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2010年9月27日 (月)

神経質礼賛 590.屁理屈

 森田正馬先生のところには、著書を読んだ人からアドバイスを求める手紙がしばしば届いた。その中には、自分以外の人について相談するものもあった。

 相談者の友人は28歳事務員。人を訪問したり社長と話をする時に、顔面がふるえ、思うことが言えない、自分は世界一の不幸者だと泣いて訴える、結婚問題を恐れ、儀式ばった三々九度はできないから、いっそカフェーの女給と一緒になっちまおうと言う。気の小さい友人を救って下さい、という手紙だった。

 それに対して森田先生は次のように回答している。

 出世したいといふ事を忘れて、課長の前で恥かしがり、立派な妻を獲たい事を失念して、下等の女を楽に弄ばんとする等は、皆自分の心底の本来の性情即ち欲望の捨て難いといふ事に氣が付かず、誤りたる見解、屁理屈を以て、目前の自己の苦痛から逃れんとする卑怯なる心掛けである。

 而も若し之が意志薄弱者で、本来欲望の乏しい性質ならば、それなり済むけれども、神経質の性格は、之に反して欲の上にも欲があつて、欲望の捨てきれず、其上に、其大欲望を、苦痛も恐怖もなく、安楽に獲得しやうとする蟲のよい理屈を割出すから、其結果として、他人の成功は、只で楽に出来たやうに、偏見を以て解釈するのである。(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.449

わがままを言ってないで自ら努力する他ない、ということなのである。神経質には強い発展向上欲がある。具体的には出世したい、すばらしい女性と結婚したい、ということも含まれる。そういう強い願望があるからこそ、人前、特に上司や異性の前で緊張するのは当然のことだ。だから緊張して顔面がふるえたとしても、ビクビクハラハラしながらも話をしていくしかない。自分ばかりが特別緊張する、と考えるのは神経質特有の差別観からである。「自分は世界一の不幸者」というのは屁理屈で、現実逃避ということになる。相談者の友人はグチをこぼすだけで、実際に女給と一緒になる勇気などないだろう。グチをこぼしても得られるものは何もない。少しでも建設的な行動を積み重ねていけば、やがてそれが実績となっていく。「どうせ自分は・・・だ」「いっそ・・・してしまおう」という屁理屈のヒネクレはやめにして、気分はともあれ目の前のやるべきことに取り組んでいけば、いつかは道が開けてくるのである。

2010年9月24日 (金)

神経質礼賛 589.ひたむきに生きる

 以前、野良猫の糞害に悩まされて、「どんとキャット」(100円ショップのダイソーで販売しているプラスチック製の網にトゲがついたもの)を家の周囲に敷き詰めてからというもの、被害はなくなった。とはいえ、ウラに隣接したコインパーキングから投げ込まれるゴミがあるし、隣家から枯葉が飛んで来るし、草も生えてくるので、時々どんとキャットをめくりながら外掃除・草取りをする必要がある。

この時期、コオロギが鳴いていて、近づくとあわてて黙り込む。砕石の間に雑草が生えている程度の環境でもコオロギは生きている。ブロック塀の中央に蝉の抜け殻がくっついているのに気がついた。近くには木が全くないのにどこから出てきたのだろうか。樹液を吸えなくて相当ひもじい思いをしただろうなあ、と思う。それでも何とか脱皮して飛び立っていったのだ。ブロック塀には昨年撤去したアイビーが取りきれずに数cmずつ塀にへばりついている部分が何箇所かあるが、猛暑にも耐えて葉は枯れることなくしっかり生きている。玄関近くのやはり砕石の間から木が生えてきていつのまにか高さ50cm位になり、まるで椿のような濃い緑の丸い葉をつけている。「この木何の木?」と気になって抜かずに放置している。

 環境にグチをこぼすのは人間くらいのものだろう。特に神経質人間は周囲の環境に敏感であり、グチをこぼしがちである。しかし小さな動植物たちはひたむきに生きていて、そこには何のはからいもない。ただあるがまま、それっきりである。不安にビクビクしながらも、よりよく生きたいという神経質の「生の欲望」を発揮して生き尽していきたいと思う。

2010年9月22日 (水)

神経質礼賛 588.神の手

 昨日、郵便不正事件の捜査に当たっていた大阪地検特捜部の主任検事が逮捕されるという驚くべきニュースが入ってきた。証拠として押収したフロッピーディスクを改ざんした疑いだという。悪を暴く正義の味方のはずの立場の人間が、証拠を改ざんして無実の人を犯罪者に仕立て上げようとしていたとなると大変な問題である。

 今朝の新聞を読むと、特捜の持つ問題点も指摘されている。まず「筋読み」といって事件の構図を描き、それを裏付けるための捜査が行われる。迅速な捜査を行う上で有効な手法ではあるのだが、筋読みに合わない証拠は無視されがちで、筋読みがはずれていた場合は完全な見込み捜査になってしまう。そして筋に合わせるためのムリな自供を求めるような問題もある。フロッピーディスクを改ざんした疑いは今年の2月に同僚の検事に指摘され、幹部に報告されていたにもかかわらず、半年以上も問題は放置されていた。神経質が足りない、では済まされない。強大な権限を持つ特捜だけにチェック機能も必要なのではないだろうか。

 以前、著明な考古学者が発掘品を捏造していた「神の手」事件があった。今回の主任検事も自己保身のために不正行為をしてしまったのだろう。以前、人の品性(520話)について書いたように、注意してくれる人がいない立場になった時、その人の品性がモロに出る。今回の主任検事も大阪地検の「エース」と呼ばれ、誰も鈴をつけられない立場にあって「神の手」をふるってしまったのだと思う。小心者の神経質人間ではこんな大胆なことはとてもできない。大胆になれなくてよい。小心な神経質なままでよい。

2010年9月20日 (月)

神経質礼賛 587.他人の不幸は蜜の味

 最近の脳科学では人間のこころの動きを解明する研究が盛んに行われている。放射線医学総合研究所(千葉市)が今年の2月に発表した研究では、妬みの感情には脳の前部帯状回(葛藤や痛みを処理する部位)が関与し、妬みの対象となる人に不幸が起ると線条体(報酬に関連する部位)が活動していることが示されていた。「他人の不幸は蜜の味」のメカニズムが明らかにされたわけである。さらに今月発表された研究では、敗者の悔しがる表情を見た勝者では前部帯状回に強い電気信号が発生し、それは自己愛の強い人ほど反応が強いことが示されていた。こういった研究は将来パーソナリティ障害の診断や治療(社会適応改善)に役立つものと思われる。

 神経質性格にも自己愛的な部分はある。特に対人恐怖にみられる自我の強力性と弱力性は精神分析の研究者からみれば、自己愛(ナルシシズム)と自虐愛(マゾヒズム)ということになるのだそうである(中久喜雅文:森田療法の精神分析的理解 超文化的視点より.日本森田療法学会雑誌,Vol21;15-18)。従ってSSRIなどによる薬物療法だけでは、不安をベースにした諸症状は改善して「弱力性」が消えて「強力性」だけが残ったとすると、攻撃的で自己中心的な鼻持ちならない自己愛が強いだけの人間になってしまう可能性が考えられる。

分析的見地からすると、森田療法では、治療者に対する健康な理想化と同一化、治療者・他患者からの共感的なフィードバックの内在化などによりナルシシズムが健常化するとともに、自己に対する攻撃性を作業や勉強に置き換えることなどで昇華してマゾヒズムの正常化が起るのだという。

 森田正馬先生はよく「雪の日や あれも人の子 樽拾ひ」という俳句を患者さんの指導の際に説明された。普通ならば「かわいそうに寒かろう」と思うのに、神経質は「小僧は寒いことを知らない」「自分ばかり寒く、世の中の人は強いから寒くない」と自己中心的な差別観で見てしまいがちである。さらに「唯見れば 何の苦もなき 水鳥の 足にひまなき ものと知らずや」という歌のように、誰もが苦しくても素直に我慢しているだけのことなのだ、と話されていた。集団の中で作業中心の生活をしているうちに、自然と平等観が身についてくる。

現代では種々の精神療法の中では認知行動療法がもてはやされているが、認知行動療法が確立されるよりはるか以前に、偏った認知が修正されて適切な行動が取れるようになる森田療法が日本では確立されていたのである。

自分を守っていく上で健全な自己愛は必要ではあるけれども、「他人の不幸は蜜の味」を感じた時や敗者を見て「ざまあみろ」と感じた時には不健全な自己愛ではないかと自省してみる必要がありそうだ。

2010年9月17日 (金)

神経質礼賛 586.用心は勇気の大半なり

 毎年、近所のタクシー営業所が配る日めくりカレンダーを勤務先の机の上に置いて使っている。例年は、その日の格言は、毎月同じ日は同じ内容だったのだが、今年はすべて違うものになっている。365も格言があると、さすがにこれまで知らなかったものもあって面白い。その中に「用心は勇気の大半なり」という格言があった。

 私も含めて神経質人間は、失敗を恐れて何事にも慎重であり、新しいことにはすぐには飛びつかず、熟慮した上でようやく重い腰を上げる。自分は小心者で情けないと感じ、大胆に行動する人を見ては劣等感を感じてため息をつく。しかし、小心で慎重なのは何も悪いことばかりではない。

 以前、書いたように(362363話)北方謙三著「楠木正成」によれば、名将・正成は大変な小心者である。神経質人間の典型像とも言える。鎌倉幕府に反抗する「悪党」の存在だったが、「戦は身がすくむ」ということで戦闘は好まず弟に任せて、自身は他の悪党や海賊と交渉して街道を押さえ、物流を盛んにしていった。護良親王の求めに応じて挙兵すると述べた後、正成は「大変なことを言ってしまった」と怯え続け、夜も不眠に悩まされることになる。だが、正成は旅芸人などによる独自の情報網を持っていて、鎌倉方の動きを正確にキャッチしていた。一見無謀とも思える挙兵だが、実は計算し尽しての行動である。赤坂城や千早城にわずかな兵力で籠って鎌倉幕府側の大軍を迎え撃つ前に、兵糧や武具の準備を着々と進め、水も確保し、さらには落城した場合に落ちのびる布石まで打っていたのだ。その結果、幕府軍の激しい攻撃を耐え抜き、事実上の勝利をものにした。神経質ゆえの用心があってこそ勇気ある行動が取れたのだ。用心がなければ勇気ではなく蛮勇に過ぎず犬死することにもなる。

 現代のビジネスマンでも同じことだ。勢いとハッタリで商売して、ホリエモン氏のように運よく「バクチ」が当たり続けて羽振りがよくても、いつかは逆風が吹いて砂の楼閣はあっけなく崩れてしまうものである。最悪の場合を考えて用心し、十分に準備を重ねた上で、勇気を奮い起こして勝負に出る人が着実に勝っていくものである。

2010年9月13日 (月)

神経質礼賛 585.幸福は金では買えない

 9月7日付読売新聞夕刊に「幸せ気分 年収630万円で頭打ち」と題する記事があった。今よりもう少し収入があったらなあ、とは誰もが思うところである。しかし、収入が増えて生活の満足度は向上しても、幸福感は一定収入以上では増えない、という研究結果をアメリカのプリンストン大学の研究者が発表した。

 アメリカで45万人を対象とした電話調査の結果から、年収と生活評価(暮らしに対する満足度)と感情的幸福(昨日笑ったかどうかなどの質問で測る幸福度)の関係を統計的に調べたところ、生活評価は年収が増えると増加するのに対して感情的幸福感は年収7万5千ドル(約630万円)前後で頭打ちになったという。よく言われるように、幸福は金では買えない、という言葉が裏付けられたのは興味深い。

 森田正馬先生も患者さんたちの前でユートピア論を展開した中でそのようなことを言っておられた。

 さて、ユートピアとは、理想郷とか天国・極楽とかいうものである。それは、現在の感謝と希望の憧れとの幸福感そのものをいうべきである。

 七宝・万宝・充ち満ちている極楽世界でも、猫に小判・豚に真珠ではなんの幸福感はない。一万円と百万円と、おのおのその人の心の置き所によるもので、金の多少によって、その幸福を商量することはできない。すなわちユートピアは、おのおのその人の心そのものの内にあるのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.168

 確かにお金があればいろいろなモノが買えて、生活は便利で豊かになる。お金があるということは安心感にもつながる。だからといって、お金は幸福には直結しない。たとえ収入が少なくても、仕事から帰ってほっとできる家庭があり、生きがいがあれば、ユートピアにもなりうるだろう。投資サークルの大学生たちが株の不正取引で巨利をあげて捕まった、という事件があった。クラブで豪遊し外車を乗り回して一時的な高揚感はあったのだろうが、札束を手にしていても幸福感は得られなかっただろうと思う。

 神経質人間はどうかするとわが身の不遇をかこち他人を羨みがちだが、森田先生の言われるように心の置き所ひとつで幸福にもなり不幸にもなるというものではないだろうか。

2010年9月10日 (金)

神経質礼賛 584.疾患啓発広告

 新聞の全面広告で、製薬会社がスポンサーなのに商品名がなく、「こんな症状があったらお医者さんに相談しましょう」というものをよく見かける。こういった広告は疾患啓発広告というのだそうだ。TVのCMでも、鉄腕アトムが逆流性食道炎を啓発するCMをよく見かけるし、薄毛・・・男性の脱毛症のCMも目に付く(私の髪も薄くなってきたので気になってしまうのだろうか)。製薬会社が市場拡大をめざして潜在患者の発掘に力を入れているため、疾患啓発広告は急激に増えている。

 こうした広告は、新聞やTVといった媒体を通じて多くの人々に医療情報が行きわたるメリットがあり、病気によっては早期発見・早期治療につながる可能性がある。その一方で、自分も病気だと思い込んだ人が、不必要な受診をしたり投薬を要望したりする可能性もある。それに、疾患啓発広告の対象となっている「疾患」には直接命にはかかわらないようなものが多く、中には薬よりも生活習慣を是正して改善が期待できそうなものもある。

 近年、「病気作り(Disease Mongering)」という言葉が作られ、それについて研究している人もいる。アメリカでは製薬会社から提供された資金が患者団体やマスコミに流れて、健康人を病人に変え、薬害の被害者になるリスクを負わせている、といった批判が出ている。また、疾患のガイドラインを改定して病気の範囲を広げる医師たちに対する批判もある。

 最近、抗うつ薬SSRIのメーカーさんが力を入れているのは、社会(社交)不安障害に対する処方の拡大である。「あがり症は病気であって薬で治る」という印象を与えるような疾患啓発広告を盛んに出している。病院に来る営業担当者さんもしきりに処方を勧めるが、私はよほど重症の人でなければいきなりSSRIを処方することはない。「あがり症」というだけでSSRIを処方していたら、日本人の半数はSSRIを毎日飲むことになってしまうかもしれない。その前に私も飲まなくてはならないだろう。そんなことになったら、健康保険制度はパンクする。

 人前で緊張し、あがるのは多かれ少なかれ誰でもあることだ。自分だけが特別苦しいわけではない。ドキドキしながら不安なまま仕方なしに話していけば何とかなるものである。顔が赤くなろうがどもろうが話を伝えるという目的が果たせればよいのだ。

2010年9月 6日 (月)

神経質礼賛 583.本の自炊

 820日付の毎日新聞夕刊1面に『本の「自炊」脚光』という見出しの記事があった。本を裁断してスキャナーで取り込み、自分で電子書籍を作ることを最近では「自炊」と言うのだそうだ。自前でデータを吸い込むということから「吸」の字の代わりに「炊」をあてて「自炊」なのだそうだ。iPadなど電子書籍を読むのに適した端末の登場が自炊ブームを後押ししているらしい。

 本を1冊まるごとデータとして取り込むのは思いもよらなかった。新聞記事の場合、必要な部分の切抜をスキャンして取り込めば保管・整理が容易である。10年ほど前、大阪のメンタルヘルス岡本財団におじゃましたところ、当時事務局長だった松田伸助さんは、森田療法関連の新聞記事をすべてスキャナーで取り込んで整理していて、必要な情報はすぐに検索できるようになっていた。私も古くからスキャナーは持っていたけれども、新聞記事はA4サイズではおさまらないものが多いので取り込むのはあきらめて、現在でも切り抜きで保存している。クリアファイルにはさんでいくと、どんどんたまってしまい、収拾がつかなくなりつつある。

雑誌の場合は無線綴じの場合は必要な部分をはずしてバインダーに綴じている。ホチキスで綴じてある場合はまずホチキス針をラジオペンチで除去してから必要な部分をハサミで切り取る。このあたりは神経質人間向きの作業である。

 本や雑誌はどんどん増えて、置く場所に困る。「見切り千両」だとはわかっているけれども、そのうちまた見たくなるのではないかと思うと、なかなか捨てられない。古い文庫本は紙の変色が激しいし、虫も付きやすい。かといって、1ページずつスキャナーにかけていたら膨大な時間がかかってしまうだろう。

 「自炊」がしやすくなったのは、まとめて連続スキャンできるスキャナーと裁断機のおかげだ。そしてハードディスクの容量も大きくなっているので、1冊の文庫本が50-75MBということではたとえ1000冊でも軽く保存できるということもある。いずれは電子書籍を直接購入する時代になるのだろうけれど、裁断機や連続スキャナーがもっと安価に入手できるようになったら、私も自炊して、本や雑誌を整理したいところである。

2010年9月 3日 (金)

神経質礼賛 582.パワースポット

 TV番組や雑誌の記事でパワースポットを扱ったものが目に付く。何でも明治神宮の加藤清正ゆかりの「清正井」をケータイの待ち受け画面にすると幸運に恵まれるということで、大勢の若者が押しかけているという。出雲の須佐神社では樹齢1300年の「大杉」がパワースポットとされ、木に向かって若い女性たちが手をかざしていくという。鳥居や本殿をお参りせず素通りでパワースポットに集まる人たちに、神社側も当惑しているそうだ。

 社会情勢を見れば、少子高齢化、円高不況、就職難、国家財政の危機的状況、と明るい未来が思い描けない。家族の結びつきも弱くなっている。そうした「不安の時代」の中で、風水が流行し、スピリチュアル・カウンセラーと称する人がもてはやされるようになって、パワースポットというものが注目されるようになってきたのではないだろうか。

 もちろん、謙虚な気持ちで神社仏閣を参拝するのも良いし、万物に霊は宿ると考えることは悪いことではない。気のパワーを分けてもらいたいという気持ちもわからないでもない。けれども、マスコミに踊らされてパワースポットと称する所に行列を作るのはいかがなものか。ケータイの待ち受け画面にパワースポットを入れたところで、所詮はおまじないにすぎない。

 550話で引用した森田正馬先生の言葉を再掲しよう。

 そもそも自信とは、どんなものですか。強い人が勝ち、弱い人が負ける、上手の人がよくできて、下手な人が、うまくできない。それが事実であって、その事実をそのままにみるのが、信念であり自信であります。

 しかし、それではなんの変哲もないから、皆さんは、できない事もでき、強い人にも勝つように、自信というものを作りたいという野心があるのではありませんか。

 そこが自欺のもとでもあり、間違いだらけになる原因であります。「事実唯真」の私の言の反対になります。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.606

 不安を解消して安心したい、自信をつけたい、ということでパワースポットを訪れたところで、自分自身が行動していかなければ何も状況は変わらない。不安なまま、自分ができることを積み上げていくほかはないのである。

2010年9月 1日 (水)

神経質礼賛 581.ホメオパシーとプラセボ

 最近の医療関連ニュースで民間療法「ホメオパシー」に関するものがあった。これは、健康人に与えると似たような症状を起こす物質を患者にごくわずかに投与すると、体の抵抗力が高まって症状がよくなる、という考えに基づき、その物質を水で繰り返し希釈したものを砂糖にしみこませ、それを投与する、というものである。天文学的な倍率で希釈するので、もはやその物質の分子は一つも残ってない可能性が高いが、信奉者たちは物質の「オーラ」「波動」「パターン」がしみこんでいるから有効だと主張しているそうだ。科学的には単なる砂糖玉を飲ませるのと変わらず、プラセボ(偽薬)効果が期待できるだけである。ホメオパシーを受けたために本来の医学的な治療が遅れて死亡した例が問題になっている。命にかかわるような病気に砂糖玉ではさすがにまずい。

日本学術会議は、「ホメオパシーは科学的には全く無意味」という見解を発表し、それに続き日本医師会と日本医学会も、医療関係者がこの療法を用いないように求める見解を発表した。

 精神科病院ではプラセボが使われることがある。不眠を訴える患者さんや不定愁訴を訴える患者さんに乳糖1gを頓服してもらう。人によっては効果があって、「いつもの甘い薬を下さい」とナースステーションに来る人もいる。もちろん薬理的な効果は全くないのだが、心理的な暗示効果で効くわけである。看護師さんに話を聞いてもらって、薬をもらえた、という安心感は大きい。

 心理的な暗示効果ということでは「おまじない」も同じことである。私も小学生の頃、手のひらに「人」という字を指で書いて飲むマネをすると緊張しない、というおまじないをやったことがあるが効かなかった。神経質人間は疑い深い面があるので、この程度のおまじないでは効果が少ないのだろう。そもそも緊張しないようにしよう、ということ自体が緊張を意識しているわけで、ますます自分の方に注意が向いて緊張しやすくなってしまうのだ。緊張は仕方ないものとあきらめて、ドキドキしながらも人前で発言していけば、最初は緊張しても、注意が外に向かい、いつしか緊張は気にならなくなっていくものである。

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