神経質礼賛 660.神経質でよかった(1)
『神経質でよかった』という題名の本がある。著者の山野井房一郎さん(1903-1981)は、会社で経理の仕事をしていたが、対人恐怖と書痙(緊張のため字がふるえてしまう症状)のため仕事ができなくなってしまった。官立(国立)大学病院で教授の診察を受けたところ「書字神経を切除すれば治る」と言われて納得がいかず、1929年、森田正馬先生のところに入院した。40日間の入院でまだ症状は治っていないように思われたが、会社を辞めて田舎に帰ろうとして先生に叱られ、ビクビクハラハラのまま出社したところ、苦手な重役の前でスラスラと思ったことが言え、書痙もしだいに良くなっていった。退院後も先生のもとで行われる座談会(形外会)の副会長を務め、森田先生亡き後は森田先生の助手をしていた古閑義之先生(慈恵医大教授→聖マリアンナ医大学長)のもとで行われた新生形外会に参加し、「同病相憐れむ」の精神で神経症に苦しむ人たちにアドバイスし続けた。独学で公認会計士の試験に合格し、東京青山に会計事務所を開業。経理や会計の専門書を20冊著作するとともに、1960年には『森田式生活30年の体験記録』という本も書き、これをベースとして晩年の1977年に『神経質でよかった』を白揚社から出している。私の勤務先の病院にあるこの本の表紙をめくると「森田秀俊先生 謹呈 山野井房一郎」と少し右下がりの大きな字で書かれている。もちろん字に震えはない。
本書の約三分の一にあたる第一部「人を創る」は森田先生の診療所での入院生活を中心に書かれていて大変興味深い。現在、私の勤務先の病院や大学病院で行われている森田療法では作業やレクリエーションなどのスケジュールがキッチリ決められている。そして清掃などの雑用も当番制になっている。マニュアル化されているので、入院患者数が多くても少なくても、たとえ治療者やスタッフが替わったとしても、スムーズに存続していくことができる反面、患者さんたちが創意工夫し、自発的に作業する部分が少ない。それに対して森田先生の診療所では、指示されて行動するのではなく、周囲を「見つめ」、自ら仕事を探して行動していくことが求められていた。山野井さんが入院した時も先輩患者さんたちは仕事探しに苦労していたようである。ある先輩患者は仕事が見つからなくて古い板塀を雑巾がけして「これが機械的の仕事の標本である。こんなことをするなら、入院費を払ってここにいるより、自宅に帰る方が双方にとって好都合である」と先生から叱られた。また、ある年配患者は、婆や(古参の女中)からミソ汁に入れるニラを取って来るように頼まれて、「よしきた」と勇んで畑のニラを全部取ってしまい、「お父っつぁんも当分入院だねえ」と婆やから宣告された。山野井さんも、椅子のクギが緩んでいたのを見つけて修理して先生から「君はなかなか適切な仕事をする」と褒められたかと思うと、庭の柿の実を取るように先生から言われて熟れていない実まで全部取ってしまい先生の御不興を買った。これは先生が大事にしていた柿でようやく実が成ったのだと婆やから聞かされる。生活の中で周囲をよく観察していろいろと工夫して行動し、時には失敗して先生や奥さんや婆やから叱られながら、「物の性(しょう)を尽くす」「己の性を尽くす」「人の性を尽くす」ということを体得していったわけで、まさに治療というより再教育である。森田先生は冗談半分に「ここにおける四十日の入院による修行は禅寺における三年間の修行に相当する」と言っておられたという。
最近のコメント