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2010年8月 2日 (月)

神経質礼賛 572.森田療法家のスタンス

 前話で精神分析の話が出た。精神分析では治療者と患者さん(クライエント)は対等であるわけだが、私のような門外漢から見ると、患者さんからすれば治療者は秘密のヴェールにくるまれた(託宣をもたらす)神官のような存在ではないだろうかと思ってしまう。

 一方、森田正馬先生の場合、自宅に患者さんを下宿させるような形態の「入院」だったから先生のプライバシーは全部患者さんたちに公開しているも同然だった。夫婦喧嘩も派手にやったという。森田先生はあけっぴろげで、御自分の恥にあたるようなことでも隠しはしなかった。

 例えば、対人恐怖で入院していた(旧制)中学教員の日記には次のようにコメントしている。

 先日僕が前の廣場で小便してゐたら、だしぬけに、巡査から『オイオイぢいさん。いけないぢゃないか。』と叱られた。矢張り氣持は悪い。熱海へ行くと、其邊の子供等が、おぢいさんと呼ぶ。矢張りおぢいさんよりも、先生といはれた方が氣持がよい。しかし、こんな事を、さほどの問題とせずに、無視してゐるだけの事である。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.143

 黙っていればわからないのに、先生が家の前の広場で立小便して「爺さん、いけないじゃないか」と警官に注意された恥ずかしいことをあえて書いたのは、他人の思惑を気にし過ぎる対人恐怖の人に、他人にどう言われようと大した問題ではないのだ、と教えるためである。

 入院患者さんたちにとって森田先生は神経症を克服し神経質を生活に生かす身近なお手本の存在でもあった。赤面恐怖と読書恐怖に悩む帝大文科学生は日記に次のように書いている。

 先生と神経質患者との境は紙一重である。紙一重をへだてゝ、一方は明るい生の欲望に燃え、片方は、暗い死の恐怖に喘いで居る。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.126

 指示的な治療者とそれに従う患者、という師弟関係のような医師・患者関係ではあるけれども、「カミナリ親父」として怖いながら強い親近感があったのだと思う。このスタンスは、森田先生の治療を受けて後に精神科医となった鈴木知準先生や、森田先生の後継者である高良武久先生にも受け継がれた。

 現代の森田療法家はどうだろうか。自分で神経症専門の治療施設を持つことは困難であるから、一般の精神病も診察する精神科クリニックを開業していたり、病院などに勤務していたりする。プライバシーを知りたがる妄想的な患者さんも中にはいるので安易な自己開示はできない。ただ、神経質な性格やそれに伴う「症状」に悩んでいる人に対しては、治療者自身も神経質であり、以前は「症状」に悩んだことを告げた方が、自分ばかり苦しいという差別観に支配されがちな神経質者の歪んだ認知を是正する上で有用だと思われる。

 私はかつてメンタルヘルス岡本記念財団で神経症セミナーの講師をした時に、参加者から「先生は神経症だったんですか?」と質問されて返事に詰まったことがあった。しかし、今なら「若い頃は対人恐怖や強迫観念に悩んだけれども、神経質で良かったと思っています」と躊躇せずに言えるだろう。

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