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2011年1月31日 (月)

神経質礼賛 630.小人の過や 必ず文(かざ)る

 森田正馬先生は患者さんの指導の際に禅の言葉を引用しておられたことはよく知られているが、必ずしも禅語ばかりではなく、古今東西の名言を用いておられた。論語の中の「子夏曰、小人之過也必文」・・・小人があやまちをすると、必ずつくり飾ってごまかそうとする・・・を引用して冒頭のように書かれた色紙がある。森田先生の言う「小人」とは神経質を生かせていない人間のことだと考えられる。

 普段から失敗を人一倍恐れる神経質人間は、失敗した時には自己弁護に走りやすい。その結果、あれこれ言い訳することになる。私自身、過去を振り返ってみると、そうした数々の卑劣な言動が思い出される。森田先生は次のように言っておられる。

 二十三歳の大学生の日記に「両手に盆栽を持つて、階段を昇りきらうとする処で、ウツカリ滑つて倒れた。・・・不注意だといつて・たしなめられたが、自分は真面目に・真剣にやつて居るのにと思つて、少々癪に障つた」といふ事があつた。(中略)「シツカリして倒れた」とか、「豫定通りに怪我した」とかいふ事はない筈であるから、「ウツカリ」といふ言ひわけ即ち自己辨護のために徒らに、心づかひするため、自分があぶないものを両手に持つたといふ不真面目には、少しも氣がつかない。斯様な人は、何度でも、過失を重ぬる人達である。 (白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.431

 しっかりしていようが、うっかりしていようが、客観的には、両手に盆栽を持って階段を昇っている途中で倒れて、盆栽を落としてしまった、という事実があるだけである。言い訳するよりも、失敗を心に深く刻んで同じような失敗を二度と繰り返さないように工夫と注意をしていくことの方が大切である。

2011年1月28日 (金)

神経質礼賛 629.薹

 たまたま外来患者さんが途切れた時に、外来担当の看護師さんから「これ、何て読むんでしょうねえ」と料理雑誌を見せられた。そのページのタイトルに「コマツナの薹料理」とある。ウーン・・・。何となくフキノトウの「トウ」ではないかと思ったが、確信が持てない。例によってわからないままにしておけない神経質ゆえ、こっそり国語辞典を引いてみる。あったあった。やはりトウだった。アブラナ、ホウレンソウ、フキ、ケシなどの花茎のことを薹というのだそうだ。「薹が立つ」と言う言葉がある。私がこの言葉を知ったのは高橋留美子さんの漫画「めぞん一刻」に出てくるセリフからである。婚期を逸した女性を揶揄して使われていたように思う。野菜が堅くなって、食べ頃を過ぎてしまうこと、転じて、人がその目的に最適の年齢を過ぎることを言う。

 堅い、と言えば、神経質性格にも独特の「堅さ」がある。人目を気にして強がって意地を張る。なかなか融通が利かない。それでいて小さなことにこだわってクヨクヨと悩む。一方、手堅い、口の堅いところは良いところで、軽はずみな行動や言動で失敗することは少ないし、大成功は少なくても着々と成果を挙げていくことができる。スロースターターでも一旦動き出せば長続きする。常人が見落とすようなことにも目配りが利く。本人は全然ダメだと思っていても、意外と周囲からは高く評価されているものだ。

 薹をおいしく食べられるかどうかは料理の腕次第ということであり、神経質性格を生かすか殺すかは本人の行動次第なのである。心配や不安はあっても、それはそのままにしてやるべきことをやっていけば道は開けてくる。

2011年1月24日 (月)

神経質礼賛 628.不潔恐怖

 今年に入ってから寒気が日本列島をすっぽり覆い、厳寒期が続いている。豪雪地帯は雪かきで大変だろうと思う。ラニーニャ現象の影響なのだそうで、まだまだ同じような気候が続くらしい。この寒さで手の肌荒れがひどい。外科医や内科医ほどではないけれども、仕事柄、手を洗う回数は事務職に比べたら多いし、家では洗い物もするので、なかなか良くならない。寝る前にウレパールローションを塗って、どうにかしのいでいる。

 これだけ寒くても長時間手を洗わなければ気が済まない人たちがいる。強迫神経症の一種・不潔恐怖の患者さんたちである。1回の手洗いが5分や10分はざらにいる。私が経験した患者さんの最長は1回30分という人がいた。そうなると、日常生活に支障が出てくる。石鹸を付けて洗うだけでは気が済まず、薬局で強力な消毒液を買ってきて毎回使う人もいた。まるで手術前の医師のように指先から肘まで洗う。当然皮膚はボロボロである。本人も馬鹿馬鹿しいと思いながらも洗うことが儀式化してしまい、やらないと強い不安に襲われてしまうのだ。洗う回数や順番を決めていて、途中でわからなくなると最初からやり直す人もいる。ここまでくると難治である。

 森田正馬先生(1874-1938)と全く同時代に活躍した作家・泉鏡花(1873-1939)は「高野聖」「婦系図」などの作品を残しているが、数々の奇行があり、それは不潔恐怖の症状によるものだった。菓子はアルコールランプであぶってから食べる、酒は沸騰させてから飲む、煮沸消毒できるように常に鉄瓶で湯を沸かしている、狂犬病を極度に恐れて犬を避ける、といった有様で、重症だったようだ。手洗いがどのようだったかは不明だが、手づかみで食べた物は手でつかんだ部分は捨てていたというから相当なものである。しかし、仕事はきっちりこなし、筆書きの原稿は校正後に自分で大切に保管して、神経質を仕事に生かしていたようである。

 強迫神経症の中でも特に不潔恐怖の人はエネルギッシュである。手洗い・不潔を避けるための労力たるや大変なものである。そのエネルギーを症状でなく仕事に向けていくことができれば、人並み以上に仕事ができるはずだ。

 森田先生が不潔恐怖の人向けに書いた色紙がある。

「毛虫をいやらしく思ふは感情にして 

 之が人に飛ひつかぬことを知るは理智なり

 いやらしからざらんとするは悪智にして

 いやらしきまま之に近よるは良智なり」

 

最後の行は「いやらしきまま必要に応じて、之を除去する工夫をなす、即ち良智なり」と書かれたものもある。毛虫とは不潔や汚染の象徴である。不合理な儀式で不潔にならないようにするのではなく、必要であれば合理的で科学的な方法で清潔になるよう工夫しなさい、というわけなのである。不潔が気になりながらも、不潔を避ける儀式行為は極力ガマンして、他の人と同じように行動していくのが全治への近道である。

2011年1月21日 (金)

神経質礼賛 627.システム障害

 今週の月曜日、JR東日本の新幹線運転管理システムの障害で東北・秋田・山形新幹線が全線ストップし、大勢の乗客が足止めされるということがあった。すぐには原因がわからなかったが、その後の調査で、雪によるダイヤ変更データが大量に入力されて、1分あたり600件という設定上限をオーバーしていたことが判明し、それがシステム障害の原因だったとのことである。システムには処理能力の限界が近づいていることをオペレータに通知する機能がなかったし、処理能力の上限は知らされていなかった。データ件数の見積もりが甘かったのと、処理能力を超えるデータ量が入った場合の対策が取られていなかったという点では、システムの基本設計ミスということになるだろう。列車の運行・飛行機の運航・発電所の運転・銀行や証券会社での事務処理などは、オンライン処理が当たり前になり、便利な反面、システムの不具合で社会活動が広範囲にストップする危険性をはらんでいる。トラブルが発生した時の影響が大きいだけにシステム開発・保守には十二分な神経質が必要である。

 某大企業の産業医の先生が外来に次々と「患者」さんを紹介してくる。時にはうつ病になっている人もいるが、多くは適応障害や軽いうつ状態であり、医療の対象外と思える人もいる。どなたも能力が高い人たちなのだが、処理能力をはるかにオーバーする仕事を抱え込んでダウン寸前、というわけである。少ない人員で残業を付けずに多くの仕事を処理させる、できない人間は能力不足だから辞めろ、という風潮の会社は増えているのだが、特にこの会社ではその風潮が強いと聞く。これでは社員の士気は上がらないし、一人がダウンすると他の人まで連鎖反応で次々とダウンしかねない。処理能力を超えそうな時には人員を補充して各人が疲弊せずにその能力を発揮できるような体制を作るのが経営陣の務めではなかろうか。経営陣に神経質が足りないと従業員たちは不幸になる。

2011年1月17日 (月)

神経質礼賛 626.夏目漱石の性格

 近代日本文学で最も親しまれている作家といえば、やはり夏目漱石が筆頭に挙げられるだろう。一頃は千円札の肖像でおなじみだった。国語の教科書には「こころ」が取り上げられているし、「坊ちゃん」「我輩は猫である」は多くの人に愛読されている。私の家にも漱石の全集があって、中学・高校生時代にはよく読んだ。漱石の小説は、私のような神経質人間には親しみやすいのだろう。全集の巻末に年表があって、なぜか漱石の生活史にはとても興味を感じたものだ。望まれない子供として生まれ、里子や養子に出された境遇も気になった。漱石というペンネームは漱石枕流・・・石に漱(くちすす)ぎ流れに枕する・・・という中国の故事から取ったもので、負け惜しみが強い変人の喩えだそうである。

 夏目漱石の病蹟についてはこれまで多くの研究があり、統合失調症説や気分障害(うつ病・躁うつ病)説がある。森田正馬先生の高弟で森田療法の継承者・高良武久先生(1899-1996)が書かれた『神経質と性格学』(白揚社)にもⅢ章「天才と異常性格」の「天才と狂人の間」という項で夏目漱石に関する記載がある。それによれば、漱石の生涯の中では間歇的に被害関係妄想が出現した時期があるという。最初は大学卒業当時で、通院していた眼科の待合室で見初めた女性を嫁にもらいたいと思っていたが、先方から縁談があったのに兄が勝手に断ったと思い込んで血相を変えて兄に怒鳴ったという件があった。34歳でイギリス留学した際には、下宿の主婦姉妹が親切にしてくれるが、陰で悪口を言い探偵のように監視してつけ狙っている、という妄想が出現し、文部省には白紙の研究報告書を送り、閉居して泣いてばかりいたという。日本に帰国直後、火鉢の縁に銅貨がのっていたという些細なことから妄想を抱き、長女を殴ったということもあった。無性に癇癪を起こして手当たり次第に物を投げ散らかす・家族に暴力を振るう・女中を追い出すことがたびたびあり、家の向かいの下宿に住んでいる学生を「探偵」と確信して大声で怒鳴ることもあったという。しかし、そうした妄想に左右された行動がみられた時期でも創作活動は続いていたし、長期的にみて感情鈍麻もないので、統合失調症とは言いがたい。高良先生は、「病状はだいたい分裂病(統合失調症)的であるが、周期的発作が循環病(躁うつ病)の趣をもっている」としている。実生活では「気むずかしく神経質な反面、人情に厚く、人の世話をしたり、弟子を集めて喜んでいるところがある」ということで、漱石の性格を「分裂性の鋭利、深刻、理想、過敏な良心があるとともに、一方循環性の温かい人間的理解、広い多方面の趣味、現実に対する実際的関心があって、彼の人格の幅を広くしているもののようである」とまとめておられる。

 神経質性格でも内向的で敏感な分裂気質と人から好かれようとする循環気質の混合した性格と見える場合がある。また、神経質の中でも特に対人恐怖では他の人が自分をどう思っているかを忖度する関係妄想性を帯びている。高良先生の見解が間違いないところだろうけれども、漱石は神経質の対人恐怖に近い性格の持ち主だったのではないか、という気がしてならない。

2011年1月14日 (金)

神経質礼賛 625.歩行速度は健康のバロメーター

 先日の読売新聞に「速く歩く人ほど長生き・・・米医師が65歳以上調査」と題する記事があった。65歳以上の男女3万人以上の歩行記録データを解析したところ、どの年齢でも秒速1m以上で歩く人は比較的長く生き、歩くのが速い人ほど余命が長かったという。逆に秒速0.6m以下の人は早く亡くなることが多かったそうである。速く歩くためには強い心肺機能や筋力が必要で、歩行速度が健康度の目安になったと考えられる、とのことである。

 逆に速く歩けばより健康になれるか、というと保証の限りではないが、よく知られているように速歩きには体内脂肪燃焼効果があって、内臓脂肪の減少が期待でき、健康上プラスに働く面が多いと思われる。健康のための運動というと誰もがまずジョギングを思い浮かべるけれども、ウォーキングならば手軽にできるし、膝や足の関節を痛めるリスクも少ない。通勤や買物の際、車を使わずに速歩きにすれば、ガソリン代が浮くし、エコにもなって、一石二鳥いや三鳥くらいになりそうである。

 私は普段これといって運動をしていないけれども、電車通勤するようになってからというもの、かれこれ14年間、体重は61-62kgで変わっていない(体型は崩れてきているが)。朝夕の通勤の際は急いでいるので倍速モードで歩いていて、駅の階段の昇り降りもあって、それなりの運動効果があるのだろう。片道2-3km位の所ならば車を使わずに歩いている。信号のタイミングを見計らって、ここはもっと速く歩けば青信号に間に合うとなるとついスピードを上げてしまう神経質が作用していることもあるかもしれない。どれだけ効果があるかわからないけれども、せっせと歩き続けようと思っている。

2011年1月10日 (月)

神経質礼賛 624.えせ契約(Bogus Contract)

 毎月、日本精神神経学会の雑誌が送られてくる。なかなか読んでいられないので表紙の目次だけ眺めてそのまま積んでしまう。そうするとどんどんたまってしまうので、時々あいた時間に見て、必要な部分は切りはずして取っておき、後は捨てている。

 精神神経学雑誌2010年の11211号に「最近のうつ病の病型と治療」という特集があって、その中に独協医大越谷病院の井原裕先生が書かれた『うつ病臨床における「えせ契約」(Bogus Contract)について』という論文があった。久々にパンチの効いた論文にお目にかかったという感じである。Bogusという言葉はもともと贋金作りの機械を意味し、かなり強烈な表現である。一臨床医としては大きな拍手を送りたい内容だ。この特集を監修した野村総一郎先生は、この論文を「現在のうつ病臨床が混乱しているのは、診断学や疾患概念などの問題ではなく、医師・患者間の治療契約を巡る深刻な問題すなわちえせ契約に起因するとし、医学界全体の本質的問題であると言う。現代医学を過信する患者、限界を知りつつ誤解を解こうとしない医者の間で治療契約が相互欺瞞と化している。それがうつ病臨床にも色濃く現れている。精神科医はこの構造を理解しつつ、患者に勇気をもって現実に向き合うように促すべきことが強調されている」と総括しておられた。

 近頃、会社に行けないということで外来を訪れる人たちは、診断をつけて薬を出すだけでは解決できない多くの問題を持ち込んでくる。それは職場の人間関係、パワハラ、家族内の問題、経済的問題、など実に多岐にわたる。井原先生の言われるように抗うつ薬に「抗多重債務効果」「抗パワハラ効果」「セクハラ上司撃退効果」「DV夫矯正効果」「暴言妻鎮静効果」があるわけでもないのに、「うつ病は脳の病気であって薬で治る」と抗うつ薬を処方するだけの医師にも問題があるし、病院へ行けばすべてが解決できるという幻想から医療を求める患者(というより利用者)側にも問題があるだろう。両者の相互欺瞞が「えせ契約」というわけだ。「死・病・痛は人生の一部である」「精神医学には限界があり、社会的問題を解決することはできない」ことについて、患者の理解を求め、医師自身がこの事実を受け入れるべきだ、という井原先生の主張はもっともだと思う。

 神経症の場合も、ICD(WHOの診断基準)やDSM(アメリカ精神医学会の診断基準)では不安障害とされ、その人の性格傾向や生活歴などは度外視して、「症状」だけで機械的に診断されるようになった。そして、うつ病と同様に、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れているために起る「脳の病気」であって、抗うつ薬SSRIで治りますよ、という潮流になってきた。しかし、神経症はうつ病以上に薬だけでの解決は難しい。薬理学者は原因をすべて脳内の神経伝達物質とそのレセプターに求めているけれども、精神分析の治療を受けてカタルシスや自己洞察により突然に症状が改善するとか、森田療法を受けていて「頓悟」の状態になって症状が霧散する、といったことはレセプター理論(神話?)では説明がつかないはずだ。神経症や一部のうつ病においては、神経伝達物質のバランスの崩れは原因でなく結果なのではないかとさえ思えてくる。

昨今の薬万能時代もいつかは見直しの時が来るだろう。第一、限られた医療費や医療資源を精神科だけに無尽蔵に費やすことはできない。「症状はあるものとして仕方無しに行動する」という方針で自然治癒力を伸ばしていく森田療法の良さが改めて認められる日が必ず来るものと私は思っている。

2011年1月 7日 (金)

神経質礼賛 623.手をつける

 新年になって一週間。元日に今年は○○しよう、と決意された方も多いかと思うが、一週間たって日常生活に戻ってどうでしょうか。思ったが吉日とは言うけれど考えただけではダメで、実行に向けて一歩踏み出したのが本当の元日である。あとは根気よく続けて行くだけのことだ。神経質人間は欲張り過ぎて大きな目標を立てがちである。そんな目標を立ててしまうと、なかなか手がつけられないものだ。私は最初から元日の決意はしないことにしている。

 正月休みが終わって職場に戻れば仕事がたまっている。主婦の方の場合は、しばらく掃除を休んでいるうちに室内の汚れが目に付き、ゴミがたまり、先送りした大きな洗濯物もたまっている。さあ、どうしようか、というこの頃ではないだろうか。

 森田正馬先生は、3ヵ月ほど熱海の旅館で過ごした後、家に戻って仕事が山のようにたまっている時に次のように言っておられた。

 仕上げという事を想像するから、おっくうになる。目先を取り片付けるから、手が出しにくくなる。ただ遊び半分の心持で、なんでも目先のものに手をつけ始めさえすれば、そこから自然に心の働きが開発して、まず分類が始まる。不用と必要との手紙・急ぐ返事・書くに時間を要するものなどが区別され、あるいは雑誌の如きは、目次を見て、参考の項目には、傍線を引き、精読を要するものは、まとめて後回しにするとかいう風である。

 こんな風で、相当大きな一仕事を、数日の後には、大概完全に仕上げてしまう。大事な仕事をなげやりにしたり忘れたりするような事はない。(白揚社:森田正馬全集第5p.628

 神経質人間の得意技で、手間の見積もりをし、処理スケジュールを考え、と構えてしまうと、かえってイヤになってなかなか手がつけられなくなる。とりあえず、目先のものに手をつけてみる。すると自然に心も流転して仕事が流れていくようになるものだ。

2011年1月 3日 (月)

神経質礼賛 622.座右の銘

 書店をのぞいたら入口近くに宝島文庫の『人生の指針が見つかる「座右の銘」1300』(本体457円+税)という文庫本が大量に平積にされていた。安さにつられて、つい買ってしまった。しかし、7種類に分類してあるとはいえ、名言だけを並べられても読みにくいものである。格言ならばともかく、小説から抜き出したものだと前後がわからないので「名言」と言えるのかなあと疑問符が付くものもある。一度きりの人生に名言なし、理屈抜きの恋愛に金言なし、が本当ではないかと秘かに思ったりもする。全部読み通すのに5、6時間かかった。読みながら、気になった箇所には付箋紙を貼っておいた。

私が一番すばらしいと思ったのは渡辺和子さんの『この世に「雑用」という用はありません。私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます』という言葉である。渡辺さんのお名前だけは新聞日曜版に時々出る御著書とか講演CDの広告を見て知っていたが、顔写真を見てカトリックの人かなあ、という程度しか存じ上げなかった。

日常生活で生じるささいな仕事はつまらないものとして雑用の一言で表現しがちだが、どれもが必要な仕事でおろそかにできるものはない。特に神経質人間は仕事の価値と手間を値踏みして「嫌だなあ」「面倒だなあ」と避けがちである。そして、森田正馬先生の言われた「お使い根性」でお茶を濁す、つまり用を雑にしてしまうわけである。トイレ掃除はその典型だが、最初は嫌々でも仕方なしに手を出していけば、やりがいを感じ、雑用だと思っていたことにも創意工夫をこらし、ますます神経質が生かせるようになっていくものである。

もう一つ、将棋の大山康晴15世名人の『道具を大切にするものは将棋も上達する』という言葉もすばらしいと思う。これは将棋だけでなくすべてのことに当てはまりそうである。  

物を大切に使い、その物の価値を最大限に発揮させる「物の性(しょう)を尽くす」ということを森田正馬先生は自ら模範を示して患者さんを指導しておられた。それは自分のベストを尽くす「己の性を尽くす」さらには「人の性を尽くす」にもつながっていくのである。そうなれば神経質は「お荷物」ではなく貴重な財産になっている。

2011年1月 1日 (土)

神経質礼賛 621.忙しいほど仕事がよくできる

 元日の今日は妻の実家に行き、例年通り家族で日切地蔵をお参りし、義母の墓参りをし、あわただしく帰ってきた。今年は元日が土曜日・2日が日曜日と重なっている。大企業のように年末年始休暇が長い所では影響ないだろうが、休みが短い所だと、土日と重なって正味2、3日しか休暇がないということになる。私の勤務先も休日は例年大晦日の31日と正月3が日の4日間だけなので、今年のパターンだと、あまり正月気分に浸ってもいられない。

 とは言え、休みが短いのもあながち悪いことばかりではない。休みが長いとその分仕事が溜まって後で大変になるだけという面もあるし、休みが続くと気が緩んでダラダラ無駄に過ごしてしまうという面もある。気が緩むと風邪をひきやすいことは以前(121)書いた通りである。森田正馬先生は次のように言っておられる。

 能率の事で一番大切な事は、「忙しいほど仕事がよくできる」という事です。和歌・俳句のようなものでさえも、「暇になったら上等のものを沢山につくってやろう」と考えるのは、大きな思い違いです。実際にそうなってみれば、実は気が抜けて、ちっともできない。よい思いつきや思想などもみなその通りである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.759

 あれもしなくては、これもしなくては、と忙しく動き回っているちょっとした合間に、面白いアイディアが浮かんだり、思いがけず懸案事項が片付いたり、趣味のことができたり、ということはあるものだ。まさに「神経質は仕事の為にす」である。仕事を探して行動していけば、ますます神経質の能力が発揮できる。今年もこれでいこう。

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