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2011年2月 2日 (水)

神経質礼賛 631.雪の日や あれも人の子 樽拾い

 ようやく日本海側の大雪は峠を越えたようだが、まだまだ大量の雪が残って後片付けに追われている地方もあるかと思う。表題の句は、江戸時代、8代将軍吉宗のもとで老中を務めた安藤信友(冠里)の作である。江戸城に登城する際に酒屋の丁稚小僧を見かけてよんだものだ。雪の日に薄着のままで御用聞きに回る小僧をかわいそうに思う気持ちがよく表れている。

 森田正馬先生は患者さんの指導の際に、よくこの句を引き合いに出された。

 人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しいと観ずるのを平等観というのであります。それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別苦しいというのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪するのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.40

 対人恐怖の人は、自分ばかりが気が小さくて人前でひどく緊張する、と悩むものだが、実は誰でも人前では緊張するものなのだ。TVで見れば何でもないように見えても、お笑い芸人や歌手や楽器演奏家やスポーツ選手といえども同じであって、緊張に悩んでいる人は少なくない。自分だけが辛いのではなく、誰もが辛いのである。辛くても仕方なしに行動するか逃げ回るかが健康人と神経症の違いである。私も若い頃は対人恐怖に悩み、他の人は何の苦もなく人前で話せていいなあ、と内心うらやましく思い、小心者の自分がとても情けなかった。この緊張さえなければ自分は何でもできるのに、と都合の良いことを考えた。差別観、そして高良武久先生の言われた「みせかけの防衛単純化」である。しかし、緊張するままに仕方なしに行動しているうちにだんだん「まあ、こんなものかなあ」と思えるようになっていった。そして自分だけが特別ではなく誰もが緊張するものだ、という平等観で考えられるようになった。今でも人前に出れば緊張してドキドキするけれど、自動車のエンジンをかけた時に自動的に普段のアイドリング時よりもエンジンの回転数が高くなるオートチョークみたいなもので、一種の準備状態なのだと思っている。緊張はあるのが普通であって、気が抜けて緊張が足りないようでは逆に大きな失敗をやらかす。緊張はあってよい。

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