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2010年6月21日 (月)

神経質礼賛 557.鋸(のこぎり)の目立て

 今時、鋸の目立て、と言っても若い方々は何のことかおわかりにならないだろう。私が子供の頃は金物屋(この言葉も死語かもしれない)の店頭に、鋸の絵に「目立て」と書いた看板が立っているのをよく見かけたものだ。包丁を研ぐのと同様、切れが悪くなった鋸の刃を切れるようにすることを言う。ということを頭に入れた上で、森田正馬先生のお話を聞いてみましょう。

 今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくとも、平気でひいている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも、木をひいた方が、その時間に、余計に能率があがると思っている。それは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽(こびき)を見たが、鋸の目立てを、一日に三回ばかりもやり、一回に四十分くらいもかかるという事である。素人が考えて、むだな時間が、実は最も大切な時間であるのである。日高君のいう強迫観念の苦悩の年月も、実は心身の試練・目立て・研ぎ方の最も大切な事柄であるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.251

日高君」とは対人恐怖などの症状に悩んで森田先生の治療を受けた人で、京大卒・内務省勤務のエリート公務員である。神経症が治ってからも月1回の形外会に参加し副会長をつとめていたプロの職人は鋸の目立てに十分に時間を使う。一見ムダのように見えて、急がば回れということで、結果的には早くていい仕事ができる。一方、神経質を生かせない人は鋸で早く切ろうと焦るばかりで適切な鋸選びをしないばかりか目立てにまで気が配れない。

そして最後の一文。症状にとらわれ悩んだ苦悩の日々は決してムダではなく、人生上の試練であって鋸の目立てや包丁研ぎのようなもので大切なことだというのである。この言葉は日高さんだけでなくその場に居合わせた人たちの心に強く響いたことと思う。劣等感の強い神経質人間はどうにもならない過去にクヨクヨこだわる。症状に費やしたムダな年月を振り返っては暗澹たる思いにふけるのである。しかし、その年月は決してムダではなく、今これから前進していくために必要なことだったのだ、となれば、大いに癒されるとともに、過去はどうにもならないのだから今ここでがんばっていこう、という気持ちになるはずだ。

森田先生御自身、紆余曲折の人生だった。旧制中学時代は心臓病で二年間ほど薬の治療を受けたが後から思えば神経症だったという。学業成績不良、特に数学が苦手で留年した。最初から医師になろうとしていたわけではなく、電気工学を学んで発明家になろうと思った時期もあった。18歳の時には家出をして友人と上京し、自活しながら勉強しようとしたが脚気にかかって帰郷。中学に復学している。腸チフスに罹ってさらに留年し、旧制中学を卒業した時には21歳になっていた。こうした回り道の経験も森田療法を創出する上でどこかで役に立っていたのだろうと思う。

 私も回り道人生である。そして青少年時代には対人恐怖や強迫観念に悩み続けた。試行錯誤でどうにか自力で切り抜けたのだったが、「あの時ああしておけば」というような思いはいろいろある。しかし森田先生の言葉を読むと、回り道も鋸の目立てだったのかなあ、とも思えてくる。

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コメント

僕も高校時代、大学時代に不安神経症に悩まされましたが、確かに記事に書いておられるように「鋸の目立」をせずに、必死にそしてがむしゃらに物事に取り組んでいました。
もう少し心に余裕があれば「鋸の目立」を思いついていたかもしれません。
劣等感・コンプレックスに悩み苦しんでいた高校・大学時代は今となれば懐かしい気がします。
今も神経質ではありますが、森田先生の教えを十分に理解しておらず、行動に移せていないところが僕のいたなぬところかもしれません。
昔、森田先生の本を何回か読みましたが、もう一度読み直してみたいと思っています。

スローライフ様

 コメントいただきありがとうございます。

 私小説としてお書きになったスローライフ様の高校・大学時代は、私に比べたら何十倍も苦しい中、時には自暴自棄になりながらも必死に切り抜けて来られて、素晴らしいことだと思いました。その「目立て」で御自身を磨かれて、現在があるのだと思います。

 森田先生の本は時間が経ってから読み直してみると、いつも新たな発見があります。言葉だけで表面的にしか理解できなかったのが、長い年月の体験から深い理解ができることもあります。ぜひ機会がありましたら、もう一度読まれるとよろしいかと思います。大阪駅近くのメンタルヘルス岡本記念財団の図書室には森田療法関係の図書が多数所蔵されていますので、のぞいてみられてはいかがでしょうか。

 私も「目立て」に年月を費やしましたが、もうちょっと真剣に鋸を引かなくては、と反省するばかりです(笑)。

職人は道具を大切にするといいます。わたしも陶芸をやっていた時には、気に入った同じ道具でしか上手く作れない経験をして学びました。道具も使い込むと身体と一体化していきます。人馬一体という言葉もありますね。
とらわれている状態では、心そこにあらずであり身体は動かしていても有効な動かし方ができないものです。神経質人間は本質が分かるまでは要領の悪さから遅れをとることもありますが、それが体得できるほどになれば生来の気質で大きな仕事を成しえることになると思います。一か八かといった生き方はできないですね。

春之介 様

 コメントいただきありがとうございます。
 陶芸とはすばらしい御趣味をお持ちですね。神経質がとても活かせそうな気がします。
 道具の性能を最大限引き出していい仕事をする・・・まさに「物の性(しょう)を尽くす」ですね。道具と身体が一体化するまでいけば最高です。神経質人間は「重い車」のたとえの通りスロースターターで時間がかかりますが、一旦動き出せば粘りがきくのが取り柄です。おっしゃる通り、一か八かの一発勝負は苦手で、野球で言えばしぶとくフォアボールを選んで送りバントで一点ずつ取っていくのが神経質の持ち味だと思います。

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