神経質礼賛 480.平常心是道
今回は平常心是道(へいじょうしんこれみち)という言葉を紹介させていただこう。私の恩師・大原健士郎先生は御著書の中で、これは唐の名僧・南泉禅師の言葉であり、はからいのない、素直な気持ちが取りも直さず人の求める道である、という意味だと解説されている。
一方、禅語を解説した本を読んでみると、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)で言うところの平常心とは、われわれが普段使っている意味とは異なり、「日常の小さな行いもおろそかにしない心」であり、普段の生活での心がけがすなわち「仏の道」である、という意味なのだそうである。
森田療法は禅からきている、と思っている方もおられるかもしれないが、実際には禅でよく使われている言葉を森田先生が自分なりに解釈して用いていたのであって、本来は禅と直接的な関係はない。森田正馬先生は形外会(月1回、患者さんや雑誌「神経質」の読者が集まる会)で次のように述べておられる。
かつて弁護士で・心悸亢進発作の患者があった。その人は十余年来、禅をやり、公案を百も通過したとの事である。「平常心是道」という事は、この人から初めて聞いた。この患者が、家で座禅する時には、直ちに「平常心是道」になるが、電車の中で発作の起こった時には、その平常心になれないとの事である。その時に早速私はいった。平常心という文字から察すれば、それは自然の心という意味ではないだろうか。死は恐ろしい。電車の中で、今にも死にはしないかと思う時は、当然不安である。そのあるがままの心が、すなわち平常心ではあるまいか。すなわち電車の中で、その恐怖心そのままになりきって、あるいは逃げ出したり・交番に駆け込んだりしないで、じっと忍受していれば、そのまま発作は経過して、苦悩は雲散霧消する。これが「平常心是道」であって、すなわち心悸亢進発作はたちまちにして全治するといって教えたけれども、その人はよく理解ができなかったのである。こんな風の事は、私は神経質の発作性症状の心理から類推して、禅の語を解釈する事ができるかと思う。この故に禅の修業や、その方の説得のみをもって、神経質を適切に治すという事はできないが、私の療法は、それなどとは全く関係なしに、直す事ができるのである。 (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.388)
今で言うパニック障害に対する対処法である。この人の場合は平常心になろうと「はからう」がために平常心になれなかったわけであり、森田先生の指導に従ってジタバタせずに発作の恐怖を受け止めた人は良くなっていった。森田先生の言われる「平常心」は明らかに私たちが使っている意味である。対人恐怖の人の場合で言えば、人前で緊張し、ドキドキし、赤面するが、そのありのままが平常心であって、そこで逃げ出さずに踏みとどまって、必要なことを話していけば何とかなる、それが平常心是道ということになる。
よく言われる「あるがまま」も「平常心」と同様で、なろうとしてなれるものではない。不安があっても行動しているうちに自然と「あるがまま」「平常心」になっているものである。大切なのは理屈ではなく行動である。
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