神経質礼賛 510.大原健士郎先生
去る1月24日、私の恩師、大原健士郎先生が亡くなられた。享年79歳。膀胱がんの再発による多臓器不全だった。大原先生は森田正馬先生と同じ高知県の御出身。慈恵医大で森田先生の高弟・高良武久先生に師事し、自殺、うつ病、森田療法の研究で業績をあげ、浜松医大精神神経科教授になられた。神経症ばかりでなく精神科の入院治療全般に森田療法を応用され、「浜松方式」「ネオモリタセラピー」と呼ばれていた。研究・治療・教育ばかりでなく、数多くのエッセイを書かれ、NHKでTVドラマ化(1992年9月15日放送「家族」)もされた。また、メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男さんとともに中国をはじめ世界中に森田療法を広める活動をされていた。
私が研修医として入局した時には、もう60歳を過ぎておられた。医局員たちにとっては怖い「カミナリ親父」でもあった。月曜日朝の教授回診はいつも修羅場だった。患者さんを前にして、質問に答えられないと、カルテで頭を叩かれる医師もいた。「もうダメ。助けて」というメモを残して逃げ出した医師もいた。水曜日朝のケーススタディがもう一つのヤマ場だった。プレゼンテーションする研修医に次々と鋭い質問が繰り出される。往生していると、オーベン(指導医)の助手も「お前は見殺しにする気か」「何で助け舟を出さないんだ」と絞り上げられた。しかし、御自分が誤ったことを言ったのに気付かれた時には、相手が研修医であっても頭を下げて謝られた。学問には厳しかったが、大変な人情家でもあり、「おれたちは家族」の言葉通り医局員の健康や家庭の事情を心配して下さる先生だった。先生は教授室の椅子よりも医局のソファを好まれた。朝6時に医局に入ると、ソファでタバコを吸いながら新聞を読んでおられたり、万年筆で原稿を書いておられたり、時には仮眠をとられたりして、「おう、元気か」「子供さんはどうだね」などと気さくに声をかけて下さった。大原先生が定年退官されるまでの間、私は大学助手として、森田療法の実務を担当させていただいた。毎年発行される医局年報には教授以下医局員たちのエッセイが載せられる。ある時、「お前のエッセイ、無断借用したぞ」と笑いながら御著書を下さった。先生の名文の中に、確かに数行私が書いた下手な文があり、大変光栄に思った。定年退官される際、後任の教授は大原先生が推薦した助教授が上がれず、てんかんの専門家である福島県立医大の先生が新教授となった。大原先生にとっては断腸の思いだっただろう。よくある医学部の「掟」で、当時の助教授以下スタッフの大部分は大学を去って行き、森田療法も大原先生の築き上げたものとは別のものに変わっていった。しかしながら定年退官後もかつての医局員が院長をしている病院やクリニックで診療を続けられ、執筆・講演活動も続けられていた。私が最後にお会いしたのは一昨年の秋のこと、後輩が開業したクリニックで大原先生の講演会があった時だった。講演の始まる前に私を呼ばれ、10分ほど話されただろうか。白髪の増えた私に「相変わらず好青年してるなあ」と笑顔でおっしゃった。昨年秋には入院されて一時危篤との報が流れたが、その後は情報もなかったので回復されたものとばかり思っていた。
一昨日、冷たい雨の降りしきる中、大原先生の葬儀が行われた。かつて医局員の大部分が集まる場は初夏の新入医局員歓迎会と忘年会だった。そしてその最後の〆はいつも「今日の日はさようなら」の歌と決まっていた。「お前が指揮しろ」と仰せつかったものだ。歌の最後のリフレイン「♪また会う日まで」が葬儀の場というのは何とも悲しい。会場の壁全面に関連病院からの生花スタンドが隙間なく並び、外の壁にもあふれていた。花を愛し、花言葉にまつわるエッセイを多数書かれた先生に似つかわしかった。先生と二人三脚で森田療法普及の旅をされた岡本常男さんもみえていた。途中で現在の浜松医大学長も現れた。ただ、参列者は全部で60名ほどだったろうか。大原先生の恩顧を受けても、現在の教授と関連がある人の姿はなかった。これも医学部の「掟」なのだろう。神式の葬儀が一通り終わり、最後のお別れでお棺に花を供えて拝んだ時には思わず涙があふれ出た。かつての医局員たちは大学教授や大病院の院長になったり大きなクリニックを開業したりしている。私は不出来な弟子で、この年になっても一介の勤務医に過ぎない。私にできることは、死ぬまで一人の臨床医としての職務を全うすることと、森田療法を少しでも多くの人に知ってもらうよう努めることだとあらためて思う。
大原健士郎先生の御冥福を心からお祈り申し上げます。
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