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2011年1月17日 (月)

神経質礼賛 626.夏目漱石の性格

 近代日本文学で最も親しまれている作家といえば、やはり夏目漱石が筆頭に挙げられるだろう。一頃は千円札の肖像でおなじみだった。国語の教科書には「こころ」が取り上げられているし、「坊ちゃん」「我輩は猫である」は多くの人に愛読されている。私の家にも漱石の全集があって、中学・高校生時代にはよく読んだ。漱石の小説は、私のような神経質人間には親しみやすいのだろう。全集の巻末に年表があって、なぜか漱石の生活史にはとても興味を感じたものだ。望まれない子供として生まれ、里子や養子に出された境遇も気になった。漱石というペンネームは漱石枕流・・・石に漱(くちすす)ぎ流れに枕する・・・という中国の故事から取ったもので、負け惜しみが強い変人の喩えだそうである。

 夏目漱石の病蹟についてはこれまで多くの研究があり、統合失調症説や気分障害(うつ病・躁うつ病)説がある。森田正馬先生の高弟で森田療法の継承者・高良武久先生(1899-1996)が書かれた『神経質と性格学』(白揚社)にもⅢ章「天才と異常性格」の「天才と狂人の間」という項で夏目漱石に関する記載がある。それによれば、漱石の生涯の中では間歇的に被害関係妄想が出現した時期があるという。最初は大学卒業当時で、通院していた眼科の待合室で見初めた女性を嫁にもらいたいと思っていたが、先方から縁談があったのに兄が勝手に断ったと思い込んで血相を変えて兄に怒鳴ったという件があった。34歳でイギリス留学した際には、下宿の主婦姉妹が親切にしてくれるが、陰で悪口を言い探偵のように監視してつけ狙っている、という妄想が出現し、文部省には白紙の研究報告書を送り、閉居して泣いてばかりいたという。日本に帰国直後、火鉢の縁に銅貨がのっていたという些細なことから妄想を抱き、長女を殴ったということもあった。無性に癇癪を起こして手当たり次第に物を投げ散らかす・家族に暴力を振るう・女中を追い出すことがたびたびあり、家の向かいの下宿に住んでいる学生を「探偵」と確信して大声で怒鳴ることもあったという。しかし、そうした妄想に左右された行動がみられた時期でも創作活動は続いていたし、長期的にみて感情鈍麻もないので、統合失調症とは言いがたい。高良先生は、「病状はだいたい分裂病(統合失調症)的であるが、周期的発作が循環病(躁うつ病)の趣をもっている」としている。実生活では「気むずかしく神経質な反面、人情に厚く、人の世話をしたり、弟子を集めて喜んでいるところがある」ということで、漱石の性格を「分裂性の鋭利、深刻、理想、過敏な良心があるとともに、一方循環性の温かい人間的理解、広い多方面の趣味、現実に対する実際的関心があって、彼の人格の幅を広くしているもののようである」とまとめておられる。

 神経質性格でも内向的で敏感な分裂気質と人から好かれようとする循環気質の混合した性格と見える場合がある。また、神経質の中でも特に対人恐怖では他の人が自分をどう思っているかを忖度する関係妄想性を帯びている。高良先生の見解が間違いないところだろうけれども、漱石は神経質の対人恐怖に近い性格の持ち主だったのではないか、という気がしてならない。

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コメント

先生、おはようございます!!! 今日は何の日???


 1874年1月18日に森田先生が誕生されました。
 森田先生がいう特殊療法は1920年に克服が困難とされていた強迫神経症を完治されたことから始まりました。

一八七四年  一月十八日高知県香美郡富家村兎田(現野市町)に、森田正文の長男として生まる。佐賀の乱
  台湾征討に鹿児島徴募兵多数出兵 私学校設立
一八七五年 樺太・千島交換条約
旧藩札の処分完了
一八七六年 廃刀令
一八七七年 西南戦争(2月→9月)城山陥落、西郷ら自刃
一八七八年 大久保利通暗殺される
一八七九年 五歳。 富家尋常小学校入学。
教育令制定 琉球藩を沖縄県とする 第百四十七国立銀行設立
一八八一年 自由党結成
一八八二年 日本銀行条例布告
一八八三年 鹿鳴館落成
一八八四年 群馬事件 秩父事件
一八八四年 内閣制度実施 県下8月以來コレラ大流行
一八八六年 帝国大学令公布 小学校令公布 9月大暴風、未曾有の疱瘡流行
一八八八年 十四歳。 高知県立尋常中学校入学。
一八八九年 大日本帝国憲法発布 東海道本線開通 鹿児島市制実施 町村制実施
一八九〇年 府県制・郡制公布 教育勅語発布 衆議院議員選挙実施 コレラ流行
一八九一年 大津事件
一八九二年 十八歳。 苦学成業しょうと決心し、友人と無断上京したが、二ヵ月目に脚気に罹り帰郷し、中学校に復校する。千島艦事件…軍艦千島、英船と衝突し沈没
一八九三年 十九歳。 冬休旅行より日記をつけはじめる。
一八九四年 二十歳。 二月、腸チブスに罹り、二ヵ月間寄宿舎の隔離病室で弟、徳弥の看護をうけ治癒したが、そのため落第した。日清戦争(→1895)翌年にかけて赤痢・疱瘡・コレラ流行
一八九五年 二十一歳。 七月、中学校を卒業。大阪の医師、大黒田竜の奨学金を得て、熊本第五高等学校に入学する。下関条約 三国干渉
一八九六年 二十二歳。 七月二十九日、従妹、田村久亥と結婚。日清通商航海条約 金本位制実施
一八九八年 二十四歳。 七月、五高を卒業。九月、上京し東京帝国大学医科大学に入学。十月、神田駿河台大鳴学館にて独乙語夜学教授をする。十二月、辞職。同月、土佐同志会幹事となる。民法公布
一八九九年 二十五歳。 二月、鷹城会倶楽部に独乙語を教授する。六月、鷹城会(土佐医会)評議員となる。改正条約実施、治外法権撤廃 大暴風、全壊家屋1万6000棟
一九〇一年 二十七歳。 九月、鷹城会幹事となる。
一九〇二年 二十八歳。 二月、鷹城会誌、第一号を発刊する。十二月、医科大学を卒業、直ちに巣鴨病院医局に入る。日英同盟締結 正岡子規死 県立高等女学校設立
一九〇三年 二十九歳。 一月三十一日、医術開業免状を受ける。二月五日、東京帝国大学医科大学助手となり判任官九級俸を受ける。これより一年、文科大学に心理学講義を聴く。六月二日、根津須賀町に転居し、内職開業し、山崎四郎を代診とする。間もなく閉止。六月六日、巣鴨病院看護人講習会を開く。七月、作業療法計画主任となり巣鴨病院空地を利用し、作業療法を初めて行う。八月十一日、東京帝国大学医科大学より派遣され、郷里高知県に犬神憑研究のため三十日間旅行し、調査後、高知市医師会にて同研究成績について講演する。九月二十九日、東京慈恵会医院医学専門学校教授となり、一週一回、精神病学の講義をする。十二月、大学院に入学し、精神療法を専攻。
一九〇四年 三十歳。 四月二日、日本神経学会大会にて「土佐の犬神憑」及び「精神病の感染」の二題を講演。四月十六日、巣鴨病院女子部主任となる。八月二十四日、弟、徳弥日露戦争旅順攻略中、戦死。十二月十二日、東京精神病談話会に「治癒せる強迫観念症の一例」を講演。同日、同会の幹事となる。
一九〇五年 三十一歳。 一月九日、日露戦役、陸軍幇助医員として戸山分院に勤務し、傷病兵の診察に従事。二月、日本女学校の生理衛生講義を嘱託さる。九月、従来「是空」と号していたが「形外」と改める。日本海海戦 ポーツマス条約調印
一九〇六年 三十二歳。 二月一日、終焉までの地本郷蓬莱町六五番地に転居。七月二日、小児科学会にて「小児の精神病に就て」講演。七月十二日、東京高等師範学校の満州修学旅行に校医として加わり、旅順に弟、徳弥戦死の跡を弔う。十一月、土佐協会評議員となる。十一月三十日、東京帝国大学医科大学助手を辞職する。十二月一日、根岸病院顧問(医長)に就任。鉄道国有法公布
一九〇七年 三十三歳。 四月、日本神経学会にて「両脚触覚計の診断的価値」を講演する。五月千葉医学専門学校教授に推薦されたが、これを辞退する。八月、根岸病院看護法を著述。十月、永松看護婦会顧問となる。日仏・日露条約成立
一九〇八年 三十四歳。 三月、女子体操音楽学校講師となる。六月、『医学中央雑誌』精神神経学欄の主幹となる。日米協約
一九〇九年 三十五歳。 二月、人性学会幹事となる。四月四日、日本神経学会総会にて「もひ中毒ノ二例」について講演。十二月一日、母還暦賀宴のため帰郷する。東京両国に国技館開館
一九一〇年 三十六歳。 二月、両志会に入会し、参禅する。四月一日、大阪の日本医学会総会に出席し、独語症に就いて」及び「麻痺痴呆初期の診断に就いて」講演する。日韓併合
一九一一年 三十七歳。 二月、根岸病院患者および看護人にピルケー反応を試験する。四月二十三日、心象学会に手相学者ピルワ氏を見る。七月十九日、児童研究会にヴェルフォルム氏「人間精神の発達」を紹介。八月十四日、赤痢にかかり静養。九月八日、病院に出勤する。九月十一日、長男、正一郎誕生。
一九一二年 三十八歳。 二月自宅の門に診察に応ずる旨の看板を出す。六月、児童研究会評議員となる。十一月二十日、成医会総会にて「瞳孔障碍に就て」講演。
一九一三年 三十九歳。 四月六日、日本神経学会総会にて「麻痺性痴呆の瞳孔障碍に就て」講演。四月、一精神薄弱児松田を預り教育する。十二月、父還暦賀宴のため帰郷する。東北・北海道地方大凶作
一九一四年 四十歳。 三月十一日、児童研究会にて宿題報告「低能児の教育」に就て講演。四月二日、日本医学総会、神経学会にて「神経精神病と橈骨動脈硬変に就て」及び法医学会にて「迷信と精神病に就て」を講演。十一月十八日、医師協会評議員となる。第一次世界大戦に参戦 桜島大爆発
一九一五年 四十一歳。 三月、川面凡児主催の古典研究会に入会。八月八日、精神性心臓症を只一回の診察で根治させる。第一回全国中等学校優勝野球大会 自動車登録 台数1244台 風水害
一九一六年 四十二歳。 二月、ほむら会(歌会)に入会。五月十四日、児童学会にて宿題報告「児童の恐怖(精神的方面)」を講演する。十月、ほむら会例会を毎月自宅で開き、詠草は騰写板で印刷することになる。大隈重信、襲撃される
 風水害
一九一七年 四十三歳。 六月、日本精神医学会の評議員となる。九月二十六日、信州上諏訪に三田某の念写を見る。十一月十一日、大霊道の講演会を聴く。十一月十七日、自宅で学芸懇話会を開く。金輸出禁止
 風水害
一九一八年 四十四歳。 五月三十一日、ベルギー人ジョレ氏の読心術を見る。八月十二日、変態心理講習会にて「神経質」などの講演をする。十月二十二日、権田雷斧大僧正の密教講習会に出席。シベリア出兵
一九一九年 四十五歳。 三月、日本百科大辞典に富士川游博士の紹介で迷信に関する事項を受持ち「姓名判断」について書く。四月、巣鴨病院永松看護長が神経衰弱で悩んでいたのを自宅にひきとり静養させ軽快する。それまで神経質患者を近くに下宿させて治療していたが、その後自宅に入院させ治療する事とする。十一月十六日、成医会総会にて「赤面恐怖に就て」講演する。十二月、土佐協会理事となる。ベルサイユ条約調印
一九二〇年 四十六歳。 前年十二月末帰郷後、反復性大腸炎となり、七十余日臥褥し、三月三十日治癒帰京。六月十日、生活改善同盟会に入会。十月、中村古峡氏に勧められて「神経衰弱及神経質の療法」執筆開始。翌年一月四日書き終り、六月一日出版。国際連盟に正式加入 第一回メーデー開催
一九二一年 四十七歳。 一月中村氏の衣嘱により「精神療法講義」を書きはじめ、半年ばかりで書き終わる。十一月十二日、精神病学会にて「神経質療法」を講演。ワシントン会議 日英同盟廃棄 風水害
一九二二年 四十八歳。 一月二日、学位論文として「神経質の本態及療法」を書き始め、二月二日に書き終わる。七月、日本医師協会委員及び評議員となる。十二月、児童学会編輯委員となる。十二月二十日、神経質論文を呉先生在職二十五年の祝賀論文として提出。これが学位論文となる。日本共産党結成
一九二三年 四十九歳。 二月四日、父正文死去。四月、神経質論文を主論文として大学に学位申請書を提出。四月生活改善会委員となる。九月一日、関東大震災起こる。地震中も『恋愛の心理』の原稿を書きつづける。
一九二四年 五十歳。 四月一日、日本神経学会総会にて「早発性痴呆に対するスペルミン注射に就て」討論。四月十二日、東洋大学教授となり、教育病理の講義を嘱託さる。八月、医学博士号授領。『恋愛の心理』自費出版。第二次護憲運動 メートル法実施
一九二五年 五十一歳。 一月宇佐玄雄、京都に三聖病院を創設、記念講演をする。三月、慈恵会医科大学教授となる。五月、日本医科大学医学専門学校教授となる。治安維持法公布
一九二六年 五十二歳。 四月十一日、NHKより「神経衰弱の話」をラジオ放送。十一月、『神経衰弱及強迫観念の根治法』を出版。
一九二七年 五十三歳。 二月、倉田百三氏の強迫観念を診察する。四月二日、京都大学で開催された日本神経学会に出席し、「変質者の分類に就て」の講演をする。また丸井博士とフロイト説について討論をする。ジュネーブ軍縮会議 東京に地下鉄開通
一九二八年 五十四歳。 四月二日、日本神経学会で丸井博士の精神分析に対し反対説を唱える。四月、日本大学医学専門学校教授となる。十月六日慈恵大学、在職二十五年祝賀会あり、表彰される。十二月二十二日、根岸病院にて第一回集談会を開く。張作霖爆死
一九二九年 五十五歳。 四月、仙台における神経学会に出席。「余の神経質治療成績について」講演。五月、肺炎にかかり重態となるが、加療により危機を脱する。八月、根岸病院を辞職。十月、日本大学医学部教授を辞す。十二月一日、形外会第一回発足。世界恐慌 共産党大検挙
一九三〇年 五十六歳。 一月三十一日、雑誌『神経質』創刊号発行。九月十一日、子息、正一郎死去。九月十六日、『亡児の思ひ出』を書き始める。ロンドン軍縮会議
一九三一年 五十七歳。 三月四日、喘息重症となる。四月三日、神経学会で特別講演の予定だったが、病後の衰弱甚しく中止。五月九日、高良博士を慈恵医大講師に依嘱し、病気の時、臨床講義の代理を頼む。七月、日本精神衛生協会評議員となる。十月、九州医学会招待講演のため熊本行、鹿児島、福岡にて講演。満州事変おこる
一九三二年 五十八歳。 五月十日、熱海の伊勢屋旅館を買い取り、森田館とする。九月十七日、森田館の改築にかかり、十月三十一日落成。十一月十日、熱海、大正館を買入れる。十一月二十七日、土佐医学会会長となる。上海事変 満州国成立 五・一五事件
一九三三年 五十九歳。 一月七日、『神経質の本態及療法』の論文、独乙語訳成る。二月、藤村トヨ校長から井ノ頭女学校顧問を依嘱される。四月二日、京都大学の医学会に出席、神経学会分科会にて、精神分析学説を批判討論する。八月、「診断と治療」誌の顧問を頼まれる。国際連盟脱退
一九三四年 六十歳。 四月二日、日本神経学会総会で「強迫観念の成因」を講演。丸井博士のフロイト説と討論する。四月七日、根岸病院医局員その他を招き、還暦宴を催す。五月三十一日、根岸病院集談会に「夢の研究」について講演する。十一月、『生の欲望』出版。ワシントン軍縮条約破棄
一九三五年 六十一歳。 一月以来、熱海で喀血、病臥静養し、五月十七日帰京。十月二十一日、妻、久亥急逝する。十二月十九日、慈恵医大に森田奨学金として一万円を寄附。この年、『赤面恐怖の療法』『神経質療法への道』を出版する。天皇機関説問題化
一九三六年 六十二歳。 一月、熱海森田館増築落成。『健康と変質と精神異常』を出版。十一月、高知県人会、副幹事長となる。科学ペンクラブの評議員となる。十一月二十二日、神経質研究会、読話会発会。二・二六事件 台風襲来、被害甚大
一九三七年 六十三歳。 一月、藤村女子体育研究会の名誉顧問となる。四月、慈恵医大名誉教授となる。五月、明年の日本精神神経学会の宿題報告を高良教授と共同で依嘱さる。五月十七日、目黒雅叙園における名誉教授就任の祝賀会に出席。七月、赤痢に罹患し、慈恵医大附属東京病院に入院。日中戦争 日独伊防共協定
一九三八年 六十四歳。 二月十八日、母、亀女死去。四月五日、日本精神神経学会に於て、宿題報告「神経質の問題」を高良教授が代行講演する。四月十二日、肺炎にて自宅で死去。国家総動員法公布

 この履歴を見て、森田先生が1926年4月11日、NHKより「神経衰弱の話」をラジオ放送されたとあります。もしもこのラジオ放送が今聞けたらどんなにかありがたいことと思われました。

先生、こんにちは。

以前に、こちらで半分リクエストめいた
書き込みをさせていただいていたので、
このたび本当に漱石の「神経質」について
触れていただいたこと、
とてもうれしく思いました。

それにしても、今回、先生のエッセーで
改めて漱石の病理について、
多くの専門の先生方から
さまざまな分析がなされていたことを知り、
漱石の複雑怪奇さや底知れなさや
矛盾に満ちた知の巨人ぶりを
再確認いたしました。

続編を楽しみにしております。
(そそのかしているようですみません)

めんたる和尚様

 あれ、man和尚が改名されたのですか。コメントいただき、ありがとうございます。そのうち、TVやラジオで「今日は何の日」コーナーで森田先生のお名前が出るようになったらすばらしいですね。

 全集第7巻「我が家の記録」を見ると、「幼児殆ンド泣ク事ナク室内ニ閉ヂ込ミ置ケバ独リ遊ビアキテ眠リ、或ハ独リ仏壇ノ下ノ押入ノ内ニ眠リ居タルコトナドアリタリトイフ」(p.765)とあり、幼少時はおとなしかったようですね。

 ラジオ放送については全く情報がありません。あの咳混じりのレコード録音と同じようなないようだったのかなあ、という気もしますが、一般人相手ですから少しサービス精神を出した内容だったかも知れませんね。

keizo様

 コメントいただきありがとうございます。

 おっしゃるような「複雑怪奇」「底知れなさ」「矛盾に満ちた知の巨人」という評価はまさにピッタリだと思います。一筋縄では理解しにくい面が神経質人間にはあります。漱石神経質説は案外当たっているのかもしれません。

 作家もそうですが、俳人や歌人には神経質人間が多そうな気がします。そのあたりは不勉強でkeizo様に御教示願いたいところです。
 また、よろしくお願いいたします。

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