神経質礼賛 580.お使い根性
私を含めて神経質人間は雑用を頼まれると、まず頭の中でどの位手間と時間がかかることだろうかと計算する。そうこうしているうちに、面倒だなあ、嫌だなあという感情が湧いてきて、グズグズすることになる。しかし、実際のところ、あれこれ考えているより手を出して片付けてしまえば何でもないことは多い。それに嫌々やっていると臨機応変の工夫ができないので、行動がムダになることもある。
ギョウザを作っていた妻が「皮を買ってくるのを忘れた!」と言い出す。(お好み焼きを作り始めて「小麦粉が足りない!」バージョンもある。)頼まれる前に先手を打って「じゃあ買いに行ってくるよ」と近くのスーパーへ出掛ける。せいぜい15分くらいで片付くことである。「妻はいつもそそっかしい」とか「さっき仕事帰りにスーパーの前を通ってきたのになあ」などと考えているより体を動かした方が早い。ついでに自分が当直の時に食べるための食品・菓子類も気に入ったものがあれば買ってくる。
森田正馬先生は言われたことをその通りにしかできないことを、「お使い根性」といってよく注意されていた。
例えば、「この盆栽に水をやる事を忘れぬように」と注意すれば、同君は「どうも自分は気がつかない、頭が鈍い」という風に、いわれた文句と、自分の都合とばかりを考えて、盆栽の事を見つめようとは少しもしない。すなわち注意された一つの盆栽ばかりへ水をやり、そのほかの水の切れている盆栽へは、水をやる事に気がつかない。また翌日は、もう盆栽も花も自分とは全く無関係である。私はいつもこれを「お使い根性」と称して、「この盆栽に水をやる」という文句だけのお使いをして、盆栽を世話し育てるという事には注意を払わず、すなわち探し求めるという事なしに、ただその指ばかり見ると同様である。これではいたずらに我情にとらわれるばかりで、決して柔順という事の稽古にはならないのであります。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.186)
神経質人間は概して頭が固いが、水をやるようにと言われると、雨が降っていても平気で水をやるような融通の利かない患者さんが実際にいたようだ。「物そのもの」になっていないというわけである。先生の注意を聞いて、土の乾き具合を見て適度に水をやる、そして盆栽だけでなく他にも気がついたことがあったらどんどん手を出していく。そんな風に周囲に気が配れるようになると、神経症はどこかに行ってしまうのである。そして、神経質が活かせるようになって、仕事も生活もはかどるのである。
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