神経質礼賛 700.取越苦労
私も含めて神経質人間は、「もしああなったらどうしよう」「こうなったらどうしよう」とあれこれ先の心配をしがちである。それは、失敗や破局的な事態を防ぐのにとても役立つのではあるけれど、あまり心配し過ぎると、考え過ぎて疲れてしまうし、心配でがんじがらめになって動きがとれなくなってしまう。特にそれが自分の体調や心理状態にばかりに向いてしまうと、次々と「症状」が出てくることになる。森田先生は形外会高知支部の座談会(昭和9年11月5日)の際、疲労や疼痛は人間の安全弁である、と話し、さらに次のように述べておられる。
神経質は、その安全弁が鋭敏過ぎて、疲労感や病の感じが強過ぎて、その本人自身の感じのままに従った時には、何事にも大事を取り過ぎ、取越苦労が多過ぎて手も足も出なくなる。それでも神経質が、その身体の強いという証拠には自分でさまざまの症状を訴えながら、しかも相当の勉強もできている。かくの如く、神経質の心悸亢進とか頭痛・眩暈とかいうものでも、地震かあるいは自分の子供の急病とかいう時には、思いがけなく無理な活動ができ、あるいは一週間も不眠不休で働き、後に自分でも自分の強さに驚き、同時にいつの間にか病気の治っている事に気のつく事がある。これがもし、脚気衝心の時の心悸亢進とか、脳病の眩暈とかいう時には、いかなる場合にも実際に働く事は決してできない。すなわち実際の病気の時には、強いて働くのは無理であるが、神経質の場合には、それを自分勝手に無理と思うだけの事で、事実においては、強いて働いても、少しも無理ではないのであります。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.564)
私の場合、若い頃は対人恐怖や種々の強迫観念に悩まされた。何か自分にとって悪い状況が頭に浮かぶと、取越苦労の連鎖反応が止まらなくなって身動きできなくなってしまっていた。今でも取越苦労がなくなったわけではないけれども、何とか臨界点以下に収まっている。空に浮かぶ雲のように、心配が浮かんでは消え・浮かんでは消えの繰り返しで、心配を抱えながら行動している。不安はありながらも行動する習慣が身についたおかげで、どうやら安全弁が適度に機能しているようである。
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