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2012年8月20日 (月)

神経質礼賛 817.気骨の女(ひと)藤村トヨ

 前話で述べた藤村トヨ(1876-1955)と森田正馬(1874-1938)には神経症に苦しみ、それを克服した経験を持つ、という共通点がある。そして禅などの東洋思想をバックボーンとし、心身同一論に基づき、それぞれ女子教育、精神医学の分野で独自の道を切り開いた、という点も共通している。寺田和子著『気骨の女』(白揚社)では藤村トヨの一生を追いながら、森田正馬の人生や森田療法もからめて描いている。「りりしく生きた二人の人生に学ぶ自己実現の知恵」と同書の帯に書かれている通りの内容である。


  藤村トヨは明治
9年、香川県の坂出で塩と砂糖を製造販売する商家に生まれた。トヨの母は学問を志したが、女に学問は不要とされた時代であり、何とか娘には学問の道に進んで欲しいと思い、すべてをトヨに賭けたのだった。トヨは神童ぶりを発揮し、その期待に応えていくのだが、旧制中学にあたる学校の途中から不眠・食欲低下に悩み、勉強が手につかなくなった。これには抹茶の摂り過ぎからカフェイン過剰による不眠や食欲低下も一因だが、経済的に困っているのに自分のためにすべてをかけてくれる母親からのプレッシャーが大きな原因だったろう。当時で言うところの神経衰弱すなわち神経症である。学校をやめて小学校の臨時教員となり、明治32年、22歳にして女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)理科に入学を果たす。当時は女子の唯一の最高学府であり、学費はもちろん生活費まで官費で支給されていたからそこに入学できたことは大変な名誉だった。しかし、2年に進級してから再び勉強に集中できなくなり、ついに「脚気」と診断され休学を余儀なくされる。結局3年で中退して郷里で静養していたが、小学校の連合大運動会に向けて子供たちに体操や遊戯を教えてほしいという依頼があり、子供たちと一緒になって走り踊っているうちにいつの間にか心身ともに健康になっていった。つまり、体を動かして注意が外に向いて行動本位の生活になって、知らぬ間に神経症が治っていたというわけである。その後、廃校寸前だった女子体操音楽学校を引き継ぎ、立て直し、発展させていくことに全身全霊をつぎ込んでいく。

 トヨにも縁談はあったが、トヨが「末弟が大学を卒業するまでは働いて自分の手で教育する。酒とタバコをのむ人には嫁がない」というような厳しい条件を付けたため成立しなかった。26歳頃、その条件を承知した町医者と結婚生活を送ったが、トヨが体操音楽学校を引き継ぐため上京して、この結婚は解消になったという。

  森田先生は体操音楽学校で心理学などの講義をしていて、講義が終わってからテニスやダンスをすることをとても楽しみにしていた。久亥夫人を伴って学校を訪れることもあったし、自宅に学校関係者を招くこともあった。生徒たちにとって、森田先生は講義の時には厳格な先生だったが、普段は温和であり、楽しみの場ではひょうきんな面も見せていた。森田先生は学校から自宅に帰る時に途中まで送ってくれた生徒に、「(藤村校長は)立派な偉い先生で、あんな良い先生について勉強できるなんて幸福者だ、このことをしっかり自覚するんだよ」と語ったという記録が残っている。

 森田先生と藤村トヨさんは同じ完成された神経質同士であり、深く尊敬し合い共鳴し合う間柄だった。この本に描かれたトヨさんは森田先生よりもはるかに生真面目でストイックな人で、近寄り難い部分を持っている。恋愛対象とするにはスキがなさ過ぎる。もちろんトヨさんには健康的で凛とした女性としての魅力があっただろうけれど、森田先生は、女であるとか男であるとかというところを通り越して、素晴らしい一人の人間にぞっこん惚れ込んだということなのだと私は思う。広い意味では愛と言えようが、前話に出てきた恋愛説はちょっと当たらないように思うがどうだろうか。

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