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2011年2月28日 (月)

神経質礼賛 640.気分本位

 神経症の人で、離人感を訴える人が時々いる。かつて森田正馬先生のもとで行われていた形外会でも「自分が自分でないような気がして苦しんでいます」という若い女性がいた。それについて森田先生の高弟・古閑義之先生は、そのような考え方を気分本位といい、頭がはっきりしないとか、記憶が悪いとかいっても、自分の病気に関した事は、詳しい年月の事までも、よく覚えていられるから、頭が悪いわけではない。気分本位を捨てて、事実に従って、自分のなすべき事をやって行けば、いつとはなしに、今のような苦しみはなくなる、と述べられた。それに補足して森田先生は次のように述べておられる。

 気分本位とか、これは私の用いた言葉ですが、この本位という語について、思い違いの人が多いから、ちょっと説明しておきます。本位とは、物を測るのに、それを標準とする事で、人生でいえば、人生を観照して批判するところの、すなわち人生観の第一の条件とする観点を何におくかという事について、自分の気分を第一におこうとするものを気分本位というものである。毎日の価値を気分で判断する。今日は終日悲観しながらも、一人前働いたという時に、悲観したからだめだというのを気分本位といい、一人前働いたから、それでよいというのを事実本位というのであります。  (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.169-171

 森田先生が言われるように自分の評価を気分の良し悪しで決めてしまうのが気分本位の元の意味ではある。神経症の人は、症状があったからダメで、ムダに一日を過ごしても症状がなければよし、というように症状の有無で判断しがちであるから、症状も気分の一種と考えることもできる。気分は天気のようなもので自分の力ではどうにもならない。症状を消そうとジタバタすればするほど注意が内向きになってかえって症状を強めてしまうのだから、自分の力ではどうにもならない、とあきらめるに限る。気分の良し悪しや症状の良し悪しに一喜一憂せずに、できることを積み重ねていくことが大切である。

2011年2月25日 (金)

神経質礼賛 639.マグネシウムの摂り過ぎは危険

 精神科病院に入院している患者さんは便秘になりやすい。精神科の薬には便秘の副作用のある薬剤が多いことが主な要因であり、さらに運動不足も一因である。便秘の薬を服用している患者さんもよくいる。大腸刺激性下剤のラキソベロン、プルゼニドなどをよく使うのだが、効果が不十分だったり薬の量の調整がうまくいかったりすると看護師さんたちは口を揃えて「カマ(酸化マグネシウム)を処方して下さい」と言ってくる。

 確かにマグネシウムは便を軟らかくしてくれて、大腸刺激性下剤に比べて作用がマイルドである。看護師さんたちの間では安全無害というイメージが定着しているようだが、最近では高マグネシウム血症をきたして死亡する例が報告されている。従来はその危険性があまり認識されていなかった。高マグネシウム血症による症状は、悪心・嘔吐、口渇、血圧低下、徐脈、皮膚潮紅、筋力低下、傾眠などがあり、重症になると呼吸抑制、意識障害、不整脈、心停止をきたすことがある。一頃流行った「にがりダイエット」でマグネシウムを多量に含んだ「にがり」を飲んで死亡する事例もあった。マグネシウム製剤による死亡事例の報告が次々と出たため、20089月には製造販売会社から「重篤な高マグネシウム血症(死亡例を含む)が報告されています」という注意を喚起する文書が出て、「長期投与する場合には定期的に血清マグネシウム濃度を測定するなど特に注意すること」と記載されていたが、現実問題、手軽な下剤として常用されているカマのために、わざわざ定期的に血清マグネシウム濃度を測定することはありえないのではないかと思う。

 腎機能が低下している高齢者では血中濃度が上がりやすいため、特にマグネシウムの摂り過ぎは危険である。栄養機能食品としてのマグネシウムの摂取量上限は1日300mgとされているのに比べると、便秘薬として処方されるマグネシウムの量はずっと多い。酸化マグネシウムMgOは便秘症に対して1日2g処方することになっているので、マグネシウムの摂取量は(MgOの質量比を24:16と計算して)1200mgとなる。やはり神経質人間としてはマグネシウムの処方については慎重になる。なるべく運動や歩行訓練への参加を促したり、胃腸の動きを改善する薬を併用したりして、酸化マグネシウムは処方するとしても通常は1g、最高で1.5gまでに留めている。

2011年2月23日 (水)

神経質礼賛 638.少し光がさしてくる

 いつも通勤途中に歩いて横を通るお寺、華陽院(けよういん)の掲示板が2月になって変わった。

いくら落ち込んでも

ここには少し

光がさしてくる

     榎本栄一

という詩が貼られている。この詩の作者・榎本栄一(1903-1998)は念仏詩人と呼ばれ、仏教に根ざした詩を多数作っている。心の中で仏様と向き合えば落ち込んでいても救われる、ということなのだろう。お寺の掲示板にはピッタリの詩である。

 神経質人間は概して欲張りであり、完全欲が強い。しかも楽をして結果が得られないだろうかとムシのよいことを考えがちである。しかし、何でもそうやすやすと思い通りにうまくいくはずはない。あれもダメ、これもダメと悪いところを見つけては落ち込むことになる。そこでふてくされてやることを投げ出したり逃げてしまったりしたのでは負のスパイラルにはまるだけである。嫌な気持ちはそのままにして、小さいことでもよいから今できることを積み重ねて行動していく。すると少しずつ光がさしてくるように、物事がうまく回り出すのである。

 完全欲は決して悪いことではない。森田正馬先生は「完全欲の強いほどますます偉い人になれる素質である。しかるにこの完全欲の少ないほど、下等の人物である。この完全欲をますます発揮させようというのが、このたびの治療法の最も大切なる眼目である。完全欲を否定し、抑圧し、排斥し、ごまかす必要は少しもない」(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.32)と完全欲を大いに肯定しておられた。

理想が高ければ、目標が高ければ、今の自分はまるでダメなように思える。しかし山登りも一歩一歩の積み重ねだ。高い山を見れば、大変そうだなあ、大丈夫かなあ、とため息が出る。いざ登り始めると、うっそうとした木々に覆われて景色が見通せないところもある。先が見えない不安をかかえながら黙々と少しずつ歩いていくうちに、少し光がさしてやがて視界が開けるようになるものである。私たちの日常生活も同様なのではないだろうか。

2011年2月21日 (月)

神経質礼賛 637.ことばの力

 一昨年、いつも通勤で利用する駅の前に通信添削で有名なZ会のビルができ、その中に地元出身の詩人・大岡信さんの作品を展示した「大岡信ことば館」ができた。そのうち入ってみようかと思いながら、「いつでも行けるからいいや」になっていて、先週初めて入館してみた。

 ことば、それも詩をテーマとした展示館は今まで見たことがない。いったいどんな展示なのかと興味深い。1Fには大岡さんの年譜とともにいくつかの詩が展示されている。2Fへ上がる階段は広い吹き抜けになっていて、白い壁にレリーフで大きく詩が展示されていた。親友の臨終場面で作られた詩で、心を打たれる。2Fの広い展示スペースの中央部分には天井から細い糸で吊るされた文字たちが並び、空中に詩が浮かんでいるように見える。大岡さんの書や大岡さんの詩が刻まれた陶芸なども展示されている。別室には大岡さんの詩作ノートが展示され、推敲して何度も書き直している過程がわかる。やはり詩人は一つ一つの言葉の持つ力を引き出すために全精力をつぎ込んでいるのだろう。そして紡ぎ出した言葉たちが言霊となって読む人の心を動かすのだろう、と思った。

 森田療法でも「森田のことば」としてよく使われる言葉が数多くあり、今まで当ブログで紹介してきた。森田正馬先生が御自身の神経症を克服した経験をふまえた上で患者さんを指導する際に使われた言葉たちは、ただ表面的に読んでいるだけでは響かない。例えば「あるがまま」をお題目のように唱えているだけでは、森田療法は宗教ではないので何の御利益もない。症状は辛くても逃げずに行動していく体験を通して、初めて本当の理解ができて(体験的理解)、言葉たちもキラキラと光輝き出すのである。そして、辛い時や再び壁にぶち当たった時に、力を与えてくれるのだ。

2011年2月18日 (金)

神経質礼賛 636.がんになった時の心配

 2月12日付の毎日新聞に、がんになった場合に何が心配かなどといったアンケートについての記事があった。調査会社がインターネットで全国の成人男女1000人に行ったアンケートである。それによると、一番多かったのは「治療費(経済的負担)」で72.3%、次が「死」の55.5%、「痛み」が53.3%だったそうである。また、過半数の人は将来自分が、がんになる可能性を感じており、4割程度の人が「がんは治る病気である」と考えている、という結果だったという。

 がんの治療は日進月歩であり、体の負担が少なく後の生活に影響が少ない手術法が工夫されたり、より副作用の少ない抗がん剤が開発されたりしている。種々の先進医療も実用化されている。また、仮に進行がんだったとしても痛みをコントロールする治療法が定着し、がんはあっても仕事や家事や趣味で充実した生活が送れるようになってきた。10年前、20年前に比べたらQuality of Lifeはずいぶん向上したと言えるだろう。その反面、新しい治療法や治療薬は自己負担が多く、経済的な負担が問題となっている。

 今回のアンケートはインターネットによるものなので、回答者を寄せた人は、普段からインターネットをよく使い先進的で社会問題に関心を持っている人たちである可能性があるので、無作為抽出でのアンケートに比べたら偏りはあるかもしれない。しかし、長寿社会で誰もがいつかはがんになる時代となっているだけに、高額治療費の問題は早急に何とかしなくてはならないはずだ。また、がんにかかった人からすれば、やはり「死」への不安や「痛み」などの身体的苦痛に対する心配は、かなり大きいのではないかと思う。「痛み」は精神状態が大きく影響するものである。モルヒネを使った治療も有意義ではあるけれど、森田療法を応用した「生きがい療法」のように毎日の生活の中で少しでもできることをやっていくことで注意が自分の外に向かうようになると結果的に苦痛が軽減するということもある。

 誰の体内にもがん細胞はできている。がんにかかっていない人であっても、今のところ免疫システムが異常細胞の増殖を防いでいるだけのことである。がんを恐れる神経質人間としては、タバコの煙や多量飲酒などの危険因子を少しでも減らして、より健康な部分を保って老いていきたいものである。

2011年2月14日 (月)

神経質礼賛 635.お大事に?

 医療機関にかかって最後に会計を済ませた時に受付の事務員から言われる言葉は「お大事に」と決まっている。調剤薬局で薬を受け取る時も同じである。「お大事に」とは無理をなさらずにじっくり療養して下さい、くらいの意味だろうと思う。診察医も「お大事に」で患者さんを送り出すことが多い。身体の病気やケガ、精神病の場合には、確かに「お大事に」なのだけれども、神経症の場合は「お大事に」はどうもよろしくないように思う。

 うつ病の人に「がんばってね」と励ますのはよくない、ということは広く知られるようになった。真面目・几帳面・責任感の強い性格特徴を持ったメランコリー親和型の人はがんばり過ぎてオーバーワークとなり、うつ状態に陥りやすく、さらには本格的なうつ病になってしまうことがある。本人は「これではいけない」とがんばろうとするのだがエネルギーが枯渇した状態では動きが取れない。この時にがんばれと励ましてしまうと、「自分は怠け者でみんなに迷惑をかけて申し訳ない」と思い込んで逆効果となってしまうわけである。「今は休むのが仕事」という対応が必要になってくるので、「どうぞお大事に」がピッタリくる。

(うつ病のストライクゾーンが極端に広くなった現在、このような古典的うつ病の割合は少なくなった。いわゆる「新型うつ病」(223話)・「30代うつ」・「擬態うつ病」(287話)・「逃避型うつ」・「5時までうつ病」などと呼ばれる自己中心的で他罰的な性格傾向に起因し、昨今の不安定で劣悪な雇用情勢も背景にあると思われるような病態では、単純に「うつは休め」(328話)という対応では解決は難しい。)

 一方、神経症は、よくあいさつ文にある「御自愛下さい」が行き過ぎた状態である。症状のせいにしてやるべきことをやらない生活態度が身についているのだから、「お大事」にしていたらいつまでたっても治らない。ますます症状に注意が向いて症状が悪化するという悪循環をきたすばかりである。症状を抱えたまま、不安なまま、それを何とかしようとすることをやめて、日常生活でやらなければならないことに手を出していく。神経症の症状はあっても死ぬことはないのだし、普通の仕事はできるのだ。「できない」のではなく「やらない」だけなのである。ビクビクハラハラのまま最初の一歩を何とか踏み出せば、よりよく生きたいという「生の欲望」が強い神経質性格を持った人ならば、動き始めた自転車のように、日常生活が回り出す。神経質が仕事や勉強や家事や対人関係に大いに活かせるようになってくる。そしていつしか「症状」を忘れているのである。神経症には「お大事に」よりも「辛くてもがんばろう」が合っていることが多いだろうと思う。

2011年2月11日 (金)

神経質礼賛 634.受験の付添

 子供から聞いたところでは、最近は男の子でも大学受験に母親が付いていくことがよくあるらしい。仕事を休んで付いて行き、ツインの部屋に息子と泊まる母親もいるのだそうだ。親の面接があるという某お嬢様大学だとか、寄付金をいくら出せますかという交渉のあるような医歯系私立大学の場合は、本人よりも親の方が重要なのかも知れないけれど、普通の入試に親が付いて行ったところで試験会場に入れるわけでもなし、することもないはずだ。第一、親と一緒に泊まるのを本人は嫌がらないのだろうかと疑問に思う。と思ったら、何と子供の受験中に親が待機する場所を用意している私立大学があるという話を聞いた。

 最近では、大学受験に限らず、会社の入社式にまで親がついてくるという話もある。今はやりの「婚活」も親付きがあるのだそうだ。これではいつまでたってもコドモのまま。精神的な自立はできないのではないかと危惧する。

 神経症に悩む人たちも、その親が過保護・過干渉なことがしばしばある。森田正馬先生の場合、父親は厳格で母親が過保護であり、14歳頃まで夜尿症があった。中学2年の時に心臓病にかかり2年間治療を受けたが、後にこれは神経質によるものだったと述べておられる。中学の最初2、3年は知人宅に下宿し、母親からの分離不安があったのかもしれない。その後は自炊生活をし、最後の2、3年間は寄宿舎で生活する中で次第に心身ともに鍛えられていったようである。鈴木知準先生の場合は両親がかなり甘かった。知準先生は中学生時代、不眠の腹いせに家を壊そうとしたり、親に空気銃を買ってもらって雀を撃って鬱憤晴らししたり、とやりたい放題だった。いろいろな治療を受けたが効果がなく、森田先生のところに入院させてもらおうと診察を受けたが断られ、父親まで叱られた。森田先生の奥さんの取りなしでやっと入院させてもらえた。「あの時若し、あたヽかい奥様がゐられなかッたら、私の現在は、おそらく田舎で、相変わらず神経質になやみつヾけてゐたことヽ思ふ。之を思ふたびに、奥様に対する感謝の念にかられる」(森田正馬著 復刻版「久亥の思ひ出」より)と後に述べておられた。知準先生は健康的な家族関係の中でいわば再教育を受けて完治したばかりか見違えるように勉強に打ち込むようになっていった。そして旧制浦和高校、東京大学医学部へと進学し、森田療法の後継者の一人になったのである。

 親としては心配でつい先回りして子供のためにやってしまいがちだが、それでは子供のためにならない。子供の精神的成長のためには「かわいい子には旅をさせろ」も大切である。

2011年2月 7日 (月)

神経質礼賛 633.伊達直人現象

 昨年末から児童養護施設に漫画「タイガーマスク」の主人公・伊達直人名義でランドセルや現金などを寄付する行動が相次いでいる。どこの施設も運営が苦しく、なかなか新しい文房具や衣類などを子供たちに買ってあげられない中、とても喜ばれている。世の中まだまだ捨てたものではない、温かい心の持ち主が大勢いる、というのが大方の反応である。ただ、せっかくの寄付も役に立たなくては意味がない。あらかじめ施設に問い合わせて必要なものかどうか確認してから贈ってほしい、というようなことをTVニュースで言っていた。災害支援の時も、善意ではあるのだろうけれども使えない古着を大量に送りつけてかえって足を引っ張ってしまうケースがある。食品だと衛生上の問題も生じる。神経質が足りないと、かえって迷惑をかけることになる。相手の立場に立った、「ものそのものになる」ことが大切だろうと思う。

 「社会的ひきこもり」の第一人者である精神科医・斎藤環さんによる123日付毎日新聞「時代の風」というコラムの「タイガーマスク運動 キャラの善意は偽善か」と題する記事はとても興味深かった。今回の現象を「祭り」「キャラの善意」というキーワードで捉えているのは大変面白い。コスプレのように慈善キャラになりきりたいという欲望が祭りを連鎖させたと斎藤さんは分析し、この「キャラ祭り」は日本人ならではのナイスな「発明」だった、と評価している。

今回の現象は一時的なもので終わるのではないか、という見方がやや多いようだ。しかし、ボランティア活動や寄付などで社会貢献しようという人を増やす起爆剤になったことは間違いないように思う。

 神経症の症状に悩む人たちを森田正馬先生は「明け暮れに おのが苦悩を いたはりて 子等も人をも 思ふひまなし」という短歌で評しておられた。症状探しで頭が一杯になっている、というわけである。これが人を思い人のために行動していくようになると、小我の偏執から大我の拡張となって、いつの間にか自然と症状は気にならなくなっている。そして自己の存在意義を発揮できる人となっているのである。神経症に悩む人は、必ずしも伊達直人になる必要はないけれども、小さいことで良いから、周囲の人の役に立つことを探して実行していくと良いだろう。

2011年2月 4日 (金)

神経質礼賛 632.がんばれ受験生(その2)

 ちょうど3年前に同じタイトルで書いた(272)が、またまた我が家の子供たちの受験シーズンが巡ってきた。先日、受験料を三井住友銀行で振り込んだら、「合格鉛筆」をもらった。断面が六角形ではなく五角形・・・ごかく→合格、というわけである。何て気が利いたサービス、と感心する。スーパーの店頭には例によって合格グッズのコーナーがある。例年並んでいるキットカット(きっと勝つ)、コアラのマーチ(寝ていても木から落ちない)、Toppa(突破・トッポの限定版)などの菓子とともに、キットカットとコーヒーと五角形のマグカップ(合格マグカップ)をセットにしたものもある。ローカル商品では「絶対勝男クン」というカツオチップとピーナツが入った菓子がある。「必勝祈願DHA鰹パワー」と書かれている。カツオチップとはふりかけ「おかか」の茶色い部分を大きくしたようなもので、なかなかおいしい。受験生よりもオトウサンたちのビールのつまみに最適なような気がする。駅のキヨスクでも「頑張っている受験生に」という張り紙が目に付いて見れば、N700系新幹線のぞみ号の形をした紙箱に入れたキットカットが売られている。JR東海限定で値段は12枚入り840円と高いが、「のぞみがかなう」のだそうだ。

いくら縁起をかついだところで、試験は実力・その日の体調と気力・いくらかの運で決まるものだ。そうはわかっていても不安なので寺社で願をかけたり合格グッズを買ってしまったりするのである。

 緊張しやすい神経質な受験生にとってはつらい時期だろうと思う。何とか不安を追い払おうとすればするほどますます不安になってくるものである。試験前は誰だって不安なのであって、何とも仕方ない。いざ試験や面接に臨んでドキドキしても、「これは自然なことで想定範囲内のこと。緊張しないようでは困る」と開き直って、自分の状態を観察することはやめにして、とりあえず目の前の試験問題や面接官に注意を向けていくことが大切である。がんばれ受験生。がんばれ神経質。

2011年2月 2日 (水)

神経質礼賛 631.雪の日や あれも人の子 樽拾い

 ようやく日本海側の大雪は峠を越えたようだが、まだまだ大量の雪が残って後片付けに追われている地方もあるかと思う。表題の句は、江戸時代、8代将軍吉宗のもとで老中を務めた安藤信友(冠里)の作である。江戸城に登城する際に酒屋の丁稚小僧を見かけてよんだものだ。雪の日に薄着のままで御用聞きに回る小僧をかわいそうに思う気持ちがよく表れている。

 森田正馬先生は患者さんの指導の際に、よくこの句を引き合いに出された。

 人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しいと観ずるのを平等観というのであります。それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別苦しいというのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪するのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.40

 対人恐怖の人は、自分ばかりが気が小さくて人前でひどく緊張する、と悩むものだが、実は誰でも人前では緊張するものなのだ。TVで見れば何でもないように見えても、お笑い芸人や歌手や楽器演奏家やスポーツ選手といえども同じであって、緊張に悩んでいる人は少なくない。自分だけが辛いのではなく、誰もが辛いのである。辛くても仕方なしに行動するか逃げ回るかが健康人と神経症の違いである。私も若い頃は対人恐怖に悩み、他の人は何の苦もなく人前で話せていいなあ、と内心うらやましく思い、小心者の自分がとても情けなかった。この緊張さえなければ自分は何でもできるのに、と都合の良いことを考えた。差別観、そして高良武久先生の言われた「みせかけの防衛単純化」である。しかし、緊張するままに仕方なしに行動しているうちにだんだん「まあ、こんなものかなあ」と思えるようになっていった。そして自分だけが特別ではなく誰もが緊張するものだ、という平等観で考えられるようになった。今でも人前に出れば緊張してドキドキするけれど、自動車のエンジンをかけた時に自動的に普段のアイドリング時よりもエンジンの回転数が高くなるオートチョークみたいなもので、一種の準備状態なのだと思っている。緊張はあるのが普通であって、気が抜けて緊張が足りないようでは逆に大きな失敗をやらかす。緊張はあってよい。

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