神経質礼賛 770.人生の意味の発見
森田療法では、行動本位(642話)ということをよく言う。しかし、ただやみくもに働けばいいというものではない。また、症状を忘れるために働くものでもない。森田先生は次のように言っておられる。
ここの治療法で、臥床から起きて庭に出る事になる。その時に、少しも筋肉労働をしないで、静かに庭の隅のごみを拾うとかいう事をする。この時に、我々は掃除によって、庭が奇麗になり、気が晴ばれする。この掃除という事の意味がわからないで、ただ庭の中の落葉を拾って回って、そこら中をフラフラと歩き、あるいは誰かが箒で、サッサと一掃きすれば、すぐにも掃除のできるのを、わざわざ手で拾っているとか、なんでも終日、何かと手を動かしておればよいとか思っている人は、まだ意味の発見のできない人である。普通の人が、ちょっと見ると、全く無意味のような事でも、実際に当たってみると、そこに大きな人生の意味がある。野依氏の『獄中四年の生活』の内に、同氏は麻つなぎの哲学を得たとの事が書いてある。人生は、機械的の運動や屁理屈のほかに、極めて些細な家庭の仕事の内にも、人生の意味の発見があり、私のところでは、この意味で神経質が全治し、あるいは悟りの境涯に達する事もできるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.269-270)
単に「症状」を改善するだけでなく、神経質性格の良さを発揮し、よりよく生きていくためのカギはごく平凡な日常生活の中にある。仕方なしにやっている何でもない作業も「ものそのもの」になってみれば新たな発見があり、やりがいも出てくる。森田療法の自助グループ「生活の発見会」の名称もそこから来ているのだろうと思う。『あるがままに導かれて』(白揚社・水谷啓二追想録編集委員会編 p.404)によれば、昭和32年創刊の機関誌『生活の発見』の名前は永杉喜輔群馬大教授が万座温泉につかりながら思いついたという。会の創始者・水谷啓二さんは、森田先生が示した正しい生活態度をつかめば神経質による症状は自然に治っていくという信念を持っておられた。そのことを、時代を超えて人々の毎日の生活の上に具現し、社会にひろめていきたいと考えたそうである。水谷さんの思いがこめられたすばらしい名称だと思う。何も病院や精神科クリニックやカウンセリングに行くばかりが苦しい症状から脱却する方法ではない。むしろ足元の日常生活の中にそれはあるのだ。そして、せっかく神経質という優れた資質を持ち合わせているのだから、神経質を最大限に生かしていかなくてはもったいない。
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