神経質礼賛 920.「感じ」を高めていく
神経質人間は豊かな感受性を持っている。芸術・文学の世界で活躍する人たちや優れた技術者・職人さんたちをみればわかるように、神経質は良い仕事をする上で欠かせない素質と言っていいだろう。当ブログでは徳川家康をはじめ歴史に名を残した優れた神経質人間を取り上げて紹介してきた。ところが、せっかく豊かな感受性があっても、それを行動に生かさずにああでもないこうでもないと考えて頭を空転させていたのでは宝の持ち腐れである。そればかりか負のスパイラル・自縄自縛の結果、神経症の「症状」と化して苦しむことになるのである。森田正馬先生は「余の療法」すなわち森田療法について次のように述べておられる。
ここで修養の第一の出発点は、物事に対する「感じ」を高めて行く事である。我々は、見るもの・聞くもの何かにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ず何かの「感じ」が起こる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを押し進めて行けば、そこにいくらでも、進歩がある。これと反対のものは「感じ」に対する理屈である。注意せねばならぬ・誠実であれ・努力し・忍受すべし・とかいう抽象的の文句をもって、自分の心の働きを抑制しようとする事である。この時には、いたずらに心の不可能の努力のために、物に対して起こる自然の感じは、一切閉塞して、心の発展進歩は、なくなってしまうのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.425)
以前にも「感じから出発する」(675話)ということを書いた。例えば、身近なところで、部屋の汚れが気になる。そこで、めんどうだなと思いながらもゴミを捨てたりちょっと整理したり手を動かしてみる。すると、「見たところに仕事あり」という具合に次々とやるべきことが見つかる。そうなってくればしめたものである。神経質人間は「重い車」のたとえの通り動き出すまでが大変だが、一旦動き始めれば簡単には止まらない。正のスパイラルとなってくる。そしていつしか「症状」は忘れているのである。森田先生はさらに「煩悶は煩悶のままで、何かと手を出していさえすれば、自然に心が、その方にひきつけられて行く」と言っておられる。難しい理屈はいらない。「感じ」に対してちょっと手を出してみればそれが呼び水となって大きな流れが生まれるのである。
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