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2010年6月28日 (月)

神経質礼賛 560.煩悶即解脱(煩悩即菩提)

 森田正馬先生の言葉の中には仏教とりわけ禅で使われる言葉がある。解脱とか煩悩とか菩提といった言葉が並ぶと、「森田療法は禅から出ている」といった誤解を受けやすいが、禅の言葉を引用して患者さんたちの指導をされていたのであって、宗教的な意味はない(135話「禅と森田療法」参照)。煩悶イコール解脱というのはおかしいじゃないか、と感じられるであろうが、心に悩みがあっても、それから逃れようとせずに向き合って悩んでいるうちにいつしか煩悶は薄れていき道が開ける、といった意味なのである。森田先生は患者さんたちの前で次のように言っておられる。

 今日は「煩悩即菩提」という問題が出ましたが、これは「煩悩即涅槃」「煩悶即解脱」「雑念即無想」「矛盾即統一」「諸行無常即安心立命」「強迫観念即安楽」「着物が重い即無一物」「火も亦涼し」とかいうのは皆これと同様である。

 これは理屈は難しかろう。仏教では、どんな風に説明するか知らないけれども、体験ではなんでもない事ですぐわかる事です。要するに煩悩とは物の燃焼という風に、心の拮抗作用における葛藤の現象を客観的に名付けた言葉であって、菩提とはその苦悩も熱いという事も感じないという無関心の状態を主観的に名付けたものである。

 しからば何故にこの様な矛盾した難解の文句が必要かというと、人に教えるために、この様な言葉を用いれば、最も手っ取り早いという訳である。すなわち煩悩・強迫観念・その苦痛そのままでよし、徹底的に苦しめ、しからばそのままに解脱して安楽になるぞ。火は熱い、水は冷たい、あるがままに見よ、当然の事とせよ、しからば火もまた涼しくなるであろうと、この様に教えたいために、古人がいったのではなかろうかと、私が盲目蛇で、僭越ながら、私の体験から、このように推察するのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.83

 煩悶は誰にとってもつらいことだ。日常生活を送っていれば悩み事は必ず出てくる。それを追い払おうとすればするほどますます気になってしまう。特に神経質な性格の持ち主は、自分の悩みは特別重いと考えがちで、何とか頭の中から煩悶を払拭したいという気持ちが人一倍強い。

 入院森田療法では絶対臥褥というものがあって、最初の1週間は個室で何もせずに臥床して過ごす。生の欲望が強い典型的な神経症の患者さんでは、3日位すると強い煩悶が出てくる場合が多い。一人で悩みと向き合って考え続けているうちに、やがて「もういくら考えてもしかたがない」「どうでもいいや」という心境に達する。まさに煩悶即解脱である。さらに作業期に入って、他の患者さんたちを通して、悩んでいるのは自分だけではない、悩みのない人生はありえない、誰もが苦しみながら行動しているのだ、という平等観が身についてくると、煩悶はあっても、ないも同然というようになっていくのである。

2010年6月26日 (土)

神経質礼賛 559.ブブゼラ

 昨日のサッカーW杯・日本vsベルギー戦は深夜の試合にもかかわらず御覧になった方もおられるだろう。3-1の快勝での決勝進出に日本中が沸き立った。誰がこの結果を予想しただろうか。予選が始まる前、対外試合は連戦連敗。岡田監督はさんざんマスコミに叩かれた。ファンたちからも辞めろコールを浴びせられた。予選の相手はどこも日本より格上で1勝もできないだろうと見られていた。おそらく岡田監督は心の中に白装束をまとい敵将と刺し違えるくらいの捨身の覚悟で予選に臨んだのだろう。命がけの背水の陣である。それが選手たち一人一人にも伝わって奇跡を呼んだのかもしれない。そして「一発かます」の言葉通りになった。

 今回の大会では強豪のフランスやイタリアなどが番狂わせの予選敗退を喫したり、大会用のボールにクセがあってキーパーの取りこぼしや確実と思われたシュートがはずれたり、ということがあったが、何と言っても、観客のブブゼラが特徴といってよいだろう。

 ブブゼラは民族楽器から派生したもの、という説があるようだが、ハッキリしない。笛のように音の高さを調整する穴はないし、トランペットのようにピストンがないので単音しか出ない。もっともトランペットの名手なら、唇の具合と息の吹き込み具合で倍音のド、ミ、ソ、ドの系列が出せるかもしれない。管の長さで音の高さが違うわけだが、複数のブブゼラが鳴っていると、微妙な周波数のズレで差の周波数成分の「うなり」が出るので、まるでハエの大群が飛び交っているような耳障りな音になるのである。

 かなり大きな音が出るので、試合にも影響が出る。審判のホイッスルや監督の指示が聞こえない、というようなことにもなる。また、近くで吹かれたら、耳を傷めて難聴になる心配もある。外国の放送局ではブルゼラの音域の音をカットして放送しているところもあるという。神経質人間から見ると、ブブゼラはどうもよろしくない存在である。

 TVニュースによれば、中国はブブゼラ特需に沸いているのだそうだ。零細な町工場が手作業で作っていて、いいお金になるのだそうだ。さすがコピー大国である。南アフリカに出回っているブブゼラの9割が中国製との話もある。

 先週日曜の夕方、近所でブブゼラの音がするようになった。どうやら同じ町内にあるサッカーショップが売り始めたらしい。正直言ってあまり流行ってほしくないものである。

2010年6月25日 (金)

神経質礼賛 558.大疑ありて大悟あり

 前話で症状に悩み苦しんだ日々も決してムダではなく必要なことだったのだ、ということを書いた。それを表す言葉に「大疑ありて大悟あり」というものがある。

 この神経質の徹底的という事が、最も有難いところである。昔から釈迦でも、白隠でもその他の宗教家でも、哲学者でも、皆徹底的に苦しみ抜いた人ばかりである。少しも煩悶し苦労した事のない人にろくな人はない。

 ここでも、倉田氏でも佐藤氏でも、徹底的に強迫観念に苦しんだ人である。「大疑ありて大悟あり」で、その人は必ず、生来立派な人間であって、それが悟って成功したのである。この点から諸君は、ただ私のいう事を丸のみに聞いて、徹底的に苦しむべきを苦しみさえすれば、それで万事が解決するのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.82

 劇作家の倉田百三(1891-1943)21歳の時に肺結核にかかり、一高を中退。結核はしだいに全身を蝕み、結核性の関節炎や骨盤・左手のカリエスを引き起こす。さらに実家が事業に失敗し、家族が次々に亡くなる不幸が続いた。入院中に世話をしてくれた看護婦と恋仲になり、子供が生まれたが結婚できないということもあった。それに加えて重度の神経症に苦しむ様子は、「神経症の時代」(TBSブリタニカ発行:渡辺利夫著)に詳しく書かれている。彼は自然と人生の「観照」に情熱を燃やしていたが、完璧に観照しようとしているうちに突然観照することができなくなった。「はからうな、あるがままにあれ」と念仏のように唱えてもダメだった。そうしているうちに不眠症が出現して京都済生病院で絶対臥褥療法を受けて改善した。次には耳鳴りがひどくなり、三聖病院で絶対臥褥療法を受けて改善した。しかし、見るものが回転する「回転恐怖」、物事を組み合わせてみないと気が済まない「連鎖恐怖」、「いろはにほへと・・・」が頭に浮かぶ「いろは恐怖」といった強迫観念が次々と出現する。そこで日曜日に自宅の藤沢から森田先生の診療所に通い、日記指導を受けることになる。森田先生から、症状は仕方なしとして作品を書き続けるように指示された。森田先生の命を受けて気が進まないままに書いた小説「冬鶯」は秀逸な作品となったという。月1回の形外会にもしばしば出席している。症状を消そうとしているうちは治らなかったものが、森田先生の指導を受け、他の患者さんたちの発言を聞いて、症状を消そうとする努力をやめたところ、ふと気がつけば症状は消散していたのである。そればかりか、仕事や日常生活もはかどるようになっていたのである。

苦しい症状をなくそうと「はからい」続けるか、苦しいまま仕方なしに行動していくかが、大悟に至るかどうかの分かれ道である。

2010年6月21日 (月)

神経質礼賛 557.鋸(のこぎり)の目立て

 今時、鋸の目立て、と言っても若い方々は何のことかおわかりにならないだろう。私が子供の頃は金物屋(この言葉も死語かもしれない)の店頭に、鋸の絵に「目立て」と書いた看板が立っているのをよく見かけたものだ。包丁を研ぐのと同様、切れが悪くなった鋸の刃を切れるようにすることを言う。ということを頭に入れた上で、森田正馬先生のお話を聞いてみましょう。

 今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくとも、平気でひいている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも、木をひいた方が、その時間に、余計に能率があがると思っている。それは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽(こびき)を見たが、鋸の目立てを、一日に三回ばかりもやり、一回に四十分くらいもかかるという事である。素人が考えて、むだな時間が、実は最も大切な時間であるのである。日高君のいう強迫観念の苦悩の年月も、実は心身の試練・目立て・研ぎ方の最も大切な事柄であるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.251

日高君」とは対人恐怖などの症状に悩んで森田先生の治療を受けた人で、京大卒・内務省勤務のエリート公務員である。神経症が治ってからも月1回の形外会に参加し副会長をつとめていたプロの職人は鋸の目立てに十分に時間を使う。一見ムダのように見えて、急がば回れということで、結果的には早くていい仕事ができる。一方、神経質を生かせない人は鋸で早く切ろうと焦るばかりで適切な鋸選びをしないばかりか目立てにまで気が配れない。

そして最後の一文。症状にとらわれ悩んだ苦悩の日々は決してムダではなく、人生上の試練であって鋸の目立てや包丁研ぎのようなもので大切なことだというのである。この言葉は日高さんだけでなくその場に居合わせた人たちの心に強く響いたことと思う。劣等感の強い神経質人間はどうにもならない過去にクヨクヨこだわる。症状に費やしたムダな年月を振り返っては暗澹たる思いにふけるのである。しかし、その年月は決してムダではなく、今これから前進していくために必要なことだったのだ、となれば、大いに癒されるとともに、過去はどうにもならないのだから今ここでがんばっていこう、という気持ちになるはずだ。

森田先生御自身、紆余曲折の人生だった。旧制中学時代は心臓病で二年間ほど薬の治療を受けたが後から思えば神経症だったという。学業成績不良、特に数学が苦手で留年した。最初から医師になろうとしていたわけではなく、電気工学を学んで発明家になろうと思った時期もあった。18歳の時には家出をして友人と上京し、自活しながら勉強しようとしたが脚気にかかって帰郷。中学に復学している。腸チフスに罹ってさらに留年し、旧制中学を卒業した時には21歳になっていた。こうした回り道の経験も森田療法を創出する上でどこかで役に立っていたのだろうと思う。

 私も回り道人生である。そして青少年時代には対人恐怖や強迫観念に悩み続けた。試行錯誤でどうにか自力で切り抜けたのだったが、「あの時ああしておけば」というような思いはいろいろある。しかし森田先生の言葉を読むと、回り道も鋸の目立てだったのかなあ、とも思えてくる。

2010年6月18日 (金)

神経質礼賛 556.サッカー生地

 梅雨に入り、パジャマを夏物に替えた。サッカー生地で、汗をよく吸い取ってくれるので、サラッとした感触が快適である。それでいて適度に保温性もある。サッカー(sucker)とは皺(しぼ)を縞(しま)状に織り出した木綿の織物のことである。おりしもサッカーワールドカップ予選のカメルーン戦で日本がまさかの1勝をあげてサッカーの話題でもちきりなのだが、生地のサッカーとスポーツのサッカーは何か関連があるのだろうか。神経質人間はすぐこういうことが気になって調べたくなる。

しかし、どう調べても国語辞典に書かれている以上の情報は得られなかった。どうやら何も関連はなさそうである。英和辞典を引いてみると、スポーツのsoccerと同音で、suckerは、吸う人(もの)、乳児、吸盤、だまされやすい人といった意味である。水分をよく吸い取る生地だからそう呼ばれるのかなあ、と推測する他ない。

繊維素材はスポツウエアでは重要である。競泳用の水着では開発競争が盛んなのは御存知かと思う。スポーツのサッカーに向いた生地というのがあってもいいかもしれない。選手同士が激しく競り合っている写真を新聞で見ると、相手のウエアを掴んでいることが多い。瞬間のできごとなのでファウルは取られないのだろうけれど、これをやられたら動きにくい。もしウナギの皮膚のような素材のウエアがあったら相手が掴みかかってきてもヌルリとすり抜けられるだろう。そんな生地ができたらスポーツ用サッカー(soccer)生地になるのではないか、と妄想を膨らませる。

2010年6月14日 (月)

神経質礼賛 555.Google神経症

 私が子供の頃、数年に一度、健康保険組合から配布される「家庭の医学」の本が家にあって、それを見ては重大な病気になったらどうしよう、と恐れたものである。特に子供心に強く印象に残っているのは「バンチ氏病」(Banti症候群:血液疾患などのため巨大な脾腫をきたす疾患群)の挿絵で、異様に腫れ上がった腹部が描かれていて恐ろしかった。

 今では医学書がなくてもインターネット上に医学情報があふれていて、専門医が発信する情報や闘病中の患者さんが発信する情報などを容易に入手することができる。居ながらにして貴重な情報が得られるのはすばらしいことではあるが、ネット上の情報は玉石混交であり信頼度が乏しい誤った情報も流れていることがあるので注意が必要である。病名を知らなくてもGoogleで検索すればいろいろな病名がヒットするので、それで自己診断をする人もいる。外来初診の人に受診した理由を尋ねると、「ネットで調べたらうつ病だったから」という人も最近は珍しくない。そういう人が本物のうつ病であることは少ない。

 特に精神科では、本人が感じている自覚症状と他覚的・客観的所見とが大きく乖離していることは珍しくない。例えば、本人が強い不眠を訴えても、家族の話ではよく眠っているとか、単に昼寝などで睡眠パターンが崩れているだけのこともよくある。Google検索で病気について調べまくっては自己診断する「Google症」が話題になっているが、「Google神経症」とでも言った方がよさそうな人もいる。疾病恐怖の傾向がある人が病気の検索を始めたら、重大な病気がどれもこれも該当するような気がしてしまうだろう。

 森田正馬先生は次のように言っておられる。

 神経衰弱(神経症)の患者は、其病を重いやうにいつてやれば、却て悦ぶ。医者が身を入れて・骨を折つて治療してくれるかと思ふ所為でもあらう。之に反して軽いやうにいへば、軽卒に診断されるかと思って、甚だ不機嫌である。若し之を病氣でないと、真実の事を患者に告白するとすれば、以ての外である。(白揚社:森田正馬全集 第6巻 p.173

 いつまでも重大な病気だと思い込んで病気探しを続けているのは時間がもったいない。もっとやるべきことはいくらでもあるはずだ。どうしても心配であるのならば、Google上をグルグルしていないで専門医を一度受診してみたらよい。

2010年6月11日 (金)

神経質礼賛 554.α-リポ酸(チオクト酸)

 厚生労働省からα-リポ酸を含む健康食品について注意を喚起する文書が回ってきた。ビタミン様物質α-リポ酸(チオクト酸)は医薬品という扱いであったが、2004年からサプリメントとして販売されることが認められるようになった。手持ちの南江堂「今日の治療薬2010」によれば医薬品チオクト酸アミドは還元型解毒薬に分類され、その適用は、激しい肉体疲労時にチオクト酸の需要が増大した際の補給・Leigh症候群・中毒性及び騒音性内耳性難聴となっている。

 ところが、そのα-リポ酸がダイエット効果を謳ったサプリメントとして流通しているというのである。それを摂取した人の中で自発性低血糖症をきたした例が報告されている。幸い死亡例はなかったようだが、高いお金を出して買った健康食品で健康を損なうようではお話にならない。

 さらに厚生労働省・日本医師会から「健康食品による健康被害の未然防止と拡大防止に向けて」という12ページのパンフレットが配布された。これは実によくまとめられていて、医療機関だけでなく学校や事業所などにも広く配布して注意を喚起するといいのではないかと思う。 クロレラによる皮膚炎、ゲルマニウムによる腎機能障害、中国製ダイエット茶による肝障害などは新聞にも出て御存知の方も多いだろう。しかし、天然成分の健康食品なら大丈夫だろうと思ったら大間違いである。配布されたパンフレットによれば、今はやりのウコンは胆石症のある人では病状を悪化させることがあるし、アロエは腸の疾患がある人では病状を悪化させることがある。朝鮮ニンジンも女性ホルモン様作用のために乳ガン・子宮ガン・卵巣ガン・子宮筋腫を悪化させることがあるという。

 心配性の神経質人間の場合、安易に健康食品に飛びつくことは少ないとは思うが、「安全な天然成分」などと言われるとつい手を出す人もいるかもしれない。効果ばかりでなく問題点についても調べてみることである。特に持病のある人はまず主治医に相談してからにした方がよい。

2010年6月 7日 (月)

神経質礼賛 553.シューベルトの「魔王」

 NHKで「名曲探偵アマデウス」という45分番組がある。探偵事務所を開いている天出臼男が助手の響カノンとともに名曲にまつわる難事件(?)を解決していくというバラエティ番組である。ドタバタ劇はクラシック音楽に詳しくない人でも楽しめるし、演奏家や研究家による曲の分析があるのでクラシック通にとってはとても参考になる。

 最近、ビデオ録画しておいて見たのはフランツ・シューベルト(1797-1828)作曲の「魔王」だった。これはシューベルトの楽譜で最初に出版された作品番号1番で、ゲーテの詩に作曲した18歳頃の作品である。中学1年の音楽鑑賞にあった曲なので覚えておられる方も多いと思う。嵐の夜、馬を走らせて家へと急ぐ父親。馬が疾走する様子と緊迫感を表現する左手のオクターブ3連符の連続はピアノ伴奏者泣かせの難物で、シューベルト自身は弾けなかったという。巧みな転調でストーリーを盛り上げていく。息子には魔王が猫なで声で「こっちへおいで」と誘いかける。息子は父親に不安を訴えるが父親には魔王の声は聞こえない。歌の音域は少しずつ高くなっていき、息子の訴えは悲鳴になっていく。ついに魔王は力ずくで息子の命を奪い、家に着いた時には息子の息は絶えていた・・・。演劇で言えば父親役・子供役・魔王役・「地の文」朗読と四役を一人でこなすわけだから、歌手にとってはやりがいのある曲だろう。エルンストによるヴァイオリン無伴奏編曲版もあるが、これは伴奏の重音の3連符を弾きながらフラジオレットで旋律を弾くというような超絶技巧があって、私には手も足も出ない。番組では、当時、同じ詩に別の作曲家が作った「魔王」を紹介していて興味深かった。画面に映った楽譜の作曲者名はコローナ・シュレーターとなっていた。何と長調で書かれていて、短い旋律の単純な繰り返しなのだ。雰囲気は「ローレライ」の歌に似ている。ゲーテは最初、シューベルトの曲を評価しなかったという。作詞家・なかにしれいさんによれば曲が詩に勝ってしまっているからだろう、とのことである。

 私は中学の音楽の時間にこれを聴いて(短い曲だから何度も聞かせられた)、正直言って恐ろしくて嫌な曲だと思った。歌曲王と言われたシューベルトの名歌曲と言えば、「野ばら」や「ます」や「冬の旅」の中の「菩提樹」などいくらでもある。何も中学生にこんな不気味な死の音楽を聞かせなくてもいいのに。

 シューベルトは31歳の若さで腸チフスのため急死している。歌曲ばかりでなく「未完成」「ザ・グレート」など全9曲(以上)の交響曲や室内楽曲を残している。死後に出版され初演された曲も多い。生活は極めて貧しかったが、とてもよい友人たちに恵まれた。泊まる場所やピアノを練習する場所を提供してくれたり、食物を分けてくれたり、五線紙代をカンパしてくれたりした。シューベルトは循環気質で躁鬱傾向があったようだ。梅毒にかかっていたとも言われている。

 魔王とは何なのだろう。デンマークやドイツの伝承では樹木の精で、死の直前に現れるという。この詩に出てくる子供の場合はインフルエンザのような高熱が出た際の幻覚とも考えられる。いろいろなことが言われているけれども、つまるところ私たちの心の中にある「死の恐怖」ということになるのではないだろうか。

森田正馬先生は死の恐怖について次のように述べておられる。

 死は恐ろし。恐れざらんとするも、得べからず。

 得がたき欲望は、あきらめられず。あきらめらるゝものは、そは欲望にあらざるなり。

 死の恐れになりきる時、そこに生死の意識を離れ、欲望其ものに乗りきる時、そこにエヂソンの生じ、ムツソリニーの現はるべきなり。

 死を恐るゝは、生きたきがためなり。生きんがためにこそ、死をも忘る。生きる欲望なきもの、何ぞ死を恐るゝの用あらんや。 (白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.427)

<注:当時の日本ではムッソリーニは立志伝中の「偉人」だった>

 死の恐怖は生の欲望と表裏一体のものである。ボケてしまえば死の恐怖も生の欲望ともどもなくなる。死の恐怖におびえながらも生の欲望に沿って生き尽していくほかない。

2010年6月 4日 (金)

神経質礼賛 552.デッドライン

 毎日新聞日曜版には心療内科医・海原純子さんの「一日一粒 心のサプリ」という連載コラムがある。530日の話題は「デッドライン」で日米の学生の締め切りに対する感覚の違いが書かれていた。日本の学生の場合、レポートの提出期限はなかなか守られず、「家に忘れてきた」などといった言い訳で済んでしまう。しかしアメリカでは期限は絶対で言い訳は通らないそうである。日本式の「ものわかりの良さ」が国際社会のコミュニケーション不全の引き金となる可能性を指摘している。また、H首相の普天間問題でのデッドラインに関する意識をチクリと批判している。

 ほぼ単一民族国家だった日本では、少しくらい遅れても察してくれるだろう、という「甘え」の意識がある。法律でさえ「情状酌量」がまかり通る。その点、アメリカは多民族国家で、宗教や価値観がまるで違う人々が一緒に暮らしている。他人の事情を察することは困難であり、だからこそ契約というものが重んじられてきたのだろう。

 デッドラインとは新聞・雑誌などの原稿の最終締切期限のことで、それを過ぎたらどんなすばらしい記事を書き上げたとしても価値がなくなる。その日の新聞やその号の雑誌には載せられず、他社に負けてしまうことになるのだ。新聞や雑誌に限らず、仕事には納期というものがつきもので、納期に間に合わなければ信用を失うことになる。当然お金の支払い期限もそうである。

 神経質人間の私は、提出期限とか支払期限とかが非常に気になる。書類の場合、とにかく早めに書いてしまうし、支払期限のかなり前から封筒に現金を入れて用意しないと気が済まない。小心者のおかげで信用を失うリスクは極めて少ない。神経質のおかげで得をしていると思っている。ところが、神経症で治療を受けている人の場合、どうもデッドラインにだらしない人をよく見かける。森田療法の入院患者さんで毎日の日記の提出時刻が守れない人もいる。自分の症状にばかり注意がいってしまい、周囲に注意が払われていないためである。神経質が生かせるようになってくるとデッドラインが守れるようになり、「症状」も消散するのである。

2010年6月 2日 (水)

神経質礼賛 551.T字カミソリ

 私が普段使っている物(ヴァイオリン・ヴィオラを除いて)の中で一番古いのはT字カミソリのホルダーだろう。高校生になった頃にヒゲが気になりだして、何を買ったらいいかわからなくて父が使っていたものに似ているのを買った。両刃カミソリをセットして使うものだ。それ以来長年にわたり、当直の日を除いて毎朝使っている。刃は1ヶ月くらい使っているとキレが悪くなってくるので、気になったら取り替える。こんな調子だから10枚入りの刃を買ってくれば1年近くもつ。

 今では私と同年代の人たちでも電気カミソリを使っている人が多いだろう。勤務先の病院に入院している患者さんたちは老若を問わず全員が個人用の充電式電気カミソリを使っている。ナースステーション内に充電中の電気カミソリが並んでいる様は壮観(?)である。精神科なので、万一の「事故」防止のためにそういうことになっている。

 電気店やホームセンターには実に多くの種類の電気カミソリが売られている。交流式、充電式、バリカン機能付のものなど種類は様々で、刃の種類も実に多岐にわたり、値段もピンからキリまである。初めて買う人は迷うだろうなあ、と思う。また、替刃の入手も大変ではないか、と心配してしまう。

 確かに電気カミソリは手軽で便利である。朝、車のハンドルを片手で握りながら電気カミソリでヒゲを剃っている人を時々見かけるが、そういう神経質の足りない運転は危ない。出勤直前の忙しい時間帯にT字カミソリで慌てて剃ると、剃り残しがあったり、時には切り傷を作ってしまったりする。だから、朝起きてすぐ、気持ちを落ち着けて神経質に剃るようにしている。これからも元気なうちはずっと同じT字カミソリホルダーを使い続けることだろう。

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