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2012年6月29日 (金)

神経質礼賛 800.体験的理解

 一昨日、仕事から帰って天気予報を見ようとTVをかけたらNHKのローカル番組に教育学者の齋藤孝さんが登場していた。齋藤さんはベストセラー『声に出して読みたい日本語』で有名になり現在は明治大学教授となっておられる。番組では、明大で教員志望の人たちを独自の方法で指導する様子が紹介されていた。裸足になって四股を踏むとかお互いにおんぶして歩くとか大きな声で「雨ニモ負ケズ」を読むとか、理屈ではなく体を動かし声に出す教育である。その独自の教育法の原点が齋藤さんの高校時代にある、ということで、県立静岡高校が画面に出た。齋藤さんは高校時代、テニス部で週7日練習していたという。テニスの練習を通じて体で覚えることの大切さを学んだということだ。さらには、漢文の先生との出会いがあった。漢詩を中国語で読み、韻を実感させるということをしていた先生が登場した。音読の大切さを学んだという。この先生には齋藤さん以前に私もお世話になっている。私は理系だったから普通の授業で教わることはなかったが、3年の夏休みに補習をやって下さり、短い時間だったが漢文を基礎からしっかり教えていただき、目からウロコが落ちる思いがしたものだ。


 頭で理解しただけの知識では揮発しやすいし、実際の役に立ちにくい。一方、行動を通じて体で理解したものはしっかり定着するし、実際の場面で応用がきく。森田療法もまさにそれであり体験的理解が重要なのである。


 私が浜松医大に勤務していた頃、
50代の大学教授が入院したことがあった。この人は不安神経症(パニック障害)であり、薬だけでは効果が薄く、森田療法を希望して入院してこられたのだった。大原健士郎教授の著書など、森田療法関係の本を20冊近く読んでおられ、知識は非常に豊富にあったが、どうも行動が伴わない面があった。結果としては軽快退院だったけれども、不安なまま行動していくという姿勢が体にしみ込んでくれたならばもっとよくなっただろうに、と思ったものだ。


 神経質人間は理屈好きで頭でっかちになりやすい。しかし「あるがまま」を呪文のように唱えたところで行動しなければ何の役にも立たない。森田正馬先生の甥で養子となり三島森田病院を創立した森田秀俊先生は、「理屈はいらない。理屈は君にとって役に立たない」「理屈ではない。事実を確実に体験するように。理論でいくとむずかしいが、事実は容易である。体験してそれに理論がついてくる」と患者さんたちを指導しておられた。私もしばしば「百の理屈より一つの行動」と言っている。不安を追い払おうとしてもなくならないばかりか、ますます不安は追いかけてくるものだ。不安をなくそうとはからうことが不安を強める悪循環となる。自分の気持ちはいじらずにそのままで行動していくうちにいつしか不安は薄れていく。その要領を体で覚えてしまえばこっちのものである。「症状」に困らなくなるばかりか、神経質を活かして仕事や勉強がはかどっていくのである。

2012年6月25日 (月)

神経質礼賛 799.LED電球の誇大表示

 高価だったLED電球が少しずつ安くなってきた。原発停止による電力不足が懸念される中、国産メーカーでは政府からの要請に応じて、従来型の電球の製造を中止する動きがある。LED電球の普及は省エネルギーの上で大変よいことである。

 しかし、神経質人間としては、以前から気になっていたことがある。データで見る限り、LED電球は暗いのだ。例えば60W電球あるいは電球型蛍光灯ならば810lm(ルーメン:光束の単位)程度なのだが、それと同程度のLED電球はまだ少ない。国産品ではそれを超える製品がようやく出始めたところである。安価な輸入品に至っては、400lm前後しかないのに60W型と平気で表示している。特に電球色のものは白色に比べて暗くなる。LED電球の特性上光の広がりが狭いため、中央の直下であればそれなりの明るさが得られるものの、全体では暗くなってしまう。そんなわけで、十分な明るさが得られないとみて、我が家ではまだLED電球は買っておらず、電球型蛍光灯が主流である。消費電力の面では電球型蛍光灯は従来電球の4分の1程度であり、LED電球は5分の1程度と言われているから、蛍光灯がそれほどLED電球より劣るわけではない。十分な明るさ、光の広がりを持ったLED電球が普及してきたら、取り替えていこうと思っている。

 最近になって、誇大表示の問題が指摘され、中国製などの格安品を販売している12社に対して消費者庁が不当な表示をやめるようにという命令を出した。やはり、データをよく見て、自分でよく調べてから購入するという神経質があれば、誇大表示に騙される危険性は少ない。

2012年6月22日 (金)

神経質礼賛 798.台風が通った後

 19日(火)の夜、台風4号が上陸した。その晩は当直で病院にいた。窓に打ち付ける横殴りの強い雨には窓ガラスは大丈夫かと心配になる。換気扇口から逆に吹き込む風で換気扇のフラップがバタンバタンと大きな音を立て、サッシの網戸が左に右に動き回り、強烈な突風で建物が揺れた。幸いなことに停電はしなかったが、近隣では停電した地区もあり、県内では翌日の昼過ぎまで停電していたところがあったようだ。停電したら病院内では水が止まりトイレも使えずエレベーターが止まって患者さんたちの食事は人海戦術で運ばなくてはならなくなってしまう。昨年の計画停電で経験済みである。そうなったら大ごとだ。6月から台風上陸では日本列島も亜熱帯並である。


 台風が通り過ぎた後もカラっと晴れるわけではなく、翌朝はとても蒸し暑い。ニュースで自宅近くでは街路樹の高さ15
mの大木が倒れて道路を塞いでしまったという出来事があったのだと知った。昼休みに病院建物の周囲を見てみる。いくつかあったツバメの巣はあの強い風にもかかわらず無事だった。実にうまく作ってあるものだと感心する。子ツバメたちの姿も見え隠れしている。

 外来待合室から見える白砂風の庭(675話)には風で飛んできた木の折れ枝や葉がたまっていた。手で拾って除去する。時間がかかってもどかしいけれども、だんだん綺麗になっていくのを見るとうれしくなる。これが私の秘かな作業療法である(笑)。

2012年6月18日 (月)

神経質礼賛 797.長調を短調に変えると

 TVのCMに使われている曲を聞くと、つい何の曲だろうと反応してしまう。最近、耳についたのが、消臭剤「車のファブリーズ」のCMである。CMの前半は「アルプス一万尺」の歌を短調にしてリズムを変えたものだと気づいた。そして後半は元通りの長調である。前半の最後の音だけ長和音にしてあるのは芸が細かい。ファブリーズを使った途端に爽快になる、ということを曲の上で示したかったのだろう。「アルプス一万尺」の歌詞は日本で作られたもので、元歌はアメリカ独立戦争の頃に作られた民謡Yankee Doodleなのだそうだ。短調に変えるとずいぶん印象が変わるものである。

 

 神経質な大作曲家マーラー(402話・607)も交響曲第1番「巨人」第3楽章で、よく知られた民謡を短調に変えて引用するということをやっている。私が中1の時の音楽の教科書には輪唱で歌える英語の歌「Are you sleeping?」が載っている。元はフランス民謡「フレール・ジャック」。日本では「グーチョキパーで何作ろう」という替歌もある。マーラーはこれをスローテンポの短調にして、コントラバスの演奏から始めている。「荘重に、威厳を持って、引きずらぬように」と書かれてはいるが、足取りは重く、まるで葬送行進曲のようにも聞こえる。

 

 音の配列は同じでも長調と短調とではガラリと曲想が変化する。私たちの周囲で起こっている出来事は同じであっても見方によって長調にもなれば短調にもなるものである。神経質人間は悪い所ばかりに目が行き、悲観的に考えがちである。どうしても短調が多くなる。良いことがあってたとえ賞賛されても手放しで喜ばない。これは生の欲望が強く完璧を求めるがゆえである。森田正馬先生は次のように言っておられる。

 

 ヒステリー性や発揚性素質の人は、ほめられると、あっさりとそのまま喜ぶが、神経質は、なかなかそう簡単には行かない。妙なものです。神経質はほめられると、お世辞でないかと疑い、またこれを実際としても、ほめられる以上の責任を感じ、なおその上に、もし将来、その期待に反するような事があっては、かえってその信用が失墜してしまうという風に、取越苦労する。面白いものです。「勝って兜の緒をしめよ」という事があるが、神経質にこんな事を教えたら、寝ても兜を脱がなくなるから随分首筋が痛くなります。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.379-380


 もっとも、悲観的、短調だらけでも悪くはない。その性格を生かせば、より質の高い仕事ができるのが神経質である。これではまだまだダメだ、と一層努力をするのである。自惚れて油断して失敗することも少ない。神経質であって大いに良い。

2012年6月15日 (金)

神経質礼賛 796.考えない習慣

 6月4日付毎日新聞夕刊第2面に特集ワイド「ネット時間が思考力を奪う」というタイトルの記事があり、興味深く読んだ。ネットやTVからの情報に流されて自分で考える能力が衰えているのではないか、という趣旨の記事である。仕事以外でネットを使う時間が20代男性では1日1時間を上回っているという。スマートフォンの普及によりさらにネット利用時間が倍増するという見方もある。それに対して本を読む時間は20代男性で21分。全世代平均で13分なのだそうだ。さらに記事では「深く考えない」現象が政治にも広がっていると論じている。大衆迎合、目先のことに対症療法的に応じるしかできなくなっているというわけだ。衆愚政治の果てには大衆扇動能力に長けた独裁者の登場となるのだろうか。

 確かに、あれこれ考えながら本を読むのに比べれば、TVやネット情報を得るのは安楽である。しかしTVやネット情報は断片的であり、その情報を流している事実上匿名の人物の意図に気づかないまま、それを鵜呑みにしてしまう恐れがある。TV番組では「やらせ」や捏造が問題になるが、ネット情報ではそのあたりの検証もなされていない。ワープロを使っているうちに漢字が書けなくなるように、TVやネットからの情報に頼り切って考えない習慣が身に付いてしまっては困る。脳は使わなければどんどん退化していく。TVやネットの情報に対しては、まず疑ってかかる、そして自分の頭であれこれ考えてみる、という神経質人間が得意とするスタンスが必要になるだろう。


三島森田病院には森田正馬先生が書かれた次のような色紙が残っている。

「常に何かを食ひたいと思ふ人は健康な人であり

 常に何かを知りたがり疑ひ考へ工夫する人は

 精神優秀なる人なり」

2012年6月13日 (水)

神経質礼賛 795.ヴィオラ

 前回、院内コンサートでヴィオラを弾いたことを書いた。ヴィオラという楽器はオーケストラでは縁の下の力持ち的な役割を担っている。おいしい主旋律が回って来ることはめったにない。音色もヴァイオリンを金に例えるとしたらヴィオラはいぶし銀である。根気強く音を刻んだり、和音の内声部を支えたりするのが仕事である。ことにヨハン・シュトラウスのワルツやポルカではヴィオラの仕事は単純労働的である。ヴァイオリンやチェロには子供が弾く小型の分数楽器が存在するが、ヴィオラにはない。だから少年少女の天才ヴィオラ奏者は存在しないのである。昔は壊れた音楽家がヴィオラを弾くようなことを言われていたこともあったらしい。学生オケではヴァイオリンを希望しても下手だとヴィオラに回って下さいということにもなる(皇太子様が学習院オケでヴィオラを弾いておられる理由は不明である)。しかし、室内楽でもオーケストラでもヴィオラがしっかりしていないと音楽がぐちゃぐちゃになってしまう。目立たないけれども全体のバランスを取る重要な役割を担っているのだ。ヴィオラの音色は柔らかく、聴き手にやさしい。現代の作曲家たちはそんなヴィオラを主役とした曲も作曲するようになってきている。

 以前、楽器と性格について書いたように(10話)、楽器と弾き手の性格には強い相関がある。自己主張が強いヴァイオリンは少々ヒステリー性を帯びた神経質といったところに対して、周囲に気配りしながら粘り強く待つことのできるヴィオラは完成された神経質、といったところなのかもしれない。学生オケの時に、「ヴィオラ弾きの女性(男性)と結婚するとシアワセになれる」という話を聞いたことがあるが、確かにそうだろうなあ、と思ったりもする。

2012年6月11日 (月)

神経質礼賛 794.初夏の院内コンサート

 一昨日、病院行事のコンサートがあった。患者さんたちの音楽クラブによる歌とハンドベル、ボランティアの方々によるフラメンコ舞踊、それにまだ時間があって、今回も前座として私が楽器演奏をすることになった。昨年の10月に院内コンサートが行われた時にはヴァイオリンを弾いた(714)ので、今回はヴィオラを弾くことにした。

 持ち時間20分以内ということだったので、まずヴィオラの音色を知っていただくためにバッハ作曲無伴奏チェロ組曲第1番プレリュード、次にチェロの名曲として知られるサン=サーンス作曲「白鳥」。その後、全員で歌う「みんなで歌おうコーナー」には「夏の思い出」。後半は市販のヴァイオリン伴奏用CDを流用してビゼー作曲カルメンから「ハバネラ」、最後はホルスト作曲「惑星」から「木星」というプログラムにした。「白鳥」と「夏の思い出」は、以前にシンセサイザーソフトに楽譜を自分で打ち込んだものがあって、それから伴奏CDを作成した。不測の事態に備えて伴奏CDは2枚用意しておいた。MP3プレーヤーにも取り込んで通勤電車の中で聞いて頭に叩き込む。

 さて、安易に引き受けてしまったけれども、あまり練習している時間もなくて、神経質ゆえ前日の夜はいろいろなことが心配になる。医大生の頃に大学附属病院ロビーコンサートでバッハの無伴奏ヴァイオリン曲を弾いて、うっかり途中をワープして短縮版にしてしまったなあといういやーな思い出が頭に浮かんで寝付けなくなる。ついつい頭の中で明日弾く曲を最初から最後まで弾いたつもりで楽譜を思い出すという作業を繰り返してしまう。こうなると強迫観念の世界である(苦笑)。やっと寝付いたら地震で目を覚ます。午前4時ちょっと過ぎだ。何かが落ちた音がしたので調べてみると子供の部屋にあったガラス瓶が床に落ちていたが、幸い割れてはいなかった。TVをつけてみると、この地震の震度は3で、局地的な浅い地震だったと知って一安心してまた横になる。

  本番の無伴奏ではC線(ヴィオラの一番低い弦)を鳴らし損ねたり危うく止まりそうな瞬間があったりしたのでスレスレの合格点といったところだろう。ともあれ、大きな失敗がなかったのはあれこれ心配して神経質に準備したおかげだ。そして患者さんたちの笑顔が最高の御褒美である。

2012年6月 8日 (金)

神経質礼賛 793.自動車保険値上げ

 自動車保険を更新したら、保険料が上がっていた。無事故だし、車両保険は年々車の残価が下がるにつれ保険料が下がっていくのだが、昨年43660円だったのが今年は50110円になっていた。何でも、若い人のクルマ離れ、保険料を含め維持費が安いコンパクトカーへのシフト、高齢ドライバーの重大事故増加、といったことがあって、採算が急激に悪化して損保各社が保険料値上げに踏み切っているらしい。今後もこの流れが続いていくことになるのだろう。事故時の高額補償を考えると、自動車保険に入らないわけにはいかない。地方に住んでいて、一人一台クルマを所有しているような家庭には痛い出費増になりそうだ。

  少子化により、ただでさえ若い人が減っている。そして若い人の間ではクルマでドライブより屋内でネット生活という流れのためかクルマの購買意欲が低下している。ずいぶん様変わりしたものである。私が大学を出て会社員になった頃は、同期入社の誰もがまずクルマを買おうとした。お金がなければローンで買うとか親にお金を出してもらうとかしていた。地方に住んでいると、クルマがないと通勤に不便だし、デートもままならない。同期入社で最後までクルマを買わなかったのは私だけだった。「いつかはクラウンに」というキャッチコピーではないが、乗っているクルマがその人の格を左右するような風潮もあって、誰もが少しでもいいクルマに乗りたいという強い願望があったように思う。

 確かに自動車産業は裾野が広く、自動車の売れ行きは保険業界も含めて多業種の業績を左右する面がある。しかし、資源エネルギー消費の観点からすれば、自家用車の使用は最小限に抑え、なるべく公共交通機関を利用し、近場は歩くのが望ましい。コンパクトカー志向、クルマ離れは理にかなっている。ホジョキンを連呼するCMに釣られてあわててクルマを買う必要はない。我が家の場合、車を使うのは、妻の実家との往復、ホームセンターでの買物くらいだ。現在のクルマを乗りつぶして今度買い替える時には、リッターカーか軽自動車で十分である。今後開発が見込まれる近距離移動用の2人乗り超小型車もいいかもしれない。神経質人間は見栄よりも実質重視である。無駄のないようにしたいものである。

2012年6月 4日 (月)

神経質礼賛 792.脱法ハーブ

 同僚の先生から、脱法ハーブを使用しているうちに幻覚妄想状態になって、家族に連れられて外来受診してきた人の話を聞いた。ついに田舎町でも、とその蔓延ぶりに驚く。覚醒剤や麻薬と同等あるいは類似成分ながら、法律による規制が追いつかないため、都市圏では店頭さらには自動販売機で堂々と販売されているのが現状である。ネットオークションにより地方にも脱法ハーブ汚染が拡がっているらしい。規制対象となったところで他にも似たようなものはいくらでもあるので、いたちごっこである。尿から覚醒剤成分が検出された人を警察が逮捕したら脱法ハーブが原因だったことがわかって釈放せざるを得ず、新聞には「誤認逮捕」と書かれた例もある。実におかしな話である。一昨日の新聞には、大阪で脱法ハーブを使用ながら車を運転していた男が歩道に乗り上げて通行人たちにけがをさせる事故を起こしたが、事故時の記憶がないという。このケースではどこまで法的責任を問えるのだろうか?

 薬物中毒の恐ろしいところは、たとえ使用を中止しても後遺症が残ることである。脱法ハーブ(販売側では遵法ハーブと呼んでいるらしい)は覚醒剤や麻薬と何ら変わりがない。興味本位から覚醒剤を使用しているうちに幻覚妄想状態になって、覚醒剤を止めても、もはや元には戻らないという人をよく見かける。「ヤクザに追われている」とか「殺される」といった幻覚妄想に苦しめられ続けることになるのだ。脱法ハーブでも同じことになるはずである。これから脱法ハーブによる犠牲者が急増するのではないかと心配である。

 神経質人間は薬局で売っている薬や医療機関の処方薬を飲むにも副作用を非常に心配する。だから、興味本位で覚醒剤や麻薬の同等品である脱法ハーブを使用する危険性は少ないと思われるが、用心するにこしたことはない。

2012年6月 1日 (金)

神経質礼賛 791.雷

 このところ、朝は晴れていて午後から空が暗くなり雷が鳴ってにわか雨が降るという不安定な日が続いている。今年は5月の雷の日が例年よりもずっと多かった、とTVの天気予報で言っていた。偏西風の流れが日本列島の南側にズレて、上空に北からの寒気が入りやすくなって、天気が不安定になっているのだそうだ。雷だけでなく竜巻被害も出ている。

 昔は怖いものの代表は「地震・雷・火事・親父」と言われた。今では親父の権威は地に落ち、雷の怖さも忘れられている。カミナリ親父という言葉も死語である。かつては「雷恐怖」を主訴とする神経症の患者さんもいたが、今では見かけなくなった。

 とはいえ、落雷による死亡例もある。木の下に雨宿りは極めて危険である。ネックレスや腕時計など金属の物を体からはずしても防ぎきれない。木に落雷した時には近くに立っている人にも大電流が流れてしまうのだ。雷が近づいてきたら、早めに安全な場所に避難するに限る。小学校か中学校の理科で習ったように、稲妻が光ってから雷鳴が聞こえるまでの時間差に音速つまり0.34(km)を掛けたものが雷までの距離である。どのくらい近いのか容易にわかるし、それによって避難場所を考えればよい。

 ヴィヴァルディ作曲 協奏曲「四季」の「春」第一楽章には春の雷を描写した部分があり、楽譜には「空を黒い雲が覆い、春を告げる稲光と雷鳴が轟く」という詩が添えられている。速い動きの分散和音はヴァイオリン弾きにとって腕の見せ所である。そして嵐が去った後には再び小鳥たちが鳴きはじめる。

 人間のこころにも激しい怒りの感情の雷が鳴ることがある。そこで、その感情に任せて行動したらますます雷は激しくなる。森田正馬先生の言われた感情の法則(442)の通りで、時間が経てば自然と雷は過ぎ去り、再び平穏がやって来るのである。

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