神経質礼賛 750.求不可得
「求不可得」(求めて得べからず)は慧可(えか)大師の言葉だと言われている。慧可は名僧・達磨に参禅しようとして断られ、自ら左腕を切り落として真剣さを示し、弟子入りしたと伝えられている。森田正馬先生は「求めんとすれば得られず」ということで患者さんたちの前で話しておられる。
禅に「求めんとすれば得られず」という事がある。そうかと思うとバイブルには、「求めよ。しからば与えられん」といってある。だから我々は常に、いたずらに言葉尻の詮索をしてはいけない。哲理にあれ・俳句にあれ・常に言葉よりは、いかなる場合の事実を表現したものであるか、という事を見抜く事の心掛けを忘れてはならない。 (中略) 「求めよ」という事も、珍しいものが欲しければ探して行け、一円が得たければ、それだけ働けということである。手を出さなければ得られるはずはないぞ、ということの奨励の意味である。すなわち実行における事実を表現したものである。
次に「求めんとすれば得られず」というのは、これと比べて、思想と事実との相違であり、思念と実行の相違である。眠らんと求むれば眠られず・思わないようと欲すれば忘られず・気を落着けようとすれば、ますます不安になる・とかいうようなものである。私がこれを「思想の矛盾」として説明する事は、既に御承知の通りである。
強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいう事を、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、既に「あるがまま」ではない。なんとなれば「あるがまま」になろうとするのは、実はこれによって、自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるという事の「あるがまま」とは、全く反対であるからである。
「眠らなくとも決して身体に障る事はない」といわれて、「なるほどそれで安心した」といえば、直ちに不眠は治るのであるが、「そう思って安眠できるものなら、そう思う事にしよう」といえば、もはや決して眠られないのである。 (白揚社:森田正馬全集第5巻p.709-710)
神経質人間は手っ取り早く症状をなくそう・不安を解消しようとする。これが「はからいごと」である。症状を消すために・不安をなくすために行動したのでは、かえって症状や不安へのとらわれを強めて逆効果になってしまうのである。森田療法を表面的に理解した人は、「あるがまま」になろう、行動して症状を忘れよう・不安をなくそう、となりがちであり、それではなかなか効果が出ず、「森田療法は効かない」ということになる。効かないのではなく、やり方が間違っているのである。
大原健士郎先生は「求不可得」について、解決を求めてあせっても、道は開けないという意味だと解説しておられた。そして「すべては時が解決してくれる」とも述べておられた。症状を振り払おう・不安をなくそうとジタバタすることをやめて仕事を探して行動していけば、いつしか症状や不安はないも同然となっていくのである。
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