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2013年7月29日 (月)

神経質礼賛 930.「お大事に」「ご自愛ください」

 病院の診察室を出る時、医師から言われる言葉は通常「どうぞ、お大事に」である。似たような言葉に手紙文の最後に書かれる「どうぞご自愛ください」というものがある。どちらも柔らかくて響きのよい言葉であるけれども、これは自分の心身の変化に過度に注意を向けている神経症の人には不適切な場合がある。例えば不眠に過度にこだわり「一睡もできない」などと言う神経症性不眠は、客観的には眠れている。パニック発作は死ぬほど苦しく感じられても、客観的には循環器系や呼吸器系の異常はなく、死ぬことはない。人前で激しく緊張して話ができないと訴える対人恐怖の人も人前であいさつさせれば客観的には堂々と話している。そこで症状を恐れてお大事にして何もせずに休んでばかりいたのでは、却って心身の機能は衰え、生活リズムが乱れ、症状を悪化させるばかりである。「お大事に」「ご自愛」し過ぎるのが神経症である。


 
 森田正馬先生は『生の欲望』の中で、「或強迫観念症の患者のために」として次のように書かれている。


 
小我の偏執

 明けくれに己が苦悩をいたはりて子等も人をも思ふひまなし

自我の拡張

 いとし子の生い立ち行くを楽しみに我年ふるを知らで過ぎけり

 教え子の名の世の人に知らるゝを我事のごとくうれしみにけり

         (白揚社:森田正馬全集第7巻 p.198


 
 せっかくの神経質性格を自分の心身の変化ばかりに注意を向けることに費やし、あれこれグチをこぼしてばかりいたのでは、この「小我の偏執」に他ならない。神経質性格を生かして四方八方に気を配り人の役に立つように行動していけば「自我の拡張」となり、その時には症状はなくなっているのである。

2013年7月26日 (金)

神経質礼賛 929.ヤマボウシの実

 今週の月曜あたりから、小学生の夏休みに合わせたかのように、朝のセミの声が目立つようになった。家の近くの大通りのケヤキ並木ではシャンシャンシャンの大合唱である。温度変化が緩やかな地中に長い間いたセミにとっては梅雨明けが早くなっても地上に出るスケジュールには大きな変化がなかったようだ。一方、地上の植物は大きな影響を受ける。病院に向かう車の中から眺めるイチョウ並木には早くも銀杏の実が付いているのがよくわかる。駅を出たタクシー乗り場に植えられているアケビがキウイのような緑色の実を付けている。そして交番近くにあるヤマボウシの木を見上げると赤い実を付けている。今年は全般的に時期が早いような気がする。

 ヤマボウシはハナミズキと同じような白い花を咲かせるが、その実は食用になるらしい。そのまま食べられるし、果実酒やジャムにも適しているという。しかし、手が届かない高い所に実を付けるので、その小さな実を取るのは大変である。ほとんどは鳥や虫のエサになるのだろう。


 
 2か月に一度くらい外来に来る人がいる。この人は不眠と胃部不快感と倦怠感が主訴である。近くの消化器内科クリニックと精神科クリニックに2週間ごとに通院している。精神科クリニックからは睡眠薬3剤が処方されている。「わざわざここまで来なくても行きつけの精神科クリニックで相談したら?」と言うのだが、「クリニックに行くとすぐに、今日は薬はどうしますか?という話になって何も話せないから」とのこと。症状を訴える時には生き生きとしている。私は一通り話を聞いた後、「自分の具合の悪いところ探しをしないことだね。薬を飲んでいても眠れない日だってあるよ。眠れた・眠れなかったにこだわる必要はないよ。ここまで来て話す元気があるのだから、先のことは考えずに、とにかく今日一日、できることをやって行こう」といったことを毎回話している。森田療法について話をしたことは一度もないけれども、森田療法の考え方は伝えている。いつか、この人が街路樹の変化に目が行くようになった時には症状は消退しているだろう。

2013年7月22日 (月)

神経質礼賛 928.タブレット型パソコンと電子書籍

 病院を訪問してくる製薬会社の若いMR(medical representative医薬情報担当者)さんたちは皆タブレット型パソコンを持ってくる。それで説明するのはいいが、すぐ「動画を見てください」になってしまうので、時間がかかってよろしくない。最近のMRさんは文系出身者が5割、理系出身者が3割、薬学部出身者はわずか1割程度だという。文系出身でまだ経験の浅いMRさんたちにとっては自社で作った動画を見せれば間違いないし安心ということなのだろうが、自動車のセールスとはわけが違う。高校や大学で化学の勉強をしていなければ基礎から勉強し直し、薬学の本をいろいろ読み、疾患やその治療法について勉強し、訪問先の病院の医師や薬剤師から得た情報を整理して、自分の言葉で表現できるようにすることが必要である。

 近頃は小学校でもタブレット型パソコンを授業で用いているところがあるそうだ。キーボードを使わないタブレットPCは子供たちの方が早く慣れるかもしれない。

 スマートフォンを持っていない私もタブレット型パソコンを買ってみた。グーグルのNexus7(16GB)という2万円弱の機種である。保健所の依頼で行っている精神保健相談の際に、説明に使う図表などの資料を入れておいて相談者に見せることができたらいいだろうな、と考えてのことである。パソコンの画像データをUSBケーブル経由で送ったものを見ると、写真はなかなかきれいに表示される。7インチという画面サイズは老眼の人間には限度のサイズである。かといってこれ以上に大きいと片手で持つのが大変になる。だから7インチは妥当な大きさだと思う。小さい字や画像はスマートフォンと同様に指でナデナデして広げて見ることはできるけれど、やはり不便だ。それと文章入力には時間がかかる。パソコンのキーボードのようにはいかない。使い慣れるのにはまだまだかかりそうだ。

 このタブレット型パソコンには最初からサンプルとして無料の「青空文庫」から夏目漱石『こころ』、芥川龍之介『藪の中』、太宰治の『人間失格』の3冊が入っている。試しに『藪の中』を読んでみた。電子書籍を読むのは初めてである。画面の大きさは文庫本1ページよりも大きいので、字の大きさも十分で読みやすい。短編なのですぐに読み切ることができた。ただ、ページ数が多い書籍だと扱いにくいだろうと思う。紙の本と違ってパラパラめくって眺めたいとか、前に読んだところにちょっと戻って見直したい、というのには向かない。短編小説、ブックレット(小冊子)向きである。もし森田療法の入門書を電子書籍で作るとしたら、紙媒体ならば1冊のところを電子書籍では数冊のブックレットに分けた方が読みやすいだろうと思う。

2013年7月19日 (金)

神経質礼賛 927.レジリエンス(レジリアンス)

 最近、レジリエンス(レジリアンス)resilienceという言葉をよく聞くようになった。本来はストレス(重圧、ひずみ)と同様、物理学や機械工学で用いられてきた言葉であり、弾力性とか回復力を意味するものである。精神科領域で最も定評がある弘文堂の新版精神医学事典(平成5年初版)にはまだ載っていなかったが、同社の現代精神医学事典(平成23年初版)には載っている。それによれば「発病の誘因となる出来事、環境、ひいては病気そのものに抗し、跳ね返し、克服する復元力、あるいは回復力を指す」としている。ストレスという攻撃因子に対する防御因子とも言えるだろう。1970年頃から英米圏でこの概念に関心が寄せられるようになり、環境に恵まれない子供たちがいかに逆境を乗り越えることができるかというところから始まったようである。性格的な「脆弱因子」があっても「レジリエンス因子」が十分あれば病的状態に陥りにくい。ある研究者はレジリエンス因子として、自尊感情・安定した愛着・ユーモアのセンス・楽観主義・支持的な人がそばにいること、などを挙げている。


 
 神経質人間の場合はどうだろうか。悲観的になって凹みやすい面はあるけれども、強い自尊心は持っている。「自分はダメだ」と思いながらも「このままでは終わらないぞ」という強い反発精神を持っている。だからストレスに晒されて落ち込んでも底を蹴ってまた浮かび上がる力を持っているのである。一見弱そうで実は強いのが神経質である。

 森田療法は適応性を高めるという面を持っている。いろいろな出来事があっても、気分はともかく状況に応じて行動は続けていく。「四方八方に気を配る時、即ち心静穏なり 自転車の走れる時、倒れざるがごとし」という森田先生の色紙にあるように、ああでもないこうでもないとただ考えていたのでは倒れてしまう。周囲に気を配って行動していれば、自転車のペダルをこぎ続けているのと同様に多少の向かい風や上り坂があったとしても倒れることなく前へ前へと進んで行けるのだ。

森田先生のところでの入院生活の中には自然にレジリエンスを強化するしかけがあった。森田先生には父親的な厳しい面があったが、奥さんの久亥さんは母親的存在だった。だから優秀なお弟子さんや患者さんは森田先生のおそばに集まったが、優秀でないお弟子さんや患者さんは久亥さんの周りに集まっていたという。久亥さんは先生に内緒でお茶と羊羹をふるまってくれるようなこともあった。たとえ父親が叱っても母親がフォローしてくれる、そんな安心できる家庭的な温かみが備わっていたのである。入院生活を経験した患者さんたちは誰もが長い年月が経った後も久亥さんのありがたみを語っていた。ずっと心の中に久亥さんが生き続けていたのである。それから、月1回の形外会も生真面目一方ではなく、時には落語家を呼んで楽しんだり、患者さんたちが喜劇をしたり、ゲームをしたり、皆で東京音頭を踊ったり、ハイキングや旅行に出かけたり、ということも行われていた。森田先生自身も「綱渡りの芸」(畳の縁を綱に見立てて綱渡りの物まねをする)を披露された。ユーモアのセンスを伸ばし、気持ちを発散させるところもあったのである。


 
 昨今は、うつ病でも神経症(不安障害)でも、まず薬、というような風潮になってしまっているが、ストレスに対する抵抗力・自然治癒力を高めていくことが予防になるとともに、本当の治療なのではないだろうか。

2013年7月15日 (月)

神経質礼賛 926.扇子

 このところ熱帯夜が多い。朝6時に新聞を取りに外へ出ても涼しさが感じられない。駅まで歩いて電車に乗る時には汗が噴き出している。いつも乗っているのは始発列車なので、すぐに車内に入って座ると、扇子で顔をあおる。団扇の方が送風効率は良いから家の中ではもっぱら団扇を使っているが、団扇を持ち歩くには大きなカバンが必要だし、外で使うには祭りの時でもなければ恰好がつかない。その点、扇子だと小さなバッグにも入るし、ちょっと洒落た感じがする。

 以前は将棋連盟売店で買った扇子を使っていた。子供にも好きな棋士の扇子を買ってあげたことがある。私に似て短気な子供に、女流棋士・石橋幸緒さんが書いた「善戦者不怒(善く戦う者は怒らず)」という扇子を買ってあげようか、と言ったら「いらない!」と怒られた。これは老子の言葉である。その通りだなあと思いながらも「短期は損気」になってしまうことがある。子供よりまず私が肝に銘ずる必要がある言葉だ。カチンと来た時には森田正馬先生の言われた「感情の法則」(442話)を思い起こそう。感情は時間とともに消退していく。気分はともかくやるべき行動をしていけば、感情の消退も早まるのである。将棋用(?)扇子の欠点は、大きさが大きいこと、紙の部分の角が傷みやすいこと、そして、つい棋士気分になってパチンパチンやりたくなってしまうことだ。現在使っているのは将棋とは無関係の小さい地味な青色の扇子である。もしも字が上手だったら白扇に「事実唯真」などの森田の言葉を書いて使えるところだが、字が下手なのは残念である。

2013年7月12日 (金)

神経質礼賛 925.網戸の掃除

 今年は梅雨明けが早かった。いよいよ真夏日・熱帯夜の猛暑到来である。連日ニュースは最高気温が39度や38度の地点を紹介し熱中症の多発を報じている。これが3カ月も続くかと思うと少々気が重くなるが何とも仕方がない。エアコンを使わない時にはなるべく窓を開けて風を通したい。よく見ると洗面所と衣類を保管する納戸の網戸の目が詰まっていて風通しが悪くなっている。衣類から出る繊維が空中を浮遊して網にひっかかって目詰まりしやすいのである。この目詰まりしやすい網戸は年に一度くらいは外して水洗いしていたがこのところサボっていた。中性洗剤を含ませたスポンジを使って水洗いするのがいつものやり方だが、そうすると、網の糸がクロスした部分にカスが挟まってそれを取るのに苦労していた。今回は、サッシ戸の溝を掃除するのに使う小さいU字型のブラシが付いた細いノズルを100円ショップで買ってきたので、それを掃除機に付けて、まず埃を吸い取ってみた。これはなかなかいける。網の隅の方までかなり埃が取れた。仕上げに水を掛けながら古い歯ブラシで軽く擦ると、苦もなくきれいにすることができた。

 もっとも、どの網戸も取り外せるわけではない。2階や3階の窓の網戸は脱着が危険なものが多い。大きな網戸も水洗いは大変である。外さずに掃除するのが無難である。今度の週末は、今回使ったノズルで埃を大部分取り除いておいて、網戸掃除用ウエットテッシュを使って仕上げしてみようかと思う。

2013年7月 8日 (月)

神経質礼賛 924.神経質の生かしどころ

 2か月前、勤務先の病院に、正知会(しょうちかい)といって鈴木知準先生から森田療法の教えを受けた方々の研究会メンバー10名の訪問があった。森田理事長と談話して森田正馬先生の色紙や遺品を見学していかれた。私は取次の小僧役をしただけだったが、見学された方々の感想文をいただくことができた。その中に興味深いものがあったので、ちょっと紹介させていただく。

 鈴木知準(すずきとものり・通称ちじゅん:1909-2007)先生については372話に書いているのでここでは簡単に記しておくが、旧制中学在学中に神経症に苦しみ、森田先生の自宅兼診療所に入院して全快。そればかりか勉強にも集中できるようになって旧制浦和高校から東京大学医学部に進学。その後は森田先生の勧めに従って一旦内科を専攻した後に精神科に転科。神経症に苦しむ人々を救おうと静岡に診療所を開設。のちに中野に診療所を移転し、5000人もの入院治療にあたられた。一生を森田療法に捧げられた方である。

 森田先生のところでの入院生活では自ら仕事を探して行動していくことが求められた。約1週間の絶対臥褥を終えた入院患者さんたちは自発的に、清掃、炊事の手伝い、風呂焚き、飼っている動物たちの世話などをしていた。知準先生は、そうした仕事の中で森田先生の机の掃除が大変だったとよく語っておられたそうである。というのも、机の上には小さな置物がたくさん並べられていたからである。置物を一旦取り除いてから机の掃除をして、また置物を並べるが、先生からは置物の位置が違うと指摘されることがあった。神経質の人は、そのような細かいところまで配慮するようでなければダメだ、と知準先生は患者さんたちによく言っておられたそうである。今回、見学された方は、森田先生の遺品の小さな置物を見て、これが知準先生が掃除の際に並べられたものなのだろう、と感慨深かったということだ。

 森田先生は誰にもこのように細かい(厳しい)要求をしたわけではない。人を見て法を説け、ということをよく言われていて、優秀な患者さんはさらに教育しようとして、このような指導をされたのである。知準先生は「森田療法と私」と題する森田療法学会雑誌の記事(第7巻79-801996)の中で「他の入院生に比して極めて厳しい生活態度、特に夕食前までは自室に入らぬことを指示された。私は一生懸命これを守った。3日に1回位「鈴木君だめではないか」と注意されていた」と書かれている。

 置物の位置が少しくらい変わったところでどうということはないじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、一事が万事であって、職場で仕事をする際にもそれくらい周囲に気を配って神経質を発揮していれば、ミスの少ない良い仕事ができ、相手にも喜んでもらえるのである。神経質の生かしどころはどこにでもある。神経質を症状探しのために無駄遣いしないことである。

2013年7月 5日 (金)

神経質礼賛 923.今でしょ!

 今年の前半、「今でしょ!」という言葉が流行した。予備校の人気講師の林修さんが「いつやるか? 今でしょ!」と言ったのが大ヒットしたのだ。それをもじって「いつ買うの? 今でしょ!」のような宣伝文句のCMやチラシをよく見かける。

 同じような言葉は以前からあった。40年以上前に中学の修学旅行で京都・大徳寺の大仙院を拝観した時、尾関宗園さんのお話を聞いて「いま頑張らずにいつ頑張る!」という熱い言葉に喝を入れられた心持がしたものだ。大仙院のホームページを見ると尾関さんは80を過ぎた今も意気軒昂の御様子である。


 
 今やらなくてはとわかっていながら、受験勉強はつらいものである。英単語や構文や古語の動詞・助動詞の活用や数学・物理の公式や解法や年表や・・・まずは暗記しなくてはならないものが多い。めんどうだなあ、嫌だなあ、と思うとますますやる気がしなくなる。私にも覚えがある。大学受験の勉強を始めたのは高校3年の夏近くになってからだった。それまでは試験のための勉強なんかしたくない、と言い訳して音楽ばかりやっていた。成績は奈落の底まで落ちていた。焦っても仕方がない。とにかくやっていくしかない、と腹をくくり、特に苦手な数学Ⅲは基本的な問題集から順にひたすら解いていったら不思議と問題がよく見えるようになっていった。結局は気分本位になってやるべきことをやっていなかった、という一言に尽きる。試験のための勉強なんかしたくない、というのは神経質の屁理屈・悪智だった。

 森田先生は次のように言っておられる。


 
 いやな事を、いやでなくしておいて、それから手を出そうとするのが、神経質の通弊でありずるいところである。試験勉強は、当然苦しい。それで勉め強いるという。もしそれが面白かった時には、試験道楽というべきである。その苦しいのを面白くありたいと思う時に、読書恐怖になるのである。

 苦しいながら、我慢して勉強するのを、柔順という。その柔順は、初めは、ほんのふりをするだけでも、ともかくも、実行しさえすれば、心のうちの感じは、どうでもよい。これを気分本位を捨てて事実本位になるというのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.409


 
 受験勉強に限らず日常生活も同様である。逃げて先送りしたところでいつかツケが回ってくる。神経症も然り。症状が辛いからと、やらなくてはならないことを避けていては良くならない。対人恐怖や会食恐怖があっても、仕方なしに人前で話し、食事を共にする。パニック発作は恐ろしいけれども死ぬことはないのだから電車に乗ったり会議に出たりする。不潔なものが付いたような気がしても他の人と同じように行動して手洗いや衣類を洗う行為は我慢する。何度も確認したくなって後ろ髪を引かれる思いがしても戻らずに前へ進む。どれも「今でしょ!」であり、「いま頑張らずにいつ頑張る!」である。嫌だなあと思った今が勝負時なのである。

2013年7月 3日 (水)

神経質礼賛 922.古い梅酒

 実家に古い梅酒があって、以前から持って行ってくれと母から言われていたのだがそのままになっていた。母が入院した際に、梅酒の瓶も一つ持ってきた。「昭和5565日 砂糖300g」というメモが貼られている。今から33年前に漬けられたものだった。ネットには10年前とか20年前の梅酒を飲んでも大丈夫かという質問がよく出てくる。さすがに33年前ともなると、神経質ゆえ飲めるものかどうかちょっと心配になったが、元が35度のホワイトリカーだし、濁りのないキレイな飴色だから多分大丈夫だろうと思って開けてみた。実家から持ってきた漏斗を使ってミネラルウオーターが入っていたペットボトルに移す。梅は形が崩れず残っている。試しに一口食べてみる。漬けた残りの梅は梅ジャムにできるというが、それは面倒なので廃棄処分とした。梅酒の味は悪くない。

 昔は毎年、母が家に成るアンズの実を取ってあんず酒を漬けたり、買ってきた梅で梅酒を漬けたりしていた。正月には父の職場の人たちを招いて新年会をやっていて、この時は父が釣った鮎を燻製にしたものや甘露煮にしたもの、おでんとともに、梅酒やあんず酒が振る舞われていた。昭和55年は因縁の年である。この梅酒が漬けられた直後に父が入院し、5年間の闘病生活を送ることになる。当時大学4年生だった私は急遽Uターン就職した。それからずいぶんいろいろなことがあった。父が亡くなる直前に私は会社員から医大生になった。さらに長い年月が経った。まだ父が亡くなった歳を超えてはいないが、こうしてその時に漬けられた梅酒を飲むことができるのには感謝しなくてはならない。いろいろなことに悩んだけれども、長い目で見ればごく些細なことだったなあ、とつくづく思う。特に若い頃悩んだ対人恐怖や強迫観念は後から考えると何でもないことだった。今でも人前では緊張するし時に強迫観念が湧くれどもそれは自然なことであって、それがあってはいけない・なくさなければいけない、という「不可能の努力」(570話)が間違っていたのである。私はまだ33年物の梅酒ほど熟成はしていないけれども、不可能の努力をしなくなったことは大きな進歩だと思う。

2013年7月 1日 (月)

神経質礼賛 921.使えるものと使うもの

 625日付読売新聞家庭欄には、左のページに、自治体が「ごみ屋敷」対策、右のページに「老前整理」で身軽に、というタイトルの記事が並んでいた。高齢者のごみ屋敷は各地で問題になっている。東京都足立区は、ごみ屋敷対策条例を施行し、ごみの撤去費用を住人が負担できないと判断された時には区が肩代わりすることにした。ごみ屋敷は住人が孤立しているということであり、高齢者が生活に対する意欲や能力を失う「セルフネグレクト」(自己放任)が背景にあるという。ただでさえ、高齢者は限られた年金での生活のため、ものを所有することへの執着が強くなり、ものをため込みやすい。それに加えて体力や気力が衰えて片付けが困難になる。ごみ屋敷になってしまわないように、「老前整理」が必要になってくる。そのためには「使える」ものと「使う」ものを区別して、使えても実際には使っていないものは少しずつ処分していくことが必要だと記事には書かれていた。

 この記事は身につまされる思いがした。母が一人で住んでいる実家はごみ屋敷一歩手前である。母は空き箱や包装紙や袋の類は「使えるから」と何でもとっておいた。古い衣類も「もったいない」と捨てなかった。その結果、かつて私や弟が使っていたベッドの上には高々と古着の山が築かれ、廊下や階段にも空き箱が積み重ねられるという有様だった。さらに床の上には本や雑誌やいろいろな講習会でもらってきた資料類が積まれていた。今回、母が入院した約1カ月の間、週末に片付けとごみ処理をした。神経質の作業療法である。実家は3kmほど離れている。車が入れない路地に面しているため、まずは歩いて行って片付け、ごみ袋や雑誌や雑紙の束を門のところに並べる。一旦自分の家に戻って今度は車で来て近くの路上にハザードランプをつけて停車し、ごみ袋や雑誌・雑紙の束を急いで車に運び込む。雑誌・雑紙の束は古紙回収業者のコンテナがある所まで運んでそこに置いてきて、ごみ袋は自宅のごみ収集日に捨てるということを繰り返した。処分できたのは燃えるごみが45リットルごみ袋で30袋ほど、家庭画報とか料理関係の雑誌が200冊ほど、ほぼ同量の雑紙。大変な作業だったが、やっと全体の2-3割といったところである。母が退院して戻ってきたので、派手にやるわけにはいかないが、毎週足を運んで少しずつやっていく必要がある。私自身、使えるものと使うものの見極めをしなくては。新しい衣類を買ったら古いものは捨てる、「また見るかもしれない」といって何年も見ていない書籍・雑誌類は思い切って処分しなければなあ、と思う。

もちろん、「物の性を尽くす」という森田療法の考え方にあるように、物を大切に使い、その物の価値を最大限に高めることは大切である。しかし、使えても使っていない物たちに家の中を占領されるようでは困る。すぐに使わないものは買わない・もらわない、というように物を増やさないことも必要である。

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