神経質礼賛 560.煩悶即解脱(煩悩即菩提)
森田正馬先生の言葉の中には仏教とりわけ禅で使われる言葉がある。解脱とか煩悩とか菩提といった言葉が並ぶと、「森田療法は禅から出ている」といった誤解を受けやすいが、禅の言葉を引用して患者さんたちの指導をされていたのであって、宗教的な意味はない(135話「禅と森田療法」参照)。煩悶イコール解脱というのはおかしいじゃないか、と感じられるであろうが、心に悩みがあっても、それから逃れようとせずに向き合って悩んでいるうちにいつしか煩悶は薄れていき道が開ける、といった意味なのである。森田先生は患者さんたちの前で次のように言っておられる。
今日は「煩悩即菩提」という問題が出ましたが、これは「煩悩即涅槃」「煩悶即解脱」「雑念即無想」「矛盾即統一」「諸行無常即安心立命」「強迫観念即安楽」「着物が重い即無一物」「火も亦涼し」とかいうのは皆これと同様である。
これは理屈は難しかろう。仏教では、どんな風に説明するか知らないけれども、体験ではなんでもない事ですぐわかる事です。要するに煩悩とは物の燃焼という風に、心の拮抗作用における葛藤の現象を客観的に名付けた言葉であって、菩提とはその苦悩も熱いという事も感じないという無関心の状態を主観的に名付けたものである。
しからば何故にこの様な矛盾した難解の文句が必要かというと、人に教えるために、この様な言葉を用いれば、最も手っ取り早いという訳である。すなわち煩悩・強迫観念・その苦痛そのままでよし、徹底的に苦しめ、しからばそのままに解脱して安楽になるぞ。火は熱い、水は冷たい、あるがままに見よ、当然の事とせよ、しからば火もまた涼しくなるであろうと、この様に教えたいために、古人がいったのではなかろうかと、私が盲目蛇で、僭越ながら、私の体験から、このように推察するのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.83)
煩悶は誰にとってもつらいことだ。日常生活を送っていれば悩み事は必ず出てくる。それを追い払おうとすればするほどますます気になってしまう。特に神経質な性格の持ち主は、自分の悩みは特別重いと考えがちで、何とか頭の中から煩悶を払拭したいという気持ちが人一倍強い。
入院森田療法では絶対臥褥というものがあって、最初の1週間は個室で何もせずに臥床して過ごす。生の欲望が強い典型的な神経症の患者さんでは、3日位すると強い煩悶が出てくる場合が多い。一人で悩みと向き合って考え続けているうちに、やがて「もういくら考えてもしかたがない」「どうでもいいや」という心境に達する。まさに煩悶即解脱である。さらに作業期に入って、他の患者さんたちを通して、悩んでいるのは自分だけではない、悩みのない人生はありえない、誰もが苦しみながら行動しているのだ、という平等観が身についてくると、煩悶はあっても、ないも同然というようになっていくのである。
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