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2010年8月30日 (月)

神経質礼賛 580.お使い根性

 私を含めて神経質人間は雑用を頼まれると、まず頭の中でどの位手間と時間がかかることだろうかと計算する。そうこうしているうちに、面倒だなあ、嫌だなあという感情が湧いてきて、グズグズすることになる。しかし、実際のところ、あれこれ考えているより手を出して片付けてしまえば何でもないことは多い。それに嫌々やっていると臨機応変の工夫ができないので、行動がムダになることもある。

ギョウザを作っていた妻が「皮を買ってくるのを忘れた!」と言い出す。(お好み焼きを作り始めて「小麦粉が足りない!」バージョンもある。)頼まれる前に先手を打って「じゃあ買いに行ってくるよ」と近くのスーパーへ出掛ける。せいぜい15分くらいで片付くことである。「妻はいつもそそっかしい」とか「さっき仕事帰りにスーパーの前を通ってきたのになあ」などと考えているより体を動かした方が早い。ついでに自分が当直の時に食べるための食品・菓子類も気に入ったものがあれば買ってくる。

 森田正馬先生は言われたことをその通りにしかできないことを、「お使い根性」といってよく注意されていた。

 例えば、「この盆栽に水をやる事を忘れぬように」と注意すれば、同君は「どうも自分は気がつかない、頭が鈍い」という風に、いわれた文句と、自分の都合とばかりを考えて、盆栽の事を見つめようとは少しもしない。すなわち注意された一つの盆栽ばかりへ水をやり、そのほかの水の切れている盆栽へは、水をやる事に気がつかない。また翌日は、もう盆栽も花も自分とは全く無関係である。私はいつもこれを「お使い根性」と称して、「この盆栽に水をやる」という文句だけのお使いをして、盆栽を世話し育てるという事には注意を払わず、すなわち探し求めるという事なしに、ただその指ばかり見ると同様である。これではいたずらに我情にとらわれるばかりで、決して柔順という事の稽古にはならないのであります。(白揚社:森田正馬全集  第5巻 p.186

 神経質人間は概して頭が固いが、水をやるようにと言われると、雨が降っていても平気で水をやるような融通の利かない患者さんが実際にいたようだ。「物そのもの」になっていないというわけである。先生の注意を聞いて、土の乾き具合を見て適度に水をやる、そして盆栽だけでなく他にも気がついたことがあったらどんどん手を出していく。そんな風に周囲に気が配れるようになると、神経症はどこかに行ってしまうのである。そして、神経質が活かせるようになって、仕事も生活もはかどるのである。

2010年8月27日 (金)

神経質礼賛 579.残暑

 8月ももう終わりだというのに、厳しい残暑が続き、各地で真夏日・熱帯夜である。例年、夜はエアコンをつけないのに、今年はガマンできなくてエアコンをつけて寝ている、という外来患者さんの話をよく聞く。病院に出入りしているO製薬のプロパー(営業)さんが言うには、この暑さでポカリスウェットの生産が追いつかず、出荷調整をせざるを得ない状態が続いているのだそうだ。ニュースでも、熱中症による死者が出たことや、コンビニでペットボトル飲料・氷菓・ざるそば・冷やし中華の売れ行きが大幅に伸びているといった話題が目に付く。以前、熱中症の一因としてエアコンの使いすぎなどのため暑さに対する順応が不十分になっているということを書いた(327話:熱中症が増えたワケ)。TVの天気予報でも、熱中症のために救急車が出動するようになる気温が京都では37℃なのに対し、仙台では32℃だ、ということを言っていたので、やはり暑い所では人間の自然適応力で対処できる面があるのだと思う。森田正馬先生は、洞山禅師の禅問答から「寒の時は自分を寒殺し熱の時は自分を熱殺せよ」という言葉を引用され、寒さや暑さはどうにもならない事実であり、そのまま苦痛を忍受していれば、心の葛藤がなくなり、心は周囲の状況に反応して適応するようになり、暑さも疲労も自覚しないようになる、と述べておられる。とはいえこの暑さであるから、水分や電解質を十分に摂取し、炎天下にはムリして出歩かない、といったことにも神経質を向けることは必要である。

 神経質人間としては普段から災害対策としてミネラルウオーター3箱(1箱2リットルボトル6本)以上をストックし、古い順に製氷用にしている。今年は子供がたびたび冷凍庫を開けては氷を口にポイと入れて行くため、例年は夏場に2箱買えば済むところが4箱くらいになりそうだ。今年の夏は、道を歩くのにも、少し遠回りでもなるべく日陰を歩くように気をつけている。信号を待つのも、少し離れていても木陰で待つようにしている。そして、こまめに水分を摂る。加齢とともに干乾びやすくなってきた(?)ので気をつけるようにしている。

2010年8月23日 (月)

神経質礼賛 578.遺伝子検査

 最近の読売新聞の記事に「才能判定?手軽な遺伝子検査、科学的根拠は・・・」と題するものがあった。経済産業省の調査で、遺伝子検査を行う業者が今年2月時点で330あり、クリニックやエステサロンで行われている他、ネット通販されているという。頬の内側の粘膜をこすって採取した細胞のDNAを解析するもので、自宅にいながらにして検査をうけることができる。がんやアルツハイマー病のリスク、生活習慣病のリスクはともかく、中には子供の才能がわかる、というものまである。これは中国の企業が開発したもので、知性、運動、芸術など6能力について評価されるというものだそうだ。ここまで来ると、信憑性が疑われる。

 確かに病気によっては関連した遺伝子がすでに特定されているものもある。病気にかかるリスクが高い場合、生活習慣に気をつけて発病を予防でき、検診を受けることで早期発見できるメリットはある。しかし、多くの疾患は生活習慣や環境などが複雑に関与しているため、まだまだリスクを正確に算出するのは困難なのではないだろうか。ましてや子供の才能ともなると、DNAだけで云々するほど研究データが揃っているとは思えない。それに、勉強・運動・芸術どれを取っても、教育環境や本人の努力の部分が大きいのではないだろうか。

 人間の性格の根本部分は、遺伝的に決定付けられる部分が比較的大きいと考えられる。将来、研究が進めば、DNAから性格がわかるということになるのかもしれない。しかし、性格には生育環境や本人の努力で変化する部分もある。どの性格が優れているということではなく、性格にはそれぞれの長所と欠点があるので、持ち味を生かし、欠点は努力でカバーしていく必要がある。神経質という原石は磨けば立派な宝石になるし、磨かなければただの石ころなのである。

2010年8月20日 (金)

神経質礼賛 577.七色の光の中で・・・喪の仕事

 571話で「北山修最後の授業」について書いた。その後、「きたやまおさむさよならコンサート」という番組もあって、録画しておいて見た。前半は坂崎幸之助さんが「きたやま作品」を次々と歌い、北山さんは司会役だった。このコンサートには本当は加藤和彦さんも参加するはずだったが昨年自殺してしまった。長年の盟友でありライバルでもあった加藤さんをよりによって自殺という形で失ってしまった北山さんのショックは計り知れない(478話:悲しくてやりきれない)。北山さんはインタビューの中で、(加藤さんの)変わり果てた姿すなわち彼がこの世にいないという現実と脳裏に焼きついている彼の笑顔とのギャップに心が引き裂かれる思い<悲嘆反応>が1ヶ月くらい続いたと語っていた。コンサートの終盤で新曲「七色の光の中で」(きたやまおさむ作詞 坂崎幸之助作曲)が披露された。

 歌詞の中では「みんな何でも受け入れるが私は嫌だ」という加藤さんの完全主義ぶりが語られる。「ねえ教えて 本当にお前は自由になったのかい」どうして自殺なんかしてしまったんだろう。そして「七色の光の中で歌う私の傍らにいるはずの笑ってギターかきならすお前がいない」という現実の悲しさ・苦しさ。坂崎さんが最後の歌詞を歌い終えた瞬間、カメラが北山さんに向けられた。北山さんはフーと大きく息を吐き出してから上を向いた。この歌を発表するという「喪の仕事(悲哀の仕事)」を成し遂げて対象喪失を乗り越えた安堵の表情だったのだと思う。

 近親者や親友の死、愛する人との別れ、といった対象喪失は誰の身にも起ることである。

 森田正馬先生の場合、仲の良かった弟・徳弥を日露戦争で失った。徳弥は前年に慈恵医学校3年に編入となり、これから自分と同じ医学の道へ進もうという矢先のできごとだっただけに衝撃は大きかった。森田先生は、東京師範学校の満州への修学旅行に校医として同行し、弟が戦死した旅順の盤龍山を見た。木がない丸山で、射撃に対して身を避ける場所もなく、どんなところでどのように死んだのだろうか想像も及ばない、と述べ、「百千々のますらをの怨み残したる 戦の野辺に咲けるなでしこ」と詠んでいる。

 そして一人息子の正一郎(享年19)を結核で失ったダメージはかなり大きかった。森田先生は正一郎の枕元で号泣し続けた。弟子の高良武久先生の手を握り締め「ボクは死にたいよ」と泣いたかと思うと、今度は机に向かって一心に勉強し、そしてまた泣いては机に向かうということを繰り返したと伝えられている。正一郎が誕生してから亡くなるまでのできごとを「亡児の思ひ出」という本にまとめている。

 さらには森田療法の助手でもあり自分を献身的に看病してくれていた妻の久亥が急死。早朝に森田先生が咳き込むと跳ね起きて背中をさすってくれたのだが、直後に脳溢血を起こして亡くなったのだった。「久亥の思ひ出」という本には久亥が詠んだ短歌355首を収録している。森田先生は「こよなくも我随筆や原稿を めで悦びし妻にもありしか」「吾妻のなし来りたる業をしも 内助の功といふべくあらむ」と詠んでおられる。

 愛する家族を失って深く悲しみながらもやるべき仕事を一生懸命にやっていくのが森田流ではあるけれども、思いを短歌に詠んだり、亡き人の思い出を本にして遺す、という「喪の仕事」を同時に行っておられたのだと思う。

2010年8月16日 (月)

神経質礼賛 576.ドアと引き戸

 病院では医療上の事故だけでなく入院生活上の事故も防ぐように気を配っている。「ヒヤリハット報告」というものがあって、実害はなかったものの危険なケースを報告して情報を共有化し、事故防止に役立てている。生活面では階段や廊下での転倒、ベッドや車椅子からの転落、といったケースが多いが、ドアを開けた時に患者さんに当たりそうになったとか、ドアに体をもたげていた患者さんがいて開けたら倒れ込んできたとかいう経験をした人は少なくない。

 各病室の入口は引き戸になっていて、向こう側に人がいた場合見えるように透明なタテ長の窓になっているからトラブルは少ない。しかし、ナースステーションから廊下に出入りするドアにも半透明の窓はあるものの、車椅子の患者さんが一時停止していたり、足が悪くて壁伝いにゆっくり歩いている患者さんがさしかかっていたりするのがわからないこともあるので、開ける時には通りかかった人にぶつからないよう神経質にソロソロと開ける必要がある。精神科病院ゆえ、通路のあちこちに施錠ドアがあって、これまた開閉には注意が必要だ。防火扉の場合、窓がないので向こう側が見えない。閉鎖病棟からエスケープしようとする患者さんが飛び出してくることもあるので、安全に手早く閉める必要もある。こと安全面からみたら、引き戸の方がドアよりも優れているように思う。

 現代では、一般の住宅も洋風化されて、部屋への出入りはドアという家が多い。しかし、高齢になって生活した時のことを考えたら、かつての和風住宅の引き戸(ふすま)は安全かつ使いやすいのではないだろうか。特に玄関の重いドアは荷物を持っているような時、高齢者にとって開けるは大変だ。引き戸は戸のすべりが適度に保たれる必要はあるが、その点ラクである。引き戸の欠点は閉じている時の気密性や遮音性がドアに比べて劣る点くらいだろうか。

 引き戸(ふすま)は開閉する空間が不要な分、狭い家の中を有効に仕切り、時には開け放すこともできる。開け閉めする時に人に当たって迷惑をかけない点いわば角を立てない点は、他人に気遣う日本人(特に神経質人間)向きである。引き戸の良さをまた見直してみてはどうだろうか。

2010年8月13日 (金)

神経質礼賛 575.退屈な話

 Medical Tribuneという医療関係の新聞に医学散歩というコラムがあり、チェーホフ生誕150年と題した記事の中で、昨年11月に発行された医学関連の中短編小説7篇をまとめた文庫本「六号病棟・退屈な話」(ちくま文庫)のことが書いてあったので興味を持った。気軽に読めそうで意外と手ごわい、じっくり読めば味わい深いが斜め読みや拾い読みは通用せず、ベッドで読めば睡眠薬代わりになること間違いない、しかし妙に安らぐ文体に不思議とまた浸りたくなる、とのことである。

「退屈な話」という言葉で連想したのは、私の若い頃W大近くのグランド坂にあった、「まずい焼鳥 水っぽい酒」という暖簾を掲げた「ひげの九二平(くにへい)」という名店のことだ。まずい、というのはもちろん謙遜である。安くておいしい焼鳥と酒にありつける店で、珍しいドジョウの串焼もあった。私のような貧乏学生でも安心して入れる店だった。次元が低い類推で恥ずかしいが、「退屈な話」というのは「まずい焼鳥」と同様にきっと良いものに違いないと思い、さっそく本を買ってみた。

 前半の短編の5篇はどんどん読めてしまう。情景描写や心理描写が見事で印象に残る作品揃いである。神経質が隅々まで行き届いているように思う。中篇「六号病棟」は、田舎の病院に院長として赴任した医師の話である。最初は熱心に診察していたが、しだいに情熱を失い、診療はなおざりになっていく。平凡な日常生活に飽きた彼は病院の片隅に放置された精神病棟である六号病棟に収容されているインテリ患者に興味を持ち、知的な会話を楽しむようになるが、院長はおかしくなったという噂が立ち、新しく赴任してきた医師の陰謀で院長職を解任され患者として六号病棟に収容されてしまう。病棟から出ようとした彼は兵隊上がりの番人に頭を殴られ、翌日脳出血で死んでいく。自由を失うことの悲惨さが時に滑稽さを交えて語られる。最後の中篇「退屈な話」は老い先の短い解剖学の名誉教授の日常がつづられる。妻と娘とは一緒に暮らしていても心が離れてしまっている。女優になろうとして挫折した養女には振り回されている。死を前にした無力感がよく表現されている。やはり退屈ではない話である。先を読みたい気持ちに引きずられて、結局2日間で1冊を読み終えてしまった。

 アントン・チェーホフ(1860-1904)は苦学してモスクワ大学医学部を卒業して医師となっているが、学生時代から生活費のために短篇小説を書いていた。医師になってからも小説や戯曲を発表し、「三人姉妹」「桜の園」が有名である。結核との闘病生活の末に亡くなっているが、「退屈な話」に出てくる老教授とは正反対に、たとえ1行でも書こうと、「生の欲望」を燃やし続け己の性(しょう)を尽くした人生だったようだ。

2010年8月 9日 (月)

神経質礼賛 574.ミュンヒハウゼン症候群

 外来に新患がやってきた。今まで通院していた精神科病院からの紹介状はすでに開封されており、本人が読んだものと思われる。病名はMunchausen syndromeの疑いとなっている。今までいくつかの病院でトラブルを起こして転医を繰り返したようだ。本人は電動車椅子で入室してきたが、紹介状によれば、一人でスタスタ歩いて受診することもあったという。現在に至るまで数多くの自傷行為のために骨折などの外傷をきたしている。多弁で妙に親しげに話してきて、紹介状は間違って開けてしまったが読んではいない、と主張する。本人の語る生活歴や病歴もどこまでが本当なのかわからない。これは手ごわい。

 Munchausenミュンヒハウゼン(英語読みはマンチョウゼン)症候群の名前は「ほら吹き男爵」に由来する。各地を転々とし、多数の病院に入退院を繰り返し、虚偽の多い劇的な症状や生活史を述べる患者の総称である。病気を作って周囲の関心や同情を引こうとする心理が存在する。病院ではしばしば管理上の問題が起り、治療困難例が多いとされている。(弘文堂:新版精神医学事典より)

 小児科領域では「代理ミュンヒハウゼン症候群」が最近のトピックスになっている。入院中の自分の子供の点滴に汚水を加えて細菌感染で死亡させた母親が逮捕された、という事件があった。母親が子供の尿検体に異物を混入させて治療を混乱させるような事例もあるという。いずれも献身的な母親を演じているため、発見することは困難である。代理、というのは自分以外の身近な人を病人に仕立てあげる場合を言う。

 ヒステリー患者は倒れてもケガをすることはほとんどないが、ミュンヒハウゼン症候群だと本当にケガをする。何が何でも病気になろうというわけだ。それを思えば神経症の症状で本物の病気やケガになることもなければ死ぬこともない。神経症のグチなど「ほら吹き男爵」に比べたら実にかわらしいものである。

2010年8月 6日 (金)

神経質礼賛 573.蝉

 厳しい暑さが続いている。朝から蝉たちの大合唱が聞こえる。仕事帰りに陽がジリジリと照りつけるホームで電車を待っていたら、どこからともなく大きなアブラゼミが飛んできて私のズボンに止まった。思わず振り払ったら、飛び去っていった。ボンヤリとその軌跡を見つめる。近くには木々もない。黒い点は駅舎の屋根を越えて見えなくなった。ちょっとかわいそうなことをしたかな。

 蝉の成虫として生きられる期間は、長い年月幼虫として地中で過ごす期間に比べるとあまりに短い。わずかの間、飛び回り、樹液を吸い、雄は力いっぱい鳴き声をあげ、雌は産卵して果てていく。そうして種が保存されていく。

 ヒトの場合は成人として生きていく期間は長い。しかし、心理的時間はどうだろうか。子供の時は一日がものすごく長く感じたものだ。ところが初老期になってみると一日どころか一ヶ月、いや一年が経つのが本当に短く感じる。邯鄲の夢の故事のように長い人生の有為転変も実は地上での蝉の生活と同じく一瞬のできごとなのかも知れない。そう考えれば不安も緊張も強迫観念も取るに足りないことである。「あらん限りの力で・生き抜かうとする希望・その希望の閃きこそ、『日々是好日』なのである」(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.478)という言葉のように、たとえ境遇に恵まれなくても病気や障害があっても、蝉と同様に精一杯持っている力を出して生き尽くしていくほかはない。

2010年8月 2日 (月)

神経質礼賛 572.森田療法家のスタンス

 前話で精神分析の話が出た。精神分析では治療者と患者さん(クライエント)は対等であるわけだが、私のような門外漢から見ると、患者さんからすれば治療者は秘密のヴェールにくるまれた(託宣をもたらす)神官のような存在ではないだろうかと思ってしまう。

 一方、森田正馬先生の場合、自宅に患者さんを下宿させるような形態の「入院」だったから先生のプライバシーは全部患者さんたちに公開しているも同然だった。夫婦喧嘩も派手にやったという。森田先生はあけっぴろげで、御自分の恥にあたるようなことでも隠しはしなかった。

 例えば、対人恐怖で入院していた(旧制)中学教員の日記には次のようにコメントしている。

 先日僕が前の廣場で小便してゐたら、だしぬけに、巡査から『オイオイぢいさん。いけないぢゃないか。』と叱られた。矢張り氣持は悪い。熱海へ行くと、其邊の子供等が、おぢいさんと呼ぶ。矢張りおぢいさんよりも、先生といはれた方が氣持がよい。しかし、こんな事を、さほどの問題とせずに、無視してゐるだけの事である。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.143

 黙っていればわからないのに、先生が家の前の広場で立小便して「爺さん、いけないじゃないか」と警官に注意された恥ずかしいことをあえて書いたのは、他人の思惑を気にし過ぎる対人恐怖の人に、他人にどう言われようと大した問題ではないのだ、と教えるためである。

 入院患者さんたちにとって森田先生は神経症を克服し神経質を生活に生かす身近なお手本の存在でもあった。赤面恐怖と読書恐怖に悩む帝大文科学生は日記に次のように書いている。

 先生と神経質患者との境は紙一重である。紙一重をへだてゝ、一方は明るい生の欲望に燃え、片方は、暗い死の恐怖に喘いで居る。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.126

 指示的な治療者とそれに従う患者、という師弟関係のような医師・患者関係ではあるけれども、「カミナリ親父」として怖いながら強い親近感があったのだと思う。このスタンスは、森田先生の治療を受けて後に精神科医となった鈴木知準先生や、森田先生の後継者である高良武久先生にも受け継がれた。

 現代の森田療法家はどうだろうか。自分で神経症専門の治療施設を持つことは困難であるから、一般の精神病も診察する精神科クリニックを開業していたり、病院などに勤務していたりする。プライバシーを知りたがる妄想的な患者さんも中にはいるので安易な自己開示はできない。ただ、神経質な性格やそれに伴う「症状」に悩んでいる人に対しては、治療者自身も神経質であり、以前は「症状」に悩んだことを告げた方が、自分ばかり苦しいという差別観に支配されがちな神経質者の歪んだ認知を是正する上で有用だと思われる。

 私はかつてメンタルヘルス岡本記念財団で神経症セミナーの講師をした時に、参加者から「先生は神経症だったんですか?」と質問されて返事に詰まったことがあった。しかし、今なら「若い頃は対人恐怖や強迫観念に悩んだけれども、神経質で良かったと思っています」と躊躇せずに言えるだろう。

2010年8月 1日 (日)

神経質礼賛 571.北山修最後の授業

 7月26日(月)から29日(木)の4夜続けて教育テレビで「北山修最後の授業 テレビのための精神分析入門」という番組が放送された。

 「帰って来たヨッパライ」「悲しくてやりきれない」(478話)などのヒット曲で一世を風靡したザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだった北山修さんは当時医大生だった。グループ解散後も「戦争を知らない子供たち」「あの素晴しい愛をもう一度」「花嫁」などの作詞で知られるが、本業としては精神科医の道を歩んだ。精神分析を専門とし、九大大学院教授となり、今年定年退官となった。

 かつてはテレビに論客として出演していた北山さんはある時から全くテレビに出ることをやめてしまう。治療を受けている患者さん(クライエント)たちが、「自分のことを話すのではないか」と不安に思うことに配慮しての決断だった。北山さんは言う。テレビでは見やすい・見ごたえのあるものが材料になりやすく、当然ウラにあるはずのものは見せない。テレビ的コミュニケーションは「見える」ので空想しない・想像(創造)しない・ウラを読まない、そういった心の在り方を常態化させてしまうのではないかと。それに対して精神分析はウラつまりその人の心の問題を言葉で表出させる治療法だと学生さんたちに説明していた。

 この4回シリーズの番組では2回分の講義のさわりに北山さんの経歴の紹介を加え、作家・重松清との対談がおりまぜられ、最後は別の日に行われたコンサート(坂崎幸之助、南こうせつ、杉田二郎も登場)の様子を紹介していた。北山さん個人に興味のない人でも退屈せずに見られる番組として、またどれか1回だけを見ても全体の内容がわかるように、きれいにでき上がっているけれども、北山さんが批判したようなテレビ番組でもあったかもしれない。とはいえ、精神分析やカウンセリングの基本をわかりやすく説明していたので、一般の方々にも参考になったのではないだろうか。

 精神分析の治療者はクライエントの心を映し出す鏡の役割を果たす。治療者自身のことは俎上に乗せないことで、そこは想像してもらい、クライエントのことを理解するための材料とする(分析家の「隠れ身」)という。この治療者対患者関係はフロイト以来のものだ。フロイトは、クライエントをカウチに寝かせ、自分はカウチに並んだ椅子に座り、お互いに視線を合わせないというスタイルで治療を行っていた。

 フロイトが神経症(ヒステリー)の治療法である精神分析を開発したのと近い時期、わが国では森田正馬先生が独自の神経症の治療法を開発している。森田先生の患者さんに対するスタンスは全く異なる点は興味深いので、次回述べたい。

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