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2012年11月30日 (金)

神経質礼賛 850.問うても不問

 ネット上には、精神科の医療機関や医師たちの評判を書き込むような掲示板がある。私の勤務先の病院は、あまり話題にのぼることはないが、以前、「こんな書き込みがありましたよ」と私に教えてくれた職員がいた。それには、「N先生(私のこと)はニコニコ話を聞いてくれるが症状を重く取らない人で、薬を増やしてくれなかった。U先生は眠れないと言ったら薬を変えてくれた」というようなことが書かれていた。どこそこのクリニックは簡単に希望通りの薬を出してくれる、といった類の書き込みが多い掲示板のようだったから、書き込んだ人にとって私の診察は御希望に沿わなかったのだろう。しかしながら、神経症圏の人にはなるべく薬は出さない・増量しない、そして症状を相手にしないという不問の姿勢で私が臨んでいることを示している、ということもできよう。

 森田療法を御存知の方は不問(27話参照)という言葉を聞かれたことがあると思う。神経症は小心・まじめ・取越し苦労しがちな神経質性格の人に起こりやすい。「人前で緊張する」とか「眠れない」とか「ささいなことが気になって仕方がない」といった誰にも起こりうる「症状」を取り去ろうと「不可能の努力」をすればするほど「とらわれ」の悪循環にはまり、ますます症状を強めてしまう。そこで「症状」を相手にせずに日常生活の行動に向かわせて、簡単に言えば「症状」を肩すかしするのが森田療法のやり方である。だから、治療者も本当は症状は気になるのだが、あえて症状は不問とする姿勢を取る。

 ところが、最近の森田療法学会の重鎮の先生方は、森田療法は入院から外来にシフトしていて、外来診療では問うことが必要だ、としてあっさり不問の看板を下ろしてしまった。これはあまりにも字面にとらわれた考え方ではないだろうか。「不問」とは必ずしも症状について一切質問しない、ということではなく、症状をとりたてて問題にしない姿勢のはずである。白揚社の森田正馬全集第4巻は入院患者の日記指導や通信指導が大部分を占めるが、最初の80ページほどは外来指導の記録である。森田先生は症状について問うているが、症状そのものをさほど問題にはせず、最終的には症状はあっても不安なままに行動していくように指導しておられる。問うても不問なのである。

2012年11月26日 (月)

神経質礼賛 849.11月は肩凝り月?

 1117日付読売新聞に「肩凝り 11月は要注意」と題する記事があった。11月は1年で最も肩が凝りやすい季節だという。東京の月別の平均気圧のグラフがあって、11月がピークになっている。気圧が高いと交感神経が緊張して血管が収縮し血流が低下する。その状態で筋肉を使うと凝りが生じやすい。また、着るものも重い秋冬物になるので、筋肉の負担が増え、肩凝りを悪化させる、という北里大学の先生の解説があった。なるほど、と思う。もっとも、私は年中肩が凝っている。神経質人間は肩凝りになりやすいのかもしれない。毎月が肩凝り月なので、これまで肩凝りと季節の関係を意識したことがなかった。この記事を読んで、今がこの程度なら、来月からは少しずつラクになるのかなあ、などと都合の良い解釈をする。

 この記事は肩凝り改善グッズの紹介なので、マッサージ器、低周波治療器、温泉の素、エレキバンなどについて書かれていた。そうしたグッズを買わなくても、デスクワークの合間には背中や肩を伸ばすと結構ラクになる。ついパソコン作業に熱中していると、目も疲れるし肩凝りを悪化させやすいので、意識して短い休憩を取った方がよいだろう。さらには太極拳のようなゆったりした動きの体操は効果的だと思われる。私は普段はサボっているが、肩凝りがひどい時には、20年ほど前に購入したビデオ「やさしい気功健康法シリーズ 肩こり・腰痛をとるスワイショウ」のマネをすると効果を感じる。妻に見つかると「何よ、そのタコ踊り!」と言われるので、こっそりやることにしている。

2012年11月23日 (金)

神経質礼賛 848.安易な薬物療法の害

 読売新聞のウェブサイトでは、ベンゾジアゼピン系(以下BZ系と略す)の睡眠薬や抗不安薬が安易に処方されるために、薬物依存に苦しんでいる人たちがいることを報じている。1113日付の同新聞にはそれらのレポートの要約とも言える記事が掲載されていた。さっそく、その記事を読んだ御家族から、BZ系の薬をやめてほしい、と要望があり、漸減して中止の方向で処方変更することにしたケースがある。特に短時間型のBZ系薬剤を急に中止したり大幅に減量すると退薬症候群が起きて、症状が急激に悪化したりケイレンを起こすことがあるので、減量・中止は慎重に行う必要がある。その一方で、本人がBZ系の薬の増量を強く希望し、減量困難なケースも抱えている。そうした例を示してみよう。プライバシー保護のため、複数例をミックスしたものであることをお断りしておく。


 
 30代男性。不眠や緊張のため、内科でBZ系睡眠薬と抗不安薬を処方されていたが、効果がない、といって、来院した。本人の強い希望で睡眠薬と抗不安薬がだんだん増量され、1種類では効かないということで、それぞれ2種類に増えた。薬物依存傾向を心配した担当医が、これ以上の増量はできない、と告げると他の医師が外来担当の日に受診して、「薬を強くしてほしい」と希望した。これ以上の増量は仕事のミスが増えたり車の運転中に事故を起こしたりするリスクを高めて有害であること説明し、増量はできないと告げると、表情が変わり、「いったい何年医者をやっているんだ!眠れない苦しみがわからないのか!」と怒鳴り、「俺は気が短いから何をするかわからないぞ!」と脅迫とも取れる言葉を発した。酔っ払いに絡まれているような感じである。BZ系抗不安薬を多量に飲んでいると酩酊状態同様になる。これでは、自覚症状は楽になっても対人関係で問題を起こすだろうし、車の運転も危険である。そこで増量はせず、前回と同じ処方とし、1種類の抗不安薬は今まで通りに服用しもう1種の短時間型の抗不安薬は就寝前だけにして極力日中は服用しないようにとアドバイスした。


 
こういうケースの場合、さらに長時間型の抗不安薬やある種の抗うつ薬や抗精神病薬に置換してから減量を図っていくことになるが、かなり長い期間を要する。もっとも、BZ系の薬だけを悪玉とする考え方には問題がある。BZ系は即効性があるので、急性期を切り抜けるには必要な薬剤である。そして、近年、不安障害やうつ病・うつ状態に多用されているSSRIにも今まで指摘してきたように問題がある(20話・684話)。結局はどの薬も処方はなるべく単剤で必要最小限の量にとどめ、精神療法や生活指導でその人の自然治癒力を引き出し適応力を高めていくことが大切だと考える。

2012年11月19日 (月)

神経質礼賛 847.旧岩崎邸庭園と森田療法学会

 17日(土)・18日(日)は東京大学で第30回森田療法学会が開催された。あいにく私は昨年の学会同様ちょうど土日当直勤務が重なっていて、土曜日の夕方までには病院に戻る形で参加した。

 朝、普段通りの時刻に家を出て、東京駅には820分頃着いた。学会受付開始の930分にはまだ時間がある。天気は朝から雨の予報だった。今にも降ってきそうだがまだ何とかもっている。JR御徒町駅で降り、不忍池周辺を少し散策する。木々の紅葉、陸に上がって羽づくろいしているオシドリたち。のどかな晩秋風景である。旧岩崎邸庭園に9時の開園時刻ピッタリにチケットを買って入場する。有名な建築家ジョサイア・コンドル設計の木造の洋館は外観が立派なばかりでなく、内装がすばらしい。ペルシャ刺繍の布張り天井、あの鹿鳴館もそうだったという金唐皮紙(きんからかわし)を張りつめた壁が目を引く。2階のベランダから広い芝庭を見渡すのは実に気持ちがよい。誰しもカメラに収めたくなる風景だが残念ながら撮影禁止の札があった。和館は書院造りで現在では入手困難な木材を使っているという。橋本雅邦の障壁画もある。見えないところにも贅を尽くしているのだ。外へ出ると山小屋風の撞球室がある。中の見学はできないが、洋館から地下でつながっているという。短いタイムスリップを楽しめた。旧岩崎邸庭園を出て坂を少し上がれば鉄門と呼ばれる東大病院側の通用門である。以前も東大での講演会に参加する時にこの坂を通ったことがある。今回、坂の途中にある看板を見て、これが無縁坂だと初めて知った。さだまさしさんの歌「無縁坂」が浮かんでくる。歌詞の中の薄幸な「母」は重い持病があって東大病院に通院していたのだろうか、などと考えながら歩く。今では東大病院は建て替えられて陰惨なイメージは払拭されている。

 会場の安田講堂入口は受付待ちの行列ができている。ちょうど第30回、しかも森田正馬先生の母校・東大での学会であるから盛況なのもうなずける。受付の混雑で開会は10分遅れた。講堂内を見渡すと、ざっと200300人位の参加者だろうか。最初のシンポジウムは認知行動療法最前線と森田療法の対話と題するもので、最近の認知行動療法と森田療法との共通点・相違点をわかりやすく論じたものでとても参考になった。

ランチョンセミナーでは、「おはなし」に込められた子どもの心、というテーマの講演を聞いた。森田療法学会で小児科医が講演するのは珍しい。「おむねの中でゾウさんがドンドンするの」と話した男の子は溶連菌感染症だった。抗生剤治療ですぐに回復し「ゾウさんは出て行った」と。喘息発作を起こした別の男の子は「胸にゾウが乗っている」と言い、発作が収まると「いなくなった」。ついでに「オジサンは何の仕事をしてるの?」と(笑)。朝の吐気・頭痛のため不登校になった女の子は「サナギはね、触ったり動かしたりすると死んじゃうの」と言い、母親が登校刺激をやめたところ、「今日から蝶になる」と言って学校に行き始め、フルート教室にも通うようになった。というような事例紹介や、ある映画の中で突然解雇された教師が子どもたちに動物の物語を話して別れや悲しみを語るシーンを通して、大人たちが子どもの「おはなし」に耳を傾け、豊かに想像をめぐらせてメッセージを読み取ろうとすることが大切だと論じていた。

 午後の一般演題を聞いている時間はないのでここまでである。会場の出入口には白揚社の販売コーナーがあって、私の本も並べてくれてあった。ちょうど編集を担当して下さったUさんが「店番」をしておられたので挨拶する。

 雨は大降りになっていた。赤門前を通り、イチョウの街路樹の下を歩いて丸ノ内線の本郷三丁目へと向かう。新幹線で三島駅に着いた時には雨風とも強くなっていた。さあ、これからが仕事だ。

2012年11月16日 (金)

神経質礼賛 846.ナンキンハゼの紅葉

 奈良を歩いていて、志賀直哉旧居や新薬師寺へと向かう坂道の街路樹の紅葉があまりに見事で何度も足を止めて眺めた。私が住んでいる地方では全く見かけない木である。葉は大きな卵型で先端が尖っている。この木は何だろう、と気になった。知りたがりの神経質ゆえ、帰宅してからいろいろと調べてみた。奈良公園内に植えられているナンキンハゼの紅葉の写真と同じような感じであり、葉の形もナンキンハゼの特徴に合致するので、それに間違いなさそうだ。ナンキンハゼは「小さい秋みつけた」の歌詞「♪ハゼの葉 赤くて 入日色」に出てくるハゼとは別物である。ハゼノキの葉は複葉で小葉の集まりである。作詞家のサトウハチローは自宅のハゼノキの紅葉を見てこの歌詞を思いついたという。ハゼノキの実から取った蝋は和ろうそくの原料として使われていたが、ハゼノキの代わりに蝋を取るようになったのが中国原産のナンキンハゼなのだそうだ。


 
 志賀直哉旧居がある高畑地区は若草山の森に隣接し塀や門扉が立派な大きな邸宅が立ち並ぶ閑静な住宅街である。志賀直哉一家が昭和初期に10年間住んだ旧居は、今では奈良文化女子短大のセミナーハウスとなっているが、見学可能である。ちょうど庭園のカエデも紅葉していた。この家は志賀直哉自身が設計した家で、若草山を望む2階の書斎と夏向きの1階の書斎をはじめ、広いサンルーム・居間がある。庭の隅には子供たちのために作った小さなプールもある。当時は多くの文化人たちが出入りして高畑サロンと呼ばれていたという。外周の土塀も雰囲気があってよい。隣には旧家を改装した喫茶店がある。私は京都の街歩きが大好きだが、奈良の街はおおらかに時が流れている感じがして、のんびり散策するには最適だと思った。

2012年11月12日 (月)

神経質礼賛 845.正倉院展

 ここ2週間ばかり、秋らしい快適な日々が続いている。年々夏が長くなり、体感的な秋は正味1か月といった感じがする。今週からは冷え込んできて冬に入っていくようだ。私は先週末に奈良の正倉院展に行ってきた。以前から一度行ってみたいと思いながら、なかなか行く機会がなく、今回初めてである。例によって日帰り旅行である。

早朝の新幹線に乗って京都駅に8時到着。近鉄に乗り換え、大和西大寺でさらに各駅停車に乗り換えてまずは薬師寺へ。国宝三重塔は修復中だった。修学旅行生たちを前に僧侶が話をしていて、時々大きな笑い声が起こる。自分の中学や高校の修学旅行を思い出す。玄奘三蔵院の大唐西域壁画殿には仏像の代わりに平山郁夫画伯の壁画が祀られている。寺の人が説明してくれた。正面中央に描かれたヒマラヤの山々が仏の象徴で、天井に描かれた太陽と月は日光菩薩と月光菩薩を表すそうだ。訪れる人はまばらで、静かに壁画を楽しむことができた。

再び近鉄に乗り、奈良へ向かい、奈良町で早めの昼食。読売新聞の正倉院展サイトに散策コースの見本があって、それをプリントアウトしておいたものを参考に歩く。古い町家が立ち並び、とても風情がある。あちこちに魔除けの猿の人形がぶら下がっていて面白い。奈良町のはずれの春鹿酒造に寄り、利き酒を楽しむ。つい、吟醸超辛口の4合ビンと300mlビンを1本ずつ買ってしまい、次の志賀直哉旧宅へと坂道を上る足取りが重くなる。さらに新薬師寺の仏たちを見てから歩いて国立博物館へと向かう。

入場待ちの長い行列に並び、45分待ちと言われたが、35分で入ることができた。館内は大変混雑している。青、黄、緑などの美しい色ガラスで作られた双六の駒が印象に残った。今回公開された中の目玉と言える瑠璃杯と四弦の螺鈿紫檀琵琶の前は黒山の人だかりだった。こうした品々は神経質だった聖武天皇(412話・拙著P.221-222)が愛用したものだ。いずれも驚くべき高い技術で作られたものであるが、1200年もの間それらを大切に保管し続けて今に伝えた神経質も賞賛したい。

2012年11月 9日 (金)

神経質礼賛 844.二度あることは三度ある

 万里の長城ツアーの日本人グループ4人が大雪で遭難し、3人が死亡するという事故が起きた。ツアーとは言っても普通の観光旅行ではなく、9日間で万里の長城100㎞を踏破するという実際には登山だった。旅行会社は、初めての企画であるのに下見を怠り、すべては現地ガイドに丸投げだった。救出された女性が迎えに来た御主人と帰国する際に向けられたTVカメラに「本当に申し訳ない」を繰り返していたが、ガイドの指示に従って行動していたツアー客に責任はない。すべては旅行会社の責任である。実は、3年前に大雪山系で中高年の軽装のツアー客が8人も凍死した事故はこの会社が企画したツアーだった。あれだけの大事故を起こしておきながら、全く反省がないとしか言いようがない。こんな会社のツアーに参加したら、いくら命があっても足りない。

 また、最近S社製エレベーターに清掃作業員の女性がはさまれて亡くなるという痛ましい事故が起きた。S社は低価格路線で団地などの公共事業に食い込み業績を伸ばしてきたが、この会社が製造したエレベーターは過去に何度か事故を起こしている。6年前にはマンションのエレベーターに高校生がはさまれて死亡する重大事故があった。S社は保守点検を担当する会社の責任だとしていた。しかし、保守業者に対する情報提供が不十分だったり、自社の点検資格者の資格取得に際して経歴詐称を行っていたりしたことが発覚するなど、無責任な業務実態が明るみに出た。その後も数回事故が起き、中には負傷事故もあった。そして今回の死亡事故である。

 神経質が足りないと同じような大きな失敗を何度も繰り返すことになり、「二度あることは三度ある」になる。


 
 一方、神経質人間は常に失敗を恐れて慎重であり、ひとたび問題が起こると二度と同じことにならないように十分過ぎるくらいに注意する。人の命を守るためには神経質に越したことはない。ただし、過剰防衛して「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」にならないように気を付ける必要はあるだろう。ほどよい加減が良い。

2012年11月 5日 (月)

神経質礼賛 843.勇猛果敢な神経質武将・加藤清正

 当ブログでは、神経質な歴史上の人物を数多く取り上げてきた。日本の武将では源頼朝(769)、楠木正成(362363話)、武田信玄(729話)、徳川家康(11209話)について書いた。いずれも、勇猛果敢というよりは思慮深い智将であり、内政に長けていたという共通点がある。しかし、今回取り上げる加藤清正(1562-1611)は槍の名手として有名であり、豊臣秀吉から「賤ケ岳の七本槍」と賞賛され、「虎退治」の伝説まである。秀吉の家臣の中では福島正則と並んで最も武勇の誉れが高い人物だった。その一方で、他の神経質武将たちと同様、高い内政能力を示し、治水や商業政策で手腕を振るった。熊本城築城や治水の土木技術は極めて高度なものだった。今に生まれていたら理系人間、特に建築工学や土木工学のエキスパートになっていたかもしれない。なお、築城や治水のための工事に農民を動員するのは、主に農閑期に行い、きっちり給金を払っていたから、農民たちには歓迎されていた。

 清正が神経質だったことをうかがわせるエピソードがいくつかある。いつも腰には米3升と味噌と銀銭300文を付けていた。いつ戦いになってもいいように準備していたわけで、家臣たちもそれを見習ったそうである。清正は身長190cmの大男だったが、これだけのものを身に着けていたらさぞ重かったろう。朝鮮出兵の時には、もち米・水あめ・砂糖から作った「長生飴」を非常食として用意した。それは、のちに熊本銘菓「朝鮮飴」になったという。

 1024NHK放送の「歴史秘話ヒストリア」は熊本城がテーマだった。築城の名人・加藤清正の最高傑作かつ史上最強の城である。幾重もの堀、登るに従って角度が急になる高い石垣、巨大な天守、そして門を破って侵入した敵を足止めして周囲から攻撃する「枡形(ますがた)」は通常1、2箇所なのに熊本城では最大5箇所も準備されていた。籠城戦に備えて井戸は120箇所もあり、畳の中や壁には保存食となるものが備蓄されていた。清正はかつて籠城戦で苦戦し、あわや全滅の危機を味わったからだと言われる。このあたりは、過去の失敗にこだわり、失敗を恐れて徹底的に準備する神経質ならではである。番組では加藤清正の性格を「几帳面で心配性だった」としていた。天下の名城・熊本城は実は神経質の産物だったのである。

2012年11月 2日 (金)

神経質礼賛 842.そうだ嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷がいたんでも

 いつも通勤途中に横を通るお寺(華陽院)の掲示板の言葉が新しくなっていた。ここの住職さんはあまり神経質ではないとみえて、2、3週で変えることもあれば半年くらいそのままのこともあるが、いろいろなジャンルから引っ張ってきた言葉が出るのでとても面白い。今回はアンパンマンの生みの親、やなせたかしさんの言葉である。


そうだ嬉しいんだ 生きる喜び 

たとえ胸の傷がいたんでも

       やなせたかし


 
 この言葉からすぐ連想した歌がある。子どもの頃に聞いたり歌ったりした、NHK「みんなのうた」で歌われていた「手のひらを太陽に」だ。調べてみたら、やはり、やなせさんの作詞(いずみたく作曲)だった。歌詞の一番では「生きているから歌うんだ」「生きているからかなしいんだ」、二番では、「生きているから笑うんだ」「生きているからうれしいんだ」となっている。生きていれば喜びもあるけれども、悲しいことや苦しいことからも逃れられない。森田正馬先生の言葉「苦楽共存」のように、苦楽は表裏一体のものなのである。なお、やなせさんの郷里・高知県香美郡は、森田先生の出身地でもある。


 
 神経質人間は、よりよく生きたい、という生の欲望が人一倍強いのであるが、それゆえ死の恐怖にも敏感である。そして、苦痛をさけて楽々と目的を達したい、と虫のいいことを考えがちである。森田先生は次のように言っておられる。


 
 「死ぬるは恐ろしい。生きるのは苦しい」。言い換えれば、「死を恐れないで、人生の思うままの目的を、楽々とし遂げたい」という事になる。これが神経質の特徴であって、無理にも、自然に反抗しようとする態度になり、死は当然恐ろしい。大なる希望には、大なる苦痛・困難があると、極めて簡単な事を覚悟しさえすれば、それだけで神経質の症状は、強迫観念でもなんでも、すべて消失するのである。既に神経質の全治した人には、これが簡単に理解できるが、まだ治らない人には、全く嘘のような法螺(ホラ)のような話である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.183


 
 対人恐怖、不安発作、強迫観念などの症状に苦しんでいる時には症状のことばかりで頭が一杯になっている。そして、苦しみから逃れようとやるべき行動を回避していては、ますます「とらわれ」が強くなって症状は強まるばかりである。まずは苦しいままに行動してみる。やればできる。それを重ねていくうちに、いつしか症状を忘れるようになってくるし、生きる喜びを実感する時が必ずやってくる。

2012年11月 1日 (木)

神経質礼賛 841.大型ハリケーンの被害

 今週前半、アメリカの中心ニューヨークを大型ハリケーン「サンディ」が襲った。ニューヨーク中心街では路上の自動車が水没するほどの暴風雨で、送電用の変圧器の爆発により停電が発生。原発では原子炉停止などの緊急措置に追われた。交通機関がストップし停電したのでは身動きが取れない。悪天候のためにニューヨーク証券取引所が2日連続で閉鎖されたのは、1888年の猛吹雪以来のできごとなのだそうだ。水没した地下鉄の復旧にはかなりの日数がかかるとみられる。住宅やビルの損壊などの物的損害は200億ドル、経済損失は全体で500億ドルにのぼる見込みとのことである。ニュース番組では、水や食料を切らして困っている人たちが映っていた。ハリケーンの襲来は予測されていたから、早めに買いだめして準備した人もいれば、楽観視して何も対策を取らなかった人もいたのだろう。日本だと、地震災害に備えている家庭が多い。とはいえ、もし日本の首都圏を同様の超大型台風が襲ったとしたら、やはりライフラインの復旧には何日もかかって、大パニックになるだろう。個人でできることは限られているけれども、やはり水や食料や生活必需品を備蓄し、停電時の対策、浸水時の対策などを考えておくことが大切である。その点、心配性の神経質人間は最悪のシナリオを考えるのは得意なので、あらかじめ準備しておけば安心である。森田正馬先生の色紙にあるように「不安心は用心の安心」なのである。

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