀られているそうである。かつて東北地方の農村では、たびたび飢饉に見舞われたこともあり、子供を「間引く」ことが行われた。そうした子供の霊をなぐさめようというところから、このような伝説ができたとも考えられている。

 非科学的で馬鹿馬鹿しいと切り捨ててしまえばそれまでだが、目に見えないところにも命が宿っていて、それを大切に扱おうというような謙虚な気持ちはあってもよいのではないだろうか。カネとスピードがすべての世の中になってしまった昨今、座敷わらしがいてもよい。いや、いてくれた方がよい。こころの中には遊びも必要である。機械の歯車だって全く「遊び」(隙間)がなければ動きにくくなるし、無理やり力を加えれば歯車が傷んで壊れやすくなる。自動車のハンドルだって全く「遊び」がなければ走行が不安定になって運転手は絶えず緊張するし乗っている人も車酔いしてしまう。人間も同じである。時には童心に帰って、形を変えながら流れ行く雲に見とれたり、トンボの後を追ったりしてもよい。特に真面目すぎる神経質人間の場合、こころにちょっと遊びが欲しい。

2009年10月 9日 (金)

神経質礼賛 473.莫妄想(妄想することなかれ)

 昨日はここ数年来の大型の台風18号が上陸し、各地に被害をもたらした。ただ不幸中の幸いで、通過速度が速かったため、風雨の激しい時間は短く、規模の割には比較的被害は少なかったようだ。また、大型台風ということで油断せずに準備したことで被害を最小限に食い止められたということも言えるだろう。

 台風で連想されるのが元寇(文永の役1274年・弘安の役1281年)である。時の鎌倉幕府8代執権・北条時宗は強大な外敵と戦わなければならないことに思い悩んで禅僧の無学祖元に指導を仰いだところ、「莫妄想」、と言われたそうである。つまり、負けたらどうしよう、などと思い悩んでも仕方がない、やるべきことをやっていきなさい、ということなのだ。若い時宗はこの言葉で覚悟を決め、人事を尽くして天命を待つ、という心境になり、可能な限りの迎撃体制を敷いた。その結果、二回とも幸運にも台風で元軍の船団が壊滅的打撃を受けて、侵略を免れることができたということは御存知のことと思う。もし、時宗が不安におびえて悲観的な「妄想」にとらわれて行動が遅れたら、あるいは逆にイメージトレーニング風に「敵は大したことはない。簡単に勝てる」などと都合のよい楽観的な「妄想」に耽って準備が不足したら、どちらの場合も台風が来る前に大軍に上陸を許してしまい、日本が元の支配下になって歴史がすっかり変わっていたかも知れない。

 ここで言う「妄想」は病的で訂正不能な不合理な考えという精神医学用語の妄想とは異なる。不安や焦りなどをベースにした雑念とでもいえようか。「思想矛盾 事実唯真」という森田正馬先生の神経質に対する指導は、無学祖元の時宗に対する指導とよく似ている。われわれ神経質人間はああなったらどうしよう、こうなったら困る、などとありもしない先の心配をしがちである。それは「転ばぬ先の杖」として役立つことも少なくないのだが、不安に振り回され過ぎるとエネルギーを空費して疲れてしまうし、行動のタイミングを逃すこともある。不安や焦りはあっても、とりあえず行動していく、例えていえば自転車のペダルをこいで前に進んでいくことが大切である。こぐのをやめたら自転車は倒れてしまう。走っているうちに周りの景色も変わり、先も見えてくるものである。

2009年10月 6日 (火)

神経質礼賛 472.時計は「正確に合わせる派」?「進ませておく派」?

 神経質人間の私は、予定時刻に遅れないよう、時間にはとても気を使う。時計を見る回数は人一倍多いように思う。今まで使っていた腕時計はどれも少しずつ進んでいくので、時々時刻を戻していた。面白いもので、クオーツ(水晶)制御の腕時計や掛時計や置時計は多少ズレていくにしても「進む」のがほとんどで遅れるものは経験がない。時計は進む分にはまだ問題は少ないが遅れるとまずいことになりやすいので、遅れることがないようにわずかに進むように調整されているのではないか、と想像してしまう。今使っている腕時計はソーラー電波時計なので時刻合わせが不要になった。この時計を使っていると、新幹線の発車時刻がとても正確なのがよくわかる。時刻表の発車時刻になってからドアが閉まり、それから出発する。決して時刻前にドアが閉まることはない。だから正確な時計を見ながら動いていれば乗り遅れることはなく安心である。

 家の中の掛時計や車の時計は普通のクオーツの時計なので、少しずつ進んでいく。1年もすれば5分くらい進んでしまうこともある。そこで、時刻合わせをして妻に告げるのであるが、「2,3分進めておいてくれればいいのに!」と必ず不機嫌そうに言われる。進んでいた方が、まだ時間があって安心だという。妻の目覚まし時計は5分から10分くらい進んでいるがこれはアンタッチャブルである。朝、目覚ましが鳴った時、もうしばらく寝ていられる、ということなのだそうだが、正確に合わせておいて5分なり10分なり早めに鳴らせば同じことではないのだろうか、と疑問に思う。進んでいると知っているのだから、単なる「はからいごと」のような気もする。時計は「正確に合わせる派」と「少し進ませておく派」とどちらが多いのだろうか。もっともこんなことを気にするのは神経質人間の私くらいのものだろう。

2009年10月 2日 (金)

神経質礼賛 471.バイオリズム

 バイオリズムという言葉を覚えているだろうか。今ではすっかり死語と化している。かつてはバイオリズムが計算できる電卓が売られていた時期があったし、プロ野球の解説者が不振の選手のことを「今日はバイオリズムが悪いんでしょうかねえ」などと言うこともあった。

 御存知ない方もおられるだろうから、簡単に説明すると、人間の身体(P)、感情(S)、知性(I)のリズムは生まれた日からそれぞれ23日、28日、33日の正弦波で繰り返されている、とする理論である。周期の前半は高調期、後半は低調期で、それが入れ替わる時は不安定になりやすい注意日だという。その人が生まれた日から調べたい日までの日数計算をして、それを周期で割った余りを見れば、容易に判別できる。

 小学生や中学生向きの学習雑誌に書いてあったので、ただでさえ神経質で物事を気にしやすい私は見事にハマってしまったのだ。有名人が事故死した日が注意日の重なった時だったとか、プロ野球の有名選手が大活躍した日は高調期が重なった時だったとかいうような「実例」を示されてすっかり本気にしてしまったのである。中学生の頃は自分のバイオリズムをしょっちゅう計算して、気にしていたものだ。

 しかし、よくよく考えてみれば、すべての人類の好調・不調が極めて正確な周期で繰り返されるというのはあり得ないことである。結局は占いと同じで、当たった時はよく覚えているが、はずれたら気にも留めないので、いつも当たっているような気がしてしまうだけのことである。バイオリズム理論には科学的な根拠はなく、現在では血液型性格学と同様「疑似科学」とされている。神経質人間は先のことをあれこれ心配しやすいので、バイオリズムに騙されたのは私ばかりでもないだろう。バイオリズムを計算して一喜一憂しているヒマがあったら、その分、仕事なり勉強なりしていた方がはるかにためになる。好調だろうが不調だろうが、その時々でできることをやっていくしかないのである。

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