神経質礼賛 769.源頼朝の性格
神経質人間だった徳川家康(11話・209話)が尊敬していた武将は武田信玄(729話)と源頼朝である。武田信玄もまた神経質人間ではないかということを以前に書いたが、頼朝はどうだろうか。今回考えてみたい。
小学校の社会の教科書には「1192年源頼朝が鎌倉幕府をつくる」と書かれていて皆様も「いいくに作ろう」という語呂合わせとともに覚えておられることだろう。歴史的には初めて本格的な武家政権を確立したという大きな功績があるけれども、小説やドラマでは弟の義経や範頼を死に追いやった頼朝はどうも立場が悪い。天才的なヒーロー・義経の悲劇を描けばどうしても頼朝は悪役になってしまう。しかし頼朝は疑い深く血も涙もない冷酷非情の人物かというと、そうでもなかったようだ。特に自分の子供には大甘で、息子の頼家が巻狩りで鹿を射止めた際、大喜びで妻の政子に知らせを送ったところ、政子からは武将の嫡子ならば当然である、とたしなめられたというエピソードがあるくらいである。
平治の乱で父・義朝が敗れて殺され、頼朝も捕えられた。斬られて当然のところを平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより処刑を免れ、伊豆国蛭が小島に流された。当時は川の中州のような島だった。現在では陸地になっており、頼朝・政子像の周囲にはイチゴ農家のビニールハウスが立ち並ぶ。流刑とは言っても、政治的に失脚したとか戦いに敗れた人物が流刑先で密かに処刑されることは歴史上よくあることだ。頼朝の場合は、平氏から見て最も危険な人物であるから、いつ殺されてもおかしくない状況だった。常に監視され、死と隣り合わせの境遇が14歳の時から34歳になるまで続いていたのだから疑い深くなったのも当然と言える。平家打倒のために挙兵した後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)から、平家を倒せという令旨(りょうじ)を受けた際、頼朝は挙兵には慎重だった。しかし、令旨を受けた源氏は討つという平家側の方針が出たため、やむなく挙兵に踏み切ったのだ。頼朝の挙兵は失敗に終わり、安房に逃れた後、関東で兵を集め、富士川の合戦ではまともに戦わずに勝つことができた。普通ならば京に進軍するところなのに、調子に乗って深追いはせず、しっかり足場を固めていったのは慎重な頼朝らしい。頼朝は御家人たちを上手にコントロールし着実に政権を掌握する布石を打っていく。そんな中で平家を滅ぼした大功績があったとはいえ、策略家の後白河法皇の思う壺にはまって行動してしまう義経は、頼朝からすれば思慮の足りない人物と見えても仕方なかっただろう。
先を読んで細かな配慮をする頼朝は、分裂気質というより神経質に近いのではないか、と思えてならない。徳川家康は鎌倉時代の歴史書・吾妻鏡を読んでそれを参考にしていたと言われている。人質生活を送った家康にとって、流刑生活を送った頼朝は親近感が強かっただろうし、同じ神経質人間として共鳴するものがあったのかも知れない。
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